裂けない刃
「これは何?」
ダンッと強く机を叩く音が二人きりの教室に響く。
強い音とは対照的に、目の前の少女の声は静かで、恐ろしさを孕んでいた。
「何って、ゴミじゃん?」
彼女が手をどけた場所には、短冊状の細長い紙くずが置いてあるだけだった。それを見て何と聞かれてもそう答える他ない。
「だから、何?って」
「は、はあぁ?」
訳がわからない。突然誰もいない教室に呼び出されて、ゴミを差し出されて、何と言われても新しいタイプのなぞなぞとしか思えない。
目の前の女の子、山城さんはこっちを睨んだままずっと黙っている。
目を合わせるとまた何?と聞かれそうだったから紙くずに目を落とした。
よく見てみたら、ネームペンで何か書かれているのに気付いた。
思わず紙くずを手に取る。そしてすべてを思い出した。
「これ、この間書いた七夕の短冊だ」
手にした短冊は、盾に真っ二つに破かれていたが、それだと気付くのにはそう時間はかからなかった。
つい先週、七夕の企画だと生徒会が全校生徒にこれを配り、渡された自分たちはそれにいろいろと書いて生徒会に提出したのである。まさか生徒会が無責任にもそれを放置して、全く関係のない図書委員に全てを押し付けるとは思わなかったけど。
まさか図書委員の山城さんはこれに怒っているのか。いや、それはとんだお門違いだ。そもそも僕は生徒会とは関係ないし図書委員でもない。そのうえ短冊なんて今目の前で叩きつけられてやっと気付いたくらいだ。
訳が分からないまま短冊の割けた部分を合わせてみて、やっと謎が解けた。
[5組の山城さんと付き合えますように]
「は?」
頭で理解するより先に声が出た。
短冊を渡されたときは、まさか高校生にもなってこんなくだらない事をするのかと思い、フザケた事を書いた気もするが、書いた内容までは覚えていなかった。でも、こんな特定された一個人に嫌な思いをさせるような悪質な悪ふざけをするほど、自分は落ちぶれてはいないつもりだ。
「思い出した?」
「いや、思い出したも何も俺はこんな事書いてないって」
これで、放課後にわざわざこんなところに呼び出された理由が分かった。こんな事をされて頭にこないほうがおかしい。山城さんには心から同情した。
早く誤解を解いて帰ろう。そう思って慰めの言葉の一つでもかけようとしたら、それより先に山城さんの口が動いた。
「私のこと好きなの?」
意外な言葉だった。一番意外なのが、無表情のままそんな恥ずかしい台詞を躊躇なく吐き出したことだ。
山城は、図書室でずっと黙って本を読んでいて、一見地味に見えるけど、よく見たら整った可愛らしい顔をしているし、肩先で丁寧に切り揃えた黒髪も、彼女の透き通った肌にピッタリで、とても似合っていた。
それに、自分と同じように読書を嗜むのなら、気が合うんじゃないかと、ちらっと思ったりもした。
だから、全く興味がないと言ったら嘘になる。でも、だからと言ってこんなイタズラがあっていいわけはないし、それが彼女のことが好きだという根拠になるわけでもなかった。
「え、いや、だからこれは俺が書いたことじゃないから」
だから、ただ誤魔化すしかなかった。
「じゃあ、嫌いなの?」
「いや、そういうことじゃ」
女性は二択が好き、という話は聞いたことがあったが、まさかここまで困るような二択を迫られることになるなんて思いもしなかった。
それに、思い返してみれば、自分はこんなしょーもないイタズラに付き合わされる義理なんてない筈だ。
誰がやったか知らないが、こんな事されても誰も得なんてしないし、それに対して自分がとやかく言われるのは理に合わない。こっちは暇じゃないんだ。それに高校生にこんなもの配ったらトラブルを起こすなんて事は目に見えてた筈だ。こんな事とっとと先生にチクッて生徒会が責任問題問われればいいんだ。
「とにかく、これ先生に報告して帰るから」
そう言って破られた短冊を手に取り、教室を出ようとした時だった。
「逃げるの?」
「……なんだと?」
「質問に答えないで帰るんだ?」
「……」
「私のこと好きなの? それとも嫌い?」
「……」
「答えられないんだ」
「ち、違う!」
「じゃあ答えてよ」
「そ、それは……」
「そんなことだから、こんな低俗な悪戯されるんじゃないの?」
「……」
「中途半端な気持ちばかり抱えて、自分の主張なんてしようとしない。だからこんな馬鹿げた事を許す。仕舞には、言われるがままにこんなところに来る」
「はぁ……」
「あなたって、情けない男の子ね」
衝撃で、立てかけていたパイプ椅子が倒れた音が聞こえて、そこでやっと自分が山城を押し倒したことに気付いた。
一昨日から降り続いている、静かな雨の音と、自分の荒れた息遣いだけが、二人しかいない教室に響いていた。
「押し倒して、どうするの?」
沈黙を破ったのは山城だった。押し倒されても無表情のままだった。いや、さっきよりも、見下したような冷たい目でこっちを見ている気がする。
「怒ってるの? 欲情してるの?」
山城は、そう続けながら、ポケットから一本のカッターナイフを取り出し、自分に差し出した。
「欲情してるなら、そのカッターで私の服を引き裂いて。怒ってこんな事したなら、私の喉をそれで切り裂いて」
コイツ何を言ってんだ。一体何が望みなんだ。なんでそんな平気そうな顔をしてんだ。そんな見下すような顔でこっちを見るな。山城の眼鏡に俺が映ってる。こっちを見るな!
カッターを握った手が震える。彼女への怒りの感情なのか、性欲なのか、恐怖なのか、もう訳が分からなかった。
「なめ、やがってええ!!」
俺はカッターナイフを振りかぶった。
教室の隅に放ったナイフは、ガシャンと情けない音を立てて、その刃を折った。
「はぁ……はぁ……」
そして、彼女の頬を殴った。
その一瞬だけ、山城は、驚いた表情をした。
「そうだよ……俺は情けない男の子だよ……悪いか……」
山城の口の端から、赤黒い血が流れた。
自分は立ち上がり、振り向かずに教室を後にした。
山城は多分笑っていた。
あいつを殴ったのは、短冊が握られた手だということに気付いたのは、川に架かる橋の真ん中に来た時だった。
握っていた短冊は、川に流した。
短冊を捨てても、彼女を殴った感触は、抜け落ちることはなかった。
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