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79話 セシル 

長めの過去回想回です。グロテスクな表現が多くあるので、苦手な方はご注意を。




 セシル・リング・フォート。

 彼女は苦難の人生を歩んできた。


 アレキウス帝国では完全実力主義の体制をとっている。

 生まれたばかりの子供に生鈴式を行い、すぐさまジョブを決めさせる。

 そしてまだ1歳に満たない子供に魔力を注ぎ込み、魔力の扱い方を慣れさせる。

 幼児にすら実践訓練。

 それほどまでの実力主義なのだ。

 

 力こそすべて。

 力あるものが頂点に立ち、国を統治する。

 それがこの国でずっと続いてきたものだった。


 セシルは、代々続く王族の中に生まれた。

 無論、裕福な生活を送ったと言えるだろう。

 父親は王族屈指の剣士で、母親は三属性の魔法を操る魔術師。

 彼らは力を持っていた。

 そしてセシルもその力を受け継ぎ、強力な魔法への適正を示した。

 生まれた瞬間からセシルの放つオーラはただものではなかった。


 セシルは強かった。

 それは彼女が3歳になったばかりのころでも明らかだった。

 歳が10も上の子供と魔力操作の勝負をし、圧勝した。

 ふとした時に見てみると、何種類もの属性の魔法を使っていた。

 彼女は強かった。

 天才だった。


 それ故に、事件は起きた。


 彼女の強さは瞬く間に他の王族へと知れ渡り、裏でひそかに危惧されていた。

 このままでは地位が落ちてしまう。

 王族・貴族達はセシルの持つ強大な才能に恐れをなし、自分達の立場を守りたいがために決めてしまった。


 ──彼女を殺すことを。


 しかし、送り込まれた暗殺者は速攻で命を散らした。

 彼女の父親が、敵全てをはねのけていた。

 実力主義のこの国で高い地位を維持している彼の実力をもってすれば、襲い来る刺客など取るに足らなかった。


 セシル殺害が困難なことを悟った王族・貴族らは悩んだ。

 彼らにとってセシルは爆弾。

 成長し起爆してしまえば、周りをはねのけその爆風を盛大にまき散らし、今ある王族のバランスを確実に揺るがすだろう。

 実力のある王族・貴族ら本人なら、セシルの暗殺は可能だろう。

 しかし、直接殺したとなれば断罪されるのは目に見えている。

 かといって自分の手を汚さないために中途半端な刺客を送り込んでも返り討ちは必須だ。

 一体どうすればこの危機を乗り越えられるのだろうか。

 彼らは頭を抱えた。


 そこへ、誰とも知れぬ声が下りてきた。

 声は水晶から放たれていた。

 しかし、その水晶はただの飾りのものであるはず。

 何も魔法は込められていない。

 通話など可能なのか?


 だが、声の主は彼らにとって魅力的な案を出した。


 ──セシルという女を殺したいなら我が手伝おう。

 かの女をおびき出し、確実に仕留めることが可能な状況を形成すればいいだけの話。

 君たちの怒りは、我には良くわかる。

 小癪な娘一匹など、すぐにひねりつぶしてしまわねばならない。

 街はずれの木々の生い茂る場所。南東の湿地地帯の隣。

 そこがかの女の墓場となるだろう──


 王族・貴族らは、困っていたところに一条の光が差したと言わんばかりに話に食いついた。

 諭されるような声と具体的な命令をありのまま信じた彼らは、用意した新たな刺客を指定の場所へと赴かせた。



   *



 セシルは頭がよかった。

 まだ3歳だった彼女は、歳に似合わぬ冷静さで今の自分の状況を見極めていた。

 自分には有り余る力。

 それを良く思わない他の貴族。

 狙ってくる刺客、打ち倒す父親。

 力はあるが、父は自分の何倍以上もの力がある。

 家族を守るのは当たり前。

 そう当たり前なのだ。

 当たり前、しかし、彼女は守られてばかりのこの状況が、不快だった。

 自分を守る父の眉間には、優し気な顔には似合わない縦のしわができていた。

 敵を打ち返すたびに負う傷。

 回復するためのポーション作成に時間が割かれ、母親もセシルにかまう時間が減っていた。


 セシルは悲しかった。

 自分のせいだということが分かっているからこそ、今の状況をどうにかしたかった。

 今の自分の力では何もできないということは分かっていた。

 それでももがきたかった。

 何かをしていたかった。

 自分の存在の価値が無いなんて信じたくなかった。


 ──苦難の少女よ


 その時降りかかってきた声は、一条の光にも見えた。

 声の発生源は、部屋の中にある母が使っている水晶。

 部屋にはセシル以外誰もいない。

 彼女は声に聞き入った。


 ──我は救うことができる。

 価値の無い少女を救うことができる。

 お前に価値の付け方を教えることができる。

 全てはお前の選択次第だ──


 セシルは懇願した。

 もうこれ以上、父と母を苦しめたくないと。

 これ以上、自分のせいで誰かの苦しむ姿を見るのは嫌だと。


 ──我は『運命神』

 運命をつかさどる神。

 しかし我の力でも曲げられぬ運命は存在する。

 お前の両親を救う道はあるが、その道の中でお前は死ぬ定めがある。

 その覚悟があるならば、我は儚き少女に親の命を救うという価値を約束しよう──


 運命神の声に応じたセシルは、導かれるように足を向ける。

 窓から出て木を伝って家の敷地から出る。

 夜の街を進み、何も考えずにひたすら歩く。

 すると、気が付けば林の中にいた。

 どこの林なのかは分からない。

 しかし、見えるのは生い茂る木々のみ。

 自分がどこから来たのかも分からない。


 彼女は唐突に不安を覚えた。

 暗い。

 木々に遮られ月の光は点々としか入ってこない。

 見えない。

 全方位三百六十度、どこを見ても木。

 さっきまで歩いていた街はどこにもない。


 急に空気が冷たくなる。

 いつのまにか、短剣を持った男が四人周りにいた。

 顔は仮面で隠れている。


 セシルは怖かった。


 このままでは殺される。

 これは運命。

 殺される運命。

 運命?

 なぜ殺されなければいけないんだ。

 親を救うため。

 父、母。

 どちらも大切な存在。

 だから失ってはいけない。

 でも、なんで代わりに私が死ぬ?

 私が死んだら、悲しむ顔をするのはお父さんとお母さん。

 悲しむ顔は……見たくない。


 いやだ。

 死にたくない。


「死にたく……ない!」


 セシルは我に返った。

 今まで自分が誘導されていたことに気付いたのだ。

 運命神が言うことは嘘。全部嘘であった。

 自分のせいで親が苦しんでいるのなら、自分も苦しみを分かち合い、共に頑張るのがいちばんなのだ。

 それなのに逃げてしまった。

 逃げたのだ。親の苦しみを知ることが怖くて、恐ろしくて。

 だから運命神なんていう存在に揺さぶられた。


「でも、もう逃げない!」


 セシルは目をつぶり、胸の前で両手を合わせた。

 そしてゆっくりと開いていく。

 手の中には、まばゆく光り輝く光の弾ができていた。

 天才である彼女は、幼いながらも魔法を使うことができたのだ。


「スキル『聖虚光弾』!」


 閉ざされた闇を、強い光が引き裂いていく。

 突然の強光に、刺客の男たちは目をやられてしまう。


 セシルは今がチャンスとばかりに目を開くと、適当な方向へ駆け出した。

 街の方向は分からない。

 じめじめする空気。

 つまりここは、湿地の近くの林のはず。

 すると大体の場所は分かる。

 街は遠い。

 人の助けはこないだろう。

 湿地へ出れば、足の遅い自分は追いつかれてしまう。

 とすると、この林から出ないように隠れながら行動するのが最適。


 セシルは木々の間を潜り抜け、小さい体の利点を生かしながら林を進んでいく。

 追手の足音が遠くから聞こえてくるが、来た道に足跡を残さないよう進んでいるためそうそう早くは追いつかれないだろう。


 100mほど走り追手の足音が聞こえなくなった。

 地面に腰を下ろし、木に背中をあずける。

 荒い息を整えながら頭を働かせる。


 ずっと林で追いかけっこをしていてはらちが明かない。

 あちらが諦めてくれれば一番楽なのだが、そんなことは万が一にもありえないだろう。

 人の助けがくることを祈ってずっと隠れているのは、食糧事情的に難しい。

 助けが来る前に殺されるのがオチだろう。

 魔法で追手を倒すというのは、暗殺を生業とする者が4人も相手では望みは少ない。


 まさに極限の状況。

 八方ふさがり。

 普通恐怖で足がすくんでしまうようなこの状況でも諦めずに考える彼女は、やはり聖女なだけあるのだろう。

 生き残るための策を考え、ひねり出そうとしている。


 が、それでも不可能ということは存在した。 

 

「何も……思い浮かばない……」


 天才と言われる彼女は、今までどんな状況に陥っても上手く解決してきた。

 頭を働かせて考えれば、問題に対する対処の仕方はすぐに浮かんできた。

 そんな生き方をしてきた。


 いくら考えようとも何も思い浮かばない。

 この状況を打破するための最適解が、分からない。


 そして押し寄せてくるのは……




 ──恐怖


「きゃっ!」


 突然左手を掴まれ持ち上げられる。

 思い切り投げ飛ばされる。


「あ、がっ」


 地面に強く体を打ちつけ、肺の空気が吐き出される。

 口の中に血の味が広がる。

 背中に強い痛み。

 打撲か、骨を折ったか。

 どちらにせよ、もう動けなかった。


 セシルはどうにか顔を上げる。


「な……に………!?」


 ドスッ。


 鈍い音が響いた。

 まるで何かに鋭利な刃物が刺さる音。

 地面に滴る赤い液体。


「えっ……」


 首を動かす。


 小さな胸に、返し付きのナイフが刺さっていた。

 少し長いナイフは胴体を貫通し、血で赤く染まった剣先を背中から見せている。


「あ……あ……」


 脱力し地面に倒れていく。

 背中から倒れ、体を貫通している返し付きのナイフが少し押し戻される。

 セシルは衝撃的な痛みに身を悶えさせた。


「いっ、あがっ……!」


 ドスッ。


「あうっ!?」


 再度のナイフは、腹のあたりに刺さった。

 また体を貫通し、地面に背中から出た剣先がめり込む。


 ナイフの返しが皮膚とこすれて想像を絶するような痛みを生み出している。

 出血の量からもう助からないことは明白。


 燃えるような痛みを耐えながら、セシルは死という存在がだんだん大きくなるのを感じていた。


「もう一本やっとくか」

「無駄遣いはやめろ、行くぞ」


 周りから声が聞こえる。

 しかしその声も遠くなっていく。

 目を開けるのも辛くなる。


 走馬灯。

 死の直前にして、セシルは父と母の顔を思い出していた。


 聖女という特別な立場から自分の身を偽る生活。

 幼いながら強力な力を秘めた、厄介ごとの種である自分。

 それでも愛してくれた両親。

 苦しくなかったと言えば嘘になる。

 けれど、頭に思い浮かぶどの思い出も、まるで宝石のように光り輝いていた。


 死にたくない。


 彼女は強く思う。

 思い出を、思い出にしたくない。

 これからも思い出を作りたかった。

 ずっとずっと、幸せでいたかった。

 幸せでなくてもいいから、両親と一緒にいられればそれでよかった。


 だけど……もう………


 彼女が諦めようとした、その時であった。


「スキル『疾風斬り』!」


 突如風の如く現れた一人の剣士が、刺客の一人を突き飛ばす。

 一瞬の出来事に、ナイフの話をしていた男は気付くことすらできずに血しぶきを上げた。


 他の刺客は急いで距離を取る。

 しかし逃走は許されなかった。


「スキル『円刃』」


 剣がふわりと中を舞う。

 速く鋭い攻撃であるのに、剣筋はゆっくりしている。

 そして剣を振り切った瞬間、刃が襲う。


 三人の刺客のうち二人が反応しガードする。

 ガードの遅れたもう一人は腹を切り裂かれ倒れた。


 刺客の一人は舌打ちする。

 二人倒されて二対一。普通は優勢と見て間違いないだろう。

 しかし相手が悪かった。

 相手は王族の一柱。

 送り込んだ刺客を全て壊滅させた者。


 ──彼が持つ剣はまるで本当の力を隠していたかのように踊りだす。

 攻撃する隙を全く与えない剣技は見る者の目を疑わせるほど──


 剣舞師二強の一人である彼には、暗殺者であろうと敵ではなかった。


「セシル……ちょっと待ってろ。すぐに終わらせる」


 普段温厚なその男の目は、いまだかつてないほどに憤怒していた。


 静かな林の中の空気が震える。


 急に刺客の男がナイフを投げた。

 手に取ってから投げるまでの一連の動作が常識を通り越して速い。

 もう一人の刺客も遅れて動く。

 ナイフを三本つかみ二本投げる。

 残りのもう一本を握りしめると腰を落とし、地面に這うぐらいの体の低さで肉薄する。


 回避したとしても追撃。

 防御したとしても追撃。

 逃げ場はない。

 完璧と言える急襲だった。




 ───遅い。


 一振り。

 全てのナイフを剣で弾く。

 二振り。

 突撃してきた刺客の一人を斬る。

 三振り。

 ナイフを投げた男を斬る。


 カチン。

 剣が鞘に納められる。

 ナイフが落ちる音と一緒に刺客二人も倒れる。


 剣吞とした雰囲気が霧散し、林の葉っぱがこすれるかさかさとした音が戻ってきた。


 セシルの父は息を吐き出すと、倒れた彼女の元へ駆け寄った。

 ポケットから液体の入った桃色の瓶を取り出し蓋を開ける。


「神級のポーションだ。後でベイルに礼を言うんだぞ」


 片手で瓶をもって、中の液体をセシルの口に流し込んでいく。 


「スキル『剣抜き』」


 ポーションを飲ませながら、体に刺さったナイフを一本ずつ抜いていく。

 みるみるうちに損傷部が回復していき、セシルの体は無傷の状態まで戻った。


 体をゆする。

 すると、セシルはゆっくり瞼を開けた。



「……おとお……さん?」


 セシルの父は安心し、顔が喜色に染まる。


 なぜ生きているのか分からないセシルは、ただただ驚くことしかできなかった。


「セシル……よかった。さあ、家に帰るぞ」


 そう言って立ち上がろうとする──


 ──背後から飛んできたナイフを素手でつかみ取った。


「まだ残っていたかっ……!」


 すぐさま振り返り後ろの敵を視認する。


「こっちだよ剣士」


 セシルの方から声。

 驚き振り返ると、セシルの首にナイフを当てている刺客がいた。


「なんだと……!」


 一瞬思考が停止した。

 それが致命的だった。


 ドスッ。


 背中からの投げナイフ。

 丁度心臓の位置に刺さっていた。


「がっ……」


 手に掴み取っていたナイフを落とす。

 膝を折ってがくりと前のめりになり倒れそうになる。


「がッ……がッぁあああっ!」


 しかし気合で全身に力を込めると彼は渾身の一撃を繰り出した。


「固有スキル『抜刀剣』っ!」


 抜刀───

 セシルの首筋にナイフを当てている男が音もなく倒れる。

 返し刀───

 後ろの男が崩れるようにして倒れる。


 剣を鞘に納める。


 敵二人を見事倒したセシルの父は、そのまま倒れて動かなくなった。


 林に静寂が戻る。

 風に揺れてこすれる林の葉の音だけが鳴り響く。


「……えっ?」


 セシルは間の抜けた声を出した。


「お父さん……?お父さん…!」


 ようやく事態に気が付き父の元へ駆け寄る。

 が、一向に動く気配はない。


「お父さん!なんで返事してくれないの!お父さん!ねえ!ねえったら!」


 ──家に……


「あっ!お父さん!」


 ──家に帰りなさい……


 にこり。

 一つ笑みを残し、一つ命が消えた。


 冷たくなったその体は、もう二度と動くことはなかった。


「え……嘘、だよね……」


 声が震える。


「嘘……でしょ?嘘だって、いっつもみたいに冗談で、しょ…?」


 溢れる涙を止めることは敵わない。


「あ……あぁ…………ああああああああぁああああっ!!」


 一人の少女の叫びが、暗い夜の林の中にこだました。




「家に……家に帰らなくちゃ」


 うつろな表情で呟きながら街を歩く。

 セシルはもうかなり壊れていた。

 唯一の救いは、母が家にいることだった。

 母の温かい温もりを感じれば、何もかもを忘れて一からやり直せる気がしたのだ。


 大通りから外れ狭い路地に入り、また大通りに出て一本の道を進んでいく。


「やっと……着いた」


 大きな屋敷。

 我が家に帰ってきた安心感を胸に、セシルは門を開け中に入ろうとした。


「待て」


 ビクっ、と反応して動きを止める。

 恐る恐る横を見ると、ベイルがすぐそばでたたずんでいた。


「べイルさん……?なんでここに──」

「中は見ない方がいい」


 言葉を遮られ言われた一言で、セシルの思考が停止する。


「……なんで?お母さんが待ってるよ?ねえ、ベイルさんも一緒に行こうよ?」


「……ッ!」


 一見無邪気な声。にこやかな顔。

 だが目は、目だけは幼い少女が持っているはずのない狂気で支配されていた。


「っああ、分かった。行こう」


 思わず気圧されてベイルは承諾した。


「お母さん……お母さん……」


 何度もつぶやきながら、嬉しそうな顔をして門を開け屋敷の玄関へ進む。


「ただいま~!」


 元気な声とともに屋敷の中へ入る。

 しかし返事は無い。

 不思議に思うセシル。


「あれ?……ただいま!」


 彼女の声だけが響き渡る。


「………」


 ベイルは苦しむ胸を押さえ、顔をしかめた。

 おかあさんトイレかな?と無垢な瞳で見つめてくるセシルから目をそらす。

 見ているのが辛かった。

 

 そんなベイルをよそにセシルは廊下を進んでいく。

 リビングの扉を開け中に入る。


 一歩入ったところで、ぬめっとした感触を足に感じた。


 下を見てみると床が赤い。

 赤をたどっていくと、向こうの床で、背中に3本ナイフが刺さっている状態の母が倒れていた。

 

「……お母さん?」


 おもむろに、血だまりを歩いていくセシル。


「どうして、寝ているの?」


 ガクリと膝をつき、母の顔を触る。


「おかあさ……」


 冷たかった。

 これ以上ないほどに、冷たかった。


「あぁ……」


 涙が、とめどなく流れる。

 頬を伝う涙は温かい。

 その温かさで、自分は生きているということを実感する。

 でも今は、その温かさが何よりも痛かった。


 涙を流し停止しているセシルを見て、ベイルは言う。


「俺が家を訪ねた時はもうその状態だった。お前の父さんもいなかったから、できるだけ大ごとにはしたくなかった。」


 声を落として言った。


「お前の母を守れなくて、本当にすまなかった」


 頭を深く下げて、ベイルは謝罪した。

 しかしその声も今のセシルには届かない。

 と、ここでベイルが確認するように言った。


「事をまとめるにはお前の父さんが必要だ。どこにいるか知っていれば教えて欲しい」


「………」


 無言で、無表情で、セシルはゆっくりと、顔を動かしベイルを見た。

 その顔を見たベイルは全てを悟る。


「まさかお前の父親も……っ!」


 しかしセシルはこれ以上、もう何も喋らなかった。


 脚に当たる血の生温かさを感じながら、自分は聖女なんだと、特別なんだと、セシルはこの時はっきりと自覚した。



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