知らないままならば
魂を持たない死体の人形たちは彼女の合図一つでゆっくりとラトスに向かってくる。
掴みかかろうとする手を、ラトスは靴の裏から取り出した折り畳みのナイフで斬りつける。
大丈夫だ。人型であれば今までの知識が活きる。動きもずっと遅い。
「まだ武器を隠し持っていたのか。まあいい、圧倒的な人形の数、ひいてはその傷でいつまで戦えるかな」
二日も眠っていたせいか身体がとにかく重い。四肢に重しをつけられているかのようだ。
加えてゼタとの戦いでできた傷は未だ治っていない。斬りつける度、体重移動を繰り返すほどに全身は激痛に襲われる。
それでも、この人形たちの動きは遅い。
一瞬だけでいい。一太刀でもいい。一直線に人形の渦を斬り捌き、歯を食いしばってようやくルミカの眼前に躍り出る。
「バケモノか、君は」
諦めたのか。ルミカは一歩も動かず、猛然と迫るラトスを見つめている。
殺すか? きっとそうした方がいい。
危険因子は残さない。今までだってそうしてきた。
剣先が届く距離になって、脳裏を過ぎるのはエリーゼの姿……彼女とした約束が、ラトスの動きを鈍くする。
「ようやく気づいたね。お姫様を治療できるのは、いったい誰なのか」
はっと我に返るとまた全身に激痛が走る。膝をつきそうになるほんの刹那に、無数に伸びてきた手によって次々と拘束される。
身体を軋ませるほどの怪力は体格に見合っていない。これも魔術の恩恵だろうか。
「こんなことをしてどうするんです。力で従わせるなんて、本当に余裕が……がっ」
「今は君の声も聴きたくない。少し寝ていたまえ」
「ジェイコブ!」
首を絞められ、ジェイコブは必死に抵抗するも、やがて動かなくなってしまう。
同じく身動きの取れなくなったラトスにルミカがゆったりと歩み寄り、頬を撫でる。
「哀れな王子様だ。最愛の姫君ひとり助けられないなんて」
「答えろ。いったい何が目的だ。金が欲しいのなら、俺たちを軍に引き渡せばいいだろう」
「そう。だから欲しいのはお金じゃない。ロスィカに代々伝わる死神の伝承。そして彼の名前を借りて処刑を行う家系。その血にはいったいどんな秘密があるんだろうね」
「……まさか。俺が目的だったのか?」
目を細める彼女の狙いは初めからラトスだった。そう確信すると今までの言動のすべてに合点がいった。
国境越えを援助したのも、ダリアで保護してくれたのも。助手にして身内に引き込もうとしたのも。
そしてエリーゼと引き剥がそうとしたのも。
「俺のせい、なのか……」
「窮地の君に最後の選択肢を与えよう。ちょっと失礼」
動けないラトスのジャケットに手をかけ、脱がす。
続いてシャツも、胸に巻きつけていた布までも剥かれてしまう。
露わになったのは、右胸に刻まれた死神の刻印──どういうわけか、それは鈍く光を放ち始める。
「これは……なにが起きている」
輝きは鈍く弱い。けれどラトスを拘束していた人形たちは怯えたように離れていく。
自由の身となったラトスはわけもわからず立ち尽くす。
その一部始終を目撃したルミカは頬を引きつらせ、やがて上機嫌に高笑いする。
「やはりそうだ。ずっと不思議だと思っていたんだ。人を殺した人間ならば、多かれ少なかれ死霊に憑りつかれるものだが……君にはただの一匹も憑いていなかった。それどころかけしかけた魂たちが故意に避けていく。間違いない、それは神代の遺物。現代魔術では到底追いつけない境地だ!」
代々刻まれてきた刻印。もはやオーメルン家でさえその有用性を忘れ、ただの仕来りなのだと思っていた。
けれど違った。これは一族を死霊から守るために死神から与えられた祝福だった。
「その刻印をアタシに譲ってくれないか。そうすれば治療費はチャラだ、おつりでお姫様も返してあげるよ」
「……これがなくなったら、俺はどうなる」
「すぐにどうこうなるかはわからないが、今まで殺した人の魂に呪われるかもね」
「そうですか。すぐ死ぬわけではないのですね」
ラトスには迷う理由がなかった。
エリーゼが無事でいられるのなら、こんな忌々しい刻印程度くれてやる。
それになくなったからといって死ぬわけではない。一瞬考えた恐ろしい可能性がないのなら、喜んで差し出す。
「大丈夫。かなり痛むかもしれないが命に別状はない。さあ、すぐに切除といこう」
今のラトスに必要なのは、エリーゼしかないのだから。
「やめて!」
耳をつんざくような、大きく甲高い声。
ほんの少し掠れて聞こえるものの、ラトスが間違えるはずもない声。
家の方から響いた。すぐさま振り返ると、そこにはやはりエリーゼがいた。
薄そうな白い生地のワンピースに身を包み、扉を掴んで立つのもやっとといった様子。
だが確かに立って言葉を発している。ラトスにとってそれだけで心の底から安心できる。
足下には「やめてください」と必死に止めようとするリリイ・モノクロームの姿がある。
だがエリーゼは止まらない。鬼気迫る表情で、もたつく足取りでやってくる。
斬られたはずの右腕は、包帯こそ巻かれていれど確かに接合されている。
ラトスに背を向け、ルミカを遮るように立ち塞がる。
「終わるまで待っているよう伝えたつもりだったのですが。随分早いお目覚めですね、お姫様」
「リリイ様から概ねのお話は聞きました。ルミカ様の狙いはラトスなのね」
「話が早いですね。ならばさっさと」
「絶対ダメ!」
ふらふらと頼りない小さな背中。けれど彼女は声を荒げ、必死に抵抗している。
「ラトスを奪うなんて許しません。貴女にその資格はありません!」
「ですが死神の君は、他でもないお姫様のために犠牲になろうとしているのですよ」
「ラトス。私のために身を切るような真似は許しません! もしもラトスが傷つくのなら、こんな腕など不要です。自分で切ってでもお返しします!」
いつもの穏やかな彼女とも、確かな覚悟を以て堂々と振る舞う彼女とも違う。
論理や理屈など関係ない。思い通りにいかず癇癪を起こす子どものよう。
それは彼女と初めて会うより前に抱いていたワガママな姫の様子そのものだった。
「貴女にとって、死神の君は都合のいい盾程度だったのでしょう。今更こだわる必要などないのでは?」
「それでも私はラトスを選びます。成り行きかもしれなかったけれど、今でも私は一番に選びます」
「……いったい、なにがそこまで」
怪訝な面持ちのルミカ。言葉に詰まるのも無理はない。
こうなったエリーゼには説得力などなくとも、諭しきれない妙な威圧感がある。
かつてラトスに義務を与えたように。約束をしてくれた時のように。
彼女はいつだって、ラトスの手を引いて先を歩いてきた。
「私の命の恩人であることに変わりはありません。けれどラトスと過ごしているうちに、私は特別な感情を抱くようになりました。それに気づいてしまったら、もう後戻りなんてできないのです」
どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのだろう。
どうして見て見ぬフリをしてきたのだろう。
何故、俺は彼女に嘘を吐き続けているのだろう。
「私は、ラトスのことが好きだから……愛しているから!」
──この気持ちに、俺はどう答えればいいのだろう。
長い沈黙が横たわった。ジェイコブもいつの間にか目を覚ましていたが、無言で状況を眺めていた。
ラトスもまた言葉を探すが、どれも沈黙を破るには弱すぎる。
ようやくこの硬直を断ち切ったのはルミカ。
「…………愛、ね。それに従って生きることができたなら、どれだけ幸せだろうか」
ルミカはジェイコブを一瞥する。彼は立ち上がり、大げさに伸びをする。
「気は済みましたか。姐さん」
「わかっているよ。降参だ降参。治療費に関する問題は一時不問とする。そして君たちを来週のリスタルシア事前訪問にも連れていく。これで満足かい?」
到底納得しているようには見えない。けれどルミカは不問にすると言った。この期に及んで嘘でした、とはならないだろう。
自身もエリーゼも無事。これほどいい条件を揃えられたのは、やはり彼女のおかげというほかない。
また助けられてしまった。
あとどれだけのことをすれば彼女に恩返しができるのか、とても数えきれない。
「ら、ラトス……えっと、怪我はない?」
「はい。エリーゼ。俺は無事です。エリーゼも、その、腕が治っていて」
エリーゼが踵を返し、視線が交わる。
どの感情を前に出せばいいのだろう。なんと声をかければいい。
言いたいことは山ほどあるのに、喉まで上がっては消えていく。
どんな顔をすればいい。元々表情こそ豊かではないし、今自分がどんな顔をしているかわからない。
まずは彼女に歩み寄る。だが──すぐに違和感はやってきた。
痛みはもちろんある。けれどそれとは違う、吹き抜ける風を素肌で感じる。
上半身を隠していたものはすべて剥かれたままだ。
見られた。これまで隠してきたラトスの本性。
死神の代行者でもなく、役場勤めの男でもなく、エリーゼの護り手でもない。
ラトス・オーメルンという一人の女性の真の姿ともいえる。
視線を泳がせるエリーゼの様子は、とても喜んでいるようには見えない。
困惑。ただそれだけが大きく表現され、動揺を露わにした。
「エリー、ゼ。違うんです。俺は、ただ……いえ。嘘が、嘘を」
エリーゼの頬を涙が伝う。彼女もそれに驚いたのか、口元を抑えて後ずさる。
「…………ごめんなさい」
わからない。
再び背を向けて走り去る彼女を、どう引き留めればいいか……わからない。




