第十七章 恋慕の追憶(前篇)
第十七章 恋慕の追憶〈前編〉
八年ほど前――
あの闇の声によって、呪いと痣を負った。あの日から、半年ほど経た頃。
冰龍は、自分の傍から、殆どの存在を遠ざけていた。
この呪いは、自分はおろか、傍らにいる者の運命までも、蝕んでしまうものらしい。
現に、冰龍の怪我や呪いの痣を治療した二人の治療師は、同じような痣が、全身に広がって、命を落とした。芙慈乃が言うには、魔物の力が強すぎたため、只人であった二人は、その妖力の余波が強すぎて、命を落としたのだということだ。
部族の皆には報されず、呪いがどのような効果を生むにしろ、この事実は、内々に処理された。
しかし、二度とそんな悲劇を生まないようにするため、冰龍は邸を出て、ある程度、神力の宿る巫女殿へと移った。
以降、あまり、他者からの面会に応じることはなく、梔昏以外の殆ど誰も、巫女殿奥の自室に近寄らせなかったし、自分も出なかった。
両親達の呼びかけ、碌葩の必死な声や、梓紗の心配する声は、痛い程、耳に届いていた。
だが、冰龍は、自らを叱咤し、どれほどその声に応えたくとも、彼らに振り向くことは、しなかった。
唯一、親友である梔昏だけは、事情を知っているゆえに、どうやっても、自室に忍んで入ってきていた。脅しても、彼は自分のもとへ来ることを止めなかった。
とうとう諦め、最後には、もう良い、と部屋に入ることを了承したのだが。
表面上は冷静でいるが、その頃の冰龍には、荒れ狂う感情がいつも心に宿っていた。
呪いを受けたという事実を理解し、受け入れることが辛く、村にいるのも苦痛だった。
自分のせいで、村が不幸になっていくように思えた。
そのため、よく今日のように領域から離れた森に入り、魔物達に刀を振るっていた。
八つ当たりで、殺めることなど、間違っているとは分かっていたが、収まらなかった。魔物によって、自分は……
だいいち、人間だと分かれば、あちらの方から襲ってくるのだ。致し方ない、と思い込んだ。
『ぐぁあああっ!』
『ぐおおおっ!』
突如、巨大な鬼が冰龍に襲いかかってきた。
素早く刀を抜き、一瞬の下、強靭な鬼達の腕を切り落とした。
『があっ!』
『ぐわああっ!』
痛みに叫び声をあげる鬼達に、冰龍は情け容赦なく、鋭い一撃を各々(おのおの)に振り下ろす。
殆ど、秒殺と言っても良いほどに、冰龍は彼らを倒した。
そのときの冰龍には、自我がなくなり、まさに、本能のままに従っていた。血を浴びることに、昂揚を覚えていたのだ。
『ひっ…ひっ…』
傍らから、息を呑む声が聞こえた。
「……?」
冰龍は光の宿らない眸のまま、ぼうっと、声のする方を見た。
「…!」
そこには、地面に座りこんでいる少女が怯えるように、冰龍を見上げていた。
魔物なので、何歳なのかは分からないが、見た目的には、十ニ、三歳くらいだろうか、可憐で、それは美しい少女だった。
彼女は、息をするのも忘れて、見惚れる程、綺麗だ。束の間だが、冰龍は息を呑み、彼女に魅入った。
だが、すぐに、彼女が魔物だと我に返ったのだ。
魔物への憎しみに溢れていた冰龍は、手にしていた刀を、すっと彼女に向けた。
『ひっ!……や、やめて……おね…が…』
震える少女の高い声に、冰龍の眸に僅かに光が戻った。
「……」
冷静な思考回路が戻ってくる。
とはいえ、目の前の少女は、どう見ても魔物だった。
銀の髪。微かに、紅く発光する眸。目元から頬の肌に伸びる、赤い逆三角の紋様、額の三対の赤い宝珠……
そして、二本の角と牙、鋭い爪。
この姿は、どう見ても鬼だった。おそらくは、始末しても問題はない。
「……」
冰龍は、何も言葉を発さず、そのまま、彼女を見つめた。
『や、やめて。殺さないで……』
スッと彼女の姿が変わり、銀髪は緑がかった黒髪に、眸の発光は治まり、紋様は消え、角と牙、爪もなくなった。おそらくは、これが通常の姿なのだろう。
人間と同じには見えないが、それでも、似たような姿をしていた。宝珠が消え、これで、髪と眸の色彩さえ同じなれば、美しい人間の姫君にしか見えないだろうが。
「それでも、この気配は魔物だな」
『お願…い』
「……」
これほどまで怯え、力を出さない、しかも、見た目は自分よりも年下の少女を殺すほど、落ちぶれてはいない。
それに、見た目で判断する、と言われればそれまでだが、なんだか、寝覚めが悪かった。
この魔物は、なんだか、殺めたくない。
「……」
怯え、身を小さくしている少女に向けていた刀を、冰龍は、やむなく腰の鞘に仕舞った。
『え?』
「殺すのは、やめた。早く塒に帰れ」
静かに、告げる。
『……』
「ん?怪我、してるのか?」
『っ……』
見れば、彼女は、傷だらけだった。白い肌には切り傷が走り、太ももや膝には、打ち身の痣も残っている。
正直言って、ボロボロだ。愛らしく、美しい容貌をしているというのに、勿体ない。
「……そこに、いろ」
冰龍は傍の泉から水を竹筒に注ぐと、袖口の布を破って、清水を浸す。
そして、そのまま戻り、座っている少女の傷口から流れる血を拭きとってやった。
乾きを待ち、胸元から、二枚貝のなかに収められた軟膏を取り出し、彼女の肌に塗りこんでやる。
『…何故?』
不思議そうに訊ねてくる彼女に、冰龍は表情を変えずに答えた。
「少なくとも、見た目は自分より年下で、手負いで震えている女を、放置するほど、俺は非情は無い」
『…私は、魔物だよ?』
「見れば、分かる」
『だったら…』
「いいから、黙っていろ」
冰龍は、指先にまた軟膏を取り、少女の傷に近づけた。すると、彼女はその手を阻む。
『……もういいわ。あなたの薬、無駄にしないで』
「何?」
『見て…』
少女の促しに、冰龍は彼女の肌に広がる傷を見やった。
すると、軟膏を塗った傷口、塗らなかった傷口が関係なく、みるみる、治っていく。
「…これは」
『ね?私達は治癒力が高いの。だから、私なんかに使って、その薬、無駄にしないで』
冰龍は少女を一瞥した後、そのまま他の傷口にも、軟膏を塗り込んだ。
『ちょ、ちょっと?話聞いてた?』
「五月蠅い。薬塗れば、より、早く治るだろ。無駄じゃない」
『で、でも…』
「…薬ってのは、傷や病を早く治すためのものだ……誰に使おうと、無駄、じゃない」
『……』
それから冰龍は、黙々と傷ついた鬼結の治療を施してやったのだ。
それが、二人の、初めての出会いだった。




