逃亡の果てに
殺意は形になることなくはっきりと捉えることはできない。故にそれを感じられる情報は視覚に依存していることが多い。
表情か。動きか。あるいは話し方か。
しかし今、ゼタから溢れ出しているかのように錯覚するそれはどす黒く、おおよそ普通の人間を逸脱した雰囲気を放っていた。
殺される。そう直感したラトスは不意打ち気味に一撃を放つ。
音もなく切り込んだはずだった。しかし紙一重でゆらりと揺れたゼタに届かず弾かれる。
「いつだ。いつの間にそんなに弱くなった! 人間みてえな殺意なんぞ向けやがって!」
急速に沸騰するゼタの激情。相乗して彼の剣撃は速度を増し、気づけば防戦一方にされていた。
「あの時のオマエには殺意なんてなかった。処刑台の上でもだ」
さばききれない。剣を追うことに神経を割かれた一瞬で、ゼタの膝が鳩尾に突き刺さる。
「殺し合いにおいてもっとも強い奴は、もっとも感情を殺せる奴だ。中でも人を殺す罪悪感なんざもっとも邪魔だ。オマエにはそれが一切なかった」
息ができない。逆流した胃液を吐き出す。
「オマエに勝つことがオレのすべてだったんだ。だがどうだ、殺意も怒りも丸出しじゃねえかよぉ!」
ラトスの脳裏に過ぎるのは十二年前のゼタの姿。あの頃から彼は少しも変わっていない。
執着し、つきまとい、どれだけ無視しても離れない。
「今のオマエは、まるで人間だ」
強く睨み返す。
「…………そうだ。俺はもう死神ではない。ひとりの人間なんだ」
「ふざけんのも大概にしやがれ!」
また一段階速くなる。いよいよ隙という隙が見当たらない。
怒りに満ちた粗雑な動きなのに、目視はできるのに、ただ反応が追いつかない。
「俺は人間として生きる。すべてのしがらみを捨てて自由を得るんだ!」
「自由だ? そんな贅沢品、オマエには似合わねえよ!」
太腿に剣が突き刺さる。痛みを感じるよりも早く反撃を狙うがほんの僅かに躱される。
「オマエだけなんだよ、ラトス……オマエだけがオレを理解できるんだ」
どういう意味だ。そう問い返そうとした刹那、突如として周囲の音が耳に入る。
「や、やめて。離して!」
少女の声だった。すぐさま振り返ると、エリーゼはひとり忍び寄っていた本軍に手を掴まれていた。
頭が真っ白になる。いつの間に接近を許した。とにかく先に彼女を──
エリーゼを捕らえようとしていた男の首に、瞬く間もなく銀色の剣が突き刺さる。
投擲された位置はラトスのすぐ隣。
激昂するゼタは瀕死の男から剣を抜き、もう一度突き刺す。
「邪魔すんなっつっただろうが! この愚図が!」
何度も、何度も突き刺す様を、その場の皆が見ていた。
しかし誰一人として声を発さなかった。
「オレはずっとずっと待ってた最高に楽しい決闘をしてたんだぞ。こんなに心躍る殺し合いは初めてだよ。でもオマエが邪魔したんだ。ただ死ぬんじゃ足りねえよなぁ⁉」
これはただの怒りではない。ただの殺意では説明できない。
悪魔にでも触れられたのだろうか。彼の放つそれは狂気に等しい。
目の前で惨殺する様子を見せられたエリーゼは声もなく、尻餅をついたままじりじりと後ずさる。
駆け寄ろうにも、間には血に濡れた怪物が立ち塞がる。
「その腐った根性を理解しろというのか。俺にできるとでも」
沈黙を破ったのはラトス。対するゼタは不敵な笑顔に戻っていた。
「できるさ。オマエにだってあるだろ。死をなんとも思わねえ心が」
「無為に人の命は奪わないと約束した」
「じゃあオレは殺してもいいのかよ」
──貴方がわたしを殺したんでしょう。
「もうオマエは逃げられねえのさ。多くの人を殺してきた。それが許されんのは死神を全うしていた時のオマエだけだ……運命って奴からは逃げられねえのさ。オレもオマエもな」
言葉が詰まる。なにか言い返さんと口は開くのに、音がついてこない。
俺は今まで、どれだけ人を殺してきたんだ?
「俺は……俺はああああああああああああああ!」
身体が勝手に動いた。黒鉄の剣を振るい、ゼタに襲い掛かる。
「オマエは死神だ」
「違う!」
剣が肩を掠める。
「そういう運命なんだよ」
「違う、違う!」
脇腹に刺さる。痛みはあるがまだ動ける。
「ラトス。オマエは人間にはなれねえ。自由なんてもってのほかだ」
手が痺れる。
気がつけば剣は手を離れ、鈍い音を立てて地面に転がる。
死が迫る音がした。
空気を切り裂き、脳天めがけてゼタの剣が振り下ろされようとしていた。
「オマエが自由に捕らわれてるなら、オレがその命ごと断ち切ってやるよ」
これが死の感覚。
幾度となく与えてきた、初めて肌で感じた。
俺は、死ぬのか。
────腕が、飛んでいた。
宙に浮かぶはずのないものだ。何故飛び、地面に落ちたのだろう。
誰のものだ。俺ではない。まだ感覚はある。
では、あれは誰のだ?
「エリーゼ?」
気がつけば地面に倒れていた。ラトスが立っていたはずのゼタの正面、そこにはエリーゼがいた。
振り下ろされる一瞬、彼女が突き飛ばした。だからあの腕は。
「エリーゼ!」
駆け寄る。理解が追いつかないのか、目を見開いたままラトスの胸に顔を埋める。
「ラトス……腕が、腕が熱いの」
どくどくと流れる鮮血が映る。止まる気配はない。
「エリーゼ。落ち着いてください。大丈夫です、すぐに止血を」
背広を脱ぎ、なくなった右腕の部分を必死に抑える。
手順はひどくぎこちない。命を繋ぎ止める方法を、かつての死神は知らない。
「ねえ、ラトス。私……は」
「死にません。死なせません! 絶対に!」
もうすぐで自由になれるんだ。あんなにも焦がれていた外の世界はもう目の前なのに。
沈黙を貫いていたゼタが呟く。
「……なんだよそのツラは。人間みてえなツラすんじゃねえよ」
「黙れ!」
決死に叫ぶ。近づくな、触れるなと全身で伝える。
歯が互いを削り合う。血管という血管が破裂しそうだ。
ゼタは今まで見たこともない、不快感を隠さない面持ちのまま横切っていく。
ラトスたちをその場に置き、ロスィカの方角へと戻っていく。
「帰るぞ。もうどうでもいい」
「ゼタ様。せめて王女殿下の身柄を」
「命令だ。それに……どうせもう死ぬだろ」
躊躇いながらも本軍たちも後退していき、鬱蒼とした森の中、ラトスとエリーゼだけが残される。
呼吸が浅くなっていくエリーゼを抱きかかえ、ダリアの方角へと歩を進める。
全身が痛い。ラトスも多くの傷を作り、血を流している。
それでも、エリーゼに比べれば。
「ダメだエリーゼ。死なないでくれ」
足が重い。視界が、ただでさえ暗い道がさらに深まっていく。
エリーゼからの返事はない。
「誰か、誰か助けてくれ。エリーゼが……人が死にそうなんだ。お願いだ。誰か──」
声は木々に吸われて響かない。真っ暗で不気味な道半ばで、ラトスは膝をつく。
不甲斐ない。情けない。自分が憎い。
もっと力があれば。もっと安全に彼女を送ることができたら。
俺のせいで。俺の運命が、エリーゼを奪ってしまった。
『悔しい』
…………
遠のく意識の中で、一筋の光を見る。
柔く弱い光は徐々にこちらへ近づいてくる。だんだんと声も聴こえてきた。
「……っ! ……な。旦那!」
この声は、誰だったか。
記憶が、頭が上手く回らない。声が出ない。
この人は、誰だ。
「安心したまえ。君も王女様も助かる。アタシがなんとかしてみせよう。だから今は少しおやすみ」
そうか。それなら、よかった…………




