第四十一章 呪縛の解放へ
第四十一章 呪縛の解放へ
その夜。
梓紗が寝静まった隙を狙ったのか、冰龍は琭葩に呼び出された。珍しく苛立ちを持った表情な弟に、冰龍もいつものようには流すことが出来なかった。
「なんだ?琭葩…明日は」
「兄上、何故、梓紗にあんなことを言ったんですか?」
くるりと振り返り、琭葩は唐突に質問を切り出してきた。その内容の示すものが先ほどのことだと思い当たり、冰龍は目を反らす。
「…梓紗から聞いたのか?」
質問の上の質問に、琭葩が少し苛立ったような表情を見せたが、嘆息して首を横に振る。
「あいつが、自分から言うわけがないでしょ」
「じゃあ、なんだ?盗み聞きか?」
「壁に耳あり。まぁ、良い行いとは思いませんが、させていただきました」
「お前ってやつは…趣味悪いな」
眉根を寄せる兄に、琭葩も人聞きが悪いと顔をしかめる。
「好きでやったわけじゃありませんよ」
「それで?俺に、何の文句がある?あれは、自分の意思だぞ」
「本当にそうですか?」
探るように、琭葩の視線が向けられる。
「何?」
胸中を炙られているようで、自然と、心に波が立ちそうになる。
このところ、琭葩は随分と精神的に成熟したように思える。恐らく、梔昏の遺言に従おうとしていたのが、原因なのだろう。
それと同時に、琭葩と梔昏が被りそうにもなるのだ。
「最後まで聞いていましたよ。ていうか、見えましたよ」
「どういうことだ?」
妙な言い回しに、冰龍は首を傾げた。
兄の問いに、琭葩は腕組みをしていた右手を外して、自分の唇を指し示した。
「兄上は知らないでしょうが、俺は、読唇術が出来るんです」
「何?」
「唇さえ見えれば、大抵、何を言っているのか分かるんです。梓紗が去った後、兄上が囁いたことだって読めました」
「……」
冰龍は、微かに気まずげな表情を見せ、視線を反らした。
「どんどん、化けの皮が剥がれている気分だ」
「当たり前でしょう。兄上だって人間なんですから。ボロぐらい出なきゃ、人じゃありません」
「…お前に、そんなことを言われる日が来るとはな」
「そんなことは、どうでも良いんですよ。梓紗の気持ちに応えないのは、あなたの呪いで、あいつが死ぬと思っているからですか?」
鋭い弟の追及に、冰龍は苦笑していた表情を引き締める。
「それもある」
「それも、というと、他にも理由が?」
「お前は良いのか?」
「は?」
「兄に恋人を奪われ、何とも思わないのか?」
「思わないわけがないでしょう」
平然と、琭葩が即答する。
「まぁ、そうだろうな」
その返しを受け、ふぅっと息を吐きながら、冰龍は木に背中を預け、腕を組む。
「……俺のことを気にしてるんですか?
それなら、心配は無用です。自分を向いていない女を、いつまでも自分に繋げているほど、情けない真似はしない」
「そういうことじゃない」
懸念を否定する兄に、琭葩が僅かに眉を逆立てる。
「では、どういう?
あいつが、俺のことを見ていなくても、俺は、あいつが好きです。少しでも気持ちがあるのを、徒に傷つけるのは、兄上であっても許しがたい」
「…お前な。俺は、いつ死ぬか分からない身だぞ」
「今の俺達も一緒だ」
琭葩の言い分に、冰龍は頷く。
「確かに、今はそうだな。だが、ここから生き延びることが出来れば、どうだ?」
「え?」
「村に帰ったとして、あいつの想いを受け入れ、俺も、それに応えたとして、数年後はどうなる?俺は、梓紗を置いて逝くことになる」
「それは」
「梓紗は、九年前のことを、自分の所為だと、心に深く刻んでいる」
「あれは――…」
琭葩の声に覆いかぶさるように、冰龍が先回りして言葉を繋げる。
「あれは、俺達全員の咎だ。
だが、自責の念など、自分自身が納得しないとそう簡単には捨てることなど、出来ない。あいつがそう簡単に納得していると思うのか?」
「………」
兄の問いに、琭葩は返す言葉を見つけられないようだ。
「そんななかで、俺が呪いの結果、死んでみろ。俺の死体を目の当たりにして、あいつは、どうなる?
泣き縋るなら、まだしもだ」
「恋人を、自分の所為で死なせた罪の意識に苛まれ、壊れると?」
「なんだかんだと言っても、あいつの責任感は、人一倍強いからな。それに、色々と口には出すが、肝心なことや気持ちは押し殺して我慢する」
兄の指摘に、琭葩は認めざるを得ないと頷く。
「そうですね」
「琭葩」
「はい」
「俺は、鬼結を愛している。
それは、今でも変わりない。どうあっても、彼女の一が俺の中で揺らぐことは無いんだ」
「兄上」
「鬼結がいなくなってから、俺は二度と恋はしないと誓ったんだ」
「……」
琭葩が探る様な視線を、兄に送る。
「それでも、少しも、梓紗を想う気持ちは無いのですか?義姉上と同じような気持ちで……」
「…………」
「兄上」
「鬼結のように、愛してる……とは言えない。だが、このところ……梓紗の存在が、少しずつ、癒されるというか、鬼結に抱いた最初の想いと似ているものを覚えるときもある。
だが、それは鬼結への裏切りだとは思わないか?愛した女がいる。それを忘れられない内に、他の女に揺らぐ。そんな自分が、恐ろしいとは思わないか?」
いつのまにか冰龍は、純粋なほどにまっすぐな梓紗に対して、癒しを感じ始めてもいたのだ。
それでも、彼の中にある、鬼結の存在を消すことは出来ない。
「…兄上」
自分の心の有様に戸惑う冰龍に、琭葩が、今まで口にしなかった真実を語った。
「……兄上の混乱も分かります。でも……鬼結は…義姉上は……最期に梓紗に言いました」
「え?」
「義姉上の唇を、俺は読みました」
「何?」
『あなたになら託せる』
「―――……そう、義姉上は梓紗を見て言っていました。
声が小さすぎて、梓紗自身も聞こえていなかったみたいだけれど、俺は、唇を読めたから」
「……」
琭葩の証言に、冰龍は言葉を返せなかった。
「だから……
義姉上は、赦してくれていると思いますよ。兄上の心に、梓紗がいたとしても。そうでなけりゃ、自分の男を、他の女に託してなんていきませんよ。
そうじゃなかったら……
義姉上が、梓紗にそんなことは言いません」
「琭葩」
「だから――…」
「ん?」
真っ直ぐに、力強い光を宿した琭葩の眸、そこから発される眼差しが、ひたと冰龍に寄せられる。
「兄上の命が続く限り、あなたが生きるための力として、あいつといてやってくれませんか?
義姉上と同様に、梓紗を愛することで……」
「……」
「もしも
兄上が気持ちのどこかで、あいつを必要としているなら、少しでも、その気持ちがあるのなら……」
冰龍は、迷うように視線を泳がせてしまう。
「俺は」
「逃げるなよ!」
「琭葩」
「兄上、逃げないでくれ!前を向いて、この手に掴んでくれよ!」
琭葩が、冰龍の手を握りしめた。
「この手に掴めよ、幸せを!
それが、束の間でも、一瞬でも、在ったことには変わりないんだ!消えることはないんだからさ!」
必死に食らいつく弟の言葉に、冰龍が軽く目を見開いた。
「変わることはない…」
「そうだ。起こったことは変わらない。どれほど儚く見えても、その一瞬は、永遠なんだ!」
「……お前、上手いこと言うな」
くすっと、冰龍が穏やかな笑みを浮かべた。
「兄上」
「そうだな。自分から動いてみるか、少しは」
冰龍の言葉に、琭葩の表情に明るさが戻る。
「それじゃ?」
「ああ。だが、あいつの想いに応えるのは、無事に村に帰ってからだ。
全てが終わってから、あいつに応える。
そしてゆっくり、あいつの自責を、呪いを解いてやるよ」
「良かった!」
「お前の呪いも、な」
「え?」
首を傾げる琭葩に、冰龍が微笑む。
「あの、蟒之王とかに呪いを植え付けられたのは、きっと、俺だけじゃない。
お前も梓紗も、一生、自分を責め続けるという呪いを負わされたんだろう」
「俺達の呪い…呪い…か、確かに」
兄の言葉を噛みしめるように、琭葩は、その言葉を口にした。
そのとき、二人の間に一迅の風が吹いた。




