一歩目は静かに
王都郊外にある小さな田舎町ワーフラッドは王都にもっとも近い農村として、商人や旅人の往来で賑わう。
朝焼けの兆しとともに雨は去り、徐々に人の影が家から出て来つつある。
霧がかった町並みをラトスは一人で歩いていた。
やるべきことは二つ。まずは昨日王都で起きた事件がどこまで広まっているかを調べる。
仮にもう情報が出回り多くの衛兵が捜索していた場合、二人では逃げきれない。
「エリーゼ様の予想どおりか」
ぼろ小屋に残っている王女エリーゼはまだ多くの人を捜索に回していないだろうと推測していた。
案の定、見渡す限り衛兵らしき影は映らない。
民家のポストに投函された新聞を抜いてすみやかに目を通す。
『エリーゼ第二王女 処刑場から逃走』
これも彼女の予想通り。内容は『衛兵が追跡の後その場で死亡を確認した』という旨の記事だった。
こうも正確に予想した彼女は見事というほかない。だが王政のこの動きにラトスはまだ納得できていない。
もし本当に見つけ出したいのなら、国民にも協力を仰ぐ方が遥かに効率はいいはず。これは小屋に帰って改めて訊いてみよう。やるべきことはもう一つ残っているのだから。
ラトスは未だ開く気配のない雑貨屋の扉を叩く……返事はない。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
もう一度扉をノックしようと構えた瞬間、中から如何にも寝起きといった様子の男
が睨んでいる。
「まだ開店時間じゃねえよ。帰んな」
「今すぐ必要なものがあるんです。髪の染料と、それと女性用の服を……一着」
男はまじまじとラトスの立ち姿を見る。
黒と赤でまとめられた背広に、腰には剣を携えている。そんな物騒な人間が早朝に染料と服をすぐに欲しいという。客観的に見てもいい客とはいえない。
「だから、開店時間になってから来てくれねえか」
「お金ならあります。言い値でとはいえませんが、相応の金額で支払います」
飄々とした顔色のまま。しかし言動から事を急いているのは誰でもわかる。
話に応じる気配は薄い。視線は逸らさないまま右手を腰に携えた剣へと伸ばす。
──時間はない。最初からこうしていればもっと簡単だったのだが。
身構えるラトスを前に男は呆れを存分に濃縮した溜め息を零し、店の中へと踵を返す。
「はぁ……もし誰かに聞かれても、庇ってやんねえからな」
「構いません。ご厚意に感謝します」
舌打ち混じりに男はクリーム色の染料と、簡素な女性用の服を押しつけるように渡される。
ポケットに偶然入っていた全財産を握らせ、ラトスは帰路へと着いた。
日が昇るよりも先に支度を済ませなければならない。急いで小屋まで戻ると、視界の下からこちらへ飛び込んでくる影を捉える。
身を翻そうとした刹那、それが敵ではないことを視認して相手の肩を抑えるに留めた。
「……エリーゼ様、これは?」
「ごめんなさい。決してラトスを疑ったわけではないの。それでもひとりになった途端、この小屋はあまりにも静かすぎて。もし、もしもこのままひとりだったらと考えていたら……」
艶やかな瞳は僅かに潤んでいる。終始気丈に振舞っていたものの、まだ十五歳の少女であることに変わりはない。
ひと回り小さな頭を撫でようと手を出したところで、目に映るものに違和感を覚える。
「その髪は?」
鮮やかな深紅の髪はエリーゼの全身を覆うほど長かった。それがいつの間にか、鎖骨に触れる程度まで短くなっている。
切り口も乱雑で、上品とは程遠い。
「これね。ラトスが置いていったローブに小さなナイフが入っていたの。どうせ姿を変えるのなら切ってもいいでしょう」
判断は正しい。そのために染料と服を買ってきたのだから。
ラトスたちの逃亡計画を始める最初の工程。それが変装である。
顔姿の割れていない死神の代行者はさておき、第二王女の煌びやかな姿はすでに大衆の目に晒されてしまった。
これでは隠れようにも人の目がある場所では難しくなってしまう。だからこそ今できる最低限の変装が必要だと判断した。
しかし……大切であろう長髪をあっさりと切ってしまうのは予想外だった。
「仕上げは俺がしましょう。座ってください」
「あら。散髪もできるの?」
「独学ですが。理髪店の空気はあまり得意ではなかったので」
本当はあまり人と関わりたくなかったからだが、それとなくはぐらかす。
彼女の覚悟の一端を目撃し、ここから本当の逃亡が始まるのだとラトスは一層気を引き締めた。




