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色々彩る

作者: 戸塚 海

 ガラスペンを使うのははじめてだった。

 このインクの壺のフタをあけたのも、はじめて。買ったのはもう何年も前なのに。なにか特別な、ここだっていうところで使いたかったから、クローゼットのなかに専用の箱とリボンまでかけて、大切にしまっておいたのだ。そうしたら、あっけなく忘れてしまった。

 お昼近くのリビングで、つる草柄のカーテンからきらきらと光がもれていた。それをじっと見つめていたら、ガラスペンが急にわたしの心にはいりこんできた。それはほんとうに自然だった。ことん、と型におさまったように。

 わたしはあれを今、使う。


 カーテンを思いきり全部あけた。いつもレースカーテンはとじたままだけれど、とにかく光をとりこみたかった。家並みがよくみえる。まぶしくて、目をきゅうとほそめた。閉鎖的だったこの部屋があっというまに外とつながった気がして、少しひるむ。けれど、そのオープンさも、いまは思ったより気にならなかった。空があんまり青いから、この部屋が透きとおったうすい水色になった。海のなかにいるみたい。淡い珊瑚色のペン先が、海の楽園のようだった。

 夢みたいだ。全部が。そういうふわふわとした感覚のなかにいる。

 いつからかずっとそんなふうだった。

 

 礁瑚へ


 こうして夫の名前をかくのは、どれくらいぶりだろう。

 きれいな名前だと思う。

 苗字がありふれていたから、夫の両親がありふれていない名前をつけたらしい。

「ショーゴ」

 呼んでしまうと、ありふれているけれど。

 もっときちんとした便箋を用意しておけばよかった。けれど、宝石みたいなペン先をみていたら、A4サイズのただのまっ白なコピー用紙が、いちばん似合っているような気がした。ここが海なら、白い砂がなくてはいけない。コピー用紙に、てんてんと砂の影をうつ。きっとショーゴがみたら、これはなんだろうと真剣に考えてくれるだろう。それを思うと、少しゆかいな気分になった。

 思っていたより、簡単に言葉がでてきた。ペンは順調にはしっている。ああ、よかった。そんなに時間はかからなそうだ。そう思ってから、わたしには時間がたくさんあることに気づいた。

 今までは、だれもがそう感じているように、わたしのうしろにも、いつもいつも追ってくる時間の影があった。

 でも、もうそれはなくなった。

 わたしは、クローゼットからボストンバックを取りだした。少し考えてから、やっぱりリュックサックにする。必要になる最低限のもの入れていくと、ガラスペンのところでふと目がとまる。これも持っていこう。洗いっぱなしになっているくしゃくしゃのハンカチできれいに包んでから、リュックサックの小さなポケットに入れた。

 玄関のところで、部屋をふりかえる。あと半日くらいしたら、ショーゴが帰ってくるだろうから、窓は開け放しておいて大丈夫だろう。

 しばらく、さようなら。

 わたしは声にはせずにつぶやいて、鍵をかけた。

 

 ひとり旅が好きなひとになりたかった。けれど、わたしは全然だめだった。いままで、ひとりでいたことなんかなかったから。どうしたって、さみしさをかんじてしまう。

 ひとりでいる自分がまわりからどう見えているかなんて、最初は気になるものだけれど、なれてしまえばどうでもいい。

 それに、ひとり旅だからって、ずっとひとりなわけじゃない。田舎のほうにいくと、気さくにお店のひとが話しかけてくれる。

 それでもせまってくる夜はやっぱりひとりきり。

 そのせつなさに、戸惑ってしまう。

 けれど、いまはちがうのだ。ほんとうに、わたしはひとりになりたかった。なにも考えずに、ひとりでどこかに行きたかった。そうでなくちゃ、いつもという日々をくり返せないと思ったから。

 電車に揺られている。

 とりあえず終点まで。

 目をつむって、眠ったふりをしてみる。

 ひざに、必要な最低限のものをいれたリュックサックをかかえて。

 

 仕事はやめた。ショーゴは、やめたっていいよと言ってくれた。ショーゴはいつだって、どんなときだって、わたしに判断をゆだねる。だれかの人生に、責任をおいたくないんだろうと思う。そういうことを言うと、怒られるけれど。

 仕事はそれなりにおもしろかった。年配のひとが多いところだったから、年の離れたわたしにみんなよくしてくれた。7年ほど続いた。もちろん、いやな上司もいたし、苦手な同僚もいた。けれど、そんなことはどれもやめる原因になったわけではなかった。

 わたしはただ、たんたんとすぎる毎日が、こわかった。わたしと外の境界線をどんどん遠くするほど、おそろしかった。外の世界は、わたしにはもうぼんやりとしか見えなくなっていた。言いわけはしない。わたしは逃げたのだ。理由もなく、逃げた。その永遠につづくかもしれないたんたんとした日々から。それをどう伝えていいのかわからなかったから、ショーゴに理由をきかれたときも、うまく答えられなかった。

 でも、それから待っていたのは、おおいかぶさるような膨大な時間だった。たくさんある時間をもてあます毎日。このままではいけないとわかっているのに、なにもする気がおきなくて、無気力だった。

 いつからわたしは、こんなに外の世界と離れてしまったのだろう。また、戻ることができるのかと考えると、よけいに世界が揺れてしまう。

 わたしの世界はいまこんな状態なのに、ショーゴはまったく気づいていない。それは、わたしが外見だけは、なにも変わっていないように過ごしているからだけれど。

 

 おりた駅は、ビジネス街にたたずんでいた。少し歩けば、にぎやかな繁華街のようだった。まだ明るい。よく晴れた午後は、世界が希望であふれていると言いたげだった。ちょっと大げさだけれど。でもきっとそれくらい、わたしはまいっているのかもしれない。その理由もわからないのに。

 知らない街だった。

 近くにある適当なビジネスホテルにチェックインしてから、荷物をあずける。ちいさなバックだけを持って、散策してみることにする。

 歩いても、歩いても、どこかで見たような場所ばかりだった。けれど、知らない場所だ。おなかがへったので、屋台でたこ焼きを買うことにする。

「たこ焼きひとつください」

 わたしが声をかけると、奥から、腹まきをして職人かぜをふかしたおじさんがでてきた。おじさんは無愛想に、マヨネーズは、と聞いた。

「いらないです」

 わたしがこたえると、おじさんは、黙ってソースをかけたあと、かつお節と青のりをふってくれた。

 五百円玉をわたす。おじさんは、ありがとうね、とぼそっと言った。屋台のすみでラジオがうるさいくらいにしゃべっている。無口なおじさんのかわりだと、すぐにわかった。

 おじさんと話していたのはわたしだけれど、わたしではない。その姿をほんとうのわたしが遠くからじっと見ている。心の動きも、わたしではないだれかの身におきたことのように、他人ごとだった。このフィルターがなくなるのはいつなのだろう。

 たこ焼きは信じられないくらいおいしかった。こんなにおいしいたこ焼きなら、ショーゴに食べさせてあげたい。わたしはため息をついた。そういうことを考えたくなくてひとりで来たのに。そう思ってから、それはちがうとわかっていた。そういうことを考えたくてきたのだ。そういうことっていうのは、「わたしの日常」のこと。

 陽が落ちるとさむざむとした夜がきた。

 わたしはホテルにもどって、眠り支度にはいる。シャワーをあびて、髪をかわかしていたら、その風のなかにショーゴとわたしがいた。


 ショーゴは、仕事がおわったあと、よく出かけていった。そのまま帰ってこないこともあった。わたしは聞かなかったけれど、なんとなくわかっていた。ショーゴは両親のいる家に帰っているのだ。その家が大好きなのか、しばりつけられているのか、わたしとの毎日に嫌気がさしたのか。そのどれでもないのかもしれないし、そのどれもなのかもしれない。でも、毎日から逃げているのはわかる。わたしは、たんたんとつづくこの空間に、逃げずにとどまっているのに。

 ほかに女のひとがいるということだったら、どれほどいいだろうと思う。でも、ショーゴにそんな思いきりがあるとは思えない。

 ショーゴは、いつだって自分がどう見られているのかを気にしている。ショーゴがなにより大切にしているものは、いつだってショーゴ自身なのだ。

「チハルがそう思うなら、そうなのかもしれないね」

 わたしが夕食の支度をほっぽりだして、ショーゴを責めたら、ショーゴはそう言ってうすく笑った。そのときのショーゴは声を荒げたりしなかった。

 うまい逃げ言葉だと思う。自分はそう思ってないけれど、そう見えるなら仕方ないという、逃げだ。その日つくったパスタは、自家栽培したハーブをいれすぎて、苦い味がした。

 それ以来、ショーゴは仕事がおわってからでかけなくなった。わたしの機嫌をそこねまいとしているのがよくわかって、それがまたわたしの心をざわざわさせた。

 

 髪がすっかりかわいていることに気づいて、あわててドライヤーをとめる。

 こういうことを思いだすのは、いつも毎日のルーティンワークをしているときだ。顔を洗う、お化粧をする、食器を洗う…そういうとき。

 ベッドのよこのデスクに、このホテルの名前がはいったメモ帳がおいてある。わたしは、ガラスペンをとりだした。なにかを書きたかった。スタンドランプをつけると、ガラスの模様が万華鏡みたいにかたちをかえる。目のまえにかかる鏡は、絵画のようだった。ペン先が蠟燭の灯りのようにゆれる。わたしの輪郭が透きとおった暗闇にうかんでいた。鏡の世界はほんとうにうつくしかった。

 ああ、そうだ。インクがない。

 気がついて、ぼう然とする。インクがなくちゃ、なにも書けない。いまこの瞬間まで、インクの存在がすっかりぬけおちていたことに、思いもかけない衝撃をうけた。

 あきらめて、わたしはガラスペンをていねいにしまった。そのとき、意味のあるものにこつんと指先がふれた気がする。携帯電話だった。

 みると、ショーゴから着信がきていた。二時間ほどまえだ。

 携帯電話なんて、捨ててしまえばよかったのだ。

 でも、そんな度胸はわたしにはない。それもわかっている。これを捨てるということは、すべてを捨てるということ。こうしてひとりきりでいるわたしにとっては。

 ショーゴに電話をしてみようとも思う。きっと、ショーゴは心配しているふりをするだけだ。さも、ほんとうに心配しているかのような口ぶりで。けっきょくわたしは、携帯電話をリュックサックの奥深くにしまった。


 翌朝、レンタカーを借りた。灰青の空から、雨粒がおちてきそうだった。水蒸気でけむっているような路面を、ゆっくりとはしる。すべてが他人ごとの世界にいるわたしにとって、車の運転は危険だ。慎重になる。かめのようにゆっくりだから、追いこされる。とにかくすべての神経を集中させているから、すぐにつかれてしまう。けれど、はしることはやめたくない。

 ホームセンターで毛布を買って、近くに文房具店はないか聞いた。そのホームセンターにも文房具はおいているけれど、わたしがほしいものは、そういうものじゃなかった。商店街の一角にあるお店をおしえてもらい、そこをたずねる。インクと便箋を買った。ものがいれかわっていない、このお店のほこりっぽさがよかった。

「あんた、このへんのひとじゃないね。言葉がきれいだもん」

 おばあちゃんが、そう言ってしげしげとわたしをみた。これください、しか言っていないはずだったけれど、言葉がちがうとわかるから、不思議だ。

 おばあちゃんは気をつけてと言ってくれた。わたしが旅の途中だとわかったのだろうか。

 それからわたしは、おなかが空くまではしった。どこか目的があるわけじゃない。ただ、わたしが日常をおくっていたあの場所から、遠いところに行きたかった。

 夜は、一般道にあるパーキングにとまった。後部座席で、毛布をかぶってまるくなり、ねむった。公園の駐車場も考えたけれど、それはさすがにこわかった。ごはんは、コンビニや、イートインスペースがあるベーカリーや、チェーンのカフェのときもあったし、ラーメンや丼ぶりのときもあった。洗濯はコインランドリー、お風呂はみつけたらはいる。

 とにかくずっと、ずっと、ひたすらはしっていた。つかれて、景色をみたくなったら、道のはしに車をよせた。海岸線をはしっているときにみた、永遠にくりかえし、つづいていく波のはてしなさ。雲間をまっていく鳥がまぶしかった。山を越えたとき、見渡した町並みが、琥珀色の田園が、蒼い川の奥行きが、渓谷でみたつもる時間が……写真に残さなくても、それは残る。家の庭先で剪定をしている見知らぬひとの姿も、どこにでもあるようなチェーン店の看板すらも。

 夜は4回くらいこえたと思う。パーキングのライトから遠ざかったところでねむると、窓から星々がよくみえる。星たちはたいていなにか歌っていて、その声がきこえると安心してねむれた。小さいころに母がそう教えてくれたから、夜はこわくない。ただ、ひとりきりの夜は、せつないだけ。

 ねむるまえ、ガラスペンをとりだすこともあった。満月の月あかりは、碧く白く、ペン先をうつすのだ。いまのわたしがあの部屋とつながっているものは、もうこれしかない。そんな気持ちになった。

 

 さすがにつかれて、やっとわたしは付近のビジネスホテルに泊まることにした。今日まで、景色がめまぐるしくかわりすぎて、それをおうのにせいいっぱいで、ショーゴのことをあまり思い出さなかったのに気づいた。

 ホテルのあたたかい部屋で、ベッドにすわって、ぼうっとしていると、やっと安心できた。部屋がある。それだけでこんなにこころづよい。テレビをつけてみた。きゅうに部屋があかるくなる。ぼんやりとしていると、ショーゴの声がきこえた。


「なにしてるの」

 仕事からかえってきたショーゴが、わたしのようすをみて、言った。

 そのときのわたしは、すさまじい形相で、「禅」の本を読んでいた。禅について勉強しようと思って、とショーゴのほうを見ないでこたえた。

 ショーゴは、迷走してる、と言ってひとしきり笑ったあと、でも、と前おいた。

「それをチハルの魅力とおもうか、うんざりだとおもうか、むずかしいところだね」

 ショーゴは真剣な顔をして言ってから、また笑った。心の底からゆかいそうに。

 わたしはショーゴがなにをそんなにおもしろがっているのか、よくわからなかった。人生に迷った、そういうときは禅を勉強してみる、それはそんなに不自然なことなのだろうか。

 わたしは不思議そうにショーゴをみた。

「チハルはさ、根っからポジティブだよね」

 自分のことをどちらかといえばネガティブだと思っていたわたしは、きっとよりいっそう不思議そうな顔をしていたと思う。

「だって、どうにかして現状をかえてみようって、いつももがいてるでしょ」

 ショーゴはそう言って、着替えのために寝室へむかった。


 なんでもない日常だった。どうしていま思いだしたのだろう。でも、こういうことを思いだすときはいつも突然で、まえふりなんかないのだ。

 リュックサックの奥にしまった携帯電話にさわってみる。あれから一度もみなかった。

 ショーゴからの着信が何件かきていた。メールも。それはあまりみたくなかった。「ふり」しているメールなんて、意味がない。

 母からもメールがきている。きっとなにか用事があったのだろう。そうおもってひらくと、意外なことに、「どこにいるの」という文字がとびこんできた。わたしはおどろいてしまった。

 ショーゴくんが心配しているから連絡しなさい、という内容。

 ショーゴが母にわたしの家出のことをいうなんて、信じられなかった。だって、ショーゴにとって体裁がわるいことだから。


 礁瑚へ

 しばらく留守にします

 一週間くらいでもどります

 かならず帰ってくるから心配しないで

 千春


 あのリビングで書きあげた手紙。突然いなくなって捜索願いでもだされちゃこまるとおもって書いたのだ。

 ショーゴがいまどんな気持ちでいるのか、まるきりわからなくなって、わたしは混乱した。

 ひとはひとの見かけではない、ほんとうの気持ちを、どうしたら知ることができるのだろう。

 わたしは考えたくなくなって、シャワーをあびることにした。逃げているのはわかっていても、どうしようもない。夫のこともさっぱり信じられなくて、仕事もなくて、でもぜんぶ自分が選んだものだ。だれにも、なににも、いいわけはできない。

 わたしと世界をへだてる境界がはれて、その日常にもどることが、できるだろうか……

ベッドにもぐりこんで、ライトをけす。しんとした蠟色の夜だった。水がもれている。シャワー室の蛇口をきちんとしめわすれたのかもしれない。

 ぽとん、ぽとん。

 規則的になる音。その音が、どこか不穏な気配をよんでくる。気になって、急にこわくなった。心臓がどきどきする。

 起きあがって、カーテンをあけた。星のすがたはない。ああ、そうだ。ここは夜でもあかるい街だ。わたしは絶望的な気分になる。

 ぽとん、ぽとん、ぽとん。

 シーツにくるまって、まんまるになる。耳をふさいだ。

 知らない場所の、ひとりきりの夜が、こわい。ふと気づいて、おどろいた。わたしは、ふるえているのだ。

 からだぜんぶが、どきどきして、波うっている。

 なにもかもが急にせつなくなって、悲しくなって、孤独になって、こわくなって、鼻がつんとした。

 涙のつぶがぽろぽろとおちてくる。ほおをつたって、シーツにしみこんでいくのがわかる。冬のあいだためていたものをやっとだすことができた春いちばんの芽のような、じんわりとした涙だった。

 すぐに涙はひいたけれど、もう少し泣きたかった。涙よ、でろ、と念じてみたけれど、それは無理な話だった。

 明日、かえろう。

 まんまるのまま、わたしは誓った。

 ショーゴに会いたい。

 深い夜の闇はひとをおかしくさせる。ときに。このときのわたしも、ちいさなことに大げさにおびえて、おかしかったと思う。でも、かえろうときめたら、不思議なくらい安心できた。

 涙はこれから何回かにわけて、ゆっくりながして、きれいにしていけばいい……

 すうっとねむりにおちていくのがわかった。


 めざめると、月並みだけれど、なにもかもが昨日とはちがっていた。おそろしかった夜がうそのように、つきものがおちて、すっきりとした気分。

 これはどうしたことか。

 窓のそとは、潤色。それくらいのあかるさがちょうどいい。

 わたしはリュックサックのポケットからガラスペンをとりだした。まっさらなインクと便箋を用意する。

 ペン先にさくらの花びらがくっついているみたい。その花びらが、うすく澄んだ影をつくっていた。


 礁瑚へ

 お元気ですか


 たった数日しかはなれていないのに、おかしな文章だと思う。まあいいか、とペンをはしらせる。


 これから帰ります

 帰ったら、話したいことがあります

 聞いてくれますか

 千春


 書きおわって、まったく意味をなさない手紙だとわかっていたけれど、これでいい。ポストに投函するには封筒と切手がなくちゃいけない。めんどうくさくなって、そのまま手わたすことにした。四つにおりたたんで、リュックサックのポケットにしまう。

 今朝になって、しばらくのあいだずっとあった外との境が、ずいぶんうすくなった。もう少しで、わたしの世界をわたしの世界だと思える気がする。

 母にメールを送る。

 ショーゴにもメールを送る。

 すぐにショーゴから電話がきた。

「どこにいるの」

 普段どおりのショーゴの声がした。

 わたしは場所をこたえる。今日は仕事のはずなのに、どうしてこの時間に電話できるのだろうと疑問におもっていると、

「むかえにいくよ」

 とショーゴが言った。なんでもないことのように。

 わたしは、え、と絶句した。

「ショーゴが考えているよりずっと遠いところだよ。それに、仕事は」

「有給とったよ。たまにはいいでしょ」

 ショーゴは、支度するから、と言ってはやばやと電話を切った。

 わたしはただの箱になってしまった携帯電話をぼんやりと見つめた。本気だろうか。あの家から三百キロ以上ははなれている。

 でも、ショーゴはきっとほんとうにきてくれるだろうと思った。

 レンタカーを返さなければいけない。かなりの距離をはしってきた。お店に連絡をしてみたら、近くにある同じ系列の営業所にかえしてくれればいいとのことだった。あの距離をまたもどるのかと戦々恐々としていたわたしは、拍子ぬけしてしまう。でも、短いあいだだったけれど、いっしょに孤独をあじわってきたあの車ともお別れだと思うと、さみしくなる。買いとってしまおうか、なんて思ってみたりした。


 ショーゴは、すました顔で運転をしている。

「どこに行こうか」

 と、ひとりごとのように言った。

 ショーゴの車に乗りこんで、くつろいでいたわたしは、うとうとしかけていた。ショーゴの車は、全部の座席にやわらかなシートが敷いてあって、ひざかけがおいてある。気づかいが好きなショーゴらしい。

 お互いきちんと話さなければいけないことがある。でも、それをいつきりだしたらいいのか、わからなかった。

 車窓のむこうにショーゴとわたしがみえる。


「すきだね、そういうの」

 ショーゴが、わたしの目線をおって、なにげなく言った。

 どこかのショッピングモールで、陶器や雑貨のフェアをしていた。わたしはそのひとつのブースにくぎづけだった。ショーゴがいるのも忘れるくらいに。それはほんとうにうつくしいロックグラスだった。いくつもカットがはいっていて、まばたきをするたびに、ころころと光がかわる。色はないはずなのに、わたしには虹のようにいくつも色がみえた。そうとう高価なもの。

「そういうのって?」

 わたしがきくと、ショーゴは穏やかにこたえる。

「実用性がない、きれいなもの」

 わたしは納得する。ほんとうに、わたしがほしいと思うものはいつも実用性がない。


 あれ、ショーゴはなにかを言ってなかったっけ。ふと考えて、思いだす。ああ、どこに行こうか、と言ったのだ。

 わたしは、ねむりにつく意識のなかで、どこでも、とこたえる。

 現実と夢の境くらいにいる。それは昨日までのぼんやりとはちがって、もっとさわやかな、健康的なところ。道路のちいさな起伏でゆれる車内は、ねむりをさそう。


「はい」

 ショーゴがきれいにつつまれた細長いプレゼントをくれた。リビングでくつろいでいたときだ。ショーゴはだれかになにかを贈るのがすきだ。

 あけてみると、それはペン先が色づいたガラスペンだった。

「みてたでしょ」

「え?」

「そのペン」

 ショーゴがなんのことを言っているのかわからず、かんがえこんでいると、ショーゴがあれ、ととまどったような顔をした。

「みてなかったっけ、このあいだのフェアで」

 わたしはその場面をうかべてみる。

 ああ、そうか。わかった。

 わたしはロックグラスに夢中だったけれど、そのすぐうしろに、たしかにこのペンがおいてあった。しずかなひかりといっしょに。

「わたしがみてたのは、グラスだったよ」

 それをきいて、ショーゴはうそ、と言っておかしそうに笑った。

「ごめん、まちがえちゃった」

「でも、きれい」

「でしょ」

「うん。ありがとう」

 わたしも笑ってしまう。ショーゴのこういう優しさはほんとうに心をあたたかくする。心がすさんでいるときは、なおさら。


 急に目がさえてきた。ガラスペンはショーゴが贈ってくれたのだ。自分で買ったとばかり思っていた。もう何年もまえのことで、すっかり記憶があいまいになっていた。

 フロントガラスから見える、デフォルメされた道路がうつる。陽はもうかたむいていた。 

 こうして、時間がたって風化されていったことがいくつもあるのかもしれない。こういう大切なこと。そういうことが、いくつもあったとしたら、それをきちんと大切にとっておけたらよかった。

 突然、ショーゴが車をとめた。どこかの街のコンビニの駐車場だった。

 わたしはあまりの突然さにおどろいて、ショーゴの横顔を見る。どうしたの、と聞こうとして、声にならなかった。

 ショーゴは、ひたいに掌をあてて、ほんとうに苦しそうな顔をしていた。そんなふうな顔をするショーゴをみるのは、はじめてだった。泣きだすんじゃないかと、思った。わたしはとても落ち着いていた。

「おれだって」

 ショーゴはつらそうに、言葉をはきだした。

 ほんとうにせつなそうに。嗚咽のように。

「おれだって、かわりたいんだよ」

 空をおおっていたうすい雲は、いまやほとんどなくなっていた。それなのに、ぽつん、とフロントガラスにしずくがおちて、われた。風が、どこからか運んできたのだろう。

 ショーゴが自分と、わたしと、むきあおうとしてくれているのがわかった。

 わたしは、後部座席においてあったリュックサックをつかむ。ポケットから、おりたたんだ手紙をとりだして、ショーゴにおしつけるように渡した。ショーゴはだまって、そのみじかい手紙を読んでくれた。

 そして、ゆっくりと言った。

「チハルの話、きくよ」


初めて、今までの自分にはない書き方、文章に挑戦してみました。

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