第四十二章 悪夢の再来
第四十二章 悪夢の再来
「っ!」
「このかんじ!」
風にのってきた香りのような気配に、二人の肌が粟立った。それに連なる予感に恐怖を抱き、今宵の寝床へと駆け戻った。
「梓紗!」
「梓紗っ!」
戻ると、焚火の炎に揺らめき、火の前にたった人物がこちらに振り向く。
その振り返った人物は、確かに梓紗だった。
『遅かったな…』
しかし、梓紗の様子がおかしい。
普通なら、ありえないほど声が低いのに加え、口調が男言葉になっている。そして、人間の彼女から発されることは、決して、無いはずの妖気に、二人は愕然とした。
「お前はっ!」
「遅かったか…」
梓紗の身体で喋るのは、取り巻く全ての存在の運命を、狂わせた男だ。
「蟒之王」
『この娘、なかなか、手ごたえがあった。婀夜女鬼結之媛を訪仏とさせる美しさと強さだ。
殺すには惜しかったゆえ、少々、身体を借りさせてもらった』
目の前にいるのは梓紗であって、梓紗ではない。
彼女の肉体に、蟒之王が憑依した、ということだ。
一体、何だってこんなことに。
「梓紗…」
「傷だらけだ」
梓紗の身体は、蟒之王に乗り移られる寸前、果敢に抵抗したのか、身体のあちこちから出血している。
「常の状態であれば、これほど簡単に器の中に入ることなど、出来なかっただろう。
だが、この娘……心に闇があった。
迷いや影を背負えば、それは我の好物。容易に身体に入ることが出来た」
「…畜生っ!梓紗の身体を返せよ!」
「琭葩っ!」
怒り狂い、冷静さに欠いた弟を、冰龍が素早く止めた。
その様を愉しそうに笑いながら、蟒之王が、梓紗の唇を借りて声を発する。
それすら、二人にとっては耐え難いものだ。
『この者は連れて行く。取り返したくば、神殿へ来い。そこで決着を付けようじゃないか』
二人がそれを阻もうと、身構えたが。
『おっと、ならばこの女を殺すか?
身体が壊れれば、魂の行く場所はない。永遠に人から見られぬ、我が手の中を彷徨うだけだ』
その返しに、二人は怯んでしまう。梓紗を犠牲にするわけにはいかない
「っ!」
「!」
『お前達二人が愛する女が、この手の中で消えるところを見たいか?』
愉しげに笑う蟒之王に、反吐が出そうだ。
『それにしても、鬼結は愚かな女だった』
「!?」
『あれほど、命を犠牲にしてまで想った男が……こうも簡単に心変わりとは……悔しかろう』
「俺は!」
蟒之王の指摘に、冰龍の眸が揺らぐ。内心、彼は、かなり狼狽えていた。
『まぁ、それでも、物分かりだけは良い女だった。変わりものであったが……本当に、上手く、我の手の内で転がってくれたものよ。
鬼結も、お前も……』
「何?」
冰龍は訝しげに、首を傾げる。
『ハハ、鬼結をお前の元に送り込んだのは、我よ。我の指示で、あの女はお前の前に現れた』
「なっ!?」
冰龍は衝撃のあまり、目の前が真っ暗になる。
『そして思った通り。
お前は、あの女に魅入られ、また、あの女もお前に心惹かれた』
「何!?」
『幸いだったな。
あの女の心だけは、本物。本気でお前を愛し、本気で愛したからこそ、お前から離れた。お前を守るために』
「っ、それは…」
「長になれば、子の命は保障する。
あの女は、お前の人としての生とお前との子を守るために、我のところへ戻ってきた。
まぁ、お前が先に死ぬことを恐れてもいたが」
「……」
冰龍の心臓が、激しく高鳴った。
鬼結……
『冰龍……』
いつの日かの、優しい彼女の微笑みが冰龍の脳裏に浮かぶ。
そして、最期の姿が……
彼女は、自分をずっと守ってくれていたのだ。愛するゆえに、彼女は離れていった。
「っ!」
冰龍は自身の唇を噛みしめる。
そんな彼に、蟒之王が更なる追い打ちをかけるように、言葉を繋げる。
『仕組んだ通り、そなたは傷つき、より孤立した。
一番求心力のあるお前の心を傷つけ、戦意喪失させることこそ、乱させることこそ狙いだった。
我が傷つくのは意外だったが、あの女が死ぬことで、お前はより乱れた…』
「く…」
『そういう意味では、あの女も良い役割をしてくれた』
「っ!!」
冰龍の頭に、カッと血が昇る。
「貴様っ!俺を壊すためだけに、鬼結を、鬼結の命を利用したのか!?」
『利用も何も、あれは、我の手駒だ。
鬼結もも、雪橋も、水月も……魔物達は、皆、四天王の力を、お前達を滅ぼすための手駒に過ぎん』
さぁっと、冰龍は心臓が凍り付いたような感覚を覚え、再び、一瞬で怒りが燃え上がる。
鬼結、梔昏、雪橋………
命を散らせていった者達の顔が、脳裏に過ぎっていく。
「っ、貴様ぁあっ!」
激しい憤怒に駆られ、今にも襲いかかろうとした冰龍を、琭葩がしがみつくようにして止めた。
「兄上!いけません!
悔しいですが、あれは、梓紗の身体です!それに、あの男は兄上の心を乱させているんです」
「っ!…くっ!」
弟の指摘に、冰龍は冷静さを取り戻す。
『ハハハ、面白いな……この女もさぞ…ぐっ!』
急に、蟒之王の表情が一変した。
『な、なっ!?』
「あん…たの…思い通りには……させな…んだから」
ふいに声音が高くなり、梓紗の声が発された。彼女は、頭を両手で抱えながら、何かを振り切るように頭を振る。
「梓紗!?」
「梓紗!」
梓紗の肉体の中で、彼女の精神が蟒之王の精神と葛藤しているのだ。
必死に、梓紗は必死で抗っている。
「私は…私よ!」
『くっ!小娘の分際で……我に抗うなど!』
「覚悟し、な…さい!」
男の声と女の声を交互に繰り返しながら、梓紗は勢いよく顔をあげて、まるで決意を決めたような表情を二人に向けた。
「っ!……冰龍!琭葩!今すぐ私を、私を斬って!」
「!?」
「梓紗!」
梓紗の言葉に戦慄したのは、冰龍と琭葩だけでなく、蟒之王も同じだった。
『ば、馬鹿な真似を!』
「わ、私が…この男の魂を…縛りつける!早く!」
『何を!放せ!』
「離さないわよ!あん…たがいなくな…れば、事が進めやすくなる!あんたは、私と一緒に……地獄へ行くのよ!」
「梓紗!」
「早く!私を殺してっ!」
「っ!」
「!!」
鋭い視線を、梓紗が二人に寄せる。
蟒之王に必死で抵抗している梓紗の心が伝わってくる。
『やめろ!離せっ!』
「あんたは…
私の兄様を殺した!仲間の鬼結も殺し、雪橋を死に…追いやった!……冰龍に呪いをかけて、運命を曲げた!……あんたは、全部の仇なのよ!
だったら…私は命と交換でも、あんたを滅ぼしてみせる!」
『っ!』
「早く!早く、二人とも!……私が生きてる間は、こいつを、縛りつける…のが精いっぱいよ」
梓紗の訴えに、冰龍と琭葩は刀の柄を握る手に力を込める。
震える身体を叱咤し、刀を構えた。
「そう。冰…龍………琭…葩…一思いに」
「くっ!」
「っ…」
二人は、歯を食いしばりながら、目の前の少女に刀を向けようと、手を持ち上げる。
この手を下ろした瞬間に、蟒之王は消える。
しかし、同時に梓紗の身体は切り裂かれ、白い肌からは真っ赤な血潮が噴き出す。命が流れ落ちてしまう。
それが、ひどく恐ろしい。
梔昏に、彼女のことを託されているのに…
苦しそうな表情で、冰龍は振り上げた刀を下ろした。
「殺せない…」
「俺もだ」
力なく刀を下ろした冰龍に続き、琭葩も頭を抱えて刀を下ろした。
二人の様を見て、梓紗が疲れ切った表情で見つめてくる。
「そ……な…っ!」
一か八かといった賭けに出たのか、梓紗は自分の刀に手をかけようとした。
「やめろっ!」
それを察した冰龍が、物凄い速さで駆け寄り、梓紗の手首を握ると、動きを止める。
「は、なし…」
「お前は死なせない!」
「だけど…この…まま、こいつに身体を……乗っ取られる…な…んて」
「梓紗、絶対に救い出してやる!だから、今は安心して眠れ」
「ほ…ん……と?」
揺れ、涙目になる梓紗が、震える声で訊ねる。
懸命に冰龍は、頷いた。すぐに琭葩も近づき、安心させるように頷く。
「ああ。信じろ」
「梓紗、絶対に助ける」
「……っ!」
二人の声に、かすかに、梓紗が微笑んだのが分かった。
直後、彼女の表情が禍々(まがまが)しいものに変わる。
『良い度胸だ。我に勝つなど、ありえない』
「ふん、梓紗の精神力に圧されていた奴が、よく言うぜ」
挑発するように、琭葩が言う。
それが癇に障ったのか、蟒之王が梓紗の小刀を喉元へと持っていく。
『この娘の喉、今すぐ切り裂いても構わんぞ』
「梓紗はお前にとって、大切な人質だ。お前に手は出せないはずだ」
『くっ!面白い……待っているぞ。鬨の神殿で』
梓紗の姿を借りた蟒之王は、背後に闇を作ると、そのなかに沈むように消えて行った。
後には、煌々(こうこう)と燃える焚火と散乱した荷物、そして物悲しい静寂が広がっていた。
「ちきしょう!……俺達が目を離した隙に!」
「ここまでしてくる、というか、相手の身体に入り込む能力を持つとは、思わなかった」
「兄上、梓紗を救い出す手立ては、考えているのですか?」
「分からん。だが、やるしかないだろう。あいつを死なせるわけにはいかない」
「はい……あ!」
腰を下ろした琭葩が、唐突に声を上げた。
「どうした?いきなり」
「兄上!これを…」
琭葩が焚火の近くの草の際に膝をつき、何かを手にした。
「これ、梓紗が置いていったのですよ」
そう言って、琭葩がかざして見せてきたのは、梓紗が持っていた桃紅色の鍵だった。
「あいつ」
「蟒之王に奪われまいと必死だったんですね。なんだか、梔昏を思い出します」
「兄妹だ、血は争えん。同じように鍵を残していくなんてな」
梓紗が残していった鍵を見つめ、彼らは次なる戦いが、最も厳しいものになると確信した。
闇に包まれ、朝は必ずといっていい程、霧に包まれている鬨の神殿。先祖の土地まで繋がる道を、冰龍と琭葩の兄弟は射抜くように目をやった。
永遠のように広がる天空からは、彼らに声援を送るように星々が瞬いた。




