第三節・第四話
目の前は暗い。
額は冷たい。
震える身体は、冷え切っていた。
一度は身を起こした俺は、結局、再度地面に蹲っていた。
自分の身体さえ、支えていられなかった。
最初こそ自嘲気味に調子よく語っていたが、しかし話を追うにつれて声は萎み、口調は滞り、嗚咽が交じっていった。
薄汚れた地面に這いつくばり、頭を抱えて自分の恥をさらけ出すその様は、あまりに情けない姿だった。
できることなら、彼女には目を背け、耳を塞いでいてほしかった。
全てを、吐きだしてしまった。
生まれも育ちも、その末路も。
自殺に潔さも、尊さもありはしない。
ひたすらに虚しく、惨めで、破綻していた。
どこの誰がどう取り繕っても、そこに見出すべき価値なんて存在しない。
感動的なわけがない。
当人は、生きる理由を失ったから、自死に追い込まれたのだ。
生きていられないから、身を投げ出すのだ。
死体は腐るものだ。なら、死にかけの俺も、もう既に腐り始めていたのだろう。
だから、こんなにも苦しくて、恥ずかしくて堪らないのだろう。
楽になんてなれなかった。自暴自棄にすら。
頭を抱える左手が痛む。案の定、感情の昂りが収まってから激痛が走りだす。
思い出せと言わんばかりに。
鵠椎名がどんな面持ちでいるのかは分からない。
怯えてしまって確かめられない。
目の前の男の本性を知り、身の危険を感じているのか、それとも蔑んでいるのか。
いずれにせよ、あまりに居た堪れない。
沈黙が続く。
鵠は喋らない。
俺は震えている。
もう、これで終わりだと思った。
廃校での隠遁生活、その終わりを覚った。
こんな危険人物と共に暮らすことなんて、できるはずがない。
互いに詮索せず、見て見ぬ振りを続けていれば、別だったかもしれない。
だが、ここに告白してしまった。
自分の全てを。
今更なかったことにはできない。
疑心と恐怖が、この関係を終わらせる。
前葉由貴は、最低の人間だ。
そんな俺は、いつか、鵠さえも――。
……事ここに至り、やはり、死ぬべきだと確信した。
他人を虐げることを楽しんでしまう自分は、生きていてはいけないと思った。
目の前のこの人を脅かすくらいなら、死んでしまうほうがいい。
なにより、もう耐えられない。
前葉由貴が、こんな人間になってしまったという現実に。
あの朝の続きを、これから迎えよう。
もう、これで誰かを傷つけることはない。
自分の暴力に、怯える必要もない。
それがいい。
あの日、ある朝。
鵠と出会って。
彼女の手を取って。
もしかしたら、なにか変わるかもしれないと、そう思いもした。
だが結局、自分は自分以外の何者にもなれなかった。
結末は変わらなかった。
でも、せめて。
今度は、泣かないようにしよう。
けれど、意に反して涙は溢れ続ける。
死ぬんだ、死ななくちゃ、そう決意するごとに涙の量は増していく。
鼻水も出て、顔面は酷い有様だ。これでは恥ずかしくて顔も上げられない。せっかくの死に時が台無しだ。
遂には堪えていた泣き声まで、漏れ出てしまう。
もはや自分の意思では止められなかった。しゃっくりにも似た引き攣った声を、断続的に鳴らす。時折言葉にならない呻きを上げる。
身体も心も、必死に生にしがみついていた。
無様に、幼稚に、泣き喚きながら、死を怖れていた。
地に這いつくばってでも、死にたくなかった。
なんでだよ。
どうして、俺なんだよ。
やがて呻きは言葉を伴った。
流れ落ちる涙と同じに、自分では止めることができない。
不意に、背中に感触を覚える。
鵠が、震えた手を添えている。
彼女はなにも喋らない。
彼女は無言で背中をさすり、遂には両手で力なく包み込んでくる。
鵠は額を背中に当ててくる。言葉を介さない、体温と呼吸だけの接触。
どれだけの時間、そうしていたのかは分からない。
ただ、鵠からは、自分にはない体温を感じた。
昔は、こうして母親の手で包まれたこともあったのだろうか。
そんなことを考える。
繊細な鵠の手が、震える背中を壊さないよう、崩さないよう、そっと撫でる。
傷口に触れるみたいに、薄く。
「私は、無事だよ」
俺の背に額をつけたまま、鵠が囁く。
声は細く、柔い。空気越しに、鵠の言葉が伝わる。
鵠が口にするのは、その一言だけ。
それだけで、十分だった。