ライフサウンド
『親子のすれ違い』がテーマの物語です。
どこですれ違っているのかにご注目して読んでみてください。
僕は生まれつき目が見えない。
未熟児で生まれたため、幼い頃は体も弱く、さらに目に後遺症が残ってしまったと聞かされている。
今はもう体は強くなったけど、目は見えないままだ。
この17年間、ずっと真っ暗闇の中で生きてきた。
生きていく上で頼りになるのは周囲の"音"だけ。
手で触って目の前の物を確かめる事も出来るけど、何故かそれは母に止められている。
僕は生まれてから今まで、ずっと自分の部屋の中で生きてきた。
驚く事に、家の外へはまだ一度も出た事がないんだ。
狭い部屋の狭い世界観の中で生きてきた。
井の中の蛙状態なんだ。
でも、母から家の外の話をよく聞かされる。
『家の外は、車がたくさん走っていて危ないのよ』
『家の外は、足元が不安定だからとても危険なの』
『家の外は、歩道でも自転車が走ってきたりして危険よ』
『家の外は───…』
もう、"家の外は危険だ"という話は聞き飽きた。
きっと母は僕を家から外に出したくないんだろう。
だから、家の外のマイナスの話ばかりを僕に聞かせる。
そして今日も、母はいつもと同じ時間に僕の部屋に来る。
きっと今日も、家の外が危険だって話をするんだ。
でも、僕が知りたいのはそんな事じゃない。
僕が知りたいのは───……
時刻は正午過ぎ。
いつもの時間だ。
階段を上がってくる足音が聞こえだし、部屋の前で止まった。
「直人、お母さんよ」
母が僕の部屋に入ってきた。
そんな事分かってるよ。
ここに来るのは母さんだけだからね。
「はい、お昼ご飯」
「…ありがと」
「あ、そういえば今日もね、危険なものを見つけたのよ」
よくもまあこんな毎日毎日危険なものを見つけてくるもんだ。
それが何年も続いてるんだから本当に凄い。
呆れるくらいね。
「家の外はね…」
話し始めた母の言葉を右から左に流しながら僕は昼食のコロッケパンを食べ始めた。
何でこの人は、家の外の話しかしないのだろう。
外に出れない僕を可哀想だとでも思っているのだろうか?
「───…だからね、とっても危なかったの」
「……へぇー…」
とりあえず相槌は打つ。
聞いてないと悟られると何かと面倒だからね。
「…あ、もう行かないと…、また来るわね」
「うん。いってらっしゃい」
母は仕事の合間に僕の部屋へ様子を見に来ている。
こう見えて結構お偉い仕事をしているから多忙な身のようだ。
母が部屋から出ていき、階段を降りて行った。
こうしてまた僕は、1人の時間を持て余す。
する事なんて何も無い。
いつもこうやって無駄な時間を過ごしている。
僕の周りには恐らく、聞き飽きたCDがたくさん置いてあると思われる。
本も読めないし、この部屋にはテレビもない。
唯一楽しめるのはコンポで流す音楽だけだった。
でも、いつも母がCDをかけてくれるため、部屋のどこにあるのかも分からない。
「……暇だし…」
少し…冒険してみようかな…。
そう思った僕は床に手をついて壁に向かって這いだした。
が、
「痛っ!?」
壁に気付かず頭をぶつけてしまった。
地味に痛い…。
そして壁に手をついて、いつもCDをかけてもらう時に音がする方へ、壁を伝って膝で歩きだした。
すると、棚か何かにぶつかった。
何か分からなかった僕は、手当たり次第触ってみる。
四角い箱みたいな形…、ボタンもあるのかな…?
これがコンポというやつなのだろうか…?
すると手当たり次第触っているうちに何かのボタンを押してしまった。
「ぅわっ!?」
突然、大音量の音楽が流れ始める。
いつの間にか音量もいじってしまっていたようだ。
「電源どこ…!?」
耳が痛くなるような大音量を早くどうにかしたくてコンポを叩くように電源を探す。
すると、
「あっ…!」
なんとコンポを棚から落としてしまった。
音は止まったけど…、永遠に止まってしまった…。
やっちゃったなぁ…。
母は、こういう事態を防ぐために手で触って物を確かめる事を止めていたんだ。
僕の唯一の楽しみが無くなってしまった…。
まぁ…、母の言い付けを破った僕の自業自得だけどね…。
「直人!? 今の何の音!?」
まだ仕事に行っていなかった母がコンポが落ちた音に驚いて、焦っている様子で部屋に駆け込んできた。
「あ…、落としちゃったの…?」
「ごめんなさい…」
「いいのよ…。聞きたかったのに気付かなかった私が悪いわ…」
そう言いながら母は僕に近づいてくる。
「………」
別に音楽が聞きたかった訳ではない。
僕は少し、新しい事をしてみたかっただけなのに…。
少し動くだけでこの事態…。
やっぱり僕は…ずっとこの部屋でじっとしていた方がいいんだ…。
"何か"を壊さないためにも…。
「…母さん」
「ん? どうしたの?」
「……何でもない。早く仕事行かないとね」
「そうね。よいしょっ…。よし、じゃあ行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
母は落ちたコンポをもとの位置に戻し、仕事へと戻っていった。
そしてまた、部屋に静寂が戻ってしまった。
耳が痛いほどに静まり返る部屋の中で、床に座る僕。
さっき大音量を傍で聞いてしまったせいか、耳が痛い。
まだ心臓もドキドキしている。
さて、今からどうしようか?
いつも何かしている訳ではなく、ほとんど何もしていない。
いつも暇を持て余している。
僕をここから出してくれる人なんかいない。
僕が会った事がある家族は、母だけ。
父がいるのか、兄弟が存在するのかさえ知らされていない。
知っているのは……、
…知って…いるのは…、
何だろう…?
家の外の危険さ…ぐらいなんじゃないだろうか…?
自分自身の事すらはっきりとは知らない…。
僕が今部屋のどこにいるのか…。
僕が今…どの方角を向いているのか…。
僕が何をすればいいのか…。
僕がいつ産まれたのか…。
僕がどれほどの身長でどんな顔をしているのか…。
僕がどんな身なりをしているのかも…分からない…。
鏡ってものを見ても…見えるわけがない…。
そもそも何も…見えていないのだから…。
僕に"視界"という自由はない。
色も形も距離も分からない。
音だけじゃ…何も…。
何も…分からない…。
そもそも僕に自由なんてない。
この部屋から出る事さえ出来ないのは愚か、この部屋が2階にある事自体が自由ではない。
全ては僕を"家の外"という名の世に出さないため。
母にとって僕がどういう存在なのかは伝えられていない。
でも確かなのは、僕が"世に出てはならない"存在という事。
それが僕を思ってのものか、自分の身を思ってのものかは分からない。
母は優しい人だ。
だけど、僕に与えてくれるものはその優しさを真っ白に打ち消す。
さっきのコロッケパン。
母が毎日僕に買ってきてくれるのがコロッケパンだ。
僕がコロッケを食べたいと言ったことが事の発端だった。
でも、僕が食べたかったコロッケはそんなコロッケじゃない。
なのに、あの人は何にも気付いてくれない。
僕はただ、暖かいコロッケが食べたいだけなのに…。
心から暖かくなれるコロッケが……ね…。
午後10時。
「ただいま、直人」
母が仕事から帰ってきた。
あれから僕は、いつものようにずっと部屋の中にいた。
何かするわけでもなく、ただずっとじっとしていた。
「おかえりなさい」
「はい、夕飯よ」
そう言って母が差し出してきたのは、コロッケパン。
「…ありがとう」
別に昼食とかぶってるとかは気にしない。
コロッケパンは見えなくも食べやすいからむしろ嬉しい。
だけど、心からは喜べない。
「じゃあ、もう私は寝るわね。今日は疲れてるの…」
今日はお得意の"家の外は危険"の話はしないんだ。
それだけ忙しかったんだね。
「おやすみなさい、母さん」
「おやすみ、直人」
僕に夕飯だけを与えて、母は自分の部屋へと向かっていった。
部屋に1人になった僕は夕飯のコロッケパンを食べ始めた。
静かな部屋にパンッ!と袋を開ける音が響く。
そして、ガサガサと袋からコロッケパンを少し取り出し、ゆっくりと口にした。
「…………」
この時間に食べるコロッケパンはいつもしょっぱい。
何でかな…?
真っ暗な中で感じるコロッケパンの味はいつもと変わらず、もさもさしていて濃いソースの味が鼻にくる。
でも何故か、呼吸すると余計しょっぱくなる。
呼吸をすればするほど、どんどんしょっぱくなっていく。
コロッケパンも喉を通らなくなってくる。
何とも言えない気持ちで、胸が締め付けられるかのように苦しく感じる。
何か病気にでもかかってしまったかのように苦しい…。
誰にもぶつけられない苛立ち、もどかしさ、悲しさが僕の心を満たしていく。
そして、その割合を一番多く占めていたのは、"寂しさ"だった。
声は出るのに話せない…。
耳は聞こえるのに何も聞こえてこない…。
僕の周りには…"何も"ない…。
そんな事をこの17年の間…いつもこの時間に思ってしまう…。
感傷的になってしまう時間帯なんだろうか…。
「………」
僕は夕飯を食べる事を止め、近くにあったベッドの中に潜った。
僕の生きてきた時間はとてつもなく軽い。
今僕が死んだとしても、悲しむ人なんているのだろうか?
僕の存在を知っている人なんか母しかいないのに…。
今死んだって後悔すらない。
毎日毎日同じ事を繰り返し、僕の中で何も進まないまま時間だけが進んで行く。
これからもずっと、こうやって生きて行くんだろう。
そんな分かりきった未来へ進むくらいなら、先の分からない方へ行った方が楽しいんじゃないかと思う。
でも、そんな事をしてしまったらこうやって考える事も出来なくなってしまう。
「………」
僕は手を動かしてみた。
5本の指がバラバラに自由に動かせる。
僕はこうやって時々、"ちゃんと生きてるんだ"って確かめる。
じゃないと分からなくなっちゃうから。
いつの間にか無意識のうちに行っちゃったんじゃないか…ってね。
だって、ずっと目の前が真っ暗なんだ。
だから、どっちにいるのか分からなくなっちゃうんだよ。
今が現実なのか、夢なのか、自分が作り出した幻想世界なのか。
僕はそれを決断する能力を持ち合わせていない。
唯一それを決断させてくれるのは母の存在だ。
母が部屋に来た時、"よかった"、って思ってしまう。
母が夢や幻想世界なんかに出てきちゃたまんないからね。
そんな現実を思い知らせてくれる母が僕の唯一の情報源。
でもその唯一の情報源が与えてくれる情報は、とてつもなく小さくて狭いものだけ。
"家の外の危険さ"だけだ。
僕が知りたいのはそれじゃない。
僕が本当に知りたいのは…──────…
そうして僕はいつの間にか眠りについてしまった。
僕の唯一の安らぎの時間…。
何も考えなくてもいいし、何も感じなくてもいい。
生きている中で一番幸せな至福の時間。
夢の中の僕はきっと自由なんだろう。
拘束・捕縛されていたものから解き放たれ、自由に地を駆け回れるのだろう。
その自由から現実に戻されるまでの間、その瞬間がずっと続いてほしいから、僕は深い眠りにつく。
戻りたくない現実から逃げるようにして、僕は夢の中へと入って行った。
主人公"直人"が最後にどうなったのかは、読んでくれた人の想像にお任せしています。
幸せなendなのか、不幸せなendなのか、それを決めるのは貴方次第です。
直人が壊したくなかった"何か"とは何なのか、考えてみてください。