第十九章 恋慕の追憶(後編)
第十九章 恋慕の追憶(後編)
冰龍と鬼結が恋人となって、一年。
冰龍の毎日は、とてもなく充実していた。それは、単に、鬼結の存在があったからだ。
完全な安心感はなかったが、冰龍は、心に、これまでには無かったゆとりを持つことが出来た。
愛しい女が近くにいることが、これほど、満たされるとは、思わなかった。
しかし、だからこそ、恐い部分もある。
自分の惚れた女を、誰が不幸な目に遭わせたいなど、思うものか…。
とはいえ、魔物に呪いを与えられ、彼らをひどく憎み、怨んでいたはずなのに、自分は、魔物を愛してしまった。
なんとも、皮肉な話である。
しかし、それでも良かった。
鬼結と、一緒にいることが出来ればと、本気で望んでいた。彼女は満たされなかった寂しさの半分を埋め、梔昏と同じ、いつも共にいて、抱える孤独の心を癒してくれる。
彼にとって、残された、あたたかい春の日ざしのようだった。
それを強く自覚した時、冰龍は、決断を下した。
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それから、梔昏に証人を頼み、口の固い飾り職人を呼び寄せ、冰龍は、一つの品を創ってくれるよう、頼んだ。
そして、その二十日後、頼んでいたものは、出来上がった。
その日の宵は、夜桜が闇夜に咲き降る、美しい夜だった。
冰龍はその宵は、鬼結を帰さず、普通の会話をしながら、なんとか、自身の部屋に留まらせた。
ちなみに、その宵、梔昏も闇に潜んで、訪れてくれていた。
『鬼結』
『ん、何?』
『…………』
冰龍は、桐箱の中に綺麗に収められたその品を、鬼結の方に向けた。
『冰龍、急にどうしたの?これ』
『お前に似合うと思ってな。特別に創らせた』
それは、精緻で美しい髪飾りだった。
『気に入ればいいが』
箱から取り出し、冰龍は鬼結の髪に、赤い牡丹の髪飾りをつけてやり、微笑んだ。
二十日前に、呼び寄せたのは、口の重いことで知られる、部族でも高名な飾り職人、詩珀だ。
彼に頼んだのは、この髪飾り。
赤い牡丹を模り、その下に、紫の蝶結び、緋色の飾り紐を斜め上下に二重に結いつけ、青玉と金、紅玉をあしらった垂れ飾りをつけた、繊細で見事な細工を施された逸品だ。
冰龍が考案し、その特徴を詳しく詩珀に話し、彼はそれは見事に、完成させてくれた。
ちなみに、実際に自分の誠意を示すためにも、かつて、この痣を負う前、軍団に属していた頃の給金で、賄った品である。
「言っとくが…
女に物を贈るのなんて、初めてなんだぞ?」
「確かに。
意外にお前って、経験値低いよな」
そこへ、潜んでいたはずの梔昏の同意が響いた。普段から、冰龍と共にいる梔昏気配に慣れすぎて、気付いていなかったのか、その声に鬼結がビクッと身をこわばらせる。
「おい、梔昏…」
『梔昏、い、いたの?』
冰龍が非難を飛ばす。
「はいはい、分かった。黙るよ」
仕方ない、と言いたげな梔昏に、冰龍は内心、ふてくされる。
「ったく……」
『冰龍』
「……」
冰龍は鬼結を見て、やわらかく微笑んだ。
色鮮やかな飾りは、鬼結の絹糸のように滑らかで、引き締まった色合いの髪にとても映えた。
「思った通りだ。よく似合う」
『綺麗だわ…嬉しい、ありがとう。大切にする。
それにしても、贈り物の相手が、私が初めて?』
首を傾げる鬼結の可憐な笑みを受け、冰龍は、鬼結の黒髪を一房掴み、そっと口づけた。
「その話を出すなよ……」
『冰龍』
「あぁ、分かった。
そのとおりだ。第一、お前以外に贈る相手もいないし、その気もない」
『それ、本気で言っている?』
「当たり前だろ」
『信じるわよ?その言葉』
「ああ。信じてくれ……それと、もう一つ」
冰龍は少しの緊張を含みつつ、興味津々といった具合の梔昏の気配を感じ、彼の方を一度だけ窺い見た後、目の前の恋人に呼びかけた。
『ん?』
「鬼結……俺の女になる気はないか?」
『私はもう、あなたの女よ?』
何を言っているのか?と、不思議そうな表情を、鬼結は浮かべている。そんな彼女の返しに、冰龍は首を横に振った。
そして、思いきって鬼結の肩に手を置く。
「そういう意味じゃない。
証を、俺と契を結ばないか…っていうか…つまり……
俺の妻に、なってほしい」
『…え?』
求婚を示す冰龍の言葉に、鬼結は目を見開いた。
梔昏にも目配せし、彼女は、真意を確かめている。
『…本気で言っているの?』
「戯言でこんなことを、俺が言うと思うのか?」
『それは、そうだけど……でも、ほんとに、魔物の私を妻にと?』
自嘲気味に、鬼結は訴える。
しかし、そのことは既に、冰龍にとっては造作もないことだった。
「確かに、お前は魔物、俺は人間だ。
だが、それが何だっていうんだ?俺は、人間魔物関係なく、お前を愛しているし、一番大切な存在と思っている」
これだけは、本心だ。断言できる。
そんな勢いめいた冰龍に、鬼結は、衝撃を隠しきれないでいるようだ。
『そ……そんなの…』
「俺の言うこと、信じられないか?」
鬼結は、首を横に振る。
『そういうわけじゃない。ただ、あなたは、きっと後悔するわ?』
「後悔が先にたっては、その先の未知は生まれない」
『でも…』
「もう迷うな。お前自身の答えは、どうなんだ?」
『この顔を見れば、分かっているでしょう?』
「当たり前だ」
『じゃあ、最初から、答えなんていらないじゃない』
クスッと微笑んだ鬼結に、冰龍も微笑み、その手を紳士風に持ち上げる。
「では?…姫君」
「っ、ふふ。喜んで受けるわ」
似合わないようで、似合っている芝居じみた冰龍の動作に、鬼結は、頬を赤く染めながら、首を縦に振った。
「よし、決まりだな!おめでとう、冰龍、鬼結!」
軽く手を叩いて、梔昏が出てきて、祝福の言葉を述べる。
「梔昏…」
『ありがとう、梔昏』
「承った、証人としてな。
これで、お前達は立派に夫婦だ!じゃあ、後は水入らずで」
簡単にそれだけ告げ、梔昏は、にこやかに笑って片目を瞑ると、子どもの頃から身体に馴染んでいる、隠密の技で、夜闇の中にスッと消えていった。
「さて……」
冰龍はにこやかに微笑み、自分の閨へ彼女を通す。
実は、昼のうちに梔昏に手伝ってもらいながら、仄かに甘い香りのする香を焚き、桃色の雪洞に明かりを灯し、真新しい褥に、薄桃色の花びらを散らしておいた。
その後継を見て、鬼結は胸を高鳴らせた。
『っ、冰龍、あなた。
こんなの嫌いじゃなかった?』
鬼結の指摘に、冰龍はフッと照れ笑いを浮かべる。
「一夜くらい、我慢するさ。
女っていうのは、こういうのが好きなんだろ?」
『最高よ!』
鬼結が感極まったように、冰龍に抱きつき、冰龍もしっかりとその細い体を抱きとめる。
『冰龍…あなた』
「鬼結…」
二人は口づけを交わし、そのまま褥の上で肌を重ねた。
夜闇の中にほんのりと浮かび上がる彼女の肌は、降りしる月明かりと共鳴し、白く発光する花のように、美しかったのを覚えている。
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翌朝の旭日の光を、冰龍は、鬼結の可憐な寝顔を見つめながら、幸福を胸に迎えた。
腕枕をしてやりながら、冰龍は今までよりも強い愛おしさを鬼結に感じる。
これまでも、彼女を確かに愛してきた。熱病のような恋、燃えるような愛を、抱いていた。
そして、昨夜契りを交わし、公には出来ないとはいえ、夫婦になって、今までとは別の形の感情も、加わっていた。
闇を照らす月や、染み渡る水のような、静かでも、確かな広がりのある感情だ。
一晩肌を合わせただけで、恋人に抱く恋情から、家族である、夫婦としての愛が芽生えていた。
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それから、早二年。
鬼結と夫婦の縁を結んで、二度、季節が廻ったある日。
冰龍は、彼女に一つの提案をした。
「なぁ、ここから逃げないか?」
『冰龍?」
冰龍の提案に、書画を描いていた鬼結は耳を疑い、縁側に腰掛ける冰龍の背中に視線を送る。
「このまま、ここにいても…俺達は、一生、不自由なままだ。
普通の夫婦のように共に暮らすことも、子を産むことも、育むことも出来ない。だから、二人で、どこか遠い場所へ去ることが、俺達にとって、一番良いことじゃないか?」
鬼結は立ち上がり、冰龍の傍らに腰を下ろす。
『でも、冰龍…
あなたには、大事な使命があるでしょ?それを、捨てて――」
冰龍が振り返り、鬼結の肩に手を回す。そのまま、自然に鬼結は夫の方に身を預ける。
「どうして俺が、妻を滅ぼすような道を選ばないといけない?」
『…だって、魔物からも、人間からも逃げるなんて、無理よ』
「心配ない。
俺を信じろ。魔物も人間も邪魔をするなら、俺が倒す。
自分達の力で結界石をつくり、それを生活する周囲に埋めれば、良い」
力強く計画を話す冰龍、鬼結は窺い見るように視線を上げた。
『…冰龍。
でも、梔昏のことは?彼は承知しているの?』
妻の問いに、冰龍は頷いた。
「梔昏は、分かってくれている。
既に、このことも話した。時折でも、あいつに文を出す…だから、大丈夫だ」
『……』
「どこかの国の森の奥とか、山の中……
夫婦として静かに暮らせれば、俺はそれで、十分だ。
子を産んで、育て、穏やかであたたかな家庭を、お前と持ちたい」
焦がれるように夢を語る冰龍に、鬼結は、そっと抱きしめるように腕を回しながら頷いた。
『そうね。私も、そう望むわ』
「だったら問題ない
次の満月の夜、ここを出よう」
冰龍の提案に、鬼結は桜の花びらのように、やわらかく頬笑んだ。
『ええ……素敵ね」
「魔物のお前は、呪を受けた俺の傍らにいても、死なない。
この、顔と体の痣を、お前は受け入れてくれた。だから、気負わずにいられる。お前の隣は、本当に心地よい」
「そう思って、くれていたの?」
冰龍は鬼結の右手を、そっと自分の左手で包み込んだ。
「ああ。
お前は、俺が傍にいることを許される、唯一の女だ。
一生、お前を妻として、大切にする」
『冰龍……』
そのまま、冰龍は鬼結を腕の中に収めた。鬼結も、そのまま身を任せるように冰龍の胸に頬を擦り寄せた。
「俺は、絶対にお前を離さない。何があっても、誰に反対されても、お前は、俺の妻だ」
『…はい、あなた』
「いいか?
次の満月の夜、大切なものだけを持ってこい。
闇に紛れて、朝には、俺達は幻になる」
『ええ………ええ』
鬼結の頬に手を添えると、彼女も、愛おしそうに添えられた夫の手の甲に、自らの手を重ねた。
その幸せそうな鬼結の表情を、俺は、生涯、忘れることは無い……




