第三節・第七話
廃校を出て町を抜け、二人は茉代駅のベンチに腰かけていた。
次の電車が来るまではそれなりに間がある。不幸にも。
駅のホームには俺たち以外の人間はいない。幸いにも。
鵠はあの後も手を繋いだまま離そうとしなかった。
結果、山を下りる際も、町中を歩く間も、そしてホームで電車を待つその時も、仲良しこよしな有様だった。
その状況に耐えきれず、途中で二回ほど婉曲的に断りを入れてみた。だが彼女の応答は、
「いいじゃん」
「まぁまぁ」
という簡潔な二言のみで、あっさり受け流されてしまった。
大いに謎だ。
トイレに駆け込めばうやむやにできるのではと気付いたが、改札を越えてからでは手遅れだった。トイレが改札の外にあるのが恨めしく思える。
なにもやましいことはない、ただ手と手が触れているだけだ、そう言い聞かせても落ち着きが戻る気配はない。
心なしか、手汗もひどくなっている気がしてくる。遺伝子が憎い。
これから先、隣町の病院に着くまでこの状態が続くのかと思うと気が気でなかった。
そんな具合に脳内で切羽詰まりかけていると、鵠が口を開く。
廃校外で彼女が喋るのは、比較的珍しい。
「前葉君の下の名前って、どう書くの?」
ユタカ、だったよね。
鵠はいかにも雑談という風に訊いてくる。
言葉で説明するよりも、保険証を見せた方が早いと思い、彼女に差し出す。
受け取った彼女はどこが面白いのかまじまじとそれを見つめ、「へぇ、由と貴でユタカなんだ」なんてコメントする。
「私なんて、下の名前が椎名だよ」
苗字苗字になっちゃうよね。
そうぼやく彼女はどこか不服そうで、妙な言い方だが人間らしい表情を窺わせた。 彼女に対して、手に取れない雲や水、または影のような印象を持っていた俺は、密かに意表を突かれる。
鵠椎名も人間、当たり前のことだった。
「まぁ……名前っぽい響きではあるよな」
初対面の時も不思議に思ったものだ。最初は偽名かとも思った。
それを明かしてみると、彼女が「証拠見ます?」と言って自分の保険証を取り出す。
そこには確かに『鵠椎名』と明記されていた。
字面で見ると、やはり変わった名前だ。音だけで考えればそれほど違和感はないが。
ふと、なんの気なしに目に入った生年月日の項目から、ある事実が判明する。
「鵠、これ……」
「気付きました?」
そうなんですよ。
こちらに向けて軽く会釈する鵠。
「私、一年生なんですよ、先輩」
鵠はどうやら、俺の後輩だったらしい。物腰や態度から、てっきり同じ二年生か、または三年生だと思っていた。
振り返れば、時折敬語を使っていた記憶がある。
「敬語は癖かなにかだと」
「それは間違いでもないかな」
自然に出ちゃうんだ、敬語。
あなたの学年も知らなかったし。
共同生活三日目にして、初めて互いの名前と年齢が明らかになった。
まだなにも知りあってないのだと、つくづく実感する。
「いまさら、先輩扱いはいいから」
たった一年足らずの差をかさに着る気はなかった。
そういう関係は、この二人には似合わない。
「だよね」
「でも、そうか、後輩だったのか」
「なんだか、前葉君の方が年下って感じするよね」
弟っぽい雰囲気あるよ、私は一人っ子だけど。
「そうか?」
「そうだよ」
「なんだかな……」
でも、今朝の屋上を思い返すと、そう見られても仕方ないという気もする。
「微妙に面倒くさそうなとことか、若干不貞腐れてそうなとことか」
あと、臆病そうなとことか。
指折り数えながら挙げていく。どうやら俺の『弟っぽい点』についてらしい。
なに気に直球で評価してくる。やっぱりいつもの鵠と違うらしい。
「なんか、年下っぽいよね」
「え、ああ……」
こういうことは、直接言われると予想以上に堪えるものなんだと知る。生返事しか返せなかった。
「落ち込まないでね、先輩」
「いや、別に……あと、取ってつけなくていいよ、先輩って」
「そう?」
口許を隠しながら顔をほころばせる鵠は、なぜか無性に愉快そうだ。
こんなに笑う人だったなんて、知らなかった。
「それで、私はどう?」
姉っぽい?
妹っぽい?
それとも従姉妹っぽい?
どことなく答えにくい質問をしてくる。
下手に答えれば、なにかを見透かされそうな予感がある。
なんとはぐらかそうかと考えていると、なぜかアサガオの花のイメージが去来する。
いつか家にあった、枯れてしまった青いアサガオが。
一秒ほど、思考が停止する。
「もしもし?」
鵠が顔の前で手を左右に振っている。
現実にその仕草をする人間がいるとは思わなかった。
俺は観念して口を開く。
「ああ、なんというか」
元気、だな。
結局言えたのは、質問とまるで関係ない言葉だった。
彼女は一度だけ瞬きをする。そして、
「うん、元気だよ」
なんだかね、とても気が楽なんだ。
世界の光量が上がった感じというか、視界が明るいというか。
今の私は、きっと幸せなんだと思う。
「あなたでよかったよ」
鵠はそんなことを面と向かって言う。
俺は顔も視線も逸らせず、彼女の黒い瞳を直視して聞いていた。
なぜ、その話に俺が出てくるのかは分からなかった。
それで彼女が幸せを感じる経緯も。
でも、その時の彼女の言葉と目に、嘘偽りや虚勢は見受けられなかった。
鵠はおそらく、本当にそう思えたんだろう。
そうだといい。
「それは……なにより」
味気も素っ気もない返事に、鵠はただ、はにかんで見せた。
――それ以上を望むべきだったのかは、今でも分からない。
――でも、伝える言葉はもっとあったのでは、と思わずにはいられない。
目当ての電車が到着し、二人でベンチを後にする。
手は繋いだままだった。