一
僕は最近夢を見る。何度も何度も同じ夢を。それはちょっと幻想的で、恐らくは妄想が多分に交じっている。
普段の僕といえば、夢の内容は覚えていない方で、こんなに鮮明に覚えているのは初めて。
その夢の中で僕は、山道を進んでいるうちに、開けた土地にでる。
木々が周囲にそびえていて、木々の近くには草が生えているけれど、草が切れたところには砂の大地。
そして、銀髪の少女。
月明かりに照らされた彼女は、ただ満天の星空を見る。
とても華奢な体つきだ。腕も指も足も陶磁器のような白さで、触れれば折れそうなのに不思議な強さを纏っている。
髪は首の付け根あたりで綺麗に切りそろえられていて、月明かりに照らされていた。
その髪がとても美しくて。それは多分、地上のあらゆる芸術も景観も或いは宇宙を探しても見つからないと思う。
僅かに吹く春風がその髪をなびかせる。僕は見惚れる。名も知らぬ彼女は髪に触れることはない。
ずっと――星の降る空を眺めている。僕は声をかけようとするけど、声が出せなくて。そんなところで夢は終わる。
それはただの夢。少年期の妄想。日常に退屈していた僕がちょっと期待した非日常。
けどそれは唐突にやってくる。ある日僕は、遊びに出かけた帰りにちょっと寄り道しようと思った。
理由は特にない。ただ、いつもの道からそれて山道のほうに入っていったんだ。
日はもう沈んで星と月の明かりだけが頼りの薄暗い道。道はところどころぬかるんでいたし、木々のざわめきにも気を取られた。
それに、なんだか途中やたらと分かれ道が多くて、どこをどういけばいいのかまるで分らないような道で、それなのに僕はどう行けばいいのかわかっていた。
右を二度選んだあと左の道を取り、そのあとは三本の分かれ道を真っ直ぐに、って言葉にするだけで迷ってしまいそうなのに不思議だ。
虫の羽音を、木々の隙間に差す月明かりの中を、そよ風が木々を歌わせる中を進んでいくと視界が開ける。
なんで僕が道をすんなりといけたのかわかった。僕はこの道を知っていたからだ。いや、来たことはないけれど、何度も見た。
あの夢の中で。だったら、この先にある光景は? 多分、想像している通り。
そして実際に、星の降る空を眺めている銀髪の少女がいた。あの少女だ。僕は自転車を降りて、ハンドルを握ったまま僕が立つ形になった。
思えば僕は、なぜこの人を少女だと思ったのか。華奢だったから? 肌が白かったから? その姿が美しかったから?
どれも確実な理由にはならないはずなのに、僕はそれを確信していたのか。妄想だから、そうあってほしいから、というのは簡単だけど。
でも僕は、それは夢の続きもどこかで知っていたのだから、と思いたい。その答えはもうすぐわかるんだ。
僕が声をかければいいだけ、それだけだけど。夢の中でさえ声をかけられなかった僕は、とてもじゃないけれど現実を前にしたらやはり無理だ。
そもそもこれは現実なのか、夢の続きじゃないのか。こんなに神秘的で美しい人がいるなんて思えない。
月明かりに照らされているだけなのにまるでそこだけライトアップされたようなほのかな輝き。
中でも銀の髪は神秘そのもの。濃紺色の天井に点在する光の粒のように息づいている。
これが地上の人? まだ神の使いと言われた方が信じられる。初めて偉大な芸術家の作品を目にした時のように僕は、息を呑む。
ただ見ているだけ。僕は彼女を見るだけ。夢で幾度となく見たのに、夢でずっと見ていたのに。やっぱり僕は見るだけ。
どこまでも夢と同じなのかな。違った。今回は現実の出来事だった、証拠に僕はなぜか後じさった。
草を踏む音が響く。来た時は注意していたけれど、今回はあの低くかすれた音をたててしまった。
ずっと星を見ていた彼女が気付き、振り向く。その顔つきは少女。胸もあった。夢で見た時から思っていたけど、不思議な服装だ。
ノースリーブのような上着に青いハーフパンツっぽいもの、それに首周りから肩、胸のあたりまでに赤い一枚の布を巻きつけている。
顎は細く、全体として顔の輪郭はシャープ。瞳は大きい。でも一番特徴的なのは瞳の色だ。
最高級のエメラルドを埋め込んだとしか思えないその瞳は、周囲で輝く銀髪よりも更に惹きこまれる。
僕は神様を信じていなかったけど宗旨替えだ。こんなに美しいのは神の造形としか思えない。
その翡翠が僕をとらえる。
「テンカイユメト」
声が響く。強い言い方ではないけれど、それは風に乗って僕の頭に直接響かせるように聞こえてくる。
不思議な感覚だけれど心地いい。そしてなぜだか、とても懐かしい。
「な、なんで僕の名前を」
確かに僕の名前は天海夢翔だ。彼女の呼び方で正しい。
「君を夢で見た。星の夜、君がボクに話しかける夢。夢とは少し違うけれど、君は来た」
彼女も僕と同じように夢を。頬が熱くなる。嬉しさがこみ上げる。
妄想じゃなかった! そして彼女は僕よりも先の部分まで夢を見ていた!
気を確かにもとう。ここで聞くことは一つだけだ。
さあ、頭の中で練習して。
「君の、名前は」
言えた、それだけだけど、言えた。
「ボクの名前は――」
聞き取れなかった。なんて言われたんだろう。聞いたことがない音だ。
一番聞きたかった部分にノイズ。僕は彼女をまだ彼女としか呼べない。
特別な彼女をありふれた二人称でしか呼べないもどかしさ。
繊細で華奢な体もその銀髪も翡翠の瞳も彼女だけのものなのに、僕は彼女としか呼べない。
「テンカイユメト、どうしたの?」
黙りこくっている僕を不思議に思ったのか、彼女が聞いてくる。
「君の名前が聞き取れなくて」
「そうか、わからなかったんだ」
「ごめん、折角の名前なのに」
どうすればいいんだろう。
彼女を特別にするためのものが決定的に足りない。名前っていうのは、その人を主観的に特別な誰かにしてくれるのに。僕にとって一番特別な人になった人に名前がない。あるのに呼べない。
「わからなくても仕方ないよ。ボクは別の星から来たから」
別の星? 何を言っているのだろう。その言葉を反芻すればするほど意味が溶け込んでくる。
信じていいのだろうか。ちょっと不思議な人なのだろうか。いいや、僕は信じよう。
彼女の言葉はなぜかとても信用できたし、何より僕自身、地上の人ではないかもって思ったじゃないか。
「ボクの星はとても遠いところで困っていて、僕たちの星を救うモノがないかどうか色々な星に人を送って調査している」
「一緒に誰か来てないの?」
「別々の場所に降り立ったかもしれないし、別の星かもしれない。ボクには分からない」
そう言って、また彼女は空を見上げる。その表情は、寂しさと心細さが見えるようで。
それに僕は、まだ僕を見てほしかった。
「大丈夫、この星に来ていたとしたらきっと見つかるよ! それと、なんで僕たちの言葉が話せるか教えてもらっていいかな?」
「ボク達は星を発つ時に翻訳機をもらっている。周囲の言語を収集して自動で翻訳してくれるものだよ」
「それってすごいけど……ならなんで君の名前は聞き取れなかったの?」
「それは多分、この星に対応する言葉がないから。ボクの名前は、土地からとったもの」
土地。それなら僕が聞き取れないはずだ。翻訳って言ったら意味のある言葉を置き換えるもので、この地上にありもしない土地の名前だったら置き換えようがない。
「だったら、僕が名前を付けてあげるよ! 名前がないなんて寂しいから!」
「この星での、ボクの名前?」
「うん、空降星夜ってどうかな」
「ソラオリセイヤ? それはどういう意味」
「星の夜に空から来たってこと」
「そのままだ」
彼女は苦笑する。どことなく、肩の力を抜いたような感じ。
微笑えんだその顔はとてもまぶしい。星夜、それが彼女の名前。
かりそめでも僕の特別。たった一つの名前。
「名前をありがとう、テンカイユメト」
「僕は夢翔でいいよ。君のことを星夜って呼ぶから」
そう、僕が君の名前をちゃんと聞けるようになるその日まで、せめて星夜と呼ばせてほしい。