第二節・第五話
往復でやはり三時間ほどかけて、鵠と俺は廃校に帰ってきていた。
せっかくだから、と鵠に連れられて屋上へ出て、出したままの椅子に座る。
隣では鵠が電気ランタンの明かりの下、テーブルの上で湯を沸かし、外で買ったばかりの粉末ココアでホットココアを作っている。
二人一緒に口をつけ、ほっ、と一息吐く。
「曇らなくてよかったね」
弛緩した様子で、鵠が囁く。
どうやら鵠は風呂に入ると急速に眠気を催すらしく、電車内では時折うとうとしていた。どこか危なっかしかったのを憶えている。
そんな彼女が、安堵した表情で頭上を拝む。電気ランタンのスイッチは、既に切っている。
天を見上げれば、満天の星空が視界を覆う。
地を埋め尽くす人工灯の下では決して望めない、透明な夜空だった。
星々が夜の空に透過されている。
夜の黒が輝いてさえ見える。
夜空の輪郭を知る。
一度見てしまえば、まるで一つ一つの星が持つ引力に囚われたかのように、目を離すことができなくなる。星空が人に神話を魅せる理由を知る。
「すごいよね、見る場所が変わるだけでこんなに違うんだもん」
星は、街中の夜空にだって、青空にだって存在してるんだよ。
ただ、私たちには見えないだけで。
鵠はそんなことを言う。明かり一つない屋上では、彼女の声が耳によく残る。
暖かな夜だった。
昼とは比較にならない、正真正銘の天体観測。
自分のよって立つ地球が、果てしない宇宙の中の、途方もない銀河に含まれる一惑星であることを実感する。
そして、これほど夥しい量の星に囲まれている事実に、ただ圧倒されていた。
「あの星を見て」
あの赤い星を。
鵠が夜空の一点に向けて、指を伸ばす。
鵠が示した方角を向くと、確かに赤色に輝く星が見てとれた。意識して探さなければ見逃してしまうだろう。
「あの赤色は、他の星と比べて綺麗に見えるでしょ?」
「まあ、確かに」
「でもね、星が赤く灯るのは」
その星が、寿命を迎える時なんだよ。
あんなに綺麗なのにね。
天に灯った、一つだけの赤い星。
それは死の間際、誰かの記憶に残ろうともがいている姿に見えた。
もう宇宙からは消滅しているかもしれない、死の星の残光を、鵠と俺は目に収める。
「……ねえ、前葉君」
両手でカップを持つ鵠が、再び口を開く。
どこか、普段よりも声が低く感じる。
彼女は静かに、夜に語りかけるように言葉を紡いでいく。
「星を見る時、私たちは空の中に、天球という仮想の器を想像するよね」
丁度、自分を中心とした半球の蓋だね。
その蓋の上に星々を写し取らせて、私たちは立体的な空間である星空を平面的に捉えているの。
目視での認識だと、星々が同じ平面上に存在しているように錯覚する。
けれど、本当はそんなことはない。
人間の想像が追い付かないくらい宇宙は広大で、その中の恒星や惑星たちの間には何光年、何十光年という距離がある。
天球の上ではほんの数センチの距離でも、現実では途方もない距離で隔たれている。
「だからね」
彼女の言葉は夜に溶けていく。
夜の空気に寄り添うように。
届くはずのない星に手を伸ばすように。
そして、天に灯る赤い星を弔うように、彼女は告げる。
どれだけ星が集まっていたって。たとえ天の川の中だって。
星は、この広い宇宙で、独りぼっちなんだ。
そうなんだよ、前葉君。
黙って、俺は聞いていた。まるで鵠の言葉に気道を塞がれたように、呼吸さえ止めて。
鵠椎名という人間が観る世界を、垣間見た気がした。
彼女の瞳に映り、耳朶を震わす世界の片鱗を、彼女の言葉の中に見出した。
彼女が目にしているものは、決して天上の星空ではなかった。
ただひたすら、凍えるほどの孤独で埋められた暗い空白だけが、その黒い瞳に横たわっていた。
なんと、返すべきか。
どの言葉を伝えるべきか。
思考は空転し、情動は焦げる。なにかを言ってやるべきだった。
しかし、よりにもよって俺自身、鵠の言葉に共感を覚えていた。だから、
「そうなのかも、しれない」
なんて、そんな台詞を吐いてしまう。
頭のどこかでは、全く別の言葉を伝えてやるべきだと、分かっていたはずなのに。
鵠は微笑する。薄く、柔く、眠るように仄かな微笑みを浮かべる。そんな笑みは、暗闇の中では埋もれてしまう。些細な星の光だけが、非力に彼女を照らす。
「……今、聞いておこうかな」
こんなに夜が綺麗だから。
「昨日の物語の答え、出せた?」
カップに口をつけつつ彼女が言う。
誤魔化すように俺も追従するが、手許のココアは既に冷め始めていた。苦いものを飲みたいと思った。
「例の、物語か」
「そう」
前日の会話を思い出す。電気ランタンの明かりの中で語られた、短い物語。
なにかを払拭するように、考えを巡らす。
いや、自分なりの答えはあるにはあるのだ。
ただ、それを鵠にさらけ出すことに、抵抗があった。臆病になっていた。
同時に、どうにか挽回したいという思いも強かった。
一度、夜空を見上げる。
耐えがたい孤独に染まる、荒野の夜空を。
「青年が、自殺したのは」
絞り出すように音を出す。
声が掠れているのが自分でも分かる。
震えてまではないと、言い聞かせる。
鵠は静かに俺の言葉を待つ。
敵を討ち、夢を叶えた青年が自殺した。その理由は。
「……自分の中に、かつて憎んだ暴君を見出したから」
そして、生きるのが怖くなった。
最後の方は、一息で言いきるのに精一杯で、もしかしたら感情的になっていたかもしれない。しかしそれを確認する余裕はない。
きつく握った左手が痛む。爪が喰い込んでいた。
思わず視線を落とす。空どころか、鵠の方を見るのだって厳しかった。
まるで叱られる子供みたいに震えて待つ。彼女の言葉を。
「それが、前葉君の答え?」
鵠の表情は窺えない。
ただ声音にはどこか意外そうな、または呆然としたような気配を読みとれた。
もしかしたら、失望されたのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
「そっか……」
沈黙が下りる。光もなければ、音もない時間がしばし続く。
いや、本当はごく短い時間だったのかもしれない。
二人の間に、空白が生まれる。
やがて、彼女が俺に囁く。
「……いいんだよ」
きっとね。
鵠はそう言った。
ゆっくりと、顔を上げる。隣には鵠がいる。
「……いい、のか?」
解答の成否を訊いたのか。
それとも、許されたかったのか。
まとまらないまま呟く。
彼女は黙って頷いた。その顔には微笑は見受けられず、ただ真摯に俺を見つめていた。
繋がらない星々の下、埋まらない空白に震えて、俺は顔を覆った。
泣いたりはしなかった。
ただ、解けて消えてしまわないよう、自分を繋ぎとめるのに必死だった。
その後、どうにか俺が落ち着きを取り戻すと、二人で屋上を後にした。
自然と二人の間に会話は生まれず、静かに寝支度を済ませ、床に着いた。
しばらくの間、どうにも眠れる気はしなかったが、やがて疲れた俺の心は睡眠を求め、知らぬうちに眠りについていた。
第二節はここまで。
つぎからは第三節に入ります。
第三節からは少々重めの話が出てくるので、読んでくださる方はご注意ください……。