06賢者の様子がおかしい
俺たちは、嘆きの洞窟を抜けた。
サキュバスのヴェルネは、マルクに撃退されて以来、ついに姿を現さなかった。
その後は、拍子抜けするほど平穏な道のりだった。
……もっとも、
ときおり、天井の闇から大ムカデが降ってくるという小事件はあったが。
そのたびに、マルクは、
「ひっ……!」
と短い悲鳴を上げ、派手に飛びのく。
俺たちも、もう心得たものだ。
さっと陣形を組み、自然な流れでマルクをかばいながら、
大ムカデにとどめを刺す。
正直なところ、
ヴェルネから俺たちを守ってくれたマルクに比べれば、
大ムカデを百匹倒したところで、借りは返しきれないだろう。
――だが。
ヴェルネの術が、マルクにまったく効かなかったことについては、
俺は、どうしても腑に落ちなかった。
エリオは、
「勇者の精神力が成せることだ」
と納得していたが。
魔力耐性には人一倍自信のある賢者である俺でさえ、
抗うことのできなかった、あの支配の術だ。
それを、精神力の一言で片づけるには、無理がある。
出会った当初から、
風変わりな勇者だとは思っていた。
だが、マルクからは、
それだけでは説明できない――
なにか、得体の知れないものを感じる。
なにかを、隠している。
そんな直感が、消えない。
そして、俺は、
マルクの正体について、ひとつの仮説に至った。
◇
俺たちは、近くの村にたどり着き、
久しぶりに、まともな宿に泊まることができた。
もちろん、
マルクだけは、別室だ。
その夜。
宿の一室で、俺は、
ブラムとエリオに、自分の仮説を打ち明けた。
「ヴェルネの件で、俺は、ほぼ確信した。
マルクは――《人間の男》ではないんじゃないか」
「ええっ?」
エリオが、素っ頓狂な声を上げる。
「たしかに変わってはいるけど、それは飛躍しすぎじゃないか?」
ブラムは、眉ひとつ動かさず、静かに聞き返した。
「では、マルクは何者だと考えている?」
俺は、言葉を選びながら答える。
「おそらく、マルクは――」
「おそらくは?」
二人が同時に促す。
「……魔族だ。
魔族が、人間に化けている。
だから、ヴェルネの支配が効かなかった」
「さすがに、それは――!」
エリオが、思わず立ち上がる。
「飛躍しすぎだろ!!」
「いや、根拠はまだある」
俺は、冷静に続けた。
「マルクは、かたくなに俺たちと温泉に入ろうとしなかった。
背中に黒い翼があるか、尻にしっぽが生えている可能性がある」
「いやいやいや!」
エリオは、頭を抱える。
「それ、完全に妄想だぞ!」
ブラムだけは、落ち着いたままだった。
「……仮に、そうだとして」
「なぜ、魔族が勇者のふりをしている?」
「それが、わからない」
俺は、正直に答える。
「俺たちを始末するためか。
それとも、魔王に恨みがあるのか……」
「本人に聞けばいいんじゃない?」
エリオが、気軽に言う。
「無理だな」
ブラムが即座に否定する。
「いきなり“お前、魔族だろ”とは聞けない」
そして、ブラムは、言葉を続けた。
「それに……」
「仮に、マルクが正体を隠しているとしても、
彼は神に選ばれ、勇者となった存在だ」
「それは、
マルクが信用に足る人物だという証でもある」
「……それは、そうだね」
エリオが、うなずく。
「正体を隠しているなら、きっと理由がある」
ブラムは、静かに締めくくった。
「時が来れば、マルク自身が明かすだろう。
それまで、俺たちは待てばいい」
――説得力があった。
「そうだな」
俺も、うなずく。
「このパーティは、うまくいっている。
わざわざ、波風を立てる必要はない」
「だが、用心だけはしてくれ」
「それだけは、覚えておいてほしい」
「わかった」
ブラムが応じる。
「ああ、そうするよ」
エリオは肩をすくめた。
「……気にしすぎだと思うけどね」
ブラムの言う通りかもしれない。
俺は、少し警戒心が強くなりすぎていたのだろう。
この件は、
ひとまず、ここまでだ。
久しぶりに、柔らかなベッドに身を沈める。
今夜は、ゆっくり休めそうだ。
――
眠りに落ちる刹那、
まどろみの底で、ふと、
ブラムは、マルクの肩を持ちすぎではないか?
という疑念が頭をよぎったが。
その考えも、
深い眠りに飲み込まれ、
すぐに、消えてしまった。
◇
翌朝。
俺たちが宿の食堂に赴くと、
すでに、マルクは席についていた。
湯気の立つ茶杯を手に、
静かにお茶を飲んでいる。
いつも通りの旅装。
乱れのない身なり。
整えられた髪。
そして――
変わらない、穏やかな表情。
「おはよう」
先に声をかけてきたのは、
マルクのほうだった。
「おう。早いな」
「おはよう」
ブラムもエリオも、
いつも通りの調子であいさつを返す。
なにも、おかしなところはない。
俺も、
「ああ、おはよう」
そう応じながら、
無意識のうちに、マルクをまじまじと観察していた。
どう見ても、
普通の人間の男だ。
異様な気配も、
魔力の揺らぎもない。
それが――
かえって、不自然に思えるほど。
俺の視線に気づいたのだろう。
マルクが、少し首をかしげる。
「どうした? サミュエル」
怪訝そうな顔。
ごく、自然な反応。
「……いや、なんでもない」
俺は、そう言って、視線を外した。
『勇者マルクは、実は魔族。』
俺のこの仮説は、
あながち、間違っていないのではないかと、
今でも、思っている。
だが同時に、
胸の奥に、なにか小さな棘のような違和感が残っているのも事実だ。
なにか、
とんでもない思い違いをしている。
あるいは、
決定的ななにかを、見落としている。
そんな気がしてならない。
――だが、
それが、なにかは、わからない。
今は、まだ、考える材料が足りないのだろう。
いましばらくは、様子見だ。
そう、結論づけた俺の内心など、
誰にも知られることなく。
朝の食堂では、
湯気の立つ料理が運ばれ、
食器の触れ合う音が、穏やかに響き。
勇者マルクを中心に、
何事もなかったかのように、
平穏な朝食の時間が、流れていった。




