第三十二章 消え去りし、愛しき命
第三十二章 消え去りし、愛しき命
「……」
「なんだか、いろいろ起こるな。当たり前だが」
「そうね」
「考えてもみれば、魔物たちだって、滅ぼされるのを分かっていて、むざむざ眺めているわけないよな」
雪橋の出来事から、早くも三日がたったが、四人の心には、微かな影が落ちていた。
『人間がそんなに偉いか!?
魔物を滅びるべきだと決めつけたのは、人間の方だ!』
雪橋の言葉が梓紗は忘れられない。
今まで、人間を襲うから魔物を倒す。世の平和のために、魔物を倒すのだと思っていた。
しかし、それは人間の言い分でしかない。
魔物側からの気持ちを、今まで、考えたことなどなかった。
「冰龍と兄様は、知っていたの?」
梓紗は前を歩く二人に訊ねた。意外だったのか、冰龍達が振り返る。
「何がだ?」
「魔物側の気持ちを、冰龍は知っていた?」
「ああ」
「多少、はな」
梓紗の問いに、冰龍と梔昏は薄く微笑みながら頷いた。
「鬼結と出会う前は、理解出来なかった、あちらの気持ちも、こちらの気持ちも分かり合えた。
だから、俺は、あいつと恋仲になったんだ」
「そうだよね」
梓紗は声が沈んでしまうことがないように努めながら、相槌を打った。
「じゃあ、兄様も?」
冰龍と共にいて、鬼結とも面識のある梔昏も、冰龍同様に魔物を理解したのだろう。
「ああ」
妹を視界に映し、軽く頷いた梔昏は、少し顔を歪めながら呟いた。
「だから、なんとも複雑なんだ」
「え?」
「人が安心して生きていける世界を築こうとしている反面、こうして、着々と、冰龍の妻達を、滅ぼさんとしているようで」
梔昏の言葉に、梓紗は何も言えなくなってしまった。
傍らを歩く琭葩は、懐から緑色の玉を取り出して、それを感慨深げに見つめる。
「この鍵を使うということは――」
「琭葩?」
「義姉に当たる女を、滅ぼすことになるのか…良い気分じゃないな」
ぽつりと琭葩が言った。
弟の、その科白に冰龍が一番驚いたようだ。
「琭葩、お前、鬼結を義姉と認めるのか?」
兄の問いかけに、琭葩はどこか呆れたような笑みを浮かべる。
「…今更、それを言いますか?大体、あれほど両想いなのに、それを批判するなど、野暮でしょう」
「琭葩…」
「……」
冰龍の顔が喜びに満ちたのを見て、梓紗の胸がズキンと痛む。それを悟られまいと、梓紗は、何とか、胸の痛みに耐えようと瞼を閉じる。
そのときだ。
『では、素直に鍵を渡してはくれまいか?』
これまで聞いたことのない、重々しい男の声が聞こえた。
「っ!」
「この声、まさか…」
その声に冰龍と梔昏の表情が凍りつき、素早く身構える。二人が緊張し、どこか怯えたように身体を強張らせている、珍しい光景だ。
これは、ただごとではない、と、梓紗と碌葩も周囲に気を張った。
『…ははは。そう怯えるな…』
闇が生まれ、その中から男が現れた。
『それほどまで、恐ろしいか?我が』
黒髪、赤い眸、鬼結達のように尖った耳、二本の角に宝珠、そして目の下の隈が印象的だ。
美しいが禍々しい。
それに、発する妖力や魔力は鬼結達の倍はある。
「キサマ!……俺に、呪いをかけた…」
「常夜蟒之王だな」
「え!?」
「この男が?」
冰龍達の威嚇を、まるで、子どもを見るような視線で捉えた常夜蟒之王が笑う。
『いかにも。我が、おぬしに呪いを授けた者』
「貴様!よくも兄上を!」
蟒之王を睨み据え、琭葩が刀をかまえた。それを目の端に映した蟒之王が、鼻で笑った。
『あぁ、貴様は、我に怯えていたあの童か……随分と、成長したものだ。とはいえ、まだ青二才か』
「なっ!?貴様!」
カッと、頭に血を昇らせる琭葩を片手で諌め、冰龍は静かだが、常より、低い声音で憎むべき敵に訊ねる。
「何の用だ…俺達を殺して、鍵を壊しにでも来たのか?」
『それは我にも難しい。四天王の力が強大なのは百も承知よ……しかし、心というものは弱いもの。それを突けば、聊か、簡単と思うてな』
「心、だと?」
『そう…これが、見えるか?』
そう言って、ほくそ笑むと、蟒之王の手の上に、大きな透ける紅の玉が現れた。
「?」
「あれは」
「子ども?」
その中には、一人の男の子がいる。
眠っているその子は、黒髪と耳は普通の人間の形だが、額には、赤い三つの宝珠が埋め込まれている。
特徴から見れば、魔物とも人間とも断定できないが、とても造作の良い、かわいらしい顔立ちだ。
長じれば、間違いなく、美男になることだろう。
「その子は?」
『ふ、これが誰かを、知りたいか?』
「……」
訝しげに見つめる冰龍に、蟒之王の目が光った。
『この子は―――』
『蟒之王!』
聞き覚えのある叫び声が、その場の空気を切り裂いた。ニヤッと、微笑んだ蟒之王が、声の方へ振り返る。
『来たな』
闇が生まれ、その中から現れたのは、鬼結だった。
「鬼結っ!」
「鬼結!」
三日前、体中が傷だらけだったのが嘘のように、彼女は雪のような肌を取り戻していた。
『蟒之王。どうして…?あなたが』
鬼結は、怒りと驚愕の織り交ざった表情で、蟒之王に訊ねる。
『貴様がちんたらとしているからだ。この童を使えば、お前もこの男も、我の望み通りに動くだろう。
その麗しい貌を、苦々しく歪めながら』
『っ!蟒之王!』
鬼結の顔が歪んだ。罠にはまったとでも言いたげな表情だ。
『今からこの男に、この童が誰かを伝えるところだったのだ』
『なっ!?やめてっ!お願いだから!』
それを聞いた彼女が、あからさまに絶句する。そして、なんとか思いとどまらせようと、鬼結は蟒之王に近づいていく。
『貴様、立場を弁えよ。
この、忌々しい人の血を引く子等や、貴様が長らえているのは、誰の温情だ?』
『っ!』
余裕ありげな蟒之王に対し、鬼結は、強く出られないようだ。そのまま、歯噛みし、何かを言いたげに口を閉ざしてしまう。
『…教えてやろう。この童は――』
そのとき、玉の中にいた男の子が、目を覚ました。
瞼の下から現れたのは、紅玉のように鮮やかな色彩の赤い眸、それは、鬼結と同じものだった。
鬼結の姿を捉えて、その子は、嬉しそうに声をあげる。
『あぁっ!母上っ!母上!』
『っ!』
母と呼ぶ子どもの声に、ハッと鬼結が顔を上げた。
対して、冰龍達は瞠目した。
「何?」
「あの子は、鬼結の子、か」
「ってことは…」
「人と鬼の特徴どちらも持っている、婀夜女鬼結之媛の子どもってことは…」
一斉に、梓紗達の視線が冰龍に集まる。
「まさか…」
掠れた声を冰龍が発した。
蟒之王の言葉、鬼結の焦り、子どもの容貌、それらを合わせれば、一つの結論が生まれる。
「この子は――」
子どもを凝視する冰龍を見て、ニヤリと笑い、蟒之王が、横目で男の子を見やる。
『おぬしの考えているとおりよ。この童は、祢彅馳織之鬼龍閣。
婀夜女鬼結之媛と、おぬしの間に生まれた異端児』
「っ!?」
『蟒之王!よくも!異端児などと!』
鬼結が我が子を侮蔑され、怒りに満ち溢れた様で、蟒之王に叫ぶ。
しかし、その反応すら、彼は笑い飛ばした。
『ふん、本来なら、この異端児の命、即座に奪ってやっても良かったのだぞ?それを黙認してやったのは、どこの誰だ?
魔物や我を裏切り、人に堕ちて、子まで宿したキサマの命を長らえさせたのは、長の座まで、押し出してさせたのは、どこの誰だ?』
『……私はっ、そんなもの――』
『我が子を殺されたくなければ、鍵を奪い、祝部達の命を奪え。
翆嗚観の祝部である、そなたも、我が子の命が惜しくば、素直に鍵を渡せ。
そうすれば、子の命は保障する』
『っ、卑怯な!』
「っ!」
我が子の命を質にされ、母である鬼結の顔にも、父である冰龍の顔にも当惑と、怒りが浮かび上がる。
『どうした?鬼結、早くしないか。おぬしも如何する?』
『っ!…』
鬼結は、葛藤するように、我が子と冰龍を交互に見やっている。
『困ったな。
鬼結……我が子の死を見るか、愛する男の死を見るか?どちらも地獄だな。
しかし、我は、その顔を見たいのだ……』
『っ!』
そんな緊迫した状態に不安を覚えたのか、鬼龍が、母に向かって声をかける。
『母上?ここは、どこですか?郷では無いですよね?』
『っ、鬼龍!』
鬼結の表情が歪む。子を案じる、母、の目だ。
「……」
『冰龍…』
鬼結は微かに涙を浮かべ、拳を握りしめながら、顔を伏せる。
だが、決断したかのように顔を上げた。
『っあああああっ!』
鬼結は発狂し、僅かな時間で、本来の力を引出すと、かつての恋人である冰龍へと、一直線に向かっていった。
「――っ!」
鬼結は冰龍に攻撃し、冰龍は何とか、それを避ける。その速度が速すぎて、梓紗達は、とっさに反応しきれない。
「冰龍!」
「くっ!」
『はっはははっ!結局は、子が大切か…母の愛は強し、だな』
蟒之王が(おろちのおう)高笑いをする。
梔昏達も手を出そうにも、子どもの命がかかっているため、下手に動けない。
「っ!」
梓紗の攻撃を避けようとした冰龍が、微かに体勢を崩す。その隙を狙ったかのように、鬼結は爪を振りかざした。
「冰龍!」
冰龍が微かに表情を崩した。
もう少しで、鬼結の爪が、彼の喉を引き裂こうとする位置にまで迫った。
ガキッ、という鈍い音が響いた。
『!?』
「梓紗!?」
いつのまにか、冰龍と鬼結の間に、梓紗が立っていた。
梓紗の刀と鬼結の爪が交わる。
「梓紗っ!?」
『っ!?貴女は………どうして?』
「もう、見ているだけは嫌だから」
梓紗は固い決意のこもった紅色の眸で鬼結を見つめる。二人の女の、異なるあかい色彩の視線が、交わる。
「あのときみたいに、もうこの人だけを、戦わせたくない」
「梓紗…」
『……』
冰龍と鬼結の眸が見開かれる。
「それに、冰龍を殺したら、あなたも後悔する。あの子も、母親が父親を殺すところを見ることになるんでしょう?」
『っ!』
「っ」
鬼龍といっただろうか?まだ、小さなあの子の前で、母と父が殺し合うのを見せるのは、あまりにも、残酷だ。
『おい!鬼結!なにをしている!早く、その小娘ごとけりをつけろ!鬼龍がどうなっても良いのか』
常夜蟒之王が、痺れを切らしたのか、脅しをかけてくる。
『っ…』
途端に、葛藤し、鬼結に苦しそうな表情が戻る。
「鍵を渡すよ」
『は?』
梓紗は、刀の柄を握っていた両手のうち、左手を離して、懐の中へと持っていく。
そして、自身の預かる桃紅色の玉を取り出し、そして、鬼結の方へと差し出した。
「一つでも無かったら、きっと、秘宝は手に入らない。そしたら、あなたたちの望む通りになる。
人間は、もっと強くなって、自分達で身を守るから。
だから、冰龍を殺さないで。自分の気持ちも大切にして」
『……』
「今は無理でも、いつか、冰龍と逃げれば良い。あの子を連れて。あの子に、弟か妹、沢山、つくってあげなよ」
囁くように、梓紗は鬼結に言った。
梓紗の労わるような言葉に対して、驚いた鬼結は、大きく目を見開く。背後の冰龍からも、息を微かに呑む声が聞こえた。
梓紗の言葉に、鬼結は、淡く微笑むと意外な言葉を投げかけてきた。
『……あなた、名前は?』
「え?あ、梓紗」
『そう。梓紗、綺麗な響きの名ね…………あなたなら、託せる』
「え?」
最後の方があまり聞こえなかったので、梓紗は聞き返したが、鬼結は、それには答えずに、すぐに身体を翻し、そのまま背後へと向かっていった。
『!?』
一瞬で、鬼結は蟒之王に迫り、その爪を迷うことなく、彼へと振りかざしたのだ。
爪から光が放たれ、蟒之王の肩から心臓辺りが、鋭く斬り裂かれる。
『っ!』
驚愕のあまり、束の間、無抵抗だった蟒之王は、すぐさま、自分を取り戻し、反射的に手を振り上げる。
その手は、玉の中の子どもを狙っていた。
『鬼龍!』
それに気づいた鬼結が、迷うことなく、蟒之王の鋭い爪と鬼龍の間に、身体をねじ込み、息子が入った玉を払う。
同時に、玉がパンッと、割れた。
ザンッ!
肉と骨を切り砕くような鈍い音が、響いた。
『くっ…はっ!…』
『は、母上っっ!』
鬼龍が、悲痛な声をあげる。
『逃げ…なさい!鬼龍!』
鬼結の唇から、鮮血が漏れる。
彼女の身体を、蟒之王の爪が、貫いたのだ。深々と突き刺さった箇所からも、赤い血が迸る。
いかに治癒力が高く、致死率の低い魔物でも、これは、致命傷だった。
――― 鬼結っ!? ―――
それを見た瞬間、冰龍の心臓は凍りついた。
「き、鬼結―――っ!」
四方から彼女の名を叫ぶ声が聞こえる。
『見縊るな!』
患部を押さえながら、鬼結は叫び、光のような速さで、蟒之王に振り返ると、相手の顔を爪で切り裂いた。
それは、蟒之王の片目をも潰す。
『ぐわあああっ!おのれっ、鬼結っ!我の、我の顔を、目を!』
蟒之王は悲鳴を上げ、空間に闇を作り出すと、よろけながらその中に入って行った。
すぐさま、彼の気配が消える。
『くっ!』
鬼結は、蟒之王が消え去るまで、右手で胸を押さえながら立っていた。
そして王の気配が、完全に消えたのを確認すると、ふっと身体を揺らし、冰龍を見て微笑む。
微かに、唇が、ひりゅう、と呟いたように見える。
『……』
再び、上体を反らして、彼女は息子である鬼龍に、優しい眼差しを贈った。
『鬼…龍…』
膝をつきながら、鬼結は息子の鬼龍に、手を伸ばした。
しかし、位置は遠く、その手は届かない。
『は、はは…え…ははうえ、母上っ!』
傷つき、血だらけになった母を前に、鬼龍は、よろよろと母のいる方へと走り寄って行く。
それを目にし、ふっと鬼結は、微笑むとそのまま上体が傾ぐ。
「鬼結!」
弾かれたように冰龍が鬼結のもとへと向かい、梔昏、梓紗、碌葩も、それに続く。
「鬼結っっ、しっかりしろっ!鬼結!」
倒れた鬼結を、冰龍が、横抱きに抱き抱えた。
『冰龍…』
『母上!母上!』
『鬼龍……』
すぐそばにある夫と息子の顔を、光の弱くなった紅玉の双眸に映し、激痛が身体を蝕んでいるにも関わらず、幸せそうに頬を綻ばせた。
「どうして、俺を殺さなかったっ!?なぜ、あんな真似を!」
冰龍は震える声で半ば怒鳴るように叫ぶと、鬼結を抱く手に力を込める。そんな彼を、愛おしげに鬼結は見つめる。
『自分でも、馬鹿…だと思う。
でも、総てを無かったことに…するには、あまりにも…鮮やか…過ぎて。もったいなさすぎ…て……』
「鬼結っ!」
『嬉しかった…、冰龍…
あの、日、あなたが…私と、生きると言ってくれ…た時、凄く…嬉しかったのよ』
「っ!お前、この髪飾り」
冰龍が指摘したのは、今、鬼結の髪に飾られている、繊細で美しい造りの髪飾りだった。
赤い牡丹の花を模し、紫の蝶結びに青や赤、金の垂れ飾り。これは、かつて、冰龍が鬼結に贈った、婚姻の証の髪飾りだ。
その指摘に、鬼結はハッと目を見開いた。
『ふふ…抜かっ…たわ…ね……今回に…限って…外すの、忘れて……た』
「ずっと…持ってたのか…」
『……』
鬼結は否定も肯定もしなかったが、未だ、その髪を飾っていたのが、その答えだった。
『冰龍……あなたの…おかげで…幸せだった…家族を産めた。
私の…息子…た……』
鬼結は涙目になりながら、こっちを見ている我が子に、視線を送る。
それに倣うように、冰龍も我が子と告げられた鬼龍へと、視線を向けた。
『父上ですか?』
涙目で、きょとんとしたように、鬼龍が冰龍を見上げる。
『そう……この人が、お前の……父上』
「この子が、俺の子……鬼結!この子を、俺を置いて逝く気か!?」
『……そ……な顔、しな…で』
冰龍を見上げるように、鬼結が眼差しを戻す。そして、手を冰龍の頬へと添えた。
冰龍の肌に、鬼結の命の滴で染まった、赤い痕が薄く残る。
堪らず、冰龍は、鬼結の腕を握りしめ、そのまま、自らの頬へと押さえつけた。
『わ…たしは、幸せ…だった。
最期に、あな…たに会え、て……最期…の場所が、あなたの腕のなかで…ほんとに、し、幸せ』
「鬼結!………っ、何故、あのとき、来なかった!?」
冰龍は、涙ながらに叫ぶ。
普段は、感情を面に出さない彼が、堰を切ったように泣いている。
「どうして来なかった…お前を連れ、村を出ようとしたのは、俺の意志だ。責任を感じたから、なんかじゃない」
『冰龍…』
「正式に婚姻を結べないのなら、どこか、知らない土地で、せめて夫婦としての暮らしをしようと…お前を妻として愛し、どこか遠くで……たとえ、逃げ暮らしでも、温かい家庭を作ろうと思っていた。
そうすれば…鬼龍も」
冰龍の言葉に、鬼結は過去を顧みるように思いを馳せ、そして一度、瞼を閉じて言った。
『ありが、と…ひりゅ……でも、結局……私、怖かったのよ』
「鬼結?」
『あなた…が死んでいくの…を見るのが……どうして、も…怖かった。
命を…吸われて、く……あなたは………長い、じゅ、寿命の、魔物の私より…先に…死んでしま……そ…れが…やっぱり……耐えられ、なか…た』
「鬼結!」
『結局…私は…弱かったの…あな…た、との未来を…自分で潰してしまった…許して、あなたを裏切って……』
鬼結の声がどんどん弱くなり、気配としての妖力もどんどん消えていく。身体も、熱が引いていくのが分かる。
大切な命が消えていくことに、冰龍は、この上ない恐怖を味わう。
「鬼結、俺は裏切られたなんて思っていない。今でも、お前を愛している、大切な妻なんだ!頼む、死ぬな!」
『ずっと……あな……たを、忘れな……愛し…て…る…』
「俺も、俺も愛してる!だからっ!」
『おねが…幸……せに…な……て……』
掠れた声で、最後の力を振り絞るように、鬼結は冰龍に言う。
そして、その言葉を息子にも投げかけた。
『き、きりゅ…おま…えも…お前も、し、幸せ…におなり、なさ……』
『は、母上!……っ、死なないよね!?母上は、死んだりしないよね!』
訴えかけるように鬼龍は、周りの大人達に訊ねる。
懸命な彼の様子を目にし、梓紗も梔昏も琭葩も、死なないと言ってやりたい気持ちで、いっぱいだ。
しかし、その言葉だけは、喉が堰き止められたたように、出てこない。
『ひりゅ…私、不幸じゃ…ない。ほ……んと、よ。あな…たに、あ、会え…たこと……少…しも…後悔、してな……
幸せ…だったわ…』
「最期みたいに言うな!頼むから生きろ!」
『ごめ…な…さ……ありが…と…………あなた――…』
鬼結の眸が、最後に一瞬だけ、梓紗に向けられた。
「鬼結…」
『……』
その、穏やかで静かな微笑みは、瞼によって、ゆっくりと閉じられた。
その拍子に、スッと涙が彼女の涙が伝う。
冰龍が握りしめた手の間から、鬼結の手が滑り落ち、力なく落ちたその手は、全く動かなかった。
「鬼結…おい、鬼結!?」
『――』
瞼を下ろした鬼結は、何も答えず、冰龍の腕の中で、微動だにしない。
あの赤い眸は、二度と、煌めくことはない。
「鬼結っ、おい、目を覚ませっ!俺をからかうのはよせっ!もう、やめろっ!やめてくれっっ!」
冰龍は、何度も彼女を揺さぶるが、反応は起きず、力なく、彼女の首が傾ぐだけだ。
当然だ。既に、彼女は事切れているのだから。
「鬼結っ!」
『いやだっ、いやだぁ!母上!目を開けてよぉ!母上――っ!』
母の死を目の当たりにした鬼龍が、大声をあげて、泣いている。
「鬼龍っ!」
どうしようもない思いに駆られ、梓紗は幼い鬼龍に駆け寄り、ぎゅっと、母の亡骸から遠ざけるように、抱きしめた。
「鬼龍!」
幼子を抱きしめながら、涙する梓紗の肩を抱くように、琭葩が寄り添う。彼の頬にも涙が伝っていた。
一人、立ち尽くす梔昏も目頭を抑え、迫りくる感情をやり過ごしている。
「鬼結っ!」
「……義姉上」
「鬼結…」
どれほど、時間がたっただろうか。
いきなり、一陣の風が起こり、冰龍の腕から鬼結の亡骸を、梓紗の腕から、鬼龍が消え去った。
「!?」
「え!」
「鬼結!?」
「鬼龍!」
ハッと気配を感じ、四人が土手の方へ振り返ると、そこには、鬼結の亡骸を抱え、鬼龍を横に連れた、水月の姿があった。
『……鬼結は、こちら側の存在。俺が、彼女を一族にまで届けます』
「キサマッ!何故、今頃っ!」
遅れてやってきた水月に、冰龍が我を忘れたように怒号をとばす。
彼がいたら、この現状は、少しは変わったかもしれない。それを分かっているのか、水月も悔しそうに唇を噛みしめた。
『蟒之王に任を任され、我が故郷に戻り、持ち場へ帰ってみれば、鬼結が消えている。
仲間に聞いて、彼女の故郷に行って見れば、鬼結どころか、その子まで連れ去られたという。
何らかがあったと思って、人間界へ来てみれば、この有様……
っ、俺の手抜かりだ!』
初めて水月が怒りを見せている。それも、自分への憤り。
『…これを、あなたにお渡しします』
そう言って、水月は腕の中の鬼結の髪から、髪飾りを丁寧にとると、それを、やさしく、冰龍に投げ渡した。
「水月?」
何故だ、と冰龍が訊くと、水月は静かに言った。
『この飾り、あなたが彼女に贈ったと聞いています。どうか、持っていてあげてください。
その方が、鬼結も喜ぶ』
水月が瞼を開いたと同時に、彼の目から、涙が一滴、伝った。
『常に彼女と、共にいてやってください』
「…水月」
『……』
水月は、腕に抱いた鬼結の身体に視線を落とし、彼女を抱きしめて、頬を寄せる。
『鬼結…』
愛しげに呼ばれた彼女の名。それに、冰龍は、目を軽く見開いた。
「水月……お前も…」
『……鬼龍は、俺が隠します。どうか、この先お気を付け下さい。御免!』
そう言って、水月は鬼結の身体を抱え、鬼龍を連れたって、ふっと姿を消した。
「水月!鬼龍!」
冰龍の声が虚空にこだまし、森は静かになる。
このときだけは、いつもは心地よい静寂も、物悲しい沈黙へと姿を変えたように思えた。




