第三節・第九話
鵠の悪戦苦闘にも終止符が打たれ、用事も済ませた二人は駅に向かい、電車内の四席シートで揺られていた。
日も暮れはじめ、彼方の空には鮮烈な朱色が窺える。
空気を透過する薄い朱色が鵠と俺を照らし、黒い影を生みだす。
二人がいる車両には、他の人間は見受けられない。たった二人だけ、空白だらけの車両にいると、得体の知れない疎外感を覚える。
――現在お乗りになっているのは、社会発、迫害列車。
行き先は廃校、廃校。
こちら、片道列車となっております。
お降りになる際はお忘れ物、お乗り過ごしなどないよう、ご注意下さい――――。
そんな陳腐な妄想が浮かぶが、実態は真逆だ。
俺たちは逃げ出した。誰に追い出されたわけでもない。
鵠の動機こそ知らなかったが、少なくとも前葉由貴という人間は自分から離脱した。鵠椎名の手を取って。
手は繋いでいる。彼女の手は、やはりひんやりしている。
異性と手を繋ぐという行為に対しあれだけ動揺していたのに、既にある種の安心感を得ていた。
彼女の細く繊細な手に触れていると、優しくなれる気がする。
その手だけは、万が一にも壊してはならないと思えた。
電車の運行は緩やかだ。特に揺れることもなく、穏やかに一定のリズムで走行音を鳴らす。
車内は静かだ。
鵠はあれから、また沈黙するようになった。電車に乗ってからは一言も喋っていない。
黙して、窓から夕空を眺めている。どこか虚脱した様子で。
朱色の空というのは、現実感がない。
赤・朱・橙と見事なグラデーションを演出しているようなものは特に。
あまりに壮麗で、虚構染みている。
その上、夕空が拝めるのはほんの短い時間だけだ。
いつの間にか夜の藍や黒に塗りつぶされてしまうと、それまで見ていたものが夢か幻のように思えてくる。
そんな空の果てを見つめる鵠が、最低限の動きで唇を開き、言葉を紡ぎだす。
「お空を見れなくなった女の子がいたの」
ここではないどこか。
今ではないいつか。
お空が大好きな女の子がいました。
その子は、天に広がるお空をなによりも愛していました。
朝は青色。
昼は水色。
夕は朱色。
夜は黒色。
そして夜明けは水色と黄緑色のグラデーション。
刻々と形を変える雲。
時々曇ったり、雨が降ったりするのが残念だけれど、それでも空は美しい姿を少女に見せてくれます。
友達に苛められても。
可愛がっていた野良猫が事故で死んでしまっても。
辛い時も、悲しい時も、女の子の上には、変わらずお空が広がっていました。
信じられないくらい綺麗なお空が。
ある日、少女が住む町に、一人の旅人が現れます。
旅人は、町の人にこう言いました。
「なにか、食べ物をお与えください。できれば、風呂と寝床も」
しかし町の人々は、旅人を相手にしませんでした。
貧しい人も、不幸な人も、その世界では珍しくなかったのです。
乞食に恵むほど人々は裕福でも、不用心でもありません。
旅人を無視し、通り過ぎていく人々に、旅人は再び口を開きます。
「わたしになにか質問してみてください。わたしは、真実だけを語りましょう」
乞食の戯言。
そう言って大人は背を向け立ち去って行きました。
しかし、好奇心と悪戯心を持った子どもたちは旅人に興味を抱きました。
からかい半分で、一人の少年が旅人にこう訊きました。
「最近僕のお母さんが泣いてるのはどうして? どこか具合が悪いの?」
旅人は少年に答えます。
「ああ、可哀想に。それはね――」
わずかなお金のために、君をどこかに売り飛ばしてしまうからだよ。
――嘘つき。
そんなのおかしいよ。
そう叫んで、少年は去って行きました。
そして、他の子どもたちは次々に旅人に問いかけます。
「みんなが私をいじめるんだ。なんでだろう?」
「ああ、可哀想に。それはね――」
君が人間ではないからだよ。鎖と焼き印がついてるものは、ここでは動物と同じなんだ。
「指から変な匂いがするんだ。どうしたんだろう?」
「ああ、可哀想に。それはね――」
君が病気だからだよ。
その病気に罹ると、やがて手足の先から腐り落ちてしまうんだ。
ああ、可哀想に。
ああ、可哀想に。
旅人はひとりひとり、子供たちの質問に答えていきます。
その度に、子供たちは泣き、叫び、罵倒して去っていきます。
そうして最後に残ったのは、お空が大好きな女の子一人だけでした。
「君も、知りたいことがあるのかい?」
旅人は優しく、女の子に話しかけます。
女の子は「うん!」と元気よく返事をします。
「あのね、旅人さん。お空はどうしてこんなに綺麗なの?」
旅人は柔らかく微笑み、彼女に真実を教えます。
「ああ、可哀想に。それはね――」
その日以来、女の子がお空を見上げることはありませんでした。
お外に出るのも嫌がり、もし外出する時も常にうつむき、決してお空を視界に入れようとはしませんでした。
女の子のお母さんは不審に思い、彼女に訊きました。
「いったい、どうしたの? あんなにお空が好きだったじゃない」
女の子は目を瞑り、涙を流し、震えながらこう言いました。
「お空が恐いの」
お空を見る、おめめが恐いの。
呟き声で鵠が語ったのは、こんな話だった。
……この気味の悪さはなんだろう。
「これも、鵠の母さんが?」
「そうだよ」
この話を、寝る前に聞かされたの。
ガラスの中の鵠と目が合う。一枚の窓に映った、幽霊みたいな鵠。
「あなたはどう思う?」
女の子は、なにを知っちゃったんだろうね。
微笑み一つ見せず、無表情で問う。ガラスに映る彼女を見ていると、どことなく寒気を覚えた。
しかし、またなんて後味の悪い話だろう。
こんな話を子供に語り聞かせるなんて、鵠の母親はなにを考えたのだろうか。
しかも、青年の物語よりも不気味だ。なにか、この物語には深入りするべきではない予感がする。
ともあれ、いったん物語を整理する。
まず最大の謎は、
『旅人が女の子になにを教えたか』もとい、
『どうして女の子は空を見れなくなったか』
これで間違いないはずだ。最終的にこれを解き明かせればいい。
次に、手掛かりになりそうなものを探す。
だが、あの青年の物語よろしく、推理の多くを聞き手の想像力に委ねる方針らしい。
糸口にできそうな文言は最後の、
“お空が恐いの”
“お空を見る、おめめが恐いの”
という台詞だろうか。
これまた抽象的だ。
『空が恐いから、見れなくなる』これはまだ分かる。なぜ空を恐れるのか、という疑問は残るが。
ただ、直後の台詞『お空を見る、おめめが怖いの』とはどういう意味だろう。『おめめ』とは、なにを指しているのか。そのまま、女の子の目のことだと捉えてよいのかどうか。
空が怖い。
空を見る、自分の目が怖い――。
相変わらず意味が分からないが、この言葉の背後には、暗いものを感じる。
と、ここまで考えたところで、この物語の核心に迫る前に鑑みるべき要素があることに思い至る。
それは旅人についてだ。
町に訪れ、真実だけを語ると嘯く旅人。
彼は子供たちの質問に答え、真実を語っていく。
しかしどうしてか、彼の語る真実とやらは残酷なものばかりだった。
そんな彼が、女の子に前述の末路をもたらす。
もはや彼が元凶と言っても差し支えないだろう。
ここで考えるべきは、旅人の言う『真実』の真偽だ。
もしも彼がただのほら吹きで、口にした言葉もでたらめだったとしたら、話は実にシンプルになる。
子供たちに酷な嘘を吹きこむ意地の悪い旅人と、素直にもそれを信じてしまった女の子。
これならまだ救いがありそうにも思える。いずれあれは嘘なんだと諭す者が現れ、少女も再び空を見上げるようになる、という展開が望める。
旅人の語ったことは全て嘘。
この物語のハッピーエンドは、きっとそこにしかない。
厄介なのが、そうでなかった場合、つまり本当に旅人が真実だけを語っていた時だ。
子供たちの周りに陰惨な不幸が蔓延っているのも本当。
女の子が空を恐れるに足るなにかがあるのも本当。
そして、その理由も分からずじまい。
そこまでは自力で把握できた。だが結局、肝心の謎については判然としないままだった。
空になにがある?
目がなんだというのだろう?
なにより、この底冷えする感覚の正体はなんだ?
この物語は、いったいなんのために作られた。
まともな考察材料も与えず、答えに辿り着かせようとしない、ひたすら後味が悪い物語。
愚直に向き合おうとした人間をおとしめる、まるで呪いのような――。
「ヒントは」
深みにはまる前に、素直に彼女の助力を得ることにした。
「……ごめんね、ヒントはないの」
実は、私も答えを知らないんだ。
それは予想外の返答だった。
とっくに正解を知っているものとばかり。
「考え続けているんだけれど、確信を持てる解答はまだ出せてないんだ」
いくつか、候補はあるんだけれどね。
たとえば――。
起伏を失った声で、鵠は語り始める。
――空が綺麗なのは、その女の子が狂っていたから。
美しく思えるのはその子だけで、実際の空は酷く醜く、おぞましいものだった。
――空が綺麗なのは、そこに大量の死体が浮いているから。
青いのは失血死、赤いのは感染病、黒いのは焼死体、水色と黄緑色のグラデーションは腐乱死体。夥しい死体が空を埋め尽くしている。
空が綺麗なのは――――。
鵠は次々に仮説を列挙する。
あまりに悲しく、惨い形で、物語の穴を埋めようとする。
表情一つ動かさず、白蝋の顔で悲劇のピースを紡ぎ続ける。
空が綺麗なのは。
空が綺麗なのは。
空が綺麗なのは――。
この世界が、悲しいから。
人が、哀れだから。
不幸な人ばかりだから――。
鵠椎名は、そんな言葉でしか空白を埋められない人間だった。
そんな彼女の姿は、もう見ていられなかった。
「鵠、もうやめよう」
鵠は力なく、俺を見つめる。
彼女の瞳は暗く、深い色で塗りつぶされている。底なしの淵だった。
「もういい」
やめよう、こんな話。
祈るように懇願する。
鵠は二回、瞬きをする。
二回目の瞬きで、彼女の左目から一筋の涙がこぼれる。
それを皮切りに、左右から涙を流し始める。それは重力に従って、下へ下へと向かって溢れていく。
鵠の顔は、死人のように白くなっていた。生気のない涙だった。
「……前葉君」
うるみ、粘つき、しわがれた涙声で、口にする。
「私はいつか……」
あの空を見ても、なにも思わなくなるのかな。
それが怖いよ。
彼女の手を握る。
目の前の彼女を、見失わないために。繋ぎとめるために。
俺にできたのは、それだけだった。