第三十一章 憎き記憶の果てに
第三十一章 憎き記憶の果てに
冰龍が水浴を終え、三人の待つ場所へと戻る途中の道に、琭葩が立っていた。
「琭葩」
「兄上」
「何をやっている?こんなところで」
「兄上に一言、言いに来たんです」
「どうした?急に改まって」
首を傾げる兄に向け、琭葩は意を決して口を開いた。
「俺は、もう子どもではありません。刀だって握るし、火縄銃だって扱えます。兄上よりは劣りますが……俺は、守られるだけでは嫌なんです!」
「……」
必死に言い募る弟の言葉を、冰龍は黙って耳を傾けている。
「俺も梔昏と共に、あなたを守りたい。
梔昏からも聞きました。あなたが呪いから、俺達を守ろうとしてくれたように、俺も、呪いからあなたを少しでも守りたい!」
琭葩の声は緊張で上ずっていたが、目には、かつてない力が宿っていた。
「だ、大体!兄上は、一人で抱え込みすぎます!そしたら、解決手段なんて、一つしか見つからないじゃないですか!
俺達が力を合わせれば、あと三つは、増えるかもしれないんですよ!」
冰龍が目を見開き、すぐに、ふっと口元を緩めた。
「嘘つけ」
「は?」
兄の返しに、琭葩が首を傾げる。
「一言どころか、二言三言は、言ってるぞ」
「あ…」
だが、冰龍は琭葩の申し出を聞いて、嬉しそうに笑っていた
「ふ…生意気言いやがって。
今まで、俺の言うことに従っているしかしなかったガキが、なかなか言うじゃないか」
冰龍は、微笑みを浮かべながら、弟に寄せる兄の余裕を見せる。
だが、その口調や眸には、どこか安堵したような感情が宿っている。
「当然です」
「…?」
琭葩が胸を反らせて言ってのけた
「俺は、あんたの弟なんだ」
「…随分、男になってきたじゃないか」
そう言って、冰龍が琭葩の前髪をつんと引っ張った時だ。
「っ!?」
「っ!」
風にのって現れたかように、突如、その妖気は現れた。
「この気配は…」
「弥獲廼雪橋…」
『お察しのとおりだ』
声が聞こえたと同時に、闇から現れた雪橋が現れた。
ひどく気が立っているようで、いつもの、余裕のある高飛車な雰囲気が、一切欠落し、怒り一色に染まっていた。
『今回は、無駄口はきかないぜ』
そう言った途端、雪橋は一気に鬼の本性を露わにし、冰龍に襲いかかってきた。
今日の彼は、以前のように、常に周囲に気を配りながらの攻撃ではない。ただ、一心に、的だけを狙っている。
そして、その的は、冰龍…
その速さと威力は凄まじかった。
とはいえ、それで遅れをとる冰龍ではない。化身になるほどの、精神集中の余裕はないが、力の一部を解放し、雪橋に対峙する。
『ちょこまかと動き回りやがって!さっさと、くたばれ!』
「だったら、まず、お前の方だな!」
琭葩が雪橋の背後に回り込み、彼を蹴り飛ばした。
『っ!』
「俺の存在を忘れていたみたいだな。俺への注意は、隙だらけだったぜ」
『畜生!』
雪橋はまるで狂ったように爪を振るい、氷の息や雪を生み出しては、周囲のものを凍らせている。
冷静さを事欠いた雪橋の様子に、冰龍も琭葩も少なからず当惑した。
力の威力は進化しているが、その戦法は逆に、その怒りに支配されて、周囲が見えなくなっていることで、退化しているように思える。
「兄上、こいつ、なんだか様子が」
「ああ。俺も感じた…おい、雪橋っ、一体どうしたんだ!?」
冰龍の問いに、雪橋は怒鳴った。
『煩い!黙って、塵と化し、消えろ!』
「動くな!」
唐突にその場の空気を切るように、凛とした声が響き渡る。
『っ!?』
「梔昏」
「梓紗」
気配を感じてか、梔昏と梓紗も駆けつけてきたのだ。四対一、という、完全なる不利な状態に雪橋は陥った。
鋭い睨みを利かせ、彼らを威嚇する雪橋に、梔昏は冷静に逃げ道を諭す。
なんというか雪橋は、高飛車で傲慢な態度をとってくるが、彼は、鬼結や水月を全力で慕っており、魔物への強い思慕を抱いているのが感じられるゆえに、敵ながら、憎めない存在だったのだ。
「雪橋、命が惜しくば、今すぐ逃げろ。それとも、この場で始末されたいか?」
「…一体、どうして、こんな無謀な真似を」
『黙れっ!』
しかし、二人の言葉が癇に障ったのか、激しい恫喝が響き渡る。雪橋は、憎々しげに冰龍に振り向いた。
『キサマがいるからだ!』
「は?」
『キサマさえいなくなれば、鬼結は!キサマがいるから、あいつは迷う!蟒之王に痛めつけられる!』
「何!?」
鬼結の話題をいきなり出され、冰龍は敏感に反応した。
「鬼結が、どうかしたのか!?」
『キサマに止めを刺さなかったがために、蟒之王に拷問を受けてるんだっ!』
「鬼結が!?」
冰龍の顔が、狼狽で蒼白になる。
『だから……キサマが死ねば、あいつはっ!』
雪橋がさらに激昂すると、急に、光が彼を包んだ。
薄紫の髪が、急速に銀色に様変わりし、頬に金色の古代文字のような紋様が現れ、眸が金色に凄まじく光り輝き、まるで、牙をむくように、獣のようになる。
いつものように変化を遂げた姿とは、明らかに形相が変わっていた。
「雪橋!?」
美しかった雪橋が、今は恐ろしい鬼の姿だ。
しかも、どうやら、激情によって思考を支配され、半ば、暴走しているように見える。
『キサマらっ、まとめて滅びろ!』
雪橋は叫ぶと、周囲全てを凍らせるように吹雪を発し、同時に大量の氷の刃を繰り出した。
「「「「っ!!」」」」
四人は巧みに立ち回りながら、氷の刃を刀で叩き落とす。
『人間が、そんなに偉いか!?魔物は滅びるべきだと決めつけたのは、人間の方だ!』
「……」
「なっ!」
「え?」
「……」
雪橋の血反吐を吐くような叫びが耳に届き、攻撃を避けた四人はハッと動きを止める。
「共存を選ばず、俺達の先祖を、世界の端へと追いやったのは、全て人間だ!』
雪橋の言葉は、乾いた土に水が沁み込んでいくように、彼らの心に広がっていった。
『だから、魔物(俺達)は人間を襲う!魔物(俺達)は人間への怨みは、忘れない!
キサマ達が恐れるのは、全て、キサマ等の先祖の愚行のせいだっ!』
まるで、心のすべてを吐露するように、雪橋は叫んで、爪をさらに伸ばして一降りする。
『お前だけは許さない!俺達の鬼結の心、魂を、お前は奪った!あれ以来、あいつは抜け殻だ』
四人が避けたと同時に、凄まじい速さで雪橋は冰龍を狙った。
「冰龍!」
「兄上!」
「冰龍っ!」
梔昏や琭葩、梓紗も雪橋に向かうが、彼は、素早い動きで他を寄せ付けない。鬼としての本能しか残らなくなった彼には、余計な動きはもうなかった。
『お前さえいなければっ!お前さえっ!!』
「くっ!っ!」
雪橋は、冰龍を確実に追い込んでいく。
そして、追い詰めた冰龍に止めの一撃を加えようと、彼が腕を振り上げたときだ。
『――っ!』
雪橋の動きが唐突に止まった。冰龍は驚いて、彼を見やる。
「?」
『う!ぐああああああっ!』
急に雪橋が、胸を押さえて苦しみだした。そして、徐々に、強大な妖力が消えていく。
「雪橋っ!?」
「い、一体どうしたんだ!?」
急に絶叫し、悶絶する相手を前に、四人が成す術なく当惑していると、彼の名を叫ぶ声が響いた。
『雪橋――っ!』
『雪橋っ!』
それは水月と、彼に抱えられた鬼結だった。
雪橋の言ったように、鬼結の身体には拷問の痕と思しき、傷が幾つもある。
とはいえ、治癒力の高い魔物の身だ。既に、その傷はかさぶたとなっているのだが。
『っ!!』
彼らの声が届いたのか、雪橋が胸を押さえたまま、まばらな意識のなかで、探すように視線を巡らせる。
『鬼…結?す、水…月?』
『雪橋!』
『…雪橋』
苦しげな声で、雪橋は仲間の名を呼んだ。
そして、苦しむように胸を押さえていた両手の内、右手を、鬼結達の方へと伸ばす。
『鬼結……』
『雪橋、動いては駄目よ!』
『今行くから、動くんじゃない!』
『…鬼結!』
雪橋の手が、ガクッと力尽きたと共に、彼の眸は元に戻る。
しかし、そのはすぐに閉じられ、彼の身体が後方へと傾いだ。
『雪橋っ!?』
雪橋は、そのまま力なく、地面へと倒れ伏した。
『雪橋!』
『う、嘘だろ…』
悲鳴をあげた鬼結と水月が、倒れた雪橋のもとへと駆け寄る。
仰向けに倒れ込んだ雪橋は、上から覗き込むように駆けつけた二人を、焦点の定まらない眸に捉えると、ふっと笑った。
『す、水月……鬼結……鬼……結』
震える手を懸命に鬼結の方へ伸ばす。雪橋のその手を、鬼結はしっかりと握った。
『しっかりしなさい!雪橋』
『雪橋』
『お、俺の一族を……ゆ、雪鬼……達を…頼む』
『何を言っているの!?雪鬼の長は、あなたでしょう!』
『水…月…』
雪橋が水月に呼びかけた。
感情の揺れを、冷静に耐えようとする水月が、首を横に振る。
『もう喋るな。雪橋』
『鬼結を……守れ。魔物達…を…守れ!』
『雪橋!』
水月に言葉を託すと、雪橋は、今度は鬼結へ視線を向けた。
『鬼結…俺はおま…え…を……――』
しかし、そこで、雪橋は力尽きた。そのまま、彼の手が鬼結の手から滑り落ち、金色の眸は固く閉じられる。
『雪橋!?』
『おい、雪橋!』
雪橋は、黙ったまま、眠るように目を閉じている。
『っ…起きて!雪橋っ!?』
鬼結は泣きながら、雪橋の頬に触れる。
水月もいつもの彼らしくなく取り見出し、相棒の肩を強く揺さぶる。
『雪橋!おいっ、目を覚ませ!』
『お願い!起きて!』
彼らは懸命に呼びかける。
しかし、既に魂のない雪橋の身体は、いつもの高飛車な返しはおろか、微かな反応も示さない。
雪橋が、あれほど守ろうとした鬼結の声も、親友である水月の声も、もう彼の耳に届くことはない。
『雪橋っ!お願いだから……目を覚ましなさい。命令よ!』
『…雪…橋!戻ってこい!雪橋!』
敵の前だというのに、構わず仲間の亡骸に縋り、悲痛な声をあげる彼らを、四人は茫然と見やる。
「鬼結…水月」
「あんた達…」
魔物同士の間の絆は希薄なものだと思っていたが、彼らの悲痛な声や様子を見る限り、彼らの間には、強い心の結びつきがあったのだと感じさせられる。
「どういうことなんだ?」
「何故、雪橋はあんな急に」
「分からない」
「……」
呆気にとられる四人に、涙を拭きとりながら、顔をあげた水月が答えた。心なしか、彼の声は震えている。
『我らの魔力、妖力…力のある魔物程それは強大です。しかし、同時に、その力に踊らされることもあるのです』
「え?」
『魔物が、己が力の威力を上げるには、徐々に、身体をその力に対応できるよう体内で組み替えていくのですが、それを待たずに、力を引きだしてしまえば……
器は、その強大な力に耐えられない』
水月の説明に、梔昏が訊ねる。
「人間で言う、過労死か衝撃死ということか?」
梔昏の分析に、水月は頷いた。
「似たようなものです。だいいち、己の極限にまで力を持っていくことは、ただでさえ、命の危険と隣り合わせだ』
「つまり……この男は、その、自滅した、というわけか?」
『ええ。
それも厄介なことに……肉体の内部を整えずに力を引きだせば、正常に引きだしたときとは違い、力を引き出す直前の感情に支配され、自制も殆ど効かなくなる。それは、こいつも十分に心得ていたはずなのに』
『雪橋…』
それまで静かに雪橋を見つめていた鬼結が、ゆっくりと声を発した。
『雪橋…私のせいなの?』
自身を責める言葉を紡いだ鬼結に、ハッと水月が振り返る。
『鬼結?』
『私が、心を決められなかったから、なの?』
『何を言っているのです?鬼結』
水月の言葉は、まるで、聞こえていないかのように、鬼結は放心した顔のまま、立ち上がる。
『………分かったわ。それが、あなたの望みなら』
そう呟いた途端、鬼結は力を解放した。
髪が銀に染まり、角が生え、頬には逆三角の赤い紋様、そして、瞳が淡く輝く。完全なる、鬼としての姿だ。
しかし、その瞳には自我が残っている。
雪橋とは異なり、鬼結は黙っている最中に、その体内を組み替えていたようだ。
『鬼結!いけない!!力を上げすぎだ!』
水月が制したが、既に鬼としての力を最大限に引き出した鬼結は、迷うことなく冰龍に襲い掛かった。
「っ!?」
「冰龍!」
『鬼結っ!』
完全な鬼と化した鬼結は、常以上に素早い動きを駆使し、冰龍を追い詰めていく。
「鬼結!本気か?」
冰龍の問いに、鬼結は爪の一振りを返す。
「それが、答えか?」
『もう、私は迷ったりしない!』
「……」
『迷えば、雪橋のような末路を辿る仲間も出る!それを防ぐためにも、その迷いを絶つ!』
「鬼結…」
『自力では、どうしても消せない。だから、あなたを消す!』
冰龍への想いと、死した雪橋への罪悪感と良心の呵責の末に、鬼結が決断した道だった。
それを感じとった冰龍も。決意したように頷く。
「分かった…
それが、お前の気持ちなら、俺もそれに応える」
冰龍も自らの神力を解放し、狼の姿になった。
彼が神の化身の姿を待ってから、鬼結は、再び攻撃を開始する。火花が散るような攻防が、繰り広げられ始めた。
「兄上、助太刀を!」
琭葩が力を解放し、緑蛇の姿に変わろうとしたのを、青狼と化した冰龍が厳しい声音で制した。
「手出し無用だ!」
兄の命令に、琭葩はハッと動きを止める。
そのまま、かつて夫婦の契を交わした恋人同士は、激しい命の奪い合いを繰り広げた。
彼らが命のやりとりをするのは、これが二度目だ。その激しさが激しいほど、お互いへの気持ちが、どれほど強いのか窺える。
『っ!』
ある瞬間、鬼結の動きにムラが出た。その一瞬の隙を見逃さず、冰龍が襲いかかり、その喉元に噛みつこうとした。
『鬼結!』
『冰龍!』
二つの声が轟く。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
冰龍と鬼結が戦っていた場所には、いつのまにか、水月と梔昏が立ち入っていた。
水月は、狼姿の冰龍の喉に爪を、梔昏は、その水月の喉に刀を突きつけている。四人の静止図は、まるで、一つの絵のようだ。
「今すぐ、その爪を下ろせ」
『斬っても構いませんよ。そのかわり、あなたの御親友も、一瞬で死ぬことになりますが』
「………そうなれば、俺が鬼結を殺める。彼女を守りたければ、素直に下ろすんだな」
『…心優しいあなたにそれが出来ますかね?』
「やるさ…」
『…でしたら、そちらの青の君に申し上げてください。彼が鬼結を離さない限り、俺は動きませんよ……俺も、あなたと同類ですから』
スッと、静かな眼差しが水月から梔昏へと発された。主、大切な将を守る臣下としての志。
目の前の水鬼が、自分と同じ目をしていると梔昏は悟った。
「……冰龍。よせ」
水月の思いを汲みとった梔昏は、彼から冰龍へと視線を動かし、落ちついた声で親友を諭す。
「今、こいつらを殺せば、魔物全軍との正面衝突は避けられない。神殿に赴く前に、秘宝を持ち帰れなくなる。得策じゃない」
「……」
「俺達のことだけじゃない。村が襲われたらどうする?」
冰龍は噛みつかんとしていた口を閉じ、素直に鬼結の上から退くと、すぐさま人間の姿に戻る。
「お互い、命拾いをしたな…」
ふっと冰龍は呟く。
『鬼結…』
近づいた水月に、鬼結は立ち上がると同時に、彼の頬を平手打ちした。
『っ』
『余計な真似を……』
静かに怒りを燃やす鬼結に、水月はすぐに謝罪する。
しかし、釘を押すことも彼は忘れなかった。
『すみません。
しかし、今回は俺達に勝機は薄かった。雪橋だけでなく、あなたまでが死んでしまっては。』
『…っ』
その次を口にすることはなかったが、彼が言わんとしていることを悟った鬼結はハッと目を見開いた。
『そ、そうね…ごめん』
鬼結は落ちつきを取り戻し、水月に謝罪する。
「鬼結…」
冰龍の問いに、鬼結がのろのろと振り返る。
「俺は、お前を殺したくない」
『冰龍…』
鬼結の力ない眸が、軽く見開かれた。
しかし、すぐに、その赤い眸に冷静な光が宿る。
『私も同じよ。
だけど、真の意味で、人か魔物か…どちらかに、という事態になったら、話は別だわ』
「だったら、誰にも譲らない」
『冰龍』
「そんな時が来たら、俺の手で、お前を殺す。殺して、永遠にお前を俺のものにする」
鬼結の目が、さらに見開かれる。彼女は切なげに微笑むと、唇を開いた。
『…同じ言葉を、あなたに』
「ああ」
『水月。雪橋を連れて帰るわ』
『はい』
水月は、横たわっている雪橋の亡骸をそっと担ぎ上げた。力の強い魔物は、死んですぐには、砂塵となって消えない。
死ぬ直前の力の消耗具合で、時間が流れてから、やがて溶けるように灰となり、消えていく。
そして、残されるのは、額の三対の宝珠のみ。
『近いうち…また、あなた達と相見える』
『それでは…』
大事そうに雪橋の身体を抱えると、白み始めた空の光のなか、彼らはいつものように、不自然に浮かんだ闇の中に、消えていった。
雪橋の死。
相手は、敵にも関わらず、四人の心中は言い表せない哀しさが残っていた。
「……」
「雪橋…」
「あの男、命を捨ててでも、鬼結のために、お前を殺したかったんだろうな」
梔昏の言葉に、冰龍は頷いた。
普通に考えれば、狂気の沙汰としか思えない。歪んだ表現にも思えるが、彼にとって、それが唯一の、鬼結を正気に戻すための方法であり、想いの表現だったのかもしれない。
そして、これは…これだけは、真実だろう。
「あの男も、鬼結を愛してたのか…」
冰龍は空を見上げた。
自分と同じ女を、名実共に、命を懸けて愛した男の末路を目にし、敵ながら、冥福を祈らずにはいられなかった。
「安らかに眠れ……弥獲廼雪橋」
冰龍は瞼を閉じ、祈るように呟いた。
「…………」
そんな冰龍や兄の言葉を聞き、先程まで雪橋が横たわっていた草原を見やり、梓紗の胸は悲しみに疼く。
もう、沢山だった。もう、誰かが、誰かを強く思ったがゆえに、身を滅ぼしていくなど、もう見たくない。
そして、それは、梓紗だけでなく、他の三人も同じ。
しかし、そんな彼等の願いは、脆くも破れることになる。
だが、今ここにいる誰も、そのことは知らない。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
『このままでは終われぬ。あれを、使うか……ふっ、良い絵が見られそうだ』
低い声が、彼らの聞こえない場所で、密やかに漏らされたのだった。




