第一章 閉ざされし門
第一章 閉ざされし門
「梓紗!」
「碌葩。おはよう」
朝餉を済ませ、梓紗が村を歩いていると、後ろから琭葩が声をかけてきた。
「琭葩、どこに行くの?」
梓紗の問いに、琭葩は顔で、村の奥に立っている神殿を示した。
「兄上のところだ」
「冰龍の?」
「ああ。梓紗も行くか?」
「そうね。久しぶりに」
琭葩の言葉に、梓紗も頷いた。
村から出て、三人が魔物に襲われたあの日から九年後。
梓紗は十六、琭葩は十八歳を迎えた。
年頃の娘に成長した梓紗は、村でも評判の美女と謳われていた。
麗しい顔立ちは然ることながら、後頭部で一つに括った長く豊かな黒髪、新雪のような白く肌理細やかな肌、桜色の唇、大きな黒曜石の色合いの眸は、常に男達の目を引いた。
琭葩の方も、随分と背が伸びて、村の他の青年達と比べても、長身になり、戦士として逞しい身体を手に入れている。
元来、精悍で整った顔立ちは、大人になるにつれて、いっそう雄々しさが高まっていた。
琭葩は、自身の刈り上げた髪に、手を這わせながら、何かを考えるように梓紗の隣を歩く。
吹いてくる、優しい風が、彼の長く伸ばされ、左右で一つずつに束ねた横髪と、一つに括った背中の中程まである襟足を、ふわりとなびかせる。
「あ、碌葩様と梓紗様よ」
「また、お二人でいるのね」
「仲が良ろしいこと」
「目の保養ね……」
村で畑仕事をしていた娘達が、顔を上げて、二人を見ている。
その視線を感じ、梓紗は少々恥ずかしさを覚えた。
琭葩は族長の息子。梓紗は族長の姪で、二人の間柄は、従兄妹同士だ。二人とも、由緒正しい血統であるため、村の中では立場が上の存在である。
そのため、敬称を付けて呼ばれ、自然と人々の目を引くのだ。
加えて、二人は、三年ほど前から恋仲として付き合っている。
それ以来、村の中では彼らが通る度にこのような視線が送られるのだ。
「やっぱ、慣れないな」
「そうね」
互いに照れながら、視線を交わらせる。
そしてそのまま、微妙な距離感のまま道を歩いた。
「…にしても、兄上。大丈夫かな」
「冰龍がどうかしたの?」
「ああ。このところ、あまり食事を召し上がっていないみたいで」
「え!」
「三日前にお会いしたとき、前よりも、やつれておられた」
成長に伴い、琭葩は兄である冰龍にきちんと敬語を使い始めた。
民草は勿論のこと、族長の血統を引く真耶族男子は、例え、一つ違いの兄弟でも、血縁者でも、目上の存在に敬意を重んじる。
琭葩もそれに漏れず、年下の梓紗には砕けた口調になるが、兄である冰龍や父、伯父達には敬語を話す。
例外といえば、敬語はよせと念を押し、親しくしている梓紗の兄の梔昏ぐらいのものだろう。
「冰龍が…どうして」
「…さぁ、よくは分からない。多分、何かお考えあってのことなんだろうが、弟の俺でも解せない。昔は――」
「琭葩?」
「いや、なんでもない」
言い淀んだ琭葩に、梓紗が顔をあげる。すると、彼は何かを誤魔化すように首を横に振った。
「……」
腑に落ちない思いを抱きながら、梓紗は、琭葩に続き、軽口の世間話をしながら先を急いだ。
そうこうしている間に、二人は神殿に着いていた。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
神殿は巫女がいつも待機しており、神聖な雰囲気が常に保たれている。
「琭葩様、梓紗様。おはようございます」
二人が神殿内に入っていくと、ちょうど、角から出てきた若い巫女が近づいて
「あぁ、おはよう、紗那」
「おはよう」
紗那と呼ばれた巫女が、二人に奥を示しながら口を開く。
「梔昏様がおいでです」
「梔昏が」
「兄様が?」
二人は顔を見合わせた。
「今日、朝から姿が見えなかったのは、冰龍のところにいたからなのね」
「そうだったのか?」
「ええ。出かけると言ったきり、姿が見えなくて」
「まあ、頷けるな。梔昏とは兄上の見舞いに来たときによく一緒になっているから」
「そうなの!?」
びっくりして思わず声が大きくなる梓紗に対し、唇の前で人差し指をたててみせる琭葩はあっさりと頷いた。
「ああ。お前と違って、梔昏はしょっちゅう、兄上に会いに来てるぞ」
「っ、なんか、私が薄情みたいな言い方ね」
「そういうつもりはないが」
「そういう言い方じゃない」
つんと顔を反らして、梓紗は歩を速める。
それに合わせるように、琭葩も続く。紗那の前を通り過ぎながら、琭葩はぽんと紗那の肩を叩いていく。
「ありがとうな。紗那」
「いえ」
そのまま、琭葩は先へとずんずん歩いていく梓紗を追った。
「おい、梓紗」
「知らない」
軽い口論を続けながら、神殿内を歩いていると、奥の間が現れた。
~・~・~・~・~・~・~・~
冰龍は九年前のあの日から家を出て、ここに住んでいる。あまり、村に出ることはしないため、竹林のような作りにしてある庭もある。
父である彪牙が、息子、冰龍のために築いた別宅のようなものだ。
奥の間の一室を他の空間から隔てている、見事な刺繍の簾を捲って、琭葩は声をかけた。
「おはようございます、兄上」
「冰龍、おはよう」
琭葩の後に続いて、梓紗も簾を捲りながら中に入る。
まず、床に敷かれた円形に織られた敷物の上に座る、腰まで伸びた、長い髪を持つ男の後姿が見えた。
彼は梓紗の兄で、四人のなかで、一番、年嵩の二十四歳の青年だ。
真耶族、全軍精鋭部隊の副将と参謀をつとめる。
その才能と美丈夫ぶりから、ぜひ、娘を嫁にもらってほしいという声が後をたたないくせに、未だ独身でいる。
「あぁ…」
長い黒髪を、ゆったりと背中でまとめた兄の後ろ姿がスッと動き、こちらに向き、端正な顔が露わになる。
「琭葩…おや、それに珍しい。梓紗も来たのか」
「おはよう。梔昏」
「兄様、朝からいないと思っていたら、ここにいたのね」
「ああ」
梔昏に近づきながら、二人はこの部屋の主である冰龍に呼びかける。
彼は、窓のさんに背中を預け、腰を下ろしていた。
「兄上」
「冰龍」
「……」
冰龍は、呼びかけに答えず、外を向いたまま、こちらには振り向かない。
「兄上」
「……」
二度、琭葩が呼びかけて、冰龍はやっとこちらを向いた。
その顔の上半分は、目の部分を除いて、銀色の仮面で覆われている。
今や、二十三歳の青年に成長した冰龍の顔には、蛇の如き、複雑な形の黒紫色の痣があるらしい。
それは、九年前に魔物に襲われた時についたものらしく、人の力で治すことは出来ないと大巫女は言っていた。
彼がその痣を受けたとき、梓紗は気絶していたが、目覚めたときには、既に彼は寝台の上に寝かされていた。
気絶しながらも、苦しそうに呻く冰龍は、顔を含めて、ほぼ全身を包帯で巻かれており、周囲では、魔を祓うための清めの儀式が行われていた。
そして、六日目。
彼は、やっと目を覚ましたのだ。
「なぜ、来た?」
冷たく抑揚のない冰龍の声が漏れる。
九年前のことを回想していた梓紗は、その声で、現実に引き戻された。
「……」
冰龍の仮面の二つの穴から、蒼みがかった黒い眸が窺える。
強く、冷たくも熱くもあるような光がそこには宿っており、思わず、梓紗はその眸にくぎ付けとなる。
その目で見られるだけで、射殺されるのではないかと恐怖も感じるが、それ以上に魂の底から魅入られてしまうほどに気になって、目が離せなくなってしまう。
今回もそうなりかけたが、冰龍の声のおかげで、その誘惑から解放された。
「冰龍」
「兄上…」
冰龍は、弟と従妹に対し、以前からは、想像もできない態度を向ける。
「何度、言わせるつもりだ?ここへは、来るなと言っているだろう」
「ですが、梔昏は――」
「梔昏は別だ。わけが違う」
うんざりしたように、冰龍は顔を背けながら碌葩に言う。そんな彼の対応に、梓紗は、思わず、眉をひそめる。
「分かったら、早く帰れ」
「ちょっと冰龍、その言い方はないんじゃない?琭葩は、冰龍を心配して――」
「いらない世話だ」
怒って声を荒げる梓紗に対し、冰龍は苛立ったような声で、釘を刺すようにただ一言答えただけだった。
それに対し、梓紗はカッと頭に血が昇る。
「な、何よ、それ!兄様もなんとか言ってよ!」
「……」
兄の梔昏はというと、ちらりと妹の顔を見る。
しかし、彼は、何も言わずに、なりゆきを見守っているだけだ。
「なんなのよ!兄様まで!……冰龍、あなた、いい加減に――」
「梓紗」
しかし、言いきる前に、琭葩が梓紗を止めに入る。
「でも、琭葩」
「いいんだ」
「……」
当の本人に制されてしまっては、何も言うことが出来ない。仕方なく、梓紗は引き下がった。
「大丈夫だよ」
「…分かったわ」
冰龍の言いように腹を立てる梓紗をなだめながら、琭葩が、今度は兄に向って口を開く。
「兄上。また、朝餉を召し上がらないのですか?」
琭葩の指摘にハッとすると、梔昏と冰龍の間には、お盆に置かれた粥と漬物、もぎたての果物が盛られている。
しかし、それは運ばれてから、随分とたっているようなのに、匙の一つもつけられてはいなかった。
「……関係ないだろう」
「関係あります!」
琭葩は、梔昏の脇を通って冰龍に近づくと、腕を掴んだ。
「ほら、以前より、ずっと痩せておられるではありませんか!」
「放っておけ……」
「放ってなんておけません。兄上、少しでも構いません、どうか、召し上がってください!」
「いいから離せ」
冰龍は静かに、且つ、突き放すように琭葩に告げる。
その名のとおり、冰のような、彼の感情のろくに込められない声音と言葉を聞き、琭葩は、仕方なさそうに手を離す。
「兄上……お願いします」
それでも琭葩は、なお食い下がるように頭を垂れた。その様に、冰龍は無言で弟を見つめている。
そんな兄弟のやりとりに、梓紗は、更に、火に油を注がれたような気分になる。
「冰龍!琭葩が頭を下げているのよ」
冰龍が梓紗へと視線を送る。
その冷たい眼差しに、ひたと正面から見据えられ、流石に、梓紗も背中に冷えたものを感じてしまう。
それほどまでに、冰龍の仮面の奥から見せる眼光には威力があった。
「………はぁ、分かった」
嘆息と同時に、冰龍は目の前に置かれていた粥を匙ですくって、口に入れる。
だが、彼は器に入れられた粥の三分の一ほどしか食さず、残りは下げるように言った。
「これだけで良いのか?」
「ああ」
「…相変わらず、食の細い奴だ」
嘆息し、梔昏はその盆を持って室を出ていった。そのまま冰龍は再び窓の外へと視線を移す。
「兄上」
「琭葩…何度言えば分かる?
ここには来るんじゃない。俺の心の平穏をそれほど乱したいか?」
「そんな!」
「冰龍!」
「さっさと帰れ…もうここに近づくな」
とうとう、怒気を含んだ冰龍の命令が、二人に突き付けられる。最初から喧嘩腰の冰龍の態度に、梓紗は勢いよく立ち上がった。
「分かったわ!もう金輪際、来ないわよ!琭葩、行きましょう!」
「おい、梓紗……」
梓紗は冰龍から顔を背けると、そのまま簾を捲って、室から出て行った。
置いていかれた碌葩は、兄と、恋人が去って行った方を交互に見やったが、やがて後ろ髪を引かれるような表情で立ち上がり、出口へと向かっていく。
「また、来ます」
「……」
冰龍はなにも返さなかったが、琭葩はそのまま頭を下げて兄の私室を後にしたのだった。