俺は死んだのかよ!?
学校からの帰り道、藤本純一は道路を渡ろうとしていた。
――ひまだからゲームセンター……に行くとカツアゲされるから、コンビニで漫画を立ち読みしよう。いや、コンビニに行ってもどうせカツアゲされるか。俺はもうどうにもならないな。
こうしたことを考えていても、藤本の気分が落ち込むことはない。
いつものことだからだ。
クラスの女子に避けられ、教室の隅から指をさされ、ブサイクだと嗤われる。
――うるせえ、ブサイクだってことくらい知ってるよ!
そんなのはいつものことだ。
授業で当てられると、何ひとつ答えることはできない。
テストはつねに赤点だ。
教師は気まずい表情を作り、自分よりも下の存在を見つけた生徒には「馬鹿だな」と嘲われる。
――うるせえ、馬鹿だってことくらい知ってるよ。
これもいつものことだ。
「おい見ろよ、こいつ気持ち悪い顔してるぞ」
「あはは、本当だ。豚だな。おい豚、お前、金持ってねえか?」
まだらの金髪が、ニヤニヤしながら近づいてくる。
――うるせえ、俺は豚じゃねえよ。あと、金なんて持ってねえよ。
全部いつものことだった。
いつものことだから――。
傷つかない、なんてことはない。
心のなかで言い返して、深く考えないようにしてやり過ごすくらいしか、藤本にできることはなかった。
ふと気がつくと、
「おい、藤本。なあ、おい!」
しつこく呼びかける声が聞こえていた。
振り返った藤本の視界に入ってきたのは、親友の川田隆志が走る姿。
制服の一番上のボタンがはずれて、襟元が風にばたばたとなびいている。
ぐるんぐるんと腕を振り回しながら、凄まじい形相で藤本に近づいてきていた。
運動の苦手な川田の走り方は奇妙だ。
足をあまり動かさずに腕だけを振り回すスタイル。
とても真面目に走っているとは思えない。
しかし、それなりのスピードはでている。
見るものに強烈な違和感をあたえる走りだった。
本人としてはふざけているわけではないらしい。
体育教師に怒鳴られたとき、
「走り方を怒られてもどうしようもないんだよなあ……」
と悲しそうにぼやいていたのを藤本は覚えている。
いまも川田の独特なフォームは、道を歩く人の視線を集めてしまっていた。
――川田、そんなに必死で……いったい何があったんだ。
藤本の前で立ち止まると、川田は苦しそうに大きく肩を揺らしていた。
「どうした、そんなに急いで?」
言い終わる前に、川田のローキックが藤本のひざに入った。
衝撃が走る。
「おらっ、藤本! 今日もブサイクだなあ。遠くからでもわかったぞ。びっくりしたぞ! お前はまるで化け物だな! あははっ!」
「痛いな……うるせえよ! いきなりなんだよ、用事はそれだけかよ!」
ニヤニヤ笑っている川田の頭を藤本ははたいた。
これが口の悪い川田との、いつものコミュニケーションだった。
決して喧嘩をしているわけではない。
――こいつは、これだから……。
出会った当初は頭に来ることもあったが、もうすっかり慣れてしまっていた。
川田に会うと、毎回こんな調子だ。
相手の気持ちを考えない台詞を言う。
だが、ほかのクラスメイトよりはましだった。
ひそひそと微かに聞こえるように陰口を叩くよりは、直接言ってくれるほうがまだ気分がいい。
それなら言い返すこともできる。
川田になら言い返すことができる。
川田の投げかける言葉には悪気も悪意もないようだった。
ただ何も考えていないだけだ。
――そういう性格なんだから、あきらめるしかないよな……。
藤本はため息をついた。
口が悪いからといって、無視するわけにもいかない。
こんなやつでも藤本にとっては数少ない大切な友達だった。
「でも、ローキックはやめろよな。地味に足にくるんだよ……」
「ああ? なんか言ったか?」
「いや、だからさあ……」
「んん? なんか眩しくねえ?」
不思議そうな顔で、川田が目を細める。
藤本が何気なく視線を横にそらすと、トラックが猛スピードで突っ込んでくるところだった。
――トラック?
ライトに全身を照らされる。
二人は道の真ん中に立っていて、トラックの進路の正面だ。
ブレーキを踏む気配はない。
「なあ、おい。なんかこれ、ヤバくね?」
川田がそう言った瞬間、二人ははねとばされていた。
***
「おい、藤本! なあ、聞こえないのか……。頼むよ……。起きてくれ、藤本!」
体が揺さぶられる。
「ん……川田か。あいかわらずうるさいなあ……」
目を開けると、川田が顔を覗き込んでいた。
どうやらベッドに横になっているようだった。
頭の下に枕の感触がある。
――なんだ? 俺、寝てたのか?
状況を把握できないでいる藤本の手を、川田がしっかりと握り締めた。
「起きたか! 無事か! 藤本か……?」
「何で疑問形なんだよ。俺だよ、藤本だよ……。耳元で大声出してれば、そりゃあ起きるよ。騒がしいなあ……」
「当たり前だろ! お前ずっと寝てたんだぞ! 覚えてないのか!? ああ、寝てたからわからないのか」
興奮気味の川田が言うには、トラックにはねられてから、ずっと藤本の意識は戻っていなかったらしい。
寝ていたのは三週間ほどだという話だ。
――それで俺はベッドで目が覚めたのか。
体を動かそうとすると、思うようにいかない。
寝ていたあいだに、筋肉がなまってしまったようだ。
「心配したんだぞ! でも、よかったなあ……?」
「なんでちょいちょい疑問形なんだよ……。まあ、心配してくれてありがとう。えっと、じゃあここは病院?」
藤本は部屋を見回した。
床には赤いカーペットが敷かれ、部屋のドアの前で一対の甲冑が剣を構えている。
絵画が掛けられた壁から視線を上げて天井を見ると、照明までごてごてと飾り付けられていた。シャンデリアだ。
とても病院には見えない部屋だった。
――しかも、なんだよ、これ。
ベッドの脇に置かれた人形を見て、藤本は眉をひそめた。
本物ではないだろうが、顔の部分が骸骨になっていた。
骨の表面の凹凸が影を作り、リアルで不気味なものに仕上がっている。
どう考えても病室に飾っておくような人形ではなかった。
――趣味の悪い金持ちの部屋って、こんな感じなんだろうな。
それが藤本が抱いた印象だった。成金というやつだ。
藤本が横になっているベッドのシーツも細やかな刺繍で縁取られたものだった。
すべすべとした手触りから、高級品だろうという予想がつく。
「どこだ、ここ? それに俺、怪我してないよな……? トラックにはねられた……よな?」
体を触っても痛みはない。
それどころか、包帯すら巻かれていなかった。
「ここは俺たちがお世話になってるひとの家だよ。家というか……そんなことより、怪我なんだけどさ――」
川田が言いよどむ。頭をかきながら、言葉を選ぶようにしてポツリポツリと語りはじめる。
「あのさあ……びっくりしないでほしいんだけど……たぶん、俺たち死んでるんだよ」
「はあ? 死んでる?」
藤本には川田の言葉の意味が理解できなかった。
「じゃあここにいる俺はなに? 幽霊?」
「いや、どういうことなのか、細かいところは俺にもはっきりわからないよ……。でも、俺たち車に轢かれたわけじゃん。死ぬか大怪我するかの勢いだったじゃん。で、怪我ひとつしてないじゃん。だから、死んだんだと思うんだ」
「えっ、ぜんぜん意味がわからないんだけど。なに言ってるの? どうした? 大丈夫か?」
「ああ、もう、話が進まないから、ここは納得してくれ! 俺たちは死んだの。いい? 俺たちは死んだ。はい、繰り返して」
「俺たちは……死んだ?」
唖然としながら、藤本は川田の言葉を繰り返した。
「そう、で、俺たちトラックにはねられたじゃん。そのときに、別の世界に飛ばされたんだよ。こう、ポーンって。ちょっとやってみな、はい、ポーン」
川田が放物線を描くようにして、こぶしを動かしている。
藤本も同じようにこぶしを動かした。
「ポーン……?」
「そう、で、飛んでいった先の、別の世界っていうのがファンタジーの世界なんだ。いま俺たちがいる世界だな」
「ファンタジー……?」
「そう。そこで俺たちは、一回リセットして生き返ったんじゃないかと思うんだ。だから怪我がないの。でも、これは俺の仮説。ここ数日この世界で暮らしてみて、こういうことなんじゃないかなって、考えたわけ」
これだけ言って、川田は満足げな顔で藤本を見つめた。
胸を張っている。
わかっただろう、というふうにうなずいていた。
「わからねえよ! どういうことだよ!」
藤本の言葉に川田が頭を抱える。
「はあ……なんでこいつこんなに馬鹿なんだよ。わかれよ……」
「なにひとつ理解できる要素がないだろ。最初から最後まで、全部意味不明だよ。……っていうか馬鹿ってなんだよ!」
「それはいいから……ああ、ちょっと待って」
川田が何かを思いついた様子で手を差し出していた。
手のひらを上に向けて、藤本の目の前で停止させる。
「いいか、これ見たら、ここが俺たちがいたのとは別の世界だって納得するからな。よーく見とけよ?」
「うん、なに?」
言われるがままに藤本は手のひらを見つめた。
川田は目を閉じて、精神を集中させているようだった。
しばらくして――部屋の空気が変わった。
川田が小さくつぶやく。
「煉獄の炎よ――我が手に顕現せよ!」
「なんだそれ……うわあっ!」
突然のことだった。
川田の手のひらから炎が吹き出ていた。
あっという間に30センチほどの高さにまで到達した炎を、藤本はただ見つめるしかなかった。
――これはいったい……。
燃えそうなものなど川田の手の上にはなにもなかったはずだ。
仮にあったとしても、ここまで急激に燃えあがるというのは、常識では考えられないことだ。
炎の大きさも普通ではない。
説明のつかない現象が藤本の目の前で起こっていた。
さらに川田が手のひらをかたむけると、手の動きに合わせて炎が形を変える。
藤本の目の前で、空中に球や円錐や立方体を作り出していた。
最後に川田が手を握ると、炎は小さくなり、消えてしまった。
すぐに口を開くことはできなかった。
前髪の焦げたにおいが藤本の鼻腔をくすぐっていた。
それは炎が現実のものであったという証だ。
「川田、これはもしかして――」
川田はゆっくりとうなずいていた。
「魔法か!」
「そう、魔法だよ!」
「ファンタジーだ!」
「そう、ファンタジーなんだよ!」
藤本は興奮を抑えることができなかった。
自分が死んだという、さきほどの川田の話はもう頭になかった。
それよりも大変な出来事が起きていた。
――川田が、魔法を使った!
ゲームの大好きな藤本には、なによりそれが重要だった。
魔法を使えるファンタジーの世界に行ってみたいというのが、藤本の夢だった。
そして、自分も魔法を使ってみたかった。
それがいま、現実になろうとしているのだった。
「すごいな! 川田!」
「ん、まあな」
「いまの、魔法だよな?」
「ああ、魔法だ」
「おおお、俺も、魔法を使えるかな!?」
川田は微笑みを浮かべたまま、静かにため息をついた。
「お前には……無理かもな」
「なんでだよ!」
「この世界の魔法は人間にしか使えないからな……」
「俺は人間だよ!」
藤本の叫びに、川田は悲しそうに顔を伏せ首をふるだけだった。