第二十章 過去に出来ぬ想い
第二十章 過去に出来ぬ想い
「だが、約束の満月の夜。
鬼結は、俺の所には来なかった。
それどころか、その日以来、彼女は俺の元に訪れることは、一度も無かった」
幸せな回想と、苦い過去を巡らせながら、炎の明かりに冰龍の顔が、どこか幻想的に照らされる。
「十四歳で鬼結に初めて会って、十五の時に恋人になった。
まぁ、公に婚姻を知らしめることなど、出来なかったが、十六歳で彼女と契を結び、俺は、事実的に彼女を妻にした。
蜜月は、二年と少ししか、続かなかったが…」
「兄上」
「俺は、魔物を愛し、妻に娶った。人間側から見れば、裏切り者、異端者の所業だ。
異端の道をとった俺には、祝部の資格は無い。本来なら、二度と神体に変化することはしまいと、考えていたんだが……」
「冰龍…」
「そんなことを、思っていたの?」
「ああ」
冰龍はどこか物悲しい色を帯びた眼差しで皆を見やり、静かに頷いた。
「……」
「…冰龍。そんなに……鬼結と、生きたかったの?」
梓紗の問いに対し、冰龍は噛み砕くようにじっと考えて後、ふっと切なげに微笑んだ。
「ああ。俺は、あいつと生きていきたかった」
その、静かだが、断言するような強い肯定を見た途端、梓紗の胸に、ちくりと針で刺されたような痛みが走った。
「たとえ異端の道でも、俺は、鬼結と生きていくことを選んだ。人としての道だって、道理だって……捨てても構わないと思ったんだ」
「兄上」
それほどまでに、鬼結は冰龍に想われている。
あの冷静な冰龍を、ここまで惚れこませ、翻弄し、情熱的に語らせる女鬼、鬼結。
そして、昼間の様子から、きっと彼女も……
過去の気持ちを思い出したのか、冰龍の表情がわずかに苦み走ったように曇った。
「俺は、絶対に鬼結を手放す気など無かった。離れたくなかった。彼女を妻として愛し、一生大切にしていくと誓ったんだ。それなのに…」
苦い溜息を吐かれる。
鬼結の裏切りが、冰龍の心の心髄に、未だ、深く、癒えない傷を残していることは、誰の目にも明らかだ。
「今でも、愛しているのね。あの、鬼族のお媛様を」
「梓紗…」
三人の視線が、彼女に注がれる。
冰龍は、一度、炎の揺らめきを眺めると、そのまま苦笑して言った。
「ああ。そうだな……
鬼結を今でも愛してる。忘れられない……忘れられるものか…」
その微笑に、梓紗の心が軋んだ。
なんだろう?
この感覚は……もしかして、嫉妬?そんなわけはない。自分は、琭葩のことが好きなのだから。
「……」
いつのまにか、梓紗は琭葩の顔をじっと見入っており、それに気づいた琭葩が、首を傾げて訊ねてきた。
「ん?どうした?梓紗」
「え、ううん。何でもない」
曖昧な笑みで濁しながら、精悍な琭葩の顔から、梓紗は顔を背け、そのまま俯いた。
「……」
梓紗は、そこで顔を伏せてしまったので。
そのとき、琭葩が何かを考えこむように自分を見つめ、切なそうに微笑んだことに、梓紗は気づくことが出来なかった。
「俺の昔話は、これぐらいだ」
「…おい、冰龍」
「梔昏」
立ち上がろうとする冰龍に、何かを訴えようとする梔昏。そんな彼に、冰龍が穏やかに微笑んだ。
先ほどから仮面を外しているため、彼の感情が、すぐに読み取れる。その笑顔は、邪気の無いというより、何かの強い威圧を感じられるような微笑みだった。
「冰龍…」
「気にするな」
「……」
梔昏は頭を振って、その場を引き下がる。それに感謝の眼差しを送ると、冰龍はそのまま、琭葩に向き直った。
「すまなかったな、今まで黙っていて……鬼結のことも、呪いのことも」
「…兄上。本当ですよ。俺はそんなことで怒るほど、狭量ではありません」
「ああ。そうだな」
冰龍はそう言って、立ち上がった。
「もう寝ろ。夜も深い」
そう言って、彼は再び、森の方へ足を向ける。
「兄上?」
「……もう少し、夜の森を味わってくる」
「危険ですよ」
「琭葩、この俺が、そう安々とやられると思うか?」
「いいえ…兄上なら、きっと、大丈夫ですね」
兄弟同士で通じ合うと、冰龍は身を翻して、そのまま夜の闇に姿を消す。
「とりあえず、寝るか。明日も早いし………まぁ、あいつなら大丈夫だろう」
冰龍の姿が暗い森の中に消え、真っ先に梔昏が、口を開いた。
「そうだね」
「分かった」
「まぁ、冰龍が青狼にばけて、周囲に聖水を撒いたから、結界は大丈夫だ。ゆっくり休め」
「うん」
そう言って、梓紗と琭葩は寝支度を始める。梔昏は武具を外し、綺麗に整理していく。
こうして、一日目の夜が、静かに更けていくのだった。




