第九章 熔ける確執
第九章 熔ける確執
しばらく、梓紗は、冰龍の後を必死に追っていた。
凄い速度を以て、木々の間を飛ぶように進む彼は、始終、巫女殿の中に閉じこもっていることが、嘘のようだ。
普段、戦士団の修練に参加し、日々、己を鍛えている梓紗の方が、追いついていくことに、多少の苦を感じる。
男女の身体能力の差や、個人差の部分もあるかもしれないが、女戦士団の団長としての自負心が、泣くような気がしてならない。
そして、急に、バサッと冰龍が地面に降り立つ。
「っ!」
それに倣って、梓紗も同じように地面に降り立った。
冰龍の、息一つあがっていない様子に梓紗は思わず、呟いた。
「どうして?年中、巫女殿の中にいるのに……」
振り返った冰龍は、平然とした顔で返答する。
「俺は、別に、村に顔を出さなかっただけで、巫女殿の中に、日がな一日閉じこもっていたわけじゃない」
「え?」
思ってもみなかった、冰龍の告白に、梓紗は驚きを隠せない。
あれほど、人前に姿を現さなかった冰龍が、巫女殿を抜け出していたなんて、すぐには信じきれない。
「じゃあ、どこにいたのよ?」
梓紗の問いに、冰龍は少しだけ、何かを考える風に、言葉をためた。
そして、ふぅっと息を吐いて、彼女に向き直る。
「…それこそ、お前達に、昔のようなことは言えないな」
「何が?」
「基本的に、俺が日々を過ごし、武芸の修練していたのは、主に父上が整えてくれた庭や巫女殿の道場だったが、ちょくちょく村の、領域の外へも出て修行をしていた。
魔物を、相手にな」
「ええっ!?」
さらに、大きな声をあげる梓紗に、冰龍が付け足して、説明をしてくれた。
「あんなことがあってから、二度と俺が外へ出るまいと思ったんだろう。警戒は薄かった。
だが、俺は、逆に村にいるのが苦痛でな。いつもこうやって、村の外にいたんだ」
「……」
「梔昏も同じだぞ」
更に、驚くべき事実を、さらりと告げられ、梓紗は素っ頓狂な声をあげた。
「えええっ!」
「だから、俺達は、別にお前達よりも、腕が劣っているわけではない。残念だろうがな」
背中を向けたまま答える、冰龍の声音には、どこか、からかっている風が、微かに滲み出ている。
「子どもの頃と、すっかり変わっちゃったと思ったけど、違ったのね」
投げかけるように梓紗が言うと、冰龍が首だけ捻って、振り返った。
「どういう意味だ?」
「だって、冰龍……昔は、すごくやさしくて、笑っていて、面倒見が良くて。
だけど、あの事件が起きてから、このあいだまで、人を寄せ付けない雰囲気で。琭葩や私に、きつい言葉ばっかり言っていたのに。
今は、それとは、違う…から」
「……梔昏の思いも、汲んでやらないとな」
「え?どういう、意味?」
どうしてそこに、兄の名前が、出てくるのだろうと、梓紗は、首を捻る。
「何故、梔昏が、お前と俺を組ませたのか、分からないか?」
「何故って…」
「お前と、俺の反りが合わないと、判断したからだ。お前は、あのときから、俺を毛嫌いしているからな」
「け、毛嫌いって、そんなことは!」
「無理するな。
以前とは、人が変わった俺に、あの頃の、幼かったお前の理解が、ついていけるとも思えなかったからな」
「なんか、その言い方鼻につくわ。私が子どもって、言いたいわけ?」
「子どもだろう?
あの頃……今も昔も、大して、変わらないじゃないか」
「なっ!?」
「梔昏の考えを、見抜けていたのか?女戦士団を率いていても、無鉄砲に魔物に立ち向かっていくことが、度々あると聞くぞ?」
「っ、それは」
「相変わらず、人の機微については、鈍いな。懸命になると、周囲が見えなくなる点を見ても、やはり、まだ子どものしるしだ」
「ちょっ!」
「しかし、まあ――」
ふっと、冰龍の馬鹿にしたような声音が、優しくなった。
「下手に、色々、考えすぎるよりも、良いんだろうな。だからお前は、どこまでも屈折したところが無くて、真っ直ぐだ」
「冰龍」
「それが、お前の良さでもあるんだろう。別段、徒に人を傷つけるほど、疎いわけでも、ないしな」
「……」
いつになく饒舌で、棘のない口調の冰龍に、梓紗は懐かしさを感じた。
以前のような親しみの濃いものでは無いが、どこか、優しい声音は、あの頃の冰龍そのものだ。
「冰龍」
「だから、お前は、俺が琭葩に冷たくあたった時も、必死に言い返したんだろ?」
態度が、自然な風に軟化した冰龍に、梓紗はふと、訊ねた。
「冰龍にも、ああする理由があったの?」
「……さぁな」
冰龍は、とぼけたように返すと、すっと歩き始めた。
「冰龍!」
梓紗が、半ば叫ぶように名を呼ぶと、冰龍は足を止め、微かな間の後にこう続けた。
「理由なんてものはない」
「でも」
「前にも言っただろ?琭葩は、父上の後継者として、部族を率いていく立場になる。仲間内の結束を固め、より、人々と触れあって、人望を集めなくてはいけないんだ。
俺に、構っている暇など、もう、あいつには無い」
「……冰龍」
「強いて言うのなら、これが理由だ」
振り返った冰龍の表情は、仮面越しで分かりにくいが、その眸に、何か、強い意思を映していた。
「まだ、琭葩が後継者だと、決まったわけではないでしょう?」
「邸でも言っただろう?この俺が、長になれるか?」
「だって、冰龍の頭脳や統率力を以てすれば――」
「人というのは、正直だ」
梓紗が言い終わらぬ内に、冰龍が声を発した。
「どういう意味?」
「魔物に烙印を捺された者が、族長になること自体に、恐れを抱く者は山程いる。
大体、俺が巫女殿に移る時の移動最中だとて、奇異と恐れを浮かべた民の目を、見てきたんだ」
「冰龍」
「どれほど、博識だろうと、統率力に優れていようと、民に安心を与えてやれない者に、一族を率いていく資格は無い」
淡々と語られる冰龍の言い分は、梓紗にとっては、耳が痛い。
彼は、責めるつもりなど無いのだろうが、冰龍がそんな風に思うようになったのは、他でもない、自分の所為なのだ。
「ごめ――…」
「だからといって、これは、お前の所為じゃない。気にするな」
謝ろうとした途端、冰龍によって、その言葉はかき消されてしまった。
「違う。私の所為だわ」
「梓紗、お前が苦しむことはない。
それに、考えてもみろ。あれは、すでに十四歳だった俺が、お前達に泣かれようが、喚かれようが、止めるべきだったんだ。
この痣も、俺が勝手に飛び出して、受けたもの。言ってしまえば、自業自得」
「そんな…」
「そう辛そうな顔をするな……お前達が、長いこと悔いてくれている気持ちは知っている。
だが、それと現実は別の問題だ」
「でも…でも」
「梓紗……
皮肉に聞こえるかもしれないが……お前がそうやって、悔いてくれたら、今更、この現実が変わるのか?この痣は消えるのか?」
「それは」
「答えは明白だ。
だったら、お前達は、もう、悔いるな。俺のことを思うのなら、この旅を成功させることに専念するんだな」
「冰龍」
涙目になって、見上げてくる梓紗の髪を、くしゃっと冰龍は撫でた。
「あのとき、すぐに帰っていれば、村を出ていなければ……そんな後悔なら、いくらでもしたさ。
お前達も、そうだろ。もう充分だ」
「……」
「考えてもみろ。俺は、お前と琭葩を庇えなかった方が、余程辛かった筈だ」
「冰龍」
「お前達に、こんな痣が出来た方が、俺は自分を責めただろう。今のお前達のように……」
「……」
「九年前の事件で傷ついたのは、俺だけじゃない。お前達だって、傷ついたんだ。
あれは、誰にも責められないことなんだ」
冰龍の声音が、先程のものよりも、ずっと穏やかになった。
なんだか、込み上げてくる思いがある。
今まで、胸の奥にため込んでいた、複雑な思いが、一気に、昇華されていくような思いだ。
その顔は、仮面で見えないけれど。
あの銀色の壁の奥に、決して、人の力では消せない傷を負わされていても、彼は、変わらないでいてくれた。
「でも、やっぱり言わせて」
「?」
「ごめんなさい。冰龍」
「梓紗……
俺の方こそ、愚痴みたいになって、悪かったな」
胸の前で手を組みながら、真摯に謝る梓紗の頭に、ポンと冰龍の大きな手が置かれた。
「今頃、あいつらも、本音で語らっている頃だろう」
「え?」
「琭葩と梔昏だ」
「え?兄様と琭葩も仲が悪いの?」
パッと顔を上げた梓紗は、思いの外、冰龍と顔の距離が、近かったのに驚いた。
「っ」
「ああ。仲が悪いと言うよりも、一方的に、琭葩が梔昏に劣等感を抱いている、と言った方が正しいだろうな」
「ろ、琭葩が?」
さりげなく距離をとって、梓紗は訊ねた。
「ああ。お前も察してるだろ?」
「琭葩のこと?」
「自分で言うのも難だが、琭葩は極端過ぎる程、俺に心酔している。
まるで、俺の言うことやること全てがこの世の真理だ、とでも言うように」
「あ――、確かに。”兄馬鹿”に”ど”が付くくらいには」
「兄弟間の情は大切だ。だが、それも適度というものがある。だから、俺は、このままでは拙いと思った」
冰龍は、断言するように強い声音で言う。
兄として、弟が慕ってくれているのは嬉しいのだろうが、確かに、琭葩のあれは、少し厄介だと梓紗も思っている。
「ただ、俺に賛同するままでは、琭葩は自立出来ん。だから、なるべく俺に、近づけまいとした」
「琭葩や私に、巫女殿に来るなって言っていたのは、そんな理由もあったんだ」
「まぁな。お前を近づけさせなかったのも、琭葩が理由だった」
「え?」
「梔昏とお前との面会は受け、あいつだけを拒んでは、琭葩の性格上、絶望に駆られる。
だから、お前には琭葩を支える役目を担って貰うことにした。俺が、二人を突き放せば、あいつだけを独りにしないで済む」
「…冰龍は、本当に琭葩が大切なんだね」
冰龍は苦笑気味に、頷いた。
「たった一人の、弟だからな。だが、そのために、お前にもいらない気苦労をかけた」
申し訳なさそうに謝って来る冰龍に対し、梓紗は、ふるふると首を横に振った。
「ううん。事情が分かったら、楽になった」
「それは良かった……しかし、琭葩の方は、それで収まらなかったみたいでな」
「え?」
「梔昏に、嫉妬し始めた」
「嫉妬?」
「ああ。もちろん、本人自身は否定しているし、受け入れたくない事実、なんだろうがな」
「でも、それはどうして?」
「俺と梔昏は相棒のようなものだし、昔から親友だった。
それに加え、七年前から俺の態度が、極端に変わり、弟の自分を寄せ付けなくなっただろう?」
「うん」
「にも関わらず、梔昏だけは、なんだかんだと共にいることを、拒まれない。
それであいつは、梔昏に劣等感を抱いた、と、梔昏が分析していた」
「へえ…」
「今、それを諭している頃だろう」
「……ほんとに、冰龍も兄様も」
「ん?」
「大変ね」
その科白に、冰龍が軽く目を見開いた後に、どこか可笑しそうに、苦笑した。
「……お前が、それを言うか」
「ふふふ」
久しぶりに、冰龍と共に笑い合った気がする。
冰龍も笑っていた。仮面の奥から、笑い声が聞こえる。




