壱 北の大地へやって来た女
ああ、暑い。暑い。
おかしい。私は北海道へやって来たはずなのに。涼しいところへ来たはずなのに。
北海道の夏ってこんなに暑いのか。
汗を拭いながら構内を歩いていると、足の生えたお皿が目の前を横切って行った。びっくりして飛び退いてしまった。変な人だとは思われていないだろうか、周囲を見回すがどうやら大丈夫そうだ。たくさんの人が行き来する大学だけれど、みんな自分達のことで一杯なんだな。
「いきなり飛び出してこないでよねぇ」
お皿は熱さに参っているのか、ふらふらとおぼつかない足取りだ。構内に車や暴走自転車もいるからね、気を付けて歩くんだよー。
北海道まで来れば、変なモノも見ないで済むのかなと思っていた。けれど、それは大きな間違いだった。これは私が生まれ持ってしまった力のようなものなのだからどうすることもできない。だから、見えないかもと思ってこの学校へ来るため、たくさん勉強したのだ。それなのに、この北の大地にも人ならざる者がたくさんいた。あー、うん、まあ、いるよね。日本中にいるよね。
うーん。頑張ろう、穂乃佳。あなたは四年間ここで過ごすんだから。
気合を入れ直して再び歩き始める。
それにしても広い構内だな。もう八月だけど全然慣れないや。普段講義で行かない場所は未知の領域だ。それに加えて、夏休みだからか親子連れの姿が見える。普段から犬の散歩をしている人もいて何だか変な感じなのに。
夏休みなんだから家で休めばいいんだろうけれど、大した趣味もないし、ただ昼寝をするだけになる気がしたからこうして散歩に出た。
「うまそうな女だ」
ああ、どうしてこうなってしまうかなあ。
木陰に生首が落ちていた。頭だけで二メートル近くありそうだ。ざんばら髪を振り乱して、私に迫ってくる。
「おまえ、わたしが見えるんだろう。人の子のくせに」
「見えるだけだから食べてもきっと美味しくないよ。食べるなら祓い屋さんとかにしなよ」
妖怪との付き合い方というのは難しいものだ。こうしてこちらを食べようとして来るやつがいると思えば、一緒に遊びたいだけというやつもいる。遊びたい、というやつは遊んでやれば満足して去って行くけれど、食べようとして来るやつは逃げて撒くしかない。
ずりずりという表現がぴったりな動きで生首が動き出したため、私は踵を返して逃げ出した。
私の目には、変な者が見えてしまう。それはよく言う妖怪というもので、この国に古より住まう不思議な生き物達だ。遥か昔はどの日本人の目にも妖怪の姿が映っていたというけれど、今はその姿を認識できるのは限られた人間だけだ。私はそんな一人だけれど、追われる点については正直迷惑。
構内には木々が生い茂っていて日陰はそれなりにあるし風も吹いていた。それでも、生首に追われて走っていると非常に暑い。それに思っていたより動くのが速い。このままでは追い付かれてしまいそうだ。追い付かれたらどうなる。白昼堂々衆人環視の中で身包み剥がされて骨になるのか。いや、骨も残らないかもしれない。妖怪の姿を見ることのできない人からすれば、一心不乱に走っていたおかしな女子大生が突然血飛沫を上げながら消滅するのか。怖い。怖すぎる。想像しただけで背筋が凍えてしまいそうだ。違う、私は見る側じゃなくて食べられる側、もっと怖いよ。
小石に蹴躓いた。そう気が付いた時にはもう転んでいた。
「追い付いたぞ」
どうして北海道まで来て、妖怪に追われて、食べられねばならんのだ。
生首は一メートル近くありそうな口をこれでもかと大きく開いた。数十センチの歯が並んでいて、血のように赤い舌がちらちら揺れ動いている。
食べられる――。
「そこまでですよ」
もう駄目かと思って目を瞑った時、そんな声が聞こえた。耳に心地いいほどよい低音。バリトン? って言うのかな。この男の人、妖怪が見えるの?
目を開けると、そこには夜空が広がっていた。まだ昼間のはずなのに、私の目の前には星を散りばめたように光り輝く夜空があった。木漏れ日を受けて青に緑に煌めくそれは、いやに見覚えのある黒だ。どこで見た。今朝、ゴミ置き場で。北海道ではゴミステーションと言うのだったっけ。そう、ゴミステーションで見た。折角ネットを掛けているのにそれを捲ってゴミ袋を突いていた鳥達の羽も、こんな色だ。でも、彼らよりも随分と綺麗だ。ゴミに汚れてなんかいないのが見て分かる。
私と生首の間に立つそれは、声の通り男だった。何だか怪しげな黒ずくめの服を着ている。後ろ姿なので顔は見えないけれど、おそらく若い。そして、その背には漆黒の翼が生えていた。人間じゃない。けれど、これは妖怪でもない気がした。
生首は黒ずくめの男を警戒するように見ていたが、諦めたのか「ふん」と鼻を鳴らして去って行った。
「あれは大首ですね」
そう言いながら黒ずくめの男が振り向く。
いい声だと思ったら顔もいいぞ。切れ長な目元にきらりと光る瞳は翼と同じく漆黒で、見ていると吸い込まれてしまいそうなくらい深く暗い。
「お怪我はありませんか」
「あ、は、ひゃい」
変な音が出てしまった。美形に見つめられて動揺しているのか、しっかりしろ。
「助けてくれてありがとう……」
「いえ、お安い御用です」
手を差し伸べてきたので、それに掴まって立ち上がる。
「あの、あなたは」
「おーい、こんなところにいたのか」
男子学生が駆け寄ってきた。うちの学生、だよね多分。でも、どうしたんだろう。私は彼のことを知らないけれど、こっちに来る。
黒ずくめの男がぱあっと顔を輝かせて男子学生の方を見た。嬉しそうに翼が揺れている。
「晃一さんっ、お待ちしておりましたよ」
晃一と呼ばれた男子学生は黒ずくめの男を見て軽い足取りで駆けてきたが、私を見てぎょっとした。見開かれた目、その瞳は翡翠のように美しい黄緑色をしていた。ハーフなのかな。
「紫苑様、この女は」
初対面でこの女呼ばわりはちょっと失礼なんじゃないかなあ。というか、この男子学生にもこの黒ずくめが見えているのか。
「大首に襲われていたのでお助けしました」
「へえ、じゃあ、あんたも見えるのか」
「見えるって、妖怪のこと?」
「ああ」
「うん、一応。あなたもなんだね」
男子学生はこりゃあ驚いた、という風な顔をしている。
「初めてだ、見える人間に会うのは」
「え、そうなの。私も北海道に来てからは初めてだよ。うーんと、そうだな。もしよかったら、見える者同士仲良くとか……」
あれ、ちょっと待て、これは何だか逆ナンしているみたいだな。ほら、彼も怪訝そうな目をしている。
「漫画の登場人物のようだな、出会ってすぐにそういうことを言って」
すみません同類見付けるとテンション上がってこんなんなるけど本当はコミュ障です。
「あんたもここの学生なのか」
「そういうあなたもだよね。あんたも、ってことは」
「それならまあ、いいか。見えることを知っている人間が近くにいることは悪いことではないから」
男子学生は何やらぶつぶつと言っている。黒ずくめの男は先程から微笑を浮かべながら私達を見ていた。
考えがまとまったのか、男子学生は私に手を差し出す。
「法学部一年の朝日晃一だ」
「私も一年生。学部は経済。出水穂乃佳だよ。よろしくね」
朝日君の手を取り、握手をする。私が名乗った時に一瞬二人が顔を見合わせたように見えた気がするけど、気のせいかな。
「じゃあ、この黒ずくめの人は朝日君の式か何か? 朝日君、すごく力が強いのを感じるけど」
手を解き、朝日君は黒ずくめの男を指し示す。
「これは神だ」
……はい?




