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里山の春

作者: 辻山琢平

一 

コーゥ・コーゥ・コー・コーと賑やかに餌を求めて鳴く鶏の声が夜明けとともに聞こえてくる。弘子は五時過ぎに起きていつものように鶏舎に向かった。陽が昇ると耳を覆いたくなるほどクマゼミがシャン・シャン・シャン・シャンと鳴くが、今はまだ周囲の林から蝉の鳴き声は聞こえない。静かな高原の夏の朝である。

暑い夏の時期の養鶏作業は朝陽が昇る前に午前中の作業を終えることが鉄則である。日中は鶏舎の中は扇風機を回していても三十度を上回り、うだるような暑さになる。毎日五時起きで世話をするのが習慣となっている。東京にいる時は夫の栄治の出勤に合わせて七時より早く起きたことはなかった。高原の夏は夜が明けるのが早く生き物は待ってくれない。鶏舎へ向かって山裾の細い道を朝露に濡れながら歩いて行くと、餌を求めて鳴く鶏の声が一段と賑やかだ。鶏舎の扉を開けて中に入ると舅の栄作はもう既に餌やりを始めていた。

「おじいちゃん、お早うございます。遅くなってご免ね」

「ああ弘子さんか、歳をとると早く目が覚めてなあ。あんたはゆっくりしとってもよかったのに助かる、助かる。そこの栓をひねって水をやってくれるか」

「はい、わかりました」

 弘子は簡易水道の栓をひねり早速鶏舎全体に流れるように給水を始める。鶏の水やり装置は舅の栄作が雨どいを利用して、ゲージの前を自然に流れるように工夫している。水が全体にほぼ行き渡ったのを見届け、サイロから手押し車に合成飼料を移して餌やり作業の応援をする。

 夏になると暑さで産卵率は普段の三分の二程度に落ちるが、昨日の夕方採卵したのに、もうあちこちに幾つも卵が転がっている。弘子が東京からやって来て初めて卵拾いの手伝いをした時、生みたての卵がほんわかと温かいのに驚いた。鶏卵の価格は長年変動が無く養鶏は利潤の少ない仕事だが、栄作にとっては年金以外に入る唯一の収入源で、東京から帰郷して既に十六年間、息子たち家族が帰ってくるまで一人で頑張ってきた。

 今は栄治たち親子四人が東京から引っ越してきて応援をしてくれる。栄作としては申し分のない快適な日々を過ごすことが出来て何の不自由もない。息子の栄治が病になり、東京を引き上げて田舎に戻ってきてくれたことは、栄治には申し訳ないが栄作にとってはむしろ有り難いことだと内心感謝している。


      

            二

栄作の郷里は吉備高原の中央にある、岡山県の臍といわれる吉備郡賀陽町だ。県都岡山市には比較的近く、地域の人たちはまとまった買い物はほとんど岡山で用を足している。ここ賀陽町は日中国交回復の陰の功労者である岡崎嘉平太氏の出身地であり、地区の人々は嘉平太氏がこの地から出たことを誇りにして生きてきた。今は地元の要望に応えて県が岡崎嘉平太記念館を建てて顕彰している。

近年、県の開発が進み「吉備高原都市」として脚光を浴び始めてきた。M電気の工場誘致が引き金となり八百六十戸の住宅団地も売り出されて、病院や郵便局やスーパーもできるし、住環境は申し分のないものになりつつある。その後四社の企業が操業を開始し地元の人たちの雇用も増えて活気が満ち溢れてきだした。

なだらかな山に囲まれた高原は開発が進み南北縦横に道が走り、岡山市からのアクセスはずいぶん便利になった。車を走らせれば四十分程で繁華街に行けるし、岡山インターからは三十分、中国道の賀陽インターからはわずか十分の距離だ。

当初は県立少年自然の家があっただけだが、交通のインフラが整った今は「総合教育センター」「ニューサイエンス館」に引き続いて、「リハビリセンター」や「老人ホーム」、「吉備の里福祉の村」などの施設もできて住環境は申し分のないまでに整ってきた。

おまけに栄作が東京にいた時、飛行場の建設がこの吉備高原の南のあたりで間もなく始まるという情報を耳にし、そうなれば東京へも短時間で行くことが出来て便利になる。そのことも帰郷の英断を下す大きなきっかけとなったのだった。 

 栄作が、田舎生活をしようと決断して賀陽町に帰郷する際、後妻の愛子はとうとう付いて来るとは言わなかった。戦争中、東京の空襲が激しくなり賀陽町に一時疎開した時の印象が尾を引いているのだろう。今は「吉備高原都市」に生まれ変わり、あの時とは一変していると口をすっぱくして説得を試み、一度下見に連れて来たがそれでも頑として首を縦に振らなかった。東京に生まれ育った愛子が田舎住まいを拒むのは仕方がないことと自分を納得させるしかなかった。そして東京の家屋敷一切を愛子に譲り、単身で郷里に戻ってきて始めたのが手っ取り早く生計の立つ養鶏だった。


            三

栄作が田舎に帰る直前に、弘子は栄作の三男栄治と縁あって結婚し目黒に住む栄治の母愛子と同居していた。その頃はコンピューター時代の幕開けを迎えた時期で、夫の栄治は仲間と三人でコンピューターシステム関連の会社を立ち上げ、ソフト開発の仕事が軌道に乗り始めていた。持ち前の器用さとアイデアマンの取り得が幸いしたのか、面白いように仕事が舞い込み、企業からの注文が多い時などは何日も家に帰らずプログラミングを続ける事もしばしばであった。

 こうして仕事に明け暮れる栄治であったが結婚して半年程立った頃、体重が急速に減少し手足のむくみが目立ち始めた。

 ある日夫が久しぶりに早く帰ってきた夜、弘子は半月ぶりに栄治に抱かれた。しかし栄治は弘子を抱いたのはよかったが、とうとう最後まで弘子を満足させることは出来ずに終わってしまった。弘子は栄治の腕の中で最近気がかりだったことをついに口にした。

「あなた、随分手足がむくんできたんじゃないの?」

「ああ、最近体に力が入らなくなってきた。徹夜が続いたのが原因かなぁ」

「一度病院に行って検査をしてもらったら」

「そうしたいところだが俺が抜けると仕事に支障をきたすからなあ」

「そんなこと言ったって、身体を壊したら元も子もないわよ」

「解っているよ。そうヤイヤイ言うなよ」

「お願いだから検査に行って頂戴ね」

 その後も弘子は何度も病院に行くことを勧めたが、仕事の多忙を理由に栄治は行こうとしなかった。それから三ヶ月ほど経ちとうとう職場で倒れてしまった。会社からの連絡で弘子が慌てて病院に駆けつけてみると、一応の処置は終わりベッドで点滴をうけていた。担当医から「アルコール性肝障害」と告げられた。弘子が心配したとおり、毎晩身体のしんどさをアルコールで紛らせていた付けが回ってきたのだ。アルコール厳禁、塩分制限をしてしばらく入院加療が必要と言われた。だが命にかかわるほどでは無いとのことで弘子は一先ずホットする。

 半月ほど入院した栄治は、家庭での食事療法の必要とアルコール厳禁を宣告されて退院した。この時以来栄治の食事制限に注意を払い、弘子は手作りの弁当を毎日持たせることになった。

《カロリー計算を厳重にして、三食きちんと摂ること。バランスの良い良質の蛋白を念頭においた食事作りを心がけること》 

退院時に栄養士からこのような細々とした指示を受けて弘子は忠実に守った。 

恋愛結婚であったが栄治は夫婦生活に意外と淡白で、弘子が時々会う高校の同級生との会話でも、子供が出来ないのは無理ないと同情されることがしばしばであった。結婚してから栄治が弘子の身体を求めてきたのは、三年の間に数えるほどしかなくて淋しい毎日を送りながらの日々が続いていた。栄治はその気になれないと言う。これも肝障害から生じた症状だったのかとやっと納得のいった弘子ではあるが、どうしても子供が欲しかった。友人の勧めもあって栄治と相談のうえ人工受精を受けることにした。その頃、K病院にその筋の権威の先生がいるということで友人の父親の紹介で治療を受け、そのお蔭で有り難いことに真一と誠の二人の息子を授かったのだ。

食事療法と定期検診を続けていたが栄治の体調はもう一つすぐれず、ハードな仕事を続けていたら病状が悪化し寿命を縮めると医者から宣告され、父親の住む賀陽町に帰ることにした。仲間と立ち上げた会社は順調で、それを手放すことは栄治にとって未練があったが病気には勝てなかった。結婚して何回か賀陽町を訪れて舅の栄作の生活は熟知していたが、東京に生まれ育った弘子は田舎の生活に踏み切るまでにはずいぶん悩んだ。しかし栄治の体のことや子供達のことを考えると、田舎に住むのが一番良いと思う。あの自然一杯の中で伸び伸び育つのは子供にとって最高ではないか。自分の我が儘ばかり固執すべきではないと考え、真一が小学校二年、誠が幼稚園の年少組であった昭和五十二年三月の春休みに、蛮勇を振るって賀陽町にやってきた。そして舅の栄作と自分達親子四人の生活が始まったのである。

半年ほどぶらぶらと療養生活を続けていた栄治は、秋風の吹き始める頃にはかなり回復し軽い労働の許可が下りたので、近くの電気部品工場の運転手として働くようになった。荷物の積み下ろしはフォークリフトで行うので、労働は比較的軽いものであった。食事療法は相変わらず続き、弘子は塩分制限に気を配りながら高カロリー食の弁当を毎日作って送り出した。


            四

弘子達がやって来た時、吉備高原都市はまだ建設途上で自然が一杯であった。

「おじいちゃん、とても空気が美味しいわ。東京を離れて良かったわ」

「ああ、わざわざ森林浴などに行かなくても毎日がそうだよ」

「排気ガスの臭いが全くしないわ。空も澄み切ってとても綺麗だし」

「夕日はもっと素晴らしいぞ。茜色に染まった山の姿は抜群なんだ。いつも夕焼け空を見るたびに、東京は住むところじゃあないとつくづく思ったもんだ」

「そうねぇ、こうして東京から離れて田舎に住んで見るとよくわかるわ」

「そうじゃ、わしが言ったとおりじゃろう。きっとあんたはそう言うと思うとったよ」 

 栄作は弘子が田舎生活をどう思っているかずっと気にしていたが、弘子の言葉でその心配も消え内心ホッとするのだった。

「ウグイスの鳴き声が毎日聞けるなんて信じられなかったわ」

「春先は練習不足のウグイスが『ホーケキョ』とホの一字抜けた鳴き方をするのもいるから面白いで。だが良くしたものでそのうち練習を重ねて『ホーホケキョ』と上手に鳴きだすからなあ」

「まあそうなんですか。鳥にも練習不足があるなんて面白いわね」

「ウグイスは夏近くまで縄張りを主張しながら四方八方で鳴くんだ。遠くで鳴いたと思うと、その後別のウグイスが鳴く。すると今度はまた別の方角から縄張りを主張して鳴くんだ」

「ウグイスの競演ですか」

「これから色んな野鳥の鳴き声が聴けるぞ。楽しみにな」

「どんな鳥がいるんですか?」

「ウグイスやメジロは勿論だが、ホウジロとかジョウビタキとか、夏になるとホトトギスが『トッキョ・キョカキョク』と大きな声で夜中に鳴く。またフクロウや山鳩のホ・ホーという鳴き声も夜は聴けるぞ」

「フクロウが夜鳴くのは知っていましたが、ホトトギスも夜鳴くんですか」

「ああ、昔からホトトギスは夜、喉から血を吐くように鳴くので『死出の道案内人』などと言われて気味悪がられたそうじゃ」

「そうなんですか。夏が楽しみだわ」

「それに冬の空気が冷え冷えとする早朝に眼下に広がる雲海は絶景だよ。まるで雲の上にいるような気分になるからなあ」

「雲海ですか。まだ見たことがないわ」

「それにな、秋の澄み切った天気のよい日には四国の剣山がここから遠くかすかに見えて壮大な気分にしてくれるし、夕焼けも目が染まるのではと思われるほど見事な茜色になるんじゃ」

 栄作は東京からやってきた弘子に熱っぽく吉備高原の自然の素晴らしさを語ってくれた。

 やがて季節は夏から秋、冬へと移り、栄作が語ってくれた通り天気の良い冬の朝、庭の木の枝に蜜柑を半分に切って刺していると、本当に手が届くほど近くまでメジロがやってくる。少し蜜柑を啄ばんではあたりをキョロキョロ見回して警戒しながら、チュル・チュル・チュー・チュルと仲間を呼んでいる。弘子はメジロのさえずりがこんなに高くて鼓膜にビンビン響くなど想像もしなかった。毎朝蜜柑を枝に刺してはメジロのやってくるのを待つ間が楽しい。メジロはスマートな姿で愛くるしく、目の縁の白い眼鏡、首に掛けた黄色いマフラー、濃い黄緑の背中、首から腹の薄い羽毛のコントラストは素晴らしい。姿は、ウグイスよりもメジロのほうが一段と美しいと弘子には思えた。

 こうして一年をこの吉備高原で過ごしてみると、本当に豊かな自然の恵みに感謝である。ちょっと近くの山に足を運べば、春はフキノトウ、ワラビ、ぜんまい、タラの芽などが幾らでも採れて山の珍味に不自由はしない。一度には食べきれないので軽く湯がいて塩漬けにしておくと年中重宝する。狩猟期になると近くの農家の男達が、雉や猪を仕留めておすそ分けが来る。マツタケは少なくなったとは言え、少し山を歩けば家族が食べるぐらいはまだ手に入る。

又周囲の自然は四季折々に変化を見せ、早春から春にかけて万作、さんしゅゆ、福寿草、山桜、コブシの花、初夏から秋は春蘭や彼岸花、ワレモコウ、そして白く可憐なセンブリの花が咲き誇り目を楽しませてくれる。特に山桜は周囲の山のあちこちにポツン・ポツンと咲いて、ここに居るよと主張しているようだ。賀陽の自然は弘子にとって飽くことを知らないほどの恵みを与えてくれる豊かな里山だ。


            五

台所は昔のままのタタキで、土間にはダルマストーブが殿と構えている。部屋では石油ストーブを焚いているが、弘子にとってこのダルマストーブは特に重宝している。家の中全体が暖まるし、煮炊きの殆どはこのストーブで事足りる。土足のままで暖を取れるし身体全体を暖めてくれる。近くの雑木林から切り出した薪を利用出来るので燃料代もかからない。特にじっくりと煮込む料理には最適で弘子はご満悦である。東京では考えられない贅沢と言えば贅沢である。パンを焼いたり子供達のオヤツを作ったりする時も便利だ。正月のおせち料理の煮豆など最適だ。弘子にとって田舎生活をエンジョイする貴重な家具として、このダルマストーブは冬の間欠かせない道具の一つである。


今日は午後から鶏糞の掻きだし作業がある。弘子は栄作と長靴を履き角スコップを持って鶏舎にいた。弘子にとって賀陽にやってきた当初、卵拾いはリクリエーションのようで楽しかった。しかし毎日となるとなかなか大変な手作業である。更に鶏糞の処理は匂いもきついし汚れ仕事でそれ以上に大変だった。始めの間は苦痛だったがひと月もしない間に何とか慣れてきて、今は何の抵抗も無い。慣れとは不思議なものだと弘子はつくづく思う。

栄作と作業を終えた弘子は急いで家に帰り、疲れた身体に鞭打ちながら台所に立ち、夜行便乗務の栄治のために手作りの弁当を作る。栄治を送り出すと弘子は急いで夕飯の支度に取りかかった。

「おじいちゃん、お風呂が沸いてますよ。どうぞ」 

「おう、有難うさん。今晩は冷えそうじゃなぁ」

そういいながら作業着を脱ぐ栄作。古希を半ば過ぎた栄作ではあるが、力仕事をしてきた身体はまだ逞しくて弘子には少々眩しい。亭主の栄治は病気がそうさせるせいか夫婦生活は全くお呼びでない。四十を少し過ぎた弘子にとって栄作のたくましい姿は目に毒だ。結婚してから女の悦びは味わったことが無いと自分では思っている。東京にいた頃、友達と会う度に際どい話題も出たが、弘子には何か別の世界の話に聞こえ少々羨ましく思えたものだ。今ふとその頃の会話がなぜかフッと頭をよぎる。

「おじいちゃん、湯加減はどうですか」

 まだここでは五右衛門風呂である。クヌギの薪で焚いているので湯冷めは余りしない。

「おう、丁度ええ加減じゃ。有難う」 

栄作は首まで湯に浸かって、一日の疲れを癒すようにゆっくりと身体をほぐしている。

栄作の声を後にしながら弘子は午前、午後と鶏舎の管理に汗を流した栄作のために、二合入りの酒の燗をストーブの上に置く。今日は弘子も身体がアルコールを求めている。もう一合、別の徳利に注ぎストーブに載せる。

やがて風呂から出てきた栄作と今日はゆっくりと酒を酌み交わす。春に収穫し茹でて塩漬けにしていたものを塩抜きして、薄く味付けしたワラビの佃煮風のツマミと、キャラブキ、そして栄作の好きな卵のだし巻きが酒の肴である。ささやかではあるが何ものにも替え難い贅沢とも言える。栄作は珍しく酒の相手をしてくれる弘子を眩しく見ながら、ニコニコ顔で杯を重ねている。少し酔いがまわったのか、やがてポツリ、ポツリと自分史を語り始めた。

「昭和の始めの大恐慌の後、農村の疲弊と困窮は極度に達してなあ。アメリカやブラジルへ大勢移民として出て行ったんじゃ。ところがアメリカの政策でそれも中断してしまって農家の二、三男は行き場の無い者が激増してなぁ」

「大変な時期があったんですね」

「それで満州事変以降『王道楽土』『五族協和』のスローガンのもとで、働き盛りの若者を開拓団として送り込んだのだ。「武装農業移民」と称し、後から知ったことじゃが第一次、二次と合わせてその数は千人を超えたそうな」

「そんなに大勢だったんですか」

「男だけでは駄目じゃからさらに『大陸の花嫁』と称して、一次、二次、合計二百六十名の若い娘を送り込むという周到な計画も進んだんじゃ」

「えっ、花嫁まで?」

「ああ、そうじゃ、続いて昭和十一年に当時の首相広田弘毅は、満州に向けて二十年間で五百万人送り込むという壮大な移住計画を立て、現地の農民から土地を強制収用して入植を計ったんで」

「昭和十一年というと私はまだ生まれてなかったわ」

 弘子はそう言いながら栄作に酒を注ぐ。

「そのあと『大陸の花嫁』百万人計画も樹立されたんじゃ」

「まあ、百万人もですか?」

「うん、そうなんじゃ。昭和十三年からは『満蒙開拓青少年義勇軍』の本格的募集が始まってなあ。旧制中学に在学しとったわしは、先生から満蒙開拓の話を聞かされてのう。お国の為だけじゃぁのうて満蒙の発展に寄与できると確信して、昭和十四年の春に燃えるような夢と自負心と野望を抱いて、中学卒業と同時に大陸に渡ったんじゃ」

「そうすると、おじいちゃんは満州でお嫁さんをもらったの?」

「うん、そうなんじゃ。二年間開拓に従事しとったが、わしは自分たちのしていることは現地の農民の犠牲の上に成り立っていることを実感してなあ。これは間違っとると思って義勇軍から抜け出したんじゃ。そして現地で貿易会社の仕事に就き、女房をもらって二人の息子に恵まれて幸せな家庭を築くことができた」

「東京にいらっしゃる昭一さんと昌男さんですね」

「ところが当初は商売も竜虎の勢いだったが、第二次大戦が始まり敗戦の色が濃くなるに連れ、貿易の仕事は段々厳しゅうなってのう。とうとう会社も閉めざるを得んようになった。それまで順調な経営が続いていたから充分な財をなすことは出来たけどなぁ」

「私はまだ小学生になったばかりでしたが東京の空襲も大変だったわ」

「わしはな、昭和十八年に一度帰郷した時、観音寺が屋根瓦の吹き替えで資金調達に難渋していると聞いてのう。一万円の寄付をして郷土に錦を飾ることも出来たんじゃ。じゃから寺からは手厚くもてなされて永代院居士の栄誉を与えて貰うたんで」

 栄作は自慢そうにそんな話をしながら、グイっと杯を傾けた。

「それでわしはなあ、敗戦の色濃くなった十九年の秋、家族四人で満州から引き揚げた。下関に上陸した時に運悪く妻の昌子が風邪をこじらせて急遽入院してしまったんじゃ。戦争が激しゅうなって、ドイツからはいい薬の入手が困難な頃で、肺炎を併発して二週間もせんうちにあっけのう逝ってしまった」

「それは大変でしたわねぇ」

「うん、本土に帰ってきてこれからという時じゃったんじゃ。幼い二人の息子を抱えてわしゃあ途方にくれてしもうた」

「その時お兄さんたちは何歳だったの」

「昭一が五歳、昌男が三歳じゃった。運良く一緒に帰国した貿易会社の部下が、世田谷に来るように誘ってくれてなあ、部下の世話で目黒の旧い住宅を買い求めて、何とか落ち着くことが出来たんじゃ」

「幼い子供を二人もかかえて大変だったでしょう」

「ああ、今まで生活のことはすべて女房任せにしとったわしにとって、幼い子供を抱えての家庭の切り盛りは難儀なことでのう。お手伝いに来てもらって何とかしのいだ。あくる年の冬に後妻の愛子を嫁にもろうて、やっと落ち着いた生活を取り戻すことが出来たんじゃ」

「それが今のお母さんの愛子さんですね?」

「うん、そうなんじゃ。そして愛子は妊娠したが、戦火は厳しく東京の空襲は熾烈を極め、大きな腹を抱えた愛子と息子二人を連れて郷里の賀陽に疎開して帰った」

「実家に疎開されたんですか」

「ああ、四人の子供を抱え、細々と農業を営んでいた兄夫婦のところに転がり込んでのう。長屋を改造して疎開先の生活を始めたんじゃが、後妻の愛子は東京生まれの東京育ちでなかなか山奥の田舎の生活には馴染まんでなあ。いつもブツブツ不平を言ってはわしを憂鬱な思いにさせとった」

「お母さんは田舎の生活が余程嫌だったんですねぇ」

「何が気にいらなかったのかよう判らんがのう。やがて授かった男の子が栄治なんじゃ。それで敗戦の翌年の秋、かつての部下に管理を頼んでいた東京の家屋敷が心配だし、後妻の愛子のブツブツもあって賀陽町を引き上げて再度上京を試みたんじゃ」

「まあ、そうだったんですか」

「上京してみると幸い目黒の家は戦災から免れて残っていた。東京に引き上げた翌年、愛子との間に二人目の子供の美栄子が誕生したんじゃ。愛子は腹違いの二人の子供達とはいつまでたっても馴染まなんだ」

「まあ、可哀想に」

「長男と次男は高校卒業と同時にそれぞれアパート生活をし、大学を卒業してからは全くわしらの居る目黒の家には殆ど寄り付かんようになってしもうた。わしゃあ、二人の息子達が独立して世帯を持ったのをきりに一人でこの賀陽に帰ってきたんじゃ」

「何度も苦労なさったんですねぇ」

「愛子には何度も一緒に帰ってくれんかと説得を試みたんじゃが、頑として首を縦に振らなんだ。それから後のことはあんたもよう知っとる通りじゃ」

杯を重ねながら栄作はこんな話をひとしきりしていたかと思うと、何時の間にかテーブルに顔を伏せて眠り込んでしまった。弘子は急いで寝床を敷いた。

「ゆっくり休んでね」

栄作に声を懸け弘子は台所の片づけを始めた。久しぶりにお酒を頂いたのと、栄作が初めて自分から進んで昔の自分を語ってくれ、何だか心も体も温かく今夜はぐっすり眠れそうだった。

あくる朝、栄作は鶏に餌をやりながら弘子に昔語りをした夕べのことを思いだしていた。東京生まれの東京育ちと言いながら、愛子と弘子のこの違いは一体なんじゃろうか。時々栄作の頭をよぎる疑問の一つである。弘子は賀陽町にやってきてからすぐに田舎の風習に溶け込んだ。近所付き合いもたいしてトラブルこと無く活き活きとやっている。むしろ廻りの主婦連中と上手く折り合いをつけ、時には自分流に周りを巻き込んでいる。こんな弘子の生活振りに栄作はしばしば目を見張るのだった。弘子の何にでも逞しく挑戦していく持ち前のバイタリティーには感心させられた。


          六

七月の中ごろ、弘子は近所の主婦仲間に誘われて賀陽福祉交流プラザにやってきた。毎年新暦の八月十五日の夜に催される盆踊りの練習会場である。既に二十数人の主婦や子供たちが集まって練習の始まるのを待っている。今までは見物の側に立っていた弘子だが、今年は踊りの輪の中に入りたいと思い編み物教室の仲間に誘われてやって来たのだ。

しばらくすると藤原さんの和太鼓のリズムに合わせて町内会長の佐藤さんの音頭で練習が始まった。軽やかな和太鼓のドン、カカッカ ドン、カカッカ・・・とともに、

『南無や大悲の観世音、年端も行かぬ巡礼を 導きたまうぞ 有り難や 聞くに憐れをとどめしは 阿波の鳴門の物語 聞くにつけても憐れなり ・・・・』

佐藤さんの切々とした阿波の鳴門の口説きが始まる。母親に連れられて参加した小学生に混じって、弘子もリーダーの後について手振り足裁きを真似ながら着いていく。手と足がうまく揃わずギクシャクしながらも何とか『阿波の鳴門』を踊ることが出来た。引き続いて『大黒踊り』と『松山踊り』を練習し終えた時は汗をびっしょりかいていた。子供たちが夏休みなので昼間週二回の練習が計画されていたが、弘子は都合三回練習に参加してなんとか踊れるようになった。 

 そして迎えた八月十五日の夜、息子たち二人は小学生の頃は踊りに参加していたが、大きくなるにつれてなぜか踊らなくなってしまったので、弘子は栄作を伴って小学校に出向いた。学校の校門の近くまで来るとカカッカ、ドン、カカッカ、ドンとのんびりとした太鼓の音が聞こえてくる。運動場の真ん中には紅白の幕を張り巡らした櫓が用意してあり、既に四、五十人の踊りの輪が出来ていた。

「月にナァ、むら雲 花に嵐 イヤ ドッコイショ ドッコイショ 散りてはかない 世のならい アラ ヨイトサ マンダライヤ 鬼がコニャエー」

『大黒踊り』が鮮やかに繰り広げられている。栄作は慣れたもので早速輪の中に入り踊りだした。古希を過ぎたとは思えないほど、手さばきも足運びもリズミカルにたちまち輪の中に溶け込んでいく。弘子も栄作の後について輪の中に入り、片手に団扇を持ちながら練習した所作を思い出して何とか着いていけた。太鼓の音は校舎にこだまして心地よい響きを返してくる。子供たちも最近は体験学習で練習しているので、可愛いい浴衣姿で参加して弘子より何倍も上手で、特に団扇の返しようがしなやかで上手い。お盆で帰郷したと思われる普段見慣れない若者たちも大勢参加して、夏の夜の宴は夜の十時まで休むことなく続けられた。

「いつまで続けられるかのう。音頭とりも太鼓も、跡継ぎが出来ないと続かんからのう」

「音頭の佐藤さんも太鼓の藤原さんも八十が近いんでしょう?」

「いや、七十の半ばじゃ。わしより五つほど上じゃと思うで」

「田舎の伝統を守るのも大変ね」

「小学生に教えても中学、高校と大きくなるにつれて、恥ずかしがって踊りゃあせんからなあ」

「若い衆が地元に残れるように働く場所がもう少し増えないとだめね」

「吉備高原にいくつか企業が進出してきているがまだまだじゃ」

「県も力を入れているようだからそのうちよくなるでしょう」

「住宅団地は出来たが企業はまだ少ないからのう」

 帰りの車の中で栄作はしみじみと伝統の継承の難しさについて心配顔で話すのだった。



            七

 秋の収穫を終えた十一月の最後の日曜日、地区の氏神様である荒神様の、七年に一度の荒神神楽奉納の年がやってきた。栄作の話ではかなり経費がかかるので最近は十三年に一回ぐらいしか奉納していないと言う。弘子たちは一度、十二年前に栄作の招きで荒神神楽を見物に東京からやってきたことがある。あれから八年が経過していたのだ。子供がまだ小さい頃で真一を背負って見物した思い出がある。

 賀陽町にやってきた年に荒神神楽が見られるとは運が良かった。松のうさんが登場してひょうきんな語りを聞かせてくれたり、大国主の命が登場して国譲りの話をしたりヤマタノオロチ退治など思い出す。中でも大黒様が福の種を播くのを拾うのが子供たちにとって一番の楽しみのようだった。

 祭りの前日は栄作も年寄り株ではあるが地区の一員として準備に出かけて行った。朝八時に公会堂に集合する。

「荒神様に運ぶものは白板に書いとるからよう見て軽トラで運んでくれぇ。物置の中にあるからよう確認してな」

地区長の敏さんが大きな声で指示する。

「畳が書いてないがどうするんなあ」

「畳は神社の物置に積んであるんよ」

「湯釜の用意は前回の写真があるからそれを見て設営してくれぇよ」

 五月と八月の盆前と天神様の秋祭り前と年に三回は協同で道のほとりの草刈りをしており、その時ついでに荒神様の草刈りもしていたので、あまり茂ってはいなかったが年寄りたちで綺麗に除草した。

 道具も揃い荒神様の社の前の広場にシートを敷き、その上に八畳の畳を敷いて神殿(こうどの)の準備をする。

「オイ誰か結界のための竹を四本切ってこい。舞台の四隅に立てるんじゃから手ごろなのを頼むで。先の方の笹は少々残しとけえよ。」

地区長の指示がひっきりなしに飛び交う。若い衆も年配の者も指示に従っててきぱきと動き昼過ぎには完成した。

 翌日は天気もよく祭りには最適だった。午前中に神楽太夫が家々を廻って家祈祷をし、本来なら神楽の奉納の後の行事だが、便宜上前もって公会堂でお神酒を戴いて直会(なおらい) (会食)を済ませ太鼓を叩いて宮上がりだ。

神主の祝詞と湯釜の神事が済むといよいよ神楽の奉納である。今回の一座は成羽の神楽社中を頼んであるそうだ。十二年前に弘子が見たのは総社の一座が公演をしたように思う。栄作に言わせればいずれの社中も備中神楽だからそう違いは無いと言う。弘子は家祈祷が済むと急いで神社に向かった。  

 栄作が子供の頃は夕方五時頃から舞い始めて、夜が明けるまで舞っていたと話していた。今は経費の関係と年寄りの夜道を気遣って二時から六時までの四時間ほどになったらしい。一つ一つの舞う時間を短縮して一応全ての舞を奉納するのだと栄作は言っていた。

 トン トン トコトン トン トコトン 「よー ハイ」トン トン 音楽さんの撥さばきも軽やかに太鼓の音が心地よい。

「さぁーて舞い出だす神を いかなる神と思うらん・・・・・・」トコトン トン

太鼓の音が周りの森にこだまして心地よい。役指の舞に始まって榊舞、白蓋神事、導き舞、猿田彦命舞と神事舞が続く。時間短縮とはいっても神事舞は省くことなくきちんと舞うのがしきたりだそうだ。

 そして弘子の待っていた神話を基に劇風に創作された神能がいよいよ始まった。まずは『天の岩戸開き』だ。岩屋に閉じこもった天照皇大神を知恵の神様(思兼命(おもいがねのみこと))、踊りのうまい女の神様(天宇津女命(あめのうずめのみこと))、日本一の力持ちの神様(手力男の(たぢからおのみこと))たちが登場して、とうとう天照皇大神を岩屋から誘い出して神能の一は終わる。

 続いて舞台は神能の二『国譲り』の舞に移る。古事記によると大国主命は出雲神話の主役でなかなかの艶福家だったと伝えられ、生まれた子供は百八十名に余るというのも物語とは言え面白い。 

 見物席がざわつきだしいよいよ大国主命が福の種を播く場面が始まるようだ。弘子も持ってきたビニール袋を出して福の種を入れる用意をする。今も昔も変わらずこの場面になると子供も大人もエキサイトする。栄作は息子の栄治がアイターンして地区の仲間入りをさせてもらったお礼として、紅白の福の餅を百個奉納させてもらったので今回は播くほうにまわっている。

「大黒さん、こっち、こっち」

「栄作さん、こっちにも投げてくれえ」

 弘子も餅を三個と菓子袋を六つばかり拾った。人々は大国主命とは呼ばず大黒さんの愛称で呼んでいる。相変わらず賑やかなことだ。  

 そしていよいよクライマックスの神能の三『素戔鳴命(すさのおのみこと)の大蛇退治』が始まった。

 トン トン トコトン トン トコトン 「よー ハイ」トン とゆっくりしたテンポで素戔鳴命の地舞が始まる。ヨーイソリャ ヨーイソリャの音楽さんの囃子と太鼓のリズムに乗って素戔鳴命が登場してきた。弘子の一番好きな舞である。手さばき足さばきも優雅で、面をかぶった首を上手に左右に振りながら舞っている。神楽の舞の中でも極め付きの圧巻といってよい。弘子はその舞に引き込まれ太鼓のリズムに合わせて自分も首を振っているのにハッと気づきそっと周りを見回した。皆の目は舞台に吸い寄せられているようで弘子は顔を赤らめながらもホッとするのだった。

 やがて『じじ』『ばば』が登場して嘆きの物語が始まり人々の涙をそそる場面が展開する。末娘の『稲田姫(いなだひめ)』が素戔鳴命と契りを交わしいよいよ大蛇に飲ます酒作りになった。この酒造りの神である松尾明神の登場は神楽の中では一番笑いを誘う場面で、音楽さんや観客と掛け合い漫才のやり取りをしながら賑やかに八千石の酒を造るのである。

 弘子は前回神楽を見たとき地方にもこんなに明るい郷土芸能が根付いていることに驚いたが今回は腹の底から笑えた。そしてピー ピー ピューの笛の音とともに二匹の大蛇が登場してくる。そして素戔鳴命との戦いの末『天の群雲の宝剣』が胴のなかから出てきて最後のクライマックスとなる。

 今回の成羽の一座は松尾明神と音楽さんのやり取りが特に面白かった。時代にあった話題を取り上げこっけいな話術と素振りで観客を楽しませてくれた。

 本来ならば栄治が月一回の常会にも出て地区への仲間入りをしてくれるのが一番だが、体調がすぐれないことを理由に出たがらないのでこうして栄作が地区の行事に参加している。早く健康を取り戻して皆から歓迎されて、本格的に仲間入りを果たすことが出来るのを弘子は願うのだった。


            八

最近栄作は地区老人クラブの役員会の席で弘子のことをよく耳にするようになった。弘子たちが吉備高原にやってきて五年目になるが、地域の婦人会にも積極的に参加して交流が増えてきたからだろう。たいていの評判が

「東京のお嬢さん育ちと聞いているが、よう地元に溶け込んで頑張っとる」

というもので栄作としては悪い気はしない。近所の評判もすこぶる良くて、

「栄作さんよう、あんたの所の嫁さんはようできとるなあ。明るうてざっくばらんで」

「わしらぁの知らんことをよう知っとってじゃ」

「何やかにや教えてもらう事が多いから助かっとるんで、ほんまに」

半分お世辞としても栄作にとっては嬉しくて仕方が無い。それに息子と違って舅の自分にも優しい言葉をかけてくれ随分大事にしてくれる。自分でもよう出来た嫁と内心思っていたので満足していた。

まあよく考えてみれば鶏が縁で、いつも一緒に作業をして普段からよく話もするし気心も知れるようになってきた。満州で成功して優雅な生活を一時とはいえ経験してきた栄作にとって、弘子が東京で身に付けた上品な数々の作法は気にいっていた。茶道、華道、編物などを心得ているので田舎では光る。いつの間にか子供達が縁で知り合ったPTAの仲間にも、求められてお茶や花の指南までするようになっている。これも愛子を東京に置いて独り田舎に舞い戻り、味気ない生活をしていた栄作にとって大きな心の安らぎであった。

「弘子さん、わしはなあ最近つくづく思うんじゃが、人間すべて『八分の精神』が大事じゃと思うようになった」

「八分の精神?」

「そうじゃ、八分の精神じゃ。昔から『腹八分に医者いらず』という諺があったじゃろう?」

「ええ聞いたことはありますよ」

「食事の量はもちろんじゃが、毎日の生き方にも当てはまるのではないかとわしは思うとるんじゃ」

「毎日の生き方に?」

「仕事にしても生活にしても、八分の心でゆとりを持った生き方が大切じゃと思う」

「でも仕事や勉強を考えるとそんな訳にいかないでしょう」

「いや、毎日の生活に振り回されて最近の日本人の生活はゆとりがないように思う。ついついあれもしたいこれもしたいと貪欲になっているようだ。そして自分の目標が達成できないと出来ない自分に腹をたてたり、周囲に欲求不満をぶつけてしまうのと違うか」

「そう言われてみると私も子供たちに対して、もう少ししっかりしてくれたらと、完璧を期待するところはありますわ」

「そうじゃろう。完璧を期待すると少し出来ないだけで不満が募るもんじゃ。身近な家族のことだけでなく、社会や政治に対しても満点を期待するのでなく、少しゆとりを持ってみればゆったりとした日常生活が取り戻せると思うで」

「そうですねえ。腹八分の精神ですか」

「ああ、そうじゃ。常に心の中に『八分』の気持ちを抱いて、少しゆとりのある生活を心がけようと思うようになったんじゃ」

「そうですか。最近スローライフとかいって、企業戦士だった人たちがリタイアして第二の人生を模索している様子が報道されていますものねぇ」

 午前十時のおやつの時間に、鶏舎の脇の畑の土手に座ってお茶を飲みながら、栄作は今までになく神妙な調子で弘子に語りかけるのだった。

 栄作のこんな話を聞いて、テレビドラマ『北の国から』の作者である倉本總氏の書いた『ドラマの出来るまで』がふっと弘子の頭をよぎる。

 彼は富良野に移り住み、荒れ果てた原野と山林をひたすら歩き、いくつもの廃屋を目にして大型機械に追われて消えていく馬や鍛冶屋や、経済社会に巻き込まれて夜逃げしていく農家とか吹雪を前に立ち往生した人々に思いを寄せた。

 そして塾生に呼びかけて廃屋を建て直し、丸太小屋を建てて廃材でポンプを作り、自然の中で人間が人としての自己を回復させる試みに挑戦した。その時『生活必需品』について富良野の塾生と東京渋谷の若者にアンケート調査をした結果、塾生たちは、一は水、二はナイフ、そして三に食料を上げた。一方渋谷の若者は一に金、二に携帯電話、そして三にテレビという答えが返ってきたという。価値観の違いが鮮明に浮かび上がる結果だったと彼は書いていた。

 倉本總氏の話を思い出して渋谷の若者だけでなく、今の日本では大多数の人たちが、豊かで便利で快適な生活を求めて、日々あくせくと生きているのではないかと弘子は思う。戦後焼け野原から立ち上がり、われわれが手にした経済の成長や繁栄には目を見張るものがある。だが今急速に変わる生活環境に戸惑いを覚える人々も多いのではないだろうか。

 弘子はこの吉備高原にやってきて、豊かな自然に囲まれて生活するうちに、『もっと快適に、もっと便利に、もっと豊かに』と限りなく増幅する人間の欲望に疑問を抱いていた。自分が望む幸せとはなんだろうかと立ち止まって考え直した時、栄作の言う『腹八分の精神』の意味が分かるような気がした。

言われてみると弘子は頭では解っているつもりでも、子供たちや夫の栄治に対して心の隅で不満を覚えていたことは紛れもない事実であった。田舎に住むようになったのだから、もう少しのんびりと大らかな気持ちを持って、栄作の言うように『腹八分の精神』で生活していけば、ストレスの溜まることもなく、穏やかな日々を手にすることが出来るのかもしれない。そして日ごろ栄治に対して抱いている不満の思いが少しでも和らいでくれたらいいのにと思うのだった。


          九

夜中過ぎに花火のドドーンという音で弘子は目が覚めた。時計を見ると丁度午前一時、それぞれの神社で宵宮祭をした八つの神輿がこれから加茂総社宮を目指して順次出発する合図だ。

弘子はここ賀陽町にやってきて毎年この大祭に行くのを楽しみにしている。数年前の夜中、栄作に連れられて地元の神社に出発の様子を見に行ったことがある。

男衆はそろいの法被を身にまとい色鮮やかな襷をかけて、鉢巻をきりりと結んで勇壮な出で立ちであったのが脳裏に浮かんでくる。  

あの時栄作が話してくれた。

「この『加茂大祭』はなあ、毎年十月の第三日曜日と決まっとるんじゃ」

「古くからのお祭りなんですか?」

「ああそうじゃ。加茂総社宮は九百四十年の伝統ある神社でな。秋祭りは今では県の無形民族文化財にもなっとる」

「まあ、そうすると平安時代からのお祭りなんですねぇ」

「戦争中は一時中断しとったが昭和二十二年から復活してな、それからは毎年やっとるんじゃ」

「戦後復活した行事が沢山ありますねえ。神田明神のお祭りもそうでした」

「各地区の八つの神社の神輿のうち一番遠い化気神社では午前二時ごろ出発して、ゆっくりと御巡幸して七時頃までには八つの神輿が加茂総社宮に集結する。寄宮祭というて全国的にも珍しい祭りなんだよ」

以前栄作が説明してくれたこんな話を思い出しながら、まだ朝まではずいぶん時間がある。朝早くおきて鶏の世話をしておかないと祭りのクライマックス「御神幸」に遅れる。そんなことを思いながら、それまでもう少し眠っておこうと弘子は待ち遠しい思いを胸に目を閉じた。

朝六時に起きて弘子は栄作と二人でやっと九時過ぎに鶏の餌やりを終えた。今日は息子たちも楽しみにしている祭りなので、おじいちゃんと四人で祭り見物に行く約束をしていた。

「真一、誠、早くおじいちゃんを呼んできて」

「おじいちゃん、早く行こう。御神幸に間に合わんで」

大きな声で誠が栄作を呼んでいる。

「ああ、わかっとる」

「昨晩は朝十時半には出かけると言うとったじやろう。もう四十五分が過ぎとるが」

真一がとがめるように言う。

「おじいちゃんはわかったと仰っているんだからもういいわよ」

舅の栄作は古いカメラを肩にやっと車に乗る。不思議なことに加茂神社の大祭の日は天候に恵まれここ数年雨に降られたことはない。道路わきの木々の紅葉がハンドルを握る弘子の目に鮮やかに映る。十月も下旬を迎えると高原もすっかり秋の気配に包まれて車の窓を開けると爽やかな風が頬を撫でる。

三十分ほど車を走らせ十一時過ぎに神社に着いて何とか御神幸に間に合った。神社の前の沿道の両側にはイカ焼き・焼きソバ・タコ焼きなど、たくさんの屋台が軒を連ねてあたりにいい香りを漂わせている。 

加茂総社宮は樹齢五百年を超える杉、檜、イチョウの巨木十五本ばかりが周囲を取り囲み、鬱蒼としていていつ訪れても歴史の重みを感じさせる社だ。

弘子たちが到着してしばらくすると、羽織はかま姿の氏子総代、宮司に続いて鉦・笛・太鼓の祭りバヤシを先頭に獅子舞や子供たちの棒使い・太刀振りなどのお遊び行事が奉納され、その後をワッショイ・ワッショイの掛け声と共に勇壮な若者たちに担がれた神輿が加茂総社宮を目指して次々に入ってきた。

担ぎ手の若者たちはそれぞれの神社で工夫した色とりどりの装束を身に着け、黒・赤・黄・白などの法被に鮮やかなタスキをかけ、長地下足袋を履いた勇壮な出で立ちである。十二時四十分には鴨神社を先頭に、松尾神社、日吉神社・・・・・と次々に八社の神輿のお宮入りが終了した。男達の身体から湯気が立ち昇っている。

「すげえなあ。身体から湯気がたっとるで」

「大勢の人じゃなあ」

子供たちはそれぞれに驚きを口にしている。

見物人は昼過ぎになると足の踏み場もないほど増えてきた。地元の者だけでなく方々からやって来て四、五千人はいるだろうか。午後零時三十分、ドドーンとまた花火が上がる。花火の合図で男達の「ウオーッ」という勇壮な掛け声のもと、八つの神輿が一斉に空を目掛けて差し上げられる。この祭りのクライマックス「御神幸」である。神に奉納する行事だが、まるで高さを競い合っているように見える。

「すっげえ、すっげえ」

今まで何回も見に来ている息子たちだが、興奮して口々に驚きの声を上げていた。

勇壮でエネルギッシュな男達の鮮やかなタスキ姿を見ると、今年で四回目になるが女の弘子でも血が騒ぐ。東京では見られない素朴で荒々しい祭りなので、何度見ても息子たち同様見飽きない風景であった。


            十

 周囲の山々がパッチワークを施したような色とりどりの姿に変身する紅葉の季節は、弘子が一年の中で一番気に入っている風景だ。中でも林の中にポツン・ポツンと真っ赤に燃えるハゼノ木は特に目を引く。やがて十一月になると周りの木々も紅葉の季節を終えてハラハラ音をたてて葉を振り落す。

 今朝はずいぶん冷え込んでいつもより早く目が覚めた。霜でも降りているのかと庭に出てみたがまだであった。あたりが薄明るくなって周りを見回すと山全体が霧に包まれ神秘的な光景が繰り広げられる。朝霧の発生だ。ここでは朝晩の冷え込みが激しくなってくるとこうして朝は柔らかなべールに包まれる。

 朝霧の中を鶏舎に向かい餌と水やりを終えて帰る頃にはすっかりと晴れあがっている。今日もいい天気になりそうだ。

「おじいちゃん、ちょっと公会堂に行ってくるわね」

弘子は近所の集会所に出かけた。近所の主婦仲間四人に冬物のセーター編みを教えて欲しいと頼まれていたので、基本の部分だけでも四人まとめて指導しようと考えた。部分的なことは各人のペースが違うだろうから個別に家に来て貰っても指導できる。そう考えて申し入れを承諾した。編み物教室を開いた訳ではなく月謝は要らないと受け取らなかったところ、それぞれの家で作った野菜や漬物などの現物がいつの間にか月謝の替りとなっている。

「先生、大根持って来たから食べてよ」

「白菜は結球がまだ不十分だけどどうぞ」

「いつも新鮮で助かるわ。ありがとう。私はまだうまく作れなくて困っているの」

「その代わりこの白菜はだし入りよ」

「えっ!だし入りって何?」

「そうよ。葉っぱの間に虫がいるかもしれんよ」

「なんだ、そういうことか。葉っぱを一枚ずつ洗えばいいでしょ」

「先生、私らでも時には虫に食われて失敗することがあるんよ」

「我が家のキャベツは虫食いで穴だらけなの」

「先生、少しは農薬を使わんと無理じゃわ」

「だって自分で作るのだから無農薬の野菜を食べたいもの」

「発芽のときは幾らか薬を使わんと。レタスは虫があまりつかんからいいけどなあ」

弘子も野菜は栄作と一緒に作ってはいたがプロの農家には歯が立たない。葉物野菜でアブラ菜科の小松菜や白菜、大根、それにキャベツとかブロッコリーなどは発芽したばかりの時に虫に喰われる。大きくなりだしてからはモンシロチョウの幼虫に食べられる。夜でもヨトウ虫とか根切り虫に襲われて何度も辛酸をなめている。出来るだけ無農薬の物を食べたいと考えて農薬は使わないようにして、毎日青虫をピンセットで取るのだが虫の勢いには負けてしまう。だから野菜の現物謝礼は随分と有り難いのだった。

こんな話をしながらも編み棒を動かして皆それぞれの作品を編んでいる。

「先生、ここの襟ぐりはどうしたらいいの」

「はいはい、ちょっと待ってね。こちらが済んだらそちらに行きますから」

「ああもう上手に編めないわ。もう一度ほどいてやり直そうかしら」

「ほどくのはちょっと待って。修正できるかもしれないから」

「袖口のゴム編みの部分が上手くいかないんよ」

 にぎやかな事である。ここに集まっている人たちは編み物が目的だが、それ以外に賑やかにお喋りできることがまた魅力の一つなのだ。週に一度、舅や姑の前から離れてストレス解消にもなっているようだ。

「今、農協婦人部で朝市を始める話が持ち上がっているのよ。先生も参加したらどう」

「えっ!朝市?」

「農協支所の前の広場を提供してくれるらしいの。発起人は高田さんだけど、七人ほど参加するという人がいてね」

「野菜作りは素人で私には出品できるものは無いわよ」

「何言ってるのよ。卵があるじゃないですか」 

「ああそうか。卵ならいくらでも出せるわね」

「編み物作品でもいいんじゃない」

「でも編み物はねえ。朝市に関係ないんじゃあないの」

「そうか、農産加工品までかなぁ」

「でも卵があるから参加するわ。面白そうじゃない」

「吉備中央団地の人たちからも是非開いて欲しいと要望があったらしいわ」

「新鮮だし農家の人たちが食べる野菜は安全だろうと言うのよ」

「少しぐらい虫が喰っている方が安全なんだって」

「それはそうね。自家消費のオーバーフローしたものを出せばきっと売れるわねぇ」

「顔の見える農業とか最近色々と話題になっているからね」

「店番はどうするの?」

「二人ぐらいが当番制でやろうという話よ」

「で、開催日はいつなの?」

「第一と第三の日曜日にしようという案が浮上しているらしいわ」

「あらそう、月に二回なのね」

「毎日曜日だと出すものがなくなるかも」

「参加者を増やせば大丈夫だと思うけど、最初は月二回で始めて会員が増えたら毎週になるらしいわ」

 せっせと編み物の手は動いているが口も達者で、いつの間にか日曜朝市の話題で持ち切りだ。目がきらきらと輝いている。また一つ楽しい企画の情報を得て弘子自身も活力を貰うのだった。朝市ということになれば野菜作りもちょっと珍しいものに挑戦してみようかと思いながら集会所を後にした。

 そして話題になっていた日曜朝市のスタートの日がやってきた。弘子は前日の夕方からクッキーとドーナツ作りに精を出す。そして十二月の第一日曜日の朝七時、卵二十ケースと手作りのクッキー十袋にドーナツ三個入り十袋をケースに入れて、農協支所の前庭にやってきた。もう既に白菜や大根やほうれん草など新鮮な野菜がテントの中に並んでいて、七、八人の婦人部のメンバーが忙しそうに準備をしている。弘子も台の隅のほうにそっと置いた。

「弘子さんそんなに隅のほうに置かなくてもこっちに置いたらいいんよ。遠慮は要らんから」

「野菜ではないのでここでいいわ」

「まあ、そう言わずにこっちに持っておいで。空いとるんだから」

「そうですか。それならおっしゃるようにするわ」

 今日の当番は編み物に来ている良子さんと、農協婦人部長の緑さんだそうである。八時の開店に向けて値付けやらレジの準備やら忙しくしている間に、もう品物を手に取って吟味している気の早いお客もいる。弘子は残った品物を十一時に引き取りにくるよう言われて支所前から引き上げた。  

 売れ具合はどうかと気にしながら昼前に引き取りに出向いてみると、お菓子は完売していて卵が四ケース残っていた。台の上を見回してみると、野菜はほとんど売れているようで残品はあまり見当たらない。新鮮、安全の宣伝が行き届いていて吉備団地の人たちに好評だったようだ。

「手作りお菓子は人気がよかったわよ。次回もよろしくお願いね」

「何人くらい見えたの?」

「うーん、開店と同時にわっと押し寄せて、数える暇もなかったけど四十人くらいかな」

「大勢見えたんですね」

「今日が初日だからこんなもんでしょう。次からは評判がよければ口コミでもっと増えるかもね」

「そうなるといいですね」

「この次はもっとたくさんあってもいいんじゃあない」

「はい、お菓子はもう少し数を増やしてみます。卵は今日程度でいいでしょうか」

「次はもっと増えると思うから、三十ケース出してみてよ。野菜ももう少し出品者を募って量を増やさないと、折角来てくれたお客に申し訳ないからね」

「そうですねぇ。何回か様子を見て充実させなくちゃあね」

「加工食品も出したいけれど、食品衛生法や農産品の品質表示の法律があってなかなか面倒なのよね」

「野菜も産地表示をしなくてはならないのでしょう?」

「そうなのよ。加工品は消費期限とか賞味期限とかうるさいのよ。下手をすると罰せられるんだから」

「食品偽装などの問題が続いて起きたから仕方ないわねえ」

後片付けをしながらこんな会話を交わして弘子は引き上げた。

 

十一

今日はクリスマスイブだ。小学四年の次男誠の同級生三人と、その母親を招いてのパーティーを予定している。数年前から気の合った母親どうし相談して、四軒が廻りもちで開くことにしていた。

弘子は朝から鶏の世話の合間を縫って準備に余念が無い。子供達が喜ぶソーセージや卵焼き、鶏のから揚げ、その他色々と取り合わせたオードブルがメインである.五時には皆やってくるだろうと慌ただしく準備に取り掛かり夕方までには何とか一応の準備を終えた。

子供達を驚かすために今回は特別にお茶席を用意することにした。座敷に赤毛氈を敷いて、一応正式のお手前をしてもてなしたいと着物に着替える。久しぶりの和装で弘子自身も少々華やいだ気分になる。賀陽町にやってきて以来、養鶏の仕事に明け暮れて着物に袖を通すことはなかった。母はそれぞれのシーズンに間に合うようにと、折々の着物を一応用意して持たしてくれていた。今日は東京で着慣れていた紬に手を通す。

正式の茶事は食事が先でお手前はその後だが、今回は逆の順序で先にお手前をしてそれからパーティーに移ることにした。

「皆さんようこそ。赤い毛氈の上に座ってね、正座ですよ」

「うわー、すげえ」

「正座か。苦手やなあ」

「お茶席だからきちんとがんばってね」

にぎやかなことである。

「お菓子を先に召し上がってから抹茶を飲んでちょうだいね。お茶碗を左手にのせて二回ほど手前に廻してから飲むのよ」

実際に飲む作法をして見せる。説明を終えてからおもむろにお茶を立てる。子供達は赤い毛氈の上に緊張した面持ちでかしこまって座り、弘子の手元を珍しそうに見つめている。

「お茶を飲む前にお菓子をどうぞ」

「お菓子が先かぁ。やったぁ」

「あっ、苦いなぁ、これは」

 顔をしかめながら飲んでいる子もいる。

「いい香りはするけど、こんなもんなんで美味しいのかなぁ、大人たちは」

 次男の誠は偉そうな口をききながら飲んでいたが、お招きの子たちは小さな手に茶碗を載せて神妙な顔つきで飲んでいる。普段のやんちゃ振りはどこにいったのかと内心可笑しく思いながら事無く立て終わった。

「ああ、しびれが切れて立てれないよ」

「こんなの初めてだよ」

正座に慣れない子供たちはしびれが切れて立ち上がる時大騒動だった。母親たちは困ったものだという顔をしながらも笑いながら見ている。

 お手前を済ませオードブルをテーブルに並べて、やっと子供たちは和やかになってきた。賑やかにワイワイ言いながら食べている。親たちは別のテーブルでそんな子供たちを横目で見ながら世間話に花が咲く。そのうち腹一杯になった子供たちはトランプ遊びに興じだした。

 頃を見計らって応援してもらいながら弘子は後片付けを始める。こうした交流も田舎の風習と都会の風習が溶け合って楽しいひと時であった。


十二

鶏舎の周りの木々も次々と芽吹き始め、吉備高原もいよいよ本格的な春を迎えた。冬枯れの殺風景な裸木も三月になると少しずつ芽を膨らませ、木々の緑が日一日と濃くなっていくこの季節は、吉備高原で出くわす弘子の気に入っている風景の一つだ。命の息吹を身体全体で受け止めることが出来て、さあこれからまた頑張ろうという気持ちが身体の芯から湧き上がってくる。 

新学期が始まり二人の子供は田舎の自然一杯の中で毎日伸び伸びと遊び、逞しく成長していった。長男真一は中学から剣道部に入り、日がすっかり暮れて帰ってくる。体格も主人に似てどっしりとしてきた。少々太り気味ではないかと心配していたので、これで少しはスマートになってくれるのではと弘子は密かに期待している。弟の誠はソフトボールのクラブに入り、少年チームのレギュラーになって日曜日になるとあちこち試合に出かけている。今まではしょっちゅう卵拾いを手伝ってくれていたが、クラブや部活のない時しか今はやってくれない。それでもさすが男の子で力仕事の時は頼もしいかぎりだ。特に飼料の搬入や鶏糞の運び出しの時は大助かりである。

日曜日の朝食後、弘子は洗い物をしながら息子たちに声をかけた。

「誠、鶏糞の運搬手伝ってよ」

「午前中は練習があるから駄目だ。午後ならいいよ」

「時には練習を休んで手伝って頂戴。朝のうちに終わらせたいの。今日はおじいちゃんがいないから、母さん一人では大変なのよ」

「練習を休んだら監督がうるさいよ。次の試合に出してくれないんだから」

「真一は手伝ってくれるわね」

「母さん、来週の日曜日は剣道の昇段試験があるんだ。知っているじゃあないか」

「あら、そうだったわね。ごめん、ごめん」

「早く初段に受からないと仲間に笑われるからなぁ。昇段試験が済んだら手伝うから」

「解ったわよ。それなら受かるように頑張って頂戴。おじいちゃんにも悪いから」

「じいちゃんは今日どうしたん?」

「老人クラブの役員会で公民館に行ったのよ。昼までかかると言ってらしたわよ」

「老人クラブか。最近よく出ていくなあ」

「何言ってるの。会長さんなんだから市の会合へも参加しなくちゃならないし忙しいのよ」

「じいちゃんも世話好きだから大変なんだなぁ」

「母さんは真一を頼りにしているんだからよろしくね」

「解かってるよ、親父がちっとも鶏の世話をしないんだから、僕らがじいちゃんを助けなくちゃならないもんなぁ」

「そうよ、お父さんの代わりに頑張ってくれないと」

「よし、今度は絶対受かるからな。そしたら日曜日は大丈夫だよ」

そう言いながら二人とも自転車に乗ってそれぞれの練習に出かけて行ってしまった。

 いつもは栄作と一緒に作業をしてきたが、今日は息子たちにも応援してもらえず、弘子は一人で長靴を履いて鶏舎に向かった。

夫の栄治は夜行便で昨夜大阪に向けて走り今朝がた早く帰ってきた。体調は一進一退で食事療法には今も気を遣う。毎日のことなので弘子にとっては大変だが、これも仕方のないことである。完全治癒が望めないとなれば病気と上手く付き合うしかないようだ。養鶏の仕事には全く手を出さない。休みの日にはテニスに出かけていくのが唯一の息抜きのようだ。若いプレーヤーを相手にしていて、今年の正月にアキレス腱断裂をおこしてからは用心しているらしいが、それでもいまだに日曜日になると出かけていくが、今日は体長が優れないのか食事を済ますと黙って二階に上がっていった。弘子とは余り会話も無く必要な時以外ゆっくりと話すこともない。


 火曜日の朝、栄作は運動靴を履きながら笑顔で弘子に声を掛ける。

「弘子さん行ってくるからな。昼までには帰るからよろしく」」

「ああ、おじいちゃん、今日はグラウンドゴルフの日ですね。解りました。行ってらっしゃい」

栄作が発起人で、公民館行事に老人クラブとしてグラウンドゴルフの講座を設けて半年になる。栄作は会長として軌道に乗るまでは責任があると言って、毎回水曜日と土曜日には町民グラウンドに出かけて行く。朝九時ごろでかけていき二時間ほどで帰ってくる。

「だんだん人数が増えてきたで。始めた時は十三人ほどじゃったが、今では二十六、七人は毎回参加するようになった」

「お婆ちゃんたちもいるんですか」

「三分の一は女じゃ。案外上手で男より巧者なんじゃ」

「あらまあ、そうなんですか」

「大体女は丁寧に打つからなあ。男は力任せが多いから飛びすぎたりして駄目なんじゃ」

「グラウンドを歩くから健康のためにはいいですね」

「そうそう、腰は少々曲がっていても、打ったら小走りに球のところまで行く婆さんもいるで」

「そうですか。益々健康のためにいいではありませんか」

「この前の町の集団検診で保健師から褒められたんじゃ。じっと家の中にいるより余程いいとな」

「練習中も賑やかなことだが、済んだ後も煎餅や飴玉を持ってきてお裾分けしてくれて、それからの話がまた長いからのう、婆さんたちは」

 そう言ってゴルフ道具をバイクの荷台に括り付けて、いそいそと出かけていった。

 三ゲーム終えて何時もの年より談義が始まった。

「なかなか上手にならんなぁ。一生懸命打っても駄目じゃ」

「あんたなあ、ホールポストに向かって押すように真っ直ぐに打たんから駄目なんじゃ」

「あんた根性が歪んどるのと違うか」

「まあひどいことを言うなあ、あんたは」

「距離感を早く掴んだほうがええで」

「十五メートルと二十五メートルと三十メートルと五十メートルとあるじゃろう。それを考えて打たんと」

「そりゃあ解っとる」

「第一打をホールポストに近いところで止めるのがコツじゃ」

「打ち過ぎたり短かったりするから三打も四打も打つ結果になるんじゃ」

「そうか、距離がポイントじゃな。今度からよう考えて打ってみるか」

「ホールインワンもなかなか出来ん」

「方角と距離が合わんと駄目じゃからなあ。運がようないと出来んよ」

 ひとしきりゴルフ談義をして十時過ぎにやっとお開きになった。栄作はそんな賑やかな話をニコニコ笑いながら聞いていたが、年寄りたちがこんなに活き活きと遊ぶことが出来るのだから、グラウンドゴルフを始めて良かったと思うのだった。


           十三

年明けて三月になり、栄作が以前から計画していた八十八ヶ所の四国遍路に出かける日がやってきた。賀陽町に帰ってきて十八年、春と秋の二回、二泊三日の予定で出かけるのが栄作にとって唯一の楽しみで、既に四国遍路は四回結願を迎えて高野山へのお参りも済ませている。今回は五回目の巡礼で、栄作は古希半ばを迎えているというのにバイクで出かけるのだ。一番から二十三番は阿波の国の発心の道場でこのコースは昨年の秋廻っている。今回は修行の道場(土佐の国)と云われている二十四番から三十九番に向かうと言う。

洗面具と着替えをリュックに入れて今日も朝早くからそわそわしている。鶏がいなければ弘子が車で同行するのだがそれもかなわず、心配ではあるが唯一の楽しみにしているので止めるわけにもいかない。

「おじいちゃん、気をつけて行ってね。何かあったら電話を頂だい」

「有難う。あんたに鶏の世話を任せてすまんなあ。真一や誠に手伝わせて無理をせんよう

になあ」

「ハイハイ。家の方は心配はいりませんよ。心配なのはおじいちゃんのバイク旅行の方で

すよ」

「わかっとる、わかっとる。そんなら行ってくるわ」

栄作はゆるやかな爆音を残して出かけて行った。特に高知から宿毛までは随分の道のりなので事故の無いことを祈るばかりだ。

 弘子は栄作を送り出して、長男の真一と鶏舎に向かった。給餌と卵拾いを手伝ってくれる約束だ。

「誠はどうしたん?」

「ソフトの早朝練習に出かけたわ」

「あいつはいつも肝心な時に居ないなあ」

「真ちゃんが手伝ってくれるから助かるわ」

「僕も昼からは練習があるんで」

「朝の餌やりが大変だから午前中手伝ってくれたら大助かりなのよ」

 春休みになってからは子供達が手伝ってくれるので弘子は助かる。鶏舎の管理も真一のいる朝の内に片付けてしまおうと弘子は精を出した。

 ゲージでの養鶏は夜も明かりを灯して効率を上げ、産卵率を確保しなくては採算が合わない。鶏卵の価格は他の物価に比較して極端に変動が少なく、物価は徐々に高くなっても鶏卵は一個あたり十円少々でずっと推移している。飼料の高騰などに見舞われたら悲惨である。飼うほど赤字にならないとも限らない。割の合わない仕事だが少しの資本で誰でも取り付き易いのが取りえだ。栄作が始めたのもそういう理由からだが、下手をすると飼料代に追われて飼料会社にいいように操られかねない。最近は大規模養鶏場が増えてきて一万羽養鶏が普通になってきた。だから栄作程度の飼育数が一番経営困難といえる。人件費の節約でどうあっても家族で頑張るしかない。

午前中手伝ってくれた真一は昼から剣道の練習に出かけて行った。午後からは一人で産卵率の落ちた鶏を廃鶏処分するため、選別をおこなわなければならない。栄作の所は千羽が基本だが今は八百羽程度に減っている。今年は春雛の補充をしなかったので秋には補充しなくてはと思いながら、十三羽を選び出して竹篭の中に入れる。業者に連絡して回収に来てもらわねばなるまい。そんなことを考えながら弘子は昼からの作業を三時過ぎにやっと終えた。

 作業を終えて帰宅した弘子は四国遍路に出かけた栄作のことが心配だった。今回の遍路は二十四番の最御崎寺からのスタートだが、二十七番の神峰寺ぐらいまではたどり着いただろうかと、弘子は四国遍路の地図を出してたどってみる。五時ならまだバイクを走らせているのかなあ。早く宿坊に着いて電話をくれたらいいのにと、勝手なことを考えながら夕食の仕度にとりかかった。


十四

今日は朝出の運転で夕方には夫の栄治も帰ってくる予定だ。育ち盛りの子供達の食事とカロリー計算をした栄治の食事を作り終え、やっと七時過ぎに食卓についた。先週は夕方出勤が続き親子揃っての夕食は久しぶりである。

「真一、進路のことはどう考えているのかなあ」

四月から中三になる真一のことが心配で久しぶりに栄治が話し掛ける。

「まだよう判らん」

真一はご飯を掻き込みながらぶっきらぼうに答える。

「大学に行きたいんなら普通科がええで」

「一応大学には行きたいと思うとるけど、地元の高校は進学率が余りよくないからなあ」

「そんなら岡山の高校に行けばええが」

「今の成績では岡山の公立に入れるかどうか先生は首をかしげとる」

「そんな弱気でどうするんなら。男ならやるだけやってみにゃ駄目じゃろう」

弘子は主人と子供達の会話を黙って聞いていた。この子はまだ本気で勉強に取り組んでいるようには見えない。でもやる気を起こしたら大丈夫だろう。今まで育ててきた弘子としては根性のある子だと思っていたので、そのうちやる気を起こしてくれるだろうと秘かに信じている。弘子は物事を余り深刻に突き詰めて考えるよりも、なるようになるさと楽観的に考える性質なのでそんな風に思っていた。

 子供達が食事を終えて自分達の部屋に引き揚げてから、弘子は栄治に先ほどの話題を持ち出した。 

「あなた大丈夫ですよ。真一はやる気を起こしたらきっと馬力のある子ですから。きっと

やりますよ」

「東京の大学ならお袋の所から通えばええから、まあそんなにヤイヤイ言わずに見守るか

「そうですよ。私の実家もあるし、下宿には心配がないからしばらく様子を見ましょうよ」

「まあ、そうだな。そりゃあそうと、親父から電話があったか」

「いや、まだですよ。でももうすぐ八時がくるからその内かかるでしょう」

 そう言いながら食事の後片付けを始めた。夫の栄治は今日も洗いものを流しに運んでく

れると、疲れているのかすぐに風呂に入って二階に上がってしまった。

弘子が食器を水洗いしているとベルが鳴った。

「弘子さんか、今風呂から出て夕食を終えたところだ。途中小雨にたたられて金剛頂寺泊まりだ。明日からが一寸大変じゃよ」

「無事着いたんですね。体調は如何ですか。電話がなかなか無いので主人も心配していました。でも安心したわ。高知全部を回れなくても無理しないでね。鶏の世話は心配要りませんから、もう一泊なさってもいいし日を替えて出直してもいいんですから」

「おう、有難う。今回は時候がええから、場合によったら三泊になるかもしれん。その時

はよろしく頼むで」

「はいはい、それではお気をつけて」

元気そうな栄作の声を聞いて弘子はひとまずホットする。一年一年老いは目に見えてくるし、バイクでの長旅だから無事帰宅するまではいつの時も心配のし続けだ。今回の遍路計画ではまだ十四ヶ寺残っている。終盤のコースの足摺岬までが今回は一番遠距離なので一泊延ばしても大変ではないか。弘子は疲れた身体を五右衛門風呂に沈めながら、何となく栄作のことを心配していた。

 翌日は春らしいうららかな陽気で、栄治を送り出すと弘子は一人鼻歌混じりでいつものように鶏舎に向かった。高知は暖かいから栄作は快適な遍路旅を続けているだろうな。私も一度栄作に案内して貰って遍路姿で行って見たいものだと思いながら卵拾いに精を出した。


十五 

今日は栄作の四国遍路二日目だ。朝弘子は栄治を送り出してから遍路地図を広げて見る。今日の行程は神峰寺が難行だが、後は比較的寺が連なっていてはかどる事だろう。三十一番の竹林寺あたりまでお参りできるのではなかろうか。勝手にそんなことを考えながら鶏舎に足を運ぶ。鶏舎に近づくとコッコッコッ、バタ、バタと騒がしく、いつもと違って鶏舎の様子がおかしい。不審に思いながら扉を開けて中に入ろうとしたら、五メートルほど先の二段目のゲージの上に、何と灰色の蛇が卵を狙っているではないか。これだけは田舎の生活に慣れた弘子とはいえ苦手の一つだ。慌てて小走りで家に戻り、

「真ちゃん、早よう来て、早よう来て」

 まだ部活に出かけていない真一を呼ぶ。真一は珍しく大声で騒ぐ弘子の声に

「どうしたん、そんなに大きな声を出して」

「大きな蛇がいるのよ。早よう早よう」

「どこにおるのかなぁ」

「ほら、あそこの二段目のゲージよ」

真一は小屋の近くに転がっていた棒切れを掴んで小屋の中に入った。

「ああ、大きな青大将じゃなあ。でも蝮じゃあないから怖いことはないよ」

 真一は造作もなく腹のあたりを一撃して、動きの鈍くなった蛇を引きずり出して二、三回

叩いた。弘子は怖いもの見たさに近くに寄ってみると、太さ四、五センチ、長さが一メート

ルはありそうな蛇であった。

「まだ腹がふくらんでないから、卵は取っとらんじゃろう」

真一は何とも無かったような顔で、棒切れの先に蛇の死体をぶら下げて林の中に放り棄ててくれた。さすが男の子でお助かりだ。大抵は雌雄二匹で居ると聞いていたので、もう一匹いるのではと少々嫌だったがそうもいっておられず、

「真ちゃん、部活に行くまで少し手伝ってよ。気味が悪いわ」

 そう言いながら勇気を振り絞って水やりと給餌の作業を始めた。あんなに騒がしく鳴いていたのはゲージに入れられた鶏にとって逃げることも出来ずパニックに陥っていたのだ。

十一時前に作業を終えて弘子は家に戻った。今日は午後からPTAの仲間と、岡山へショッピングに出かける約束をしている。久しぶりの岡山なので楽しみである。早めの昼食を終えて仕度をしていると電話が鳴った。まだ約束の時間には早いがと思いながら受話器を取ると、聞きなれない声で、

「藤本さんのお宅でしょうか。こちらは高知県須崎市民病院ですが、藤本栄作さんが交通事故をなさいまして当病院に搬送されました。入院の必要はありませんが、左腕の手首を骨折されていまして今ギブス治療をしたところです。本人が電話に出られるということなので後は宜しくお願いします」

「えっ、父が事故ですか。他に異常は無いのでしょうか」

「他に異常はありません。頭のレントゲンもとりましたが、腕の骨折の外は擦り傷程度です」

「お世話になります。わざわざ連絡を頂き申し訳ありません。有難うございました。父と話しまして対応を考えます。宜しくお願います。電話をかけるように伝えてください」

折り返しすぐ電話のベルが鳴る。

「もしもし、弘子さん、澄まんなあ。独り相撲してしもうてなあ。高知市から土佐の清滝

寺に行っとる途中で砂利でハンドルをとられてなあ、転んでしもうたんじゃ」

「おじいちゃん、大丈夫なの。けがの様子はどうなの。さっき病院から電話を貰って大体の様子は聞いたけど」

「すまん、すまん。ハンドルが持てんからバイクを置いて電車で帰らあ。心配せんでもえ

えで」

「迎えに行きますから、どこか休めるところを見つけて、落ち着いたらそこの電話番号を

教えてくださいね。そしたら出発しますから」

「弘子さん、来んでもええ。鶏の世話があるからそっちの方を頼まあ。わしゃあ電車で帰

るから。バイクは大して壊れとらんから送ってもらうことにすらあ」

「・・・栄治さんは今仕事で居ないんですけど。どう・・・」

「ええんじゃ、ええんじゃ。そんなら電話、切るで」

弘子の心配をよそに簡単に電話を切ってしまった。でも骨折程度で済んだのでほっとする。心配が本当になってしまったけれどおじいちゃんが好きで行ったお遍路なので、骨折で済んだのはお大師様のおかげだろうといいように考えることにした。栄作の顔を見るまで気がかりだったが夕方七時過ぎに栄作は帰ってきてホッとする。痛々しくギブスをはめて首から吊り下げての帰宅であった。栄治が帰ってきて、

「もう歳なんじゃから止めといたほうがええと言ったろうが、ちいとは俺の言うことを聞

かにゃあいけんで」

「すまん、すまん。砂利道でハンドルを取られてのう」

「でも骨折で済んで不幸中の幸いですよ、おじいちゃん」

「まあ、そう言うてもろうたら助かる。段々歳をとって体がパッと動かなんだんじゃ。困

ったもんじゃ」

「まあボチボチ息子の云うことも聞いてくれにゃあ」

 弘子は複雑な思いで二人の会話を聞いていた。


十六

 栄作は思う。環境に馴染めず苦労する者がいる。どんな環境にもすぐに順応して、自分の世界をいとも易々と作り上げていくことの出来る人もいる。人それぞれであるが弘子は後者に属するだろう。たくましい精神とどんなことにも挑戦していくエネルギッシュな一面を持ち合わせている。東京に生まれ育ち、大学教授を父に持つ比較的ハイソサエティな家庭と友人に取り囲まれて生活してきた。昔ながらの生活習慣を大事に守り、土と悪戦苦闘する農村の生活など弘子とは全く無縁のことであった。栄治との出会いが弘子の生活を百八十度変えたのだが、今の弘子からはそんな様子は微塵も窺われない。周囲の人たちが驚きの目で見るのは無理もないことである。

五月の連休を迎え初夏だというのにまだウグイスが縄張りを主張して、あちこちで代わるがわるホーホケキョと鳴いて縄張りを主張しあっている。栄作が話していた通りだんだん練習をつんで上手くなっているなあと弘子はほほえましく思う。長閑な高原の春だ。

栄作は左手が不自由でも何とかできることはボチボチやってくれている。生き物を飼っていると手が抜けないのが難で一日も待ってはくれない。苦労を重ねてきたせいか思いやりのある優しい人柄で、大きな声で怒鳴る声を聞いたことが無い。誰とでもニコニコ笑いながら応対している。弘子にとってこの賀陽の田舎で心を許せる一番の相手は栄作だった。優しいだけでなくよく物を知っていて良き相談相手でもある。いつも一緒に作業をしていかなくてはならぬ相手だから有り難いことだ。

今朝もコーゥ・コーゥ・コー・コーと、鶏舎の中で弘子の来るのを待って、賑やかに鳴く鶏の声が聞こえてくる。新緑に包まれた高原の山々を眺めながら、弘子は鶏の声に催促されて細い道をいつものように活き活きとした足取りで鶏舎に向かうのであった。 

高原の初夏は周りの山々の木々が芽吹いて、むせ返るような山の匂いに満ち溢れている。二人の息子たちも自然一杯の中でたくましく育っている。栄治は身体の調子をすっかり取り戻して、医者からももう大丈夫とお墨付きをもらい毎日元気でトラックを運転している。おじいちゃんは老人クラブのお世話やらグラウンドゴルフの大会に月二、三回は出かけていく。弘子は日曜朝市やら編み物やら主婦仲間と楽しく交流して、田舎の生活がやっと身についてきた。地区の年寄りからも頼りにされて、東京からここ賀陽町にやって来て本当に良かったとつくづく思えるようになってきた。今では胸を張って東京の母に田舎暮らしの素晴らしさを報告できるし、心配しなくてもいいわよと言えるまでになった。

                                        



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