分数の割り算ってどうしてひっくり返すの?
とある田舎町、主要産業は漁業と農業、観光が少し。住宅街を外れるとすぐに農地と空き地が一面に広がる。そんな町のそれこそ町外れ、周りに家のほとんどないある丘の上に、一軒の家が建てられたのは4年ほど前のことだった。
「純兄いるー?!」
元気な声が陽気と一緒に玄関から入ってきた。声の主は町河慎一、入学式を一ヶ月前に終えたばかりの中学一年生。変声期がまだ来ていないため、声だけなら女の子にも思えるがれっきとした男の子である。目下の悩みは部活をどうするかと、難しくなると脅されている勉強。だが、数学に関する限り、彼には強い味方がいた。
「どうした」
奥の戸が開いて30前後の男が顔を出した。すでに午後のおやつの時間だというのに無精ひげは伸びたまま、ジャージはよれよれ、おそらく起きたままの格好なのだろう。
彼の名は増川純也。彼の名刺を受け取ったり、職業を聞いたりした人はほとんど例外なく一度沈黙し、次の言葉を探す。彼の名刺にはこうある。「数学者 増川純也」と。
「お腹空いたー。おやつあるー?」
だが、慎一はそんな独特の肩書など一切気にせず、子供ならではの図々しさで純也の後について家に入った。彼にとって純也は「数学の得意な親戚の兄ちゃん」であり、正確な関係は慎一の母親の従姉弟である。純也が引っ越してきて4年。二人の関係はおおむね良好だった。
慎一にとってはすでに見慣れた光景だが、純也の家は本であふれかえっている。もともと本の虫で乱読家であるうえ、様々な文献に目を通すことが仕事の一部ともなっている純也の蔵書は、増えるのは容易でも減るのはそうではない。かくして、棚に積まれ、机に積まれ、床に積まれ、目に入る本の量は日一日と増えていくのだった。
とはいえ、本の柱の浸食を受けていない部分もある。一階リビングの中央に置かれた大きな白いテーブルとその正面の壁である。今、そのテーブルの上にはドーナツの乗った皿とコーヒーの入ったマグカップが置かれ、慎一がさっそく手を伸ばしていた。
「ねえ、純兄、どうして分数の割り算ってひっくり返すの?」
コーヒーに三つ目の角砂糖を入れながら慎一は唐突に聞いた。
「いきなりな質問だな。なんかあったか?」
純也好みの濃いめのコーヒーは中学一年生には苦すぎるらしく、返事はコーヒー用ミルクの二つ目を入れながらだった。
「んー、まあ、なんとなく。今日、学校の問題でやった時、なんか思ってさ」
「ふーん、で、どの程度の答えがほしい? 本気で答えていいのか?」
「答えれんの?」
「馬鹿にすんな。伊達に数学者名乗っちゃいねえ」
「へー、時間かかる?」
「そうだな、ざっと八時間ほどの講義になるかな」
「長っ! 五分ぐらいにならない?」
「まあ、八時間は冗談でも五分にはならんな。二十分あればそれなりに納得のいく説明ができると思うぞ」
「じゃあ、説明していいよ」
「お前から聞いたくせに、偉そうだな……」
純也はテーブルの右端に手を伸ばし、そこに内蔵されていた小さなコンソールのふたを開いていくつかのボタンを押した。それに連動して正面の壁に光が灯ってスクリーンになり、テーブルの天板にはタッチパネル式のキーボードが現れた。テーブルと壁の前に本がない理由はこれだった。
「この問題は基本に帰って、割り算とは何を求める計算か、を考えるのが早いと思うんだよな」
「割り算とは? 何かを分ける計算!」
「お前、なんも考えてないだろ」
「だって、兄ちゃんの仕事は考えること、っていつも言ってんじゃん。だから任せてみた」
「お前の質問をお前が考えんでどうする。といっても、先にちょっと確認しておくか」
「何を?」
「慎一、お前さ、分数と割り算って行ったり来たりできるもんだって覚えてる?」
「えー、それって、えっと、1÷3だったら 1/3になるってやつ?」
「そう、まさにそれ。この変形、納得してる?」
「うん。別に変な気はしないよ。だって1÷3って割り切れないから分数で書くんでしょ」
「まあ、そう思ってもいいか。じゃあ、まずはこの問題」
そういって純也はキーボードに指を走らせる。入力した文章が正面のスクリーンに現れた。
“①:10個のリンゴを5人で分けるとすると、1人分は何個か”
「2個!」
「勘違いするなよ。馬鹿にしてるわけじゃない。計算力じゃない。割り算の本質を見るための問題だ。これは?」
“②:10個のリンゴを1人2個ずつ分けると、何人分になるか”
「5人! で、どこが本質なの?」
「この2つの問題はそれぞれ割り算の別の面を使ってるんだ。計算の方向が逆なのがわかるか?」
「計算の方向? なにそれ? 計算があっち向いたりこっち向いたりしてんの?」
「そう。わかっていることが今いるところ。求めるものが見る方向。そう考えるとこの2つは全く逆だ」
「んーと、1人分を求めるか、何人分を求めるか、だよね。そっか、1人分の個数と何人で分けるかが逆なんだ」
「その通り。特に一問目を見て。“10個のリンゴを5人で分ける”ということは“10個のリンゴは5人分”とも言えるし、さらに言えば、“10個のリンゴは1人分の5倍”とも言える」
慎一の目が理解の光に輝く。
「二問目のほうは“10個のリンゴは1人分の何倍”って聞いてんだ!」
「その通り! 一問目は何倍かの量がわかって、1あたりの量を求める割り算。二問目は1あたりがわかって何倍かを求める割り算なんだ。割り算には、“1あたりを求める割り算”と“何倍かを求める割り算”の二種類がある」
「おお、なんかわかった気がする」
「分数の割り算はこの、“1あたりを求める割り算”のほうだと考えやすい。何倍か、というのが分数、つまり÷(3/4)なら3/4倍とか、÷(6/5)なら6/5倍がわかっていて、じゃあ1あたりはどれだけか、と聞いているんだ」
「ふんふん」
「実際には分数倍なんてほとんど考えないし、さらにそれで割って1あたりを求めるなんてやらないけどね。でも、計算としてはそれで問題ない。こんな問題がある」
“③:400mlのジュースがあります。このジュースはある量のビンに入っていますが、その1/3を飲んだ後の量です。最初は何mlありましたか”
「えーと、1/3を飲んだんだから、元の量の2/3あるってこと?」
「そう、こんなのを考えるとこれが割り算を使うってことがわかる」
“④:400mlのジュースがあります。このジュースはある量のビンに入っていますが、その2本分を合わせた量です。1本は何mlありましたか”
「ほんとだ。2本分ってことは2倍だから、1本あたりは400÷2で200ml。③は2じゃなくて2/3なだけだからこれも割り算なんだ。ええと、400÷(2/3)だから、ひっくり返して……」
「おいおい、分数の割り算のやり方を考えたいのに、ここで使ってどうする。割り算以外でわからないか?」
「えー。この計算しちゃダメなの?」
「だから、意味ないだろうが」
「しょうがないなあ」
「おい」
「えーっとね、600!」
「どう計算した?」
「えー、どうやったっけな」
「おーい。今やった計算忘れんな」
「あのね。400で2/3だから、これの半分が飲んだ量。だから400÷2で200。200を400に足して600!」
「よし。正解! じゃあ、その計算をもうちょっと細かく見てみようか。今、なんで2で割った?」
「なんで? だってその半分がなんぼか知りたいから」
「なんで半分が必要だ?」
「えー。だって今あるのが2/3で、1/3がどれだけか知りたいんだから半分にすればいいんだよ」
「そう、その通り。じゃあ、もし今ある量が2/3じゃなくて、4/5だったらどうする?」
いささか不満げだった慎一の表情がすっと真剣になった。
「んとね、欲しいのは1/5なんだから割るのは4。これ、分子で割ればいいのかな?」
「どうだろう。どう思う?」
「んー、たぶんそれでいいと思う。分子の数で割れば、分子を1にした量がわかるんだから」
「正解。じゃあ、さらに一歩先。1/3とか1/5とかの量がわかった後、もっと簡単に計算する方法がないか考えてみよう」
「簡単に?」
「そう、今、何を求めようとしているんだっけ」
「なんだっけ?」
「また忘れてる。計算が終わったら問題に戻れといっつも教えてるだろ。今、何の本質を考えていた?」
「あ、そうか。分数で割るってこと考えてて、割り算は1あたりを求めるんだった。だから、1/3がわかってて1あたりは……簡単じゃん、3をかければすぐわかるんだよ」
「その通り! なんで3をかけた?」
「だーかーら、1/3の量がわかってるから、3倍すれ……ば……。分母を、かければ、いい?」
「そうだ」
慎一の目はすでに純也もスクリーンもコーヒーもドーナツも見ていない。その目が見ているのは計算の本質。つぶやく言葉は質問に対する答えではなく、自らを理解へ引き上げる自分への道しるべ。
「さっき、分子で割った。分子で割るから分子が分母になって、分母をかけるから分母が分子になって、ひっくり返る」
「よし。つかんだな。確認するぞ。分母とか分子でいうと混乱してくるから文字を使って書こう」
純也はペンをとるとテーブル上に素早く文字列を書きつけていく。書かれた文字は筆跡もそのままにスクリーン上に映し出された。
“a÷(b/c)”
「どうするんだった?」
「えっと、aをbで割って1/cの量にして、それからcをかければいい」
“a÷b×c”
「割り算はどうする?」
「1/b」
“a×(1/b)×c”
「で?」
「1/bとcをまとめる」
“a×(c/b)”
スクリーン上に書かれた式を慎一は黙って見つめていた。不思議な満足と高揚があった。一方的に教えてもらって理解した時とは全く異なる。ささやかな計算だし、誘導されてもいた。それでも、自分で考え、理解し、つかんだことは大きな意味があった。
「すげえ。なんか納得できた。めちゃめちゃ嬉しい」
「そりゃよかった。これが自分で証明するってことさ」
「ねえ、もっかい教えて。ノートとって明日学校で自慢する。これ絶対忘れないし」
「あー、それはやめといたほうがいいかもな」
「なんで?」
「じゃあ、明日学校で今俺がやったように上手に誘導できるか?」
「んー、そりゃ純兄みたいにはいかないけど、おんなじように質問すれば」
「じゃあ、今慎一は俺の誘導通りに素直に来たけど、全然違う答えが返ってきたらどうする? それにな、お前が今感動しているのは自分で理解したからだ。単にこれを教えられただけだったら、「ふーん、それで?」ってことになると思うぞ」
「う゛。そうかも」
「それと、今お前が覚えるべきなのは、この証明じゃない。この証明は忘れても構わない。ただ、覚えておくべきなのは「分数の割り算をひっくり返すことには納得できる根拠がある」ということだけだ。それを忘れずに、分数の割り算があったら迷わずひっくり返せばいいんだ」
「そういうもんなの?」
「そういうもん。俺だってそうだ。研究中の数式で、分数で割る式があったら、何も考えずにひっくり返してかけている。それこそが数式の強みだしな」
「なにそれ。何も考えないのが強みなの?」
「そう。数式の変形に頭を使わなくていいってことは、だれが見ても、だれがやっても同じ形にできるってことだ。それに、何も考えないからこそ、式の意味を考えていては到達できないようなところまで行ける」
「変なの。何も考えないほうが言いわけ?」
「今度教えてやるよ。学校で方程式を習ったらな」
「ふーん。ま、いっか。ね、ドーナツもう一個!」
「俺の買い置き食い尽くす気かよ。一個だけだぞ」
純也に鍛えられた慎一が数学者としての芽を出すにはもう少し時間が必要だった。