第二十一章 呪いの真実
第二十一章 呪いの真実
冰龍は先ほど、鬼結と会話をした場所に戻り、一人、物思いにふけっていた。
そして、おもむろに刀を抜き、その鋭い側面を月の光にかざす。
「……」
すぐさま空を切ると、何度も刀を振るい、さまざまな技を極めていく。まるで、月下の芸術のように、美しい剣舞だった。
「ここにいたのか」
「梔昏」
独りで入ったはずの森の中、声をかけられ、一瞬だけ動きを止め、冰龍はその方向を見た。
いつのまにか、梔昏が目の前に立っている。
冰龍は、彼を一瞥すると、そのまま、再び剣舞へと意識を集中させる。
そんな冰龍へ近づきながら、梔昏が訊ねた。
「何故、一番大切なことを省いた?」
冰龍は動きを止め、刀を握った手を下げる。
「……」
彼は、溢れ来るさざ波のような数多の感情を黙って吞み込みながら、その衝動を抑えつけるために、瞼を閉じる。
『いずれ、また相見える……
そのときこそ、息の根を止めてやろうぞ。もっとも、それまでその命が保てば、の話、だがな。
童、その証は決して消せぬぞ。
そなたの命を蝕み、そなたの傍らにいる者達も、闇へと引きずり込むだろう……』
さっきの梓紗達への説明には省いたが、冰龍の身体に刻まれた呪いは、自分の不幸と、まわりの不幸を呼び寄せるだけではない。彼の命を徐々に吸い、奪っていく呪いでもあるのだ。
その呪いの進行が進むにつれ、それを象徴するように、痣も広がり、色が濃くなっていくのだ。
鬼結に味わわせる不幸だと、冰龍が危惧していたのは、自らの死だった。
自分を愛してくれた彼女に、自分の亡骸を晒し、泣かせるような真似など、したくなかった。
この事実を知っているのは、当の冰龍と鬼結を除くと、九年前に三人を心配し、迎えに来ていた、梔昏だけ。
その場に居合わせ、呪いを受ける瞬間の冰龍と、それを与えた闇に遭遇したらしい。
他の二人は意識を失っており、当時、気絶する寸前の冰龍が叫んだ、必死の言葉を受け、気持ちを酌んだ梔昏は、今の今まで、それを決して、口外しなかったのだ。
「冰龍」
「………」
どうにか荒れ狂う感情を抑え込むと、ゆっくりと瞼を開いて、冰龍は梔昏の方へと向き直る。
「大切なこととは?」
冰龍は、わざと知らぬふりを決め込んだが、無論、梔昏はそれを許さなかった。
「とぼけるな。お前の呪いの本当の意味だ!」
しかし、その梔昏の返答に、今の今、抑え込んだ冰龍の感情は大きく揺らめいた。
「言って………どうなる?」
「冰龍っ!」
梔昏が、尚も何事かを告げようとした瞬間、それは阻まれた。
「あいつらに他言してみろ。俺は、絶対にお前を許さない…」
地の底から這い上がるような、冰龍の低い声と共に、彼が梔昏の喉元に、先ほどまで見事に空を斬っていた刀の切っ先を、突きだしたのだ。
「……」
梔昏の喉仏の上に、ぷくりと血の粒が浮かんだと思えば、すっと、一筋の血が流れた。
冰龍の表情は、明らかに怒りを表していた。彼は、温度を湛えない、静かな夜の湖のごとき色の眸で、梔昏を睨み据えている。彼のその眸には、二人の間にある刃の切っ先のような鋭さと、狂おしいほどの万感を反映する燃えたつ青き焔が、燻っていた。
冰龍の、静かだが、熱い眸の煌めきに、梔昏は束の間、目を奪われる。
「冰龍…」
迫りくる死への恐怖や、望まぬ孤独、ぬくもりを失った哀しみといった負の感情に加え、周囲を守りたいと願う力強さと、鋼のように固い意志。
それら全てを宿す眸は、見る者の心を鷲掴みにするだろう。
同時に、冰龍の胸の内に溢れる、優しさは、途方もない。
我が身を犠牲にして、周りを守ろうとする彼を、だったら、自分が守ろうと、傍らを離れまいと、梔昏はずっと誓っていた。
「最後に一度、訊く。本当に、それでいいのか?」
波のような思いが、梔昏の中にも滾り出してきた。
冰龍は、その外見的な美しさもあるだろうが、行動力、冷静さ、内なる情の厚さ、眸に浮かぶ意志の強さゆえ、昔から、多くの人を心酔させる資質を持っている。
誰もが、どんな形でも、惹かれずにはいられないのだ。その筆頭は、弟の碌葩であろうし、自分も例外とは言えない。
そしてそれは、呪いを受けて以降の方が、よほど、強くなったのでは、と梔昏は感じていた。
「ああ。それで構わない」
梔昏の最後の問いに、冰龍は迷わず、決断を下した。
「冰龍…」
ひどい絶望を身のなかに封じ込めて、独りで、耐えている親友の姿を見ていると、梔昏は、胸の痛みを感じずにはいられない。
そんな彼の気持ちを察しているのか、冰龍は、先ほどより、幾分、落ちつきを取り戻して、親友から視線を離す。
「このことを知れば、あいつらが、余計な責任を感じるだけだろ?」
「……それで、いいんだな?」
冷静な態度をとっているが、懸命に説得しようとする梔昏に、冰龍は幾度ついたか分からない、苦しげな嘆息を漏らす。
「あいつらには負担をかけないようにするさ。
それに、俺の後悔など――」
「冰龍――」
自虐的に見える親友に、たまらず梔昏は、冰龍の近くへと歩み寄った。
「不憫だ、とでも言いたいか?」
自嘲めいた冰龍の科白に、梔昏は、歩む足を止めた。
「どういう意味だ?」
「呪いを受け、人を遠ざけ……妻に去られ、この命も蝕まれていく俺が不憫…さもありなん。
だが、憐みは結構。自分で、十分に憐れんだ」
「憐みだと?ふざけるな!――」
冰龍の肩を、梔昏は自分の関節が白くなるほどに、掴んだ。
冰龍は痛みを感じ、僅かに眉をひそめる。
「俺が…そんな安っぽい同情をすると思っているのか?」
「……梔昏」
表情を歪める親友の名を呼び、再び、冰龍は苦笑を浮かべると、自分の肩を痛いほど握りしめる梔昏の手の甲に、自分の手を重ねた。
「安心しろ……心配はいらない」
冰龍の態度に、梔昏は、彼が何を考えているのか悟った。
「戯言を……
大方、この戦いで死ぬつもりなんだろ」
梔昏の返しに、冰龍は軽く目を見額た。
「…へぇ、流石だな。よく分かっているじゃないか」
冰龍は、それまで梔昏が掴んでいた手を、さりげなく外すと、身を翻し、開けた木々の間の中央へと歩み出した。
梔昏には、冰龍の背中しか見えなかったが、その背中に、どことない諦念と哀愁が漂う。
「お前、ただでさえ、人よりも長く持たない命のくせに。
なぜ、そう生き急ぐ?」
冰龍は、それは言い辛いのか、逡巡の後に、ようやく、声を漏らす。
「呪いで、死なないためだ」
「何?」
そう言って、冰龍は再び歩き出すと、梔昏には、背を向けて言葉を紡ぐ。
「俺が生き続ければ、また不幸は広がる。
だが、この呪いによって俺が命を絶たれれば、あいつ等は、一生、自分を責め続けるだろう。
そんな目には、遭わせたくない。
そんなことがないように、俺は、今回の、この旅路に賭けているんだ」
「冰龍、お前…」
「ああ。俺は、最期まで気を抜くつもりはないし、これ以上、誰かを傷つけるつもりもない」
決意を固めた親友の背中に、梔昏は、半ば、諦めたように言った。
「まるで…死に場所を探しに来たようだな」
「はは、まさにその通りだ」
乾いた笑いを浮かべた梔昏だったが、目の前に立つ冰龍の決意の強さを、未だはっきりと窺える、その強い眸で感じ取った。
梔昏は、もう、何も言うまい、と瞼を閉じ、負けたとばかりに首を横に振った。
「分かった。
お前がそこまで言うのなら、もう、俺が口を出すこともない。
相変わらず、変なところで頑固な奴だよ、お前は」
「梔昏、お前は、無理して歩かなくても良い道だ。不服なら、引き返すのも有りだぜ」
「見縊るなよ?」
「ん?」
「ここまで、並んで来たんだ」
梔昏は、長い髪を掻き上げながら、言った。
「とことん、お前に付き合うよ」
その科白に冰龍は向き直り、かすかに目を見開いた。
「一蓮托生ってやつ?」
「梔昏…………
だが、お前までいなくなったら、碌葩と梓紗は、どうなるんだ?」
その言葉に、梔昏も、流石に逡巡のようなものを見せたが、大丈夫だと笑って見せた。
「独りじゃない。二人なら、支え合って生きて行けるだろう。
雲はいずれ晴れ、夜は朝になる。悲しみも明ける日が来るさ」
えらくすっきりしたような梔昏の物言いに、冰龍も、かすかに笑みを浮かべた。
「すまないな。
いつまでも、俺に縛りつけて」
「何を、今更。俺はお前の……お前の従者だ。そうだろう?」
「お前は、俺の従者じゃない」
「おぉい、なんて言い草だ」
梔昏が、盛大に顔をしかめた。
「俺は子どもの頃から、冰龍、お前に、一生分の忠誠を誓っている」
「いや、そういう意味じゃない。俺にとって、お前は………従者とか、そんなものじゃない」
「冰龍?」
「何にも代えられない親友、相棒なんだ」
「……」
これには、梔昏の方が面食らったようだ。しかし、すぐに、梔昏は穏やかな笑みを浮かべた。
「………そうか。俺も、そうだよ」
そんな親友に、同じように冰龍が笑いかけた時だ。
「……っぐっ!くっ」
突如、冰龍はその場に膝をつき、顔と胸を押さえて、激しく苦しみはじめる。
「っ、冰龍っ!?」
近づこうとした親友を、冰龍は震える片手を必死に伸ばして、その動きを制する。
「っ!近づく、なっ!痣の妖気が感染る!」
「そんなこと言っている場合か!」
梔昏は冰龍の腕を振り払い、彼の背中をさすってやる。
「っく!…かま…う…な!こんなの……っ…ぅ!」
しばらくして、苦しみが収まると、肩で息をしながら、冰龍は近くの木へと背中を預けた。肩を貸し、移動を手伝ってやりながら、梔昏も同じように、木に背中を預ける。
冰龍の額からは、冷や汗が流れ落ち、先ほどの苦しみから解放されたものの、彼はすっかり疲弊し、瞼を閉じていた。
「大丈夫か?」
「は、はは…
俺の身体も、そろそろ、ガタが来始めたようだな。
今年に入って、もうこれが、何度目かしれない」
「ったく、笑いごとじゃ無いだろう」
「梔昏、安心しろ。
秘宝を手に入れるまで、俺は死なない。まだ、余力は少し残っている。そのときまで、付き合ってもらうぜ」
「冰龍……っ、ああ!当然だ」
自分へと向けてくる梔昏の腕に、冰龍はしっかりと己の腕を絡ませた。それは、幼い頃から続ける、二人の間の、親友としての絆の具現化のようなものだった。
こうやって二人は、九年もの間を支え合って生きてきたのだ。




