第十四章 宵闇の逢瀬
第十四章 宵闇の逢瀬
冰龍はそんな会話が交わされていることを、粗方、予想しながら、暗い森の中を歩いていた。
頭の中は、四年ほど前のことばかりが、繰り返される。
あのとき、味わった喪失感と痛みは、未だに鮮明に、自分のなかに蓄積されていたようだ。
『……よく、来る気になったわね』
聞き覚えのある女の声が、真横から聞こえた。
首だけを巡らせて確認すれば、彼女は、冰龍の右側に根をおろしている檜木に、寄りかかって、腕を組んでいた。
「鬼結…」
名を呼ばれた、婀夜女鬼結之媛……鬼結は、閉じていた瞼をゆっくりと開く。
しかし、夜闇に美しく煌めく紅玉の眸は、決して、冰龍に向けようとはしなかった。
『けじめをつけないとな。それに、あれは、俺達の合図だったろ?』
先程、焚火の前に座っていたとき、微かに風にのって、高い指笛の音がした。
それは、昔から冰龍と鬼結の間で交わされていた、訪れた、と知らせる時と、片方が片方を、呼んでいるときの合図だ。
『覚えていたのね。敵の……魔物の女との約束を――』
「お前の方こそ…」
一定の距離は縮めないまま、彼らは、同じ空気の中に身を置く。
「……四年ぶりだな」
『そうね。あれから、色々あったわ』
「お互い様だ」
それから、再び会話は途切れる。
彼らの間には、以前のような、純粋であたたかな空気は、既に消えかけている。あるのは、研ぎ澄まされた冷たい水晶のような、そんな、どこか緊張したもの。
『昼間の件で、おおかた、分かったでしょう?今の私が、どういう立場にあるのか』
「俺達にとって、敵、それも、そちら側の幹部」
『ご名答』
彼女の横顔をじっと見つめながら、冰龍が言った。
「やはり、強くなったな、お前」
『ええ。あなたの言ったとおり、大器晩成型だったみたい。今では、鬼族の中では私以上の力の者は、いない』
「そうか」
『あなたもそうでしょ。梔昏も同じ。
以前より、ずっと、その四天王の力を使いこなしている……
私の見立てでは、後の二人も、そろそろ、完全に目覚めるんじゃない?』
「ああ。時間の問題だ」
『……だったら、これが宣戦布告。あなたに温情は向けないわ』
「俺もだ」
そこで、ようやく鬼結は、冰龍に視線を向けた。
『随分、老獪になったようね。刀を振るうあなたを見て、思ったわ。以前のように、敵をがむしゃらに倒さなくなった』
何事もなげに、冰龍は瞼を閉じて言う。
「ただ、冷静になったのさ。
弱いものから狙った方が、確実に仕留められるからな」
ひゅっという風の音と共に、冰龍の目の前に鬼結は迫っていた。
冰龍は、とっさに短刀を抜き、自分の喉を庇う。
彼女の、瞬時に長く伸びた爪は、短刀の刃に、触れるかといったところで、ぴたりと止まった。
『……それ、喧嘩を売ってるって、捉えて良いのかしら?彼らが私の僕達だって、分かってる?』
「ああ」
彼女の、緑がかった黒髪は、今や銀色に色相を変え、爛々(らんらん)と赤い瞳は発光し、黒い瞳孔の部分は、猫のように細くなっている。
加えて、目の下から頬のあたりには、長い逆三角の形をした赤紫色の痣が現れ、鬼の象徴である牙や二本の角も見えている。
これが鬼結の、力を振るう鬼としての姿だ。
「鬼結…」
『本気で、私が殺すとでも思った…?』
鬼結は静かに身を引き、冰龍に訊ねる。すぐさま、彼女は普段の姿に戻った。
そんな彼女の問いに、冰龍は無言で首を横に振り、突如、鬼結に詰め寄ると
その肩を掴んだ。
「……なぜ、どうして四年前、急に、俺の前から、姿を消した!?」
苦しげな表情で訊ねる冰龍の問いに、鬼結の表情が苦しげに曇った。
かつて、冰龍と鬼結は人間と魔物という垣根を超えて、深く愛し合った恋人同士だった。魔物を恐れる人間に属する冰龍と、人間を憎む魔物に属する鬼結。それはまさに、背徳の、禁じられた恋だった。
そのため、認められること以前に、周囲に知られることすら、危険な行為だった。
だが、二人は、それを承知で婚姻の誓いを交わした。無論、公には無理だったが、梔昏を証人に、秘密裏に結婚した。
つまり、冰龍と鬼結は、夫婦なのである。
『っ』
しかし、鬼結の表情が曇ったのは、一瞬のことで、すぐさま彼女は目をつぶり、冰龍を視界から離した。
「何故……あの夜、俺の所に来なかった?」
冰龍は、構わず鬼結を見つめ続ける。
鬼結が小さく、呟いた。
『…ごめんなさい』
「鬼結、責めたいわけじゃない。理由を聞きたいんだ。俺は、ただ、ずっとお前を……」
『……っ、冰龍、やめて』
鬼結が顔を上げた。そこには、切ない色が帯びている。
「っ!」
その、美しく哀しげな、妻と呼んだ女の姿。
四年もの間、押し殺していた激しい恋情、そして、憎しみにも似た思いが織り交ざった、複雑な感情。そして、劣情が熱く滾った冰龍は、堪らず、勢いよく噛みつくように、鬼結の唇を奪った。
「っん!」
最初の内は驚き、冰龍を払いのけようとしていた鬼結も、腕を強く握られると、そのまま、ゆっくりと力を抜いたように、振り上げた腕を下ろしていく。
それどころか、彼の首に腕を回し、冰龍を受け入れる姿勢になる。
「っ…」
何度も唇を互いに押し付け、切ない吐息が二人の間に生まれる。やがて、唇を冰龍が離したとき、鬼結の眸からは、頬へと涙が伝っていた。
「鬼結…」
『冰龍』
溢れ来る衝動のままに、冰龍は鬼結の細く滑らかな線を描く首筋と肩に、そっと顔を埋め、唇を寄せる。
『冰龍……』
短い裾の着物から覗く、すらりと伸びた脚に手を触れると、甘い鼻に通るような声が、鬼結の唇から漏れ、いつしか、互いの間に色めいた空気が、生まれていく。
しかし―――――…
『冰龍っ、駄目、やめて、離れてちょうだい…』
急に我に返ったのか、鬼結が、冰龍の肩を握り押し戻そうと、手に力を込めた。
「何故?」
冰龍は、不満そうに顔を上げた。
『だって……だって、私は…』
「俺の女だ」
『冰龍…』
「お前は、俺の女だ。あの日そう誓った。だろ?
俺だって、お前のものだ、と…」
確認するような、その問いかけを受け、鬼結は苦しそうに唇を噛んで、顔を歪ませた。
『っ!!』
そのまま、勢いに任せて、彼女は冰龍の手を払いのけ、冰龍の元から逃れる。
「鬼結!」
『……黙って!』
反動のためか、用心のためか、最初よりもずっと広く、冰龍から距離を置いた鬼結。彼女は顔を伏せ、拳をぎゅっと握っていた。
「今更……、つまらないこと言わないで……人間のあなたが、魔物の私のことを、本気で愛せるわけがない」
妻からの言葉に、冰龍は大きな衝撃を受けた。
「何言ってる!?俺は、あの時からずっと、お前を―――…」
『じゃあ、言わせてもらうわ!』
鬼結が、珍しく興奮したように、大声で叫んだ。
『私達の王、蟒之王は、あなたの顔に、その烙印を、痣をつけた張本人。私は、その直属の臣下!それでも、私を愛せる!?』
一気にまくしたてる鬼結の告白に、冰龍は、微かに目を見開く。
「っ?」
『それ以前に、あなたは人、私は魔族……分かり合うことなんて、出来ない関係だわ!
もう、お互い、あの時みたいな子供じゃない』
「お前の口から、そんな言葉聞きたくない」
『冰龍。あなたと私は、在るべき世界が違うの。分かって。分別をつけなきゃいけないの』
「それ以上、言うな!」
『もう、昔のように言の葉を交わすことも、許されない。胸に秘めて、想うことすら、もう出来ないのよ………ごめんなさい、あなた』
「鬼結!」
『次に会うときは、敵以外の何者でもないわっ』
声をかすかに震えさせながら、冰龍をきっと睨むと、鬼結は、そのまま勢いよく冰龍に背を向け、空中に闇を創り出す。
それが、彼女が魔界へと帰る、入り口なのだ。
「待てっ!まだ行くな、鬼結!」
冰龍は追いかけ、鬼結の肩を掴もうと手を伸ばすが、それは叶わなかった。
彼と彼女の間に現れた影に、阻まれたのだ。
「っ……貴様――」
『無粋な真似をして、申し訳ありません』
冷たい光を宿した青い眸で、その者は、冰龍を見つめてきた。
『しかし、今後から、お二方とも、状況を弁えて下さい。
いつ、どこで、誰が目にしているか、分からないのですから」
二人の間に立ちはだかったのは、巍於水月閣…水月だった。
「巍於水月閣、だったな?」
『水月で構いません。
我らの名前は、あなた方よりも、随分と長いですから』
『水月…
話はもう終わったわ。闇に、帰る』
『そうですか』
目の前から消えようとする鬼結に、冰龍は心のままを吐露した。
「鬼結!
俺は今でも、お前を妻だと思ってる!それは変わらない!」
『……確かに、契は結んだわ。でも、正式なものではない。大体、魔物を妻にする人間が、どこにいるの?」
「ここにいる!俺は――」
『もう終わりなのよ!全てを……無かったことにして頂戴。そしたら、きっと、すぐに忘れるわ』
「俺達の過去まで、否定する気なのか!?」
『……』
「たとえ、今は違っても、在る場所が遠くても……あの頃の俺達は、確かにあったし、記憶も心も、俺達のものだ!そうだろ!?」
『ええ。確かにそうかもしれない。でも………現在は違うのよ』
「っ、鬼結!」
振り返ることなく鬼結は、冷たく言い放つと、そのまま現れた闇の中に身を投じていった。
「待て!鬼結っ!」
冰龍は、彼女を追おうとしたが、それは、前に立ちはだかる水月によって、再び阻まれる。勿論、その間に、叫びも虚しく、鬼結はそのまま、闇の中へ完全に消えた。
「鬼結!」
『これ以上は、彼女と言の葉を交わさない方が、宜しいでしょう』
鬼結が消えていった方を見ながら、水月が冰龍に、忠告する。釘を刺すような言い方ではなく、結論を端的に述べたという感じだ。
「……貴様には、関係ないだろう」
冰龍は恨めしげに、水月を見やった。
『ええ。
ですが、これ以上関わっても、あなたも鬼結もお互いに傷つくだけです。
違いますか?」
「……」
水月の言っていることの筋が、通りすぎていて、冰龍は、返す言葉が見つからなかった。
『俺としては、徒に、鬼結を傷つけないでほしいのです。加えて、申し上げるなら、あなたが傷つくのも、あなたの御仲間は、良しとはしないでしょう』
「貴様は、どっちの味方なんだ?」
冰龍の問いに、水月は、しばらく間を空けた。
『特に、敵味方という感覚はありません。特別、俺自身が、あなた方人間に恨みがあるわけではありませんし……ただ、俺は、魔物として生まれました。
だから、魔物として示された道を、歩むだけです。味方だの敵だの、どうでも良いこと』
「水月…」
『あくまで私情ですが、別に、俺は、個人的にあなた方を嫌っているわけではありません』
「本気で、言っているのか?」
魔物達は、太古の昔の記憶、先祖から引き継がれた語りから、人間を恨んでいると聞いていたが……
驚いたような冰龍の質問に、水月は頷いた。
『ええ。
しかしながら、俺は魔物です。同胞や仲間達の望む通り、四天王の祝部である、あなた方の命は奪うつもりでいますよ。
ま、今は、別として――――…』
「……」
『では、また。失礼』
水月は丁寧に一礼し、そのまま鬼結と同じように、闇の中に姿を消した。
彼らが消え去り、一人となった冰龍は、満天の星空が覗く天を、仰いだ。
「……鬼結。
随分と遠くなったんだな。俺達の距離は…」
行き場のない感情と、過去の女に対する、捨てきれない想いを持て余しながら、冰龍は、ただ立ち尽くしていた。




