役人とお姫様
「率直に申し上げます。俺とこちらの王女、エリーゼ・フィル・ロスィカの国境越えに手を貸してください」
隠す必要はない。むしろ下手に隠せば途中で降りてしまう可能性が高い。
だからこそ彼にはひとつの嘘さえも不要だ。
エリーゼの正体を知ってなおジェイコブは動揺の色を見せない。
気怠そうな雰囲気はそのまま煙草に火をつけ、深く煙を吸い込む。
「内容と条件次第、といわせてくだせえ」
「わかりました。まず、先日行われる予定だったエリーゼ様の処刑を放棄しました」
「待て。待て待て待て」
今日一番の大声を上げ、ジェイコブは食い気味に遮る。
「処刑を放棄? 旦那がなんだってそんなこと」
「当初は俺も何故彼女を生かしてしまったのか疑問でした。しかし彼女と過ごすうちに、彼女の生きることへの渇望と彼女の欲する自由を知るうちに、俺も協力しようと思ったのです」
ラトスのいうことを信じられないのか、後ろに隠れるように立つエリーゼに視線を送っている。
彼女は間違いないことだと首肯した。
なおも混乱した様子のジェイコブをまくし立てる。
机に勢いよく手を置き、血色の悪い顔を覗き込む。
「国境は厳重に管理されています。しかし、ロスィカを始めとする北方連合国を渡り歩き、商業許可証を持つ貴方であれば検問を突破できるはずです」
「つまり旦那たちが死体のフリをして、俺にダリアまで運べと?」
伝えたいことが素早く伝わりひとまず安堵する。
ラトスが真っ先に考えた作戦は彼がいったとおりの内容。
通行人として通るのは難しい。ならば商品としてならどうだろう。
死体は公正な検問を受けて運んでいるわけではない、と過去にぼやいていたことを覚えていた。
「現状頼れるのは貴方しかいないのです。
報酬であれば今手持ちの範囲で渡せるものはすべて差し上げます。
足りないというのであれば、生涯を以てお返しします。
どうかこの依頼を受けてはくれないでしょうか」
これが今言葉にできるラトスの心。
ただ逃げたいわけではない。エリーゼを救いたい、自由を与えたいという切なる願い。
「旦那には借りがある。死体売買も随分儲かりましたし、恩義を蔑ろにするような商人ではないと自負してます」
「じゃ、じゃあ!」
「それでもこの依頼は受けられねえです」
喜びを出しかけたエリーゼを睨み、ジェイコブはきっぱりと断った。
内臓がぎゅっと握られたような痛みを堪えながら、眉間にしわを寄せて問うた。
「理由を聞いてもよろしいでしょうか」
「まずこの依頼は危険すぎる。国家反逆の罪人ってだけでもまずいのに、その脱走を助けるなんて……いくら金を積まれてもやりません。命は金じゃ買えねえですから」
ジェイコブは至って冷静で真っ当な意見を突きつける。
ラトスには常に法規的、道徳的な正しさがある故に言葉には説得力があった。しかし今ばかりは正当性の欠片もない。
押し黙るラトスにジェイコブは煙を吹きかける。
「なあ旦那。あんたどうしちまったんだ? 処刑を放棄だの国境越えだの、まるで旦那らしくない」
「俺もそう思います。かつては死神の代行者としての使命に囚われ、とても普通の人間とはいえない存在でした。ですがようやく、他ならぬエリーゼ様のおかげで俺はようやく真っ当な人間になれたのです」
「お嬢にゾッコンなのはわかりましたけど。かつての旦那ならとっくに気づいてるんじゃないですか? じゃなきゃわざと目を逸らしてるんでしょうけど」
どういう意味だ?
ラトスが一層低い声で尋ねると、彼は火を灰皿に押し付けて言う。
「仮にこのロスィカを出られたとします。その先は? ダリアに逃げたところで同じ北方連合国。あの手この手で根回しされることは目に見えますし、逃げ切れたとはいえません」
「ですから、俺たちは西方のリスタルシアに──」
「じゃあ偶然が呼んだ偶然で奇跡的にリスタルシアに入国できたとします。
でもそこは外国人を根っから嫌う国民性ですよ?
上は変えたいみたいですけど、民に浸透するにも時間がかかる。
今行ってもまともな仕事になんて就けない、安い賃金で奴隷みてえにきつい下働きを強いられる。
地域によっては人間扱いすらされない。そこでどうやって生きていくんです?」
口の中が乾く。どうしたって避けられない現実はいつも背後について回っていた。
なのに、いつの間に忘れていたのだろう。
見て見ぬフリをしていたのだろう。
「俺が身を粉にして働きます。たとえ貧しくとも、生きてさえいれば必ず機は訪れます」
「お役人様に王女様。あんたらは明日飯が食えるか憂いたことはありますかい」
刹那、ジェイコブの纏う空気が一変する。
そこには有無を言わせない表情があった。
「盗まねえとなにも食えねえような生活をしたことは。
雨風を凌げる屋根が悪意で壊されたことは。
帰ってきたら両親がぶっ殺されていたことは……
泥水啜って生きるのは楽じゃねえですぜ」
たとえ話ではない。どこか遠くにあった現実──まるで昔を思い出すような、遠い目をしていた。
なんと返せば。せめてこのジェイコブという男にかけられる言葉はないだろうか。
あるわけがない。
生まれてからつい最近までなにもせずとも家があり、当たり前のように食事ができた人生の中に、彼を称え慈しむ言葉をラトスは持ち合わせていなかった。
「理解していてもそうでなくとも、破滅に向かう人の助けをするなんて俺には心が痛くてできねえです。お引き取りください」
口を開くと息が漏れる。しかしそれは言葉にならず、また口を閉ざす。
すべてはラトスたちの都合で繋いだ先にあるのはわがまま。よくて屁理屈だ。
ジェイコブからしても取引をしている程度の、友人でもなんでもない相手に命をかけようとは思えないだろう。
もうエリーゼのことを甘いだなんていえない。
僅かな希望を追ってきたこの町で沈むのか。
諦めるしか、ないのか。
「覚悟ならあります」
緊張で冷えきった手を握るのは小さな、しかし温かい手。
小刻みに震えながらも、エリーゼは戦うことを選んだ。
凛とした面持ちで、ラトスの隣に並び立った。




