エリーゼ・フィル・ロスィカ
エヴァート歴一一五五年。十一月二十九日。
天気は曇り。重苦しい空気が漂う王都では、馬車を走らせるのも難しいほど多くの人で賑わっていた。
しかして明るい面持ちが少ないのはこの国の情勢のせいか。はたまたこれから行われる儀式が決して笑えるようなものではないからなのか。
「ロスィカ王都ってのはいつもこんな人が多いのか?」
「俺らみたいに、珍しいもの見たさに来てる奴が多いんじゃね」
「王族……仲間割れするとはなんと愚かなことか。いっそ全員くたばれ」
「お姫様、どうして殺されちゃうのかな……」
「まあ王族が一人死んでも俺たちの明日の給料は増えないけどな」
さまざまな声が、今までよりも遥かに多くの感情が処刑台前の広場を飛び交っている。
処刑台を挟んで対岸にいるラトスにすら鮮明によく聞こえる。しかして気にする素振りは一切出さず、仮面の中に潜む表情は平穏そのものだった。
「まったく、豚の喚き声はいつの時代も耳障りなものだ」
沈黙を切り裂くように侮蔑の言葉を放ったのは現国王であるバーゼル・アルベルト・ロスィカその人だった。
周囲の人々が頭を下げ、ラトスもまた同様に膝をついて地面を見つめる。
彼はラトスの前で足を止め、失笑気味に言う。
「顔を上げよ。我が王国の守り神の代行にして、法の剣よ」
「斯様なお言葉痛み入ります」
「今日は我が愚女が地の底へと還る日なのだ。このような大役を前に緊張しているのではないか?」
「法における罪人の首を斬り落とし、魂を死神様の下へと還すのみが我が使命。覚悟はとうにできております」
「勤勉なのは良いことだ。オーメルン家にはこれからも世話になる。最近は我ら王族に反感を抱く不届き者が多くて困る。まあ、貴様にとっては仕事が増えて嬉しいだろうがな」
ガハハと下品な笑いを浮かべ、周囲に立つ人をじろりと見る。
周りはそれに釣られるように乾いた笑いを浮かべる。ラトスは応じないまま、姿勢を保っている。
ふんと鼻息をひとつ鳴らし、ラトスの胸ぐらを掴んで起こす。
ラトスの視界に映るのは丸々と肥え太った、それでいて整った髭を生やした男。
顔を赤くし、切れ長の目を仮面の奥へと差し込んでくる。
「くれぐれも、我が愚女の言葉には耳を傾けるなよ」
「滅相もございません」
変わらない声色に安心したのか軽く突き飛ばし、機嫌良さそうにその場を後にする。
周りから心配そうな視線を感じる。だがラトスは平然と襟を直してそのまま待機姿勢へと戻る。
何事もなかったかのような振る舞いを見て、気味悪がりながらも仕事へと戻っていった。
国王に向けた言葉に脚色などない。思っていること、やるべきことを伝えたのだから驚くことなどない。
彼が横柄な態度を取ることも知っている。だからこそ周囲が動揺していることに、ラトスはいまいち共感できずにいた。
国王と入れ替わるように何人もの衛兵がぞろぞろと現れ、道を作るよう誘導している。
処刑台へと続く道の先にいたのは、また何人もの衛兵に囲まれた少女だった。
鮮烈でありながら深みのある紅の髪は地面に届きそうなほど長く、華奢な体躯を覆い尽くしてしまいそう。
髪色と合わせた深紅のドレスは今まで見たどんな衣装よりも煌びやかで、彼女が只者ではないことを鮮やかに伝えている。
その姿を物々しくしているのは、両手を後ろに拘束している手枷のせい。素手ではまず壊せない、ロスィカ産の黒鉄でできた代物。
表情こそよく見えないが俯いて誘導されるままに歩んでいる様は、一足先に走馬灯でも見ているかのよう。
彼女もまた死を嘆くのだろう。死にたくない、もっと贅沢をして生きていたかったと泣くのだろう。
だんだんと近づくにつれ、彼女の表情がよりはっきりと映ってくる──一度、ラトスは息を飲んだ。
エリーゼ・フィル・ロスィカは目が合うなり、笑顔で返した。
「お初にお目にかかります。貴方が尊き死神様なのですね」
驚いた。ラトスの異様な外装はいつも恐れられるだけに彼女の反応は新鮮で、逆にこちらが反応に困るものだった。
もっとも、白の無表情を描かれた仮面の下は彼女に伝わるはずもないが。
「代々続く大変なお仕事でしょう。私は少々稀有な立場ではありますが、同じ人間であることに変わりありません。どうか容赦のなきよう」
黄玉のような大きく美しい瞳は真っ直ぐで淀みのない、まして恐怖など一切感じさせない強さを秘めていた。
これが王族。ただ高潔なだけではない、国を治める者の気迫と覚悟なのだろう。
噂とはまるで別人。じゃじゃ馬なんて呼び名は不相応だ。いったい誰があんな不名誉な噂を流したのだろう。
エリーゼがすんなりと処刑台に登ると、対岸からたくさんの声が上がる。
歓声、悲鳴、罵倒。それらすべてが混ざり合い渦となって少女に降りかかる。
「王族が国家反逆罪とはどういうことだ! 説明しろ!」
「なんてお美しいのでしょう。本当に十五歳なの?」
「いいからさっさとやっちまえよ!」
処刑台の前を守る衛兵たちが抑えにかかるが、隙間からまた人が溢れ返る。
その様を眺めながら、ラトスは処刑台を登る……見上げると広場がより混沌としているのが目視できる。
もはや処刑を見に来ているのかただ暴れに来ただけなのか、判断に苦しむ。
「死神様」
混沌の中からでも聞こえた、凛とした艶やかな声に顔を向ける。
「少しだけ。お時間をください」
何故? 問うよりも先、彼女の纏う雰囲気が瞬く間に色を変える。大きく息を吸い込み、小さな体躯からは想像できないような大きな声でエリーゼは『演説』を始めた。
「民たちよ、誇りあるロスィカの地に生まれた生命たちよ。この国はとうに腐っています!」
言葉とともに、混沌はすぐさま静寂へと変貌する。人々が彼女の声に耳を傾けている。
「私はずっと、この国は私たち王族も貴族も、そしてロスィカの土地に住まう人々は皆豊かに暮らしているのだと教わりました。
そんな国の王族に生まれたことを誇りに思っていました。あの日、初めて城から出て王都をこの目で見るまでは」
エリーゼを黙らせようと、処刑台に上がった衛兵が頭を掴んで床に押しつける。
だがその程度で彼女は止まらない。
「日々苦しくなっていく生活の中で、民たちは今日も過酷な目に遭っているはず。
しかしそれに見て見ぬふりをし、堕落を貪っている人たちがいる。
それがこの国の王族貴族です!」
歯を食いしばり抵抗する様が、ラトスの視界を支配する。
二転三転と雰囲気が変わる。王城での評判、そしてさきほど向けられた笑顔の彼女と同一人物なのだろうか。
「民が汗水垂らし、自由を削って得たお金を奪い取り、食べきれないほどの食事を用意させては食い散らかしている彼らが、何故罪に問われないというのでしょう。
民を想うことの何が悪く、日々ロスィカの栄光を保つため働く民たちの努力を称えて何が悪いというのでしょう」
心臓が大きく脈打っている。緊張なのか、それとも……
「もしそれらが国家反逆だというのなら、もう私ではこの国を変えることができません……
民たちよ。貴方たちの声は力になります。いえ、声に出さなければ王族は見向きもしません。
抗いなさい。民としての権利を訴えなさい。この国を変えるのは私たち王族ではありません。
自由はより多くの人々が享受すべき宝物なのです。民の声で、手足で、その血を以て自由を掴むのです!」
「止めさせろ。すぐにその小娘を殺せ!」
顔を真っ赤にして今にも処刑台に上がろうとしているのは、現ロスィカ国王その人。
彼は実の娘に早く死ねと言っているのか? 殺さなければいけないのか?
「死神ぃ、貴様は自分の職務を忘れたのか、我の言ったことをもう忘れたというのか⁉」
ラトスの思考はまとまらない。やるべきことと目の前のことが定まらず、霧の中にいるような感覚に陥る。
エリーゼへ視線を映す。彼女は穏やかな面持ちへと戻り、大声で掠れてしまった声で言う。
「もう悔いはありません。どうか、私を地の底へと還してください」
…………わからない。どうやって剣を振り下ろすのか、儀式の言葉は何だったか。
俺は誰の首を斬ればいい?
「死神の名を以て、貴殿の魂を地の底へと還す」
剣を抜き、天へと高く掲げて振り下ろす。一糸乱れぬ剣筋は真っ直ぐ彼女へと向かう。
──聞いたことのない不快な音。体験したことのない感触。重く、斬れるかも試したことのないそれは思っていたよりも簡単に斬れた。
ゴトッと重量のある音を立てて、手枷は床へと落ちた。
「死神いいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
国王が人を押しのけて迫ってくる。大柄な身体に処刑台が揺れる。
だんだんと近づいてくる彼を見据え、ラトスは──
「どけ!」
勢いそのまま受け流し、国王は無様に処刑台から転落した。
波紋のように広がった民衆の穴へ、ラトスはエリーゼを抱えて飛び込んだ。
「道を開けろ!」
腕の中にエリーゼを抱えたまま、割れて生まれる一本道を駆け抜ける。
「な、なにが起きているの?」
「口を閉じていてください。舌を噛んでしまいます」
錯乱する彼女はそのまま、立ち塞がる衛兵を欺くようにラトスは路地裏に突っ込んでいく。
背後に増えていく衛兵を睨む。彼女を抱えたままでは剣を扱えない。
しかしこの手から離してしまえば……もう二度と拾えない予感がする。戦闘は避け、まずは王都を出るべきだ。
城壁に囲まれた王都の出入口はたったひとつ。先回りした衛兵に門を閉められてしまえば後がない。
「ね、ねえ死神様。これは走馬灯なのかしら?」
「いいえ。これは現実です」
「どうして、生命を奪う貴方が私を助けたのでしょう?」
何故かと問われてもわからない。ラトス自身ですら今の状況を完全には飲み込めていないのだから。
論理に欠ける。道徳に反している。なにより神聖な処刑を放棄した。だが今は考える余裕もない。
「死神様、門が!」
エリーゼの指差す先、多くの衛兵によって固められ、さらに城門は少しずつ閉まり始めている。
「っ……無理なのか」
全身から力が抜けそうになる。エリーゼを投げ出し、そのまま地面に倒れてしまいそうだ。
薄くぼんやりとする視界。そこには、さらに多くの人が映る。
「王女殿下の道を開けろ!」
民たちだ。さきほどの演説を聴いた一般市民が大挙して衛兵へと押し寄せる。
武装した彼らでさえ、この数を相手取ることはできない。これなら間に合う。
「しっかり捕まっていてください」
ぐんと加速し、閉まりゆく門めがけて走る。走る──ひとり分の僅かな隙間に身体を滑り込ませ、間一髪門の外へと脱出した。
腕の中にいるエリーゼは視界をぐるぐると回し、もはや言葉すら失っている。暴れられるよりは都合がいい。
「今は逃げましょう。安全な場所まで、俺が送り届けます」
ラトスは途切れ途切れの思考を巡らせる。
安全な場所とはどこだ。どこまで逃げればいい。いつまで逃げればいい。
そもそもこんな状況に陥った俺は、何がしたくて走った?
──俺にはまだ、自分自身が起こした行動の理由がわからない。




