ラトス・オーメルン
ロスィカ王国郊外。サンドマートはこの国で唯一海に面する町である。
水平線にはぽつりぽつりと氷塊が浮かび、その先の景色は未だ誰も観測できていない。
肌を刺すような冷たい潮風に一人の少女が身を震わせる。
厚手のコートを羽織っているものの、北国ロスィカの冬は容赦なく襲い掛かる。
曇り空の下、花壇の前に座り込む少女へ使用人が慌てて駆け寄りマフラーを巻く。
「ラトスお嬢様。お外は冷えますゆえ、早く中にお入りください」
ラトス、と呼ばれた少女が振り返る。
被せられたニット帽の隙間から見える漆黒の髪。冬の空を映したような薄灰色の瞳は、じっと使用人を凝視する。
「お花を見ていたの」
花壇は一面の紫。風に揺蕩う様は品のいい絨毯を思わせる。
まだ五歳にもかかわらず無気力さが目立つ少女の、年相応の言動に使用人は微笑んで彼女の隣に座る。
「このお花はエリカといいます。寒く乾いた土地でも育つとても強い花です。綺麗ですね」
「……うん」
名前を知ったばかりの花をひと掴みする。
手袋で感触はわからずとも、優しく握り締める。
彼女は立ち上がり、ふと木の隙間から覗く海に視線を映す。またぼーっとしているのかと、使用人は肩に軽く触れる。
ラトスはその手を見つめ、言う。
「わたしのお父様とお母様は、どんなお仕事をしているの?」
使用人は眉を潜める。子どもながらその人がなにか言い淀んでいるのは伝わってくる。
彼女らはいつもそうだ。父母の存在を出すと総じて気まずそうにしてはぐらかす。理由こそわからないが、ラトスには疑問だった。
一度も会ったことのない親に興味を示すことはいけないのだろうか、と。
「どうして、気になるのですか?」
「もしお父様もお母様も許してくれるのなら、わたしは……お花屋さんになりたいな」
少女なら一度は憧れる仕事。いうなれば普通の夢である。
だが普通からやや離れた彼女からそんな言葉が出たことに、使用人は思わず笑みを零した。
「いいですね。私も一度は思い描いたものです」
「うん。だからお父様とお母様に相談したい」
「ぜひそうしましょう。お花屋さんになったらどんなことがしたいのですか?」
「お庭に、もっといろんな色のお花を植えたい。赤も青も黄色も、土が見えないくらいたくさん植えたいな」
「ふふっ。お嬢様も女の子ですね。少し安心しましたわ」
「そう、なんだ」
ラトスは同年代との交流が乏しい。ゆえに自分が変わっているか否かなど、判断することができない。
いつも不気味なほど大人びている彼女にもそんな面があることが、使用人たちにとって安心材料でもあった。
しかし同時に、彼女らは知っていた。
おそらくラトスは──少なくとも、花屋にはなれないことを。
「さあお嬢様。屋敷に戻りましょう」
手を引かれて花畑から遠ざかっていく。
すると、高くて黒い鉄格子の扉が開き、そこから一台の馬車が敷地内に入ってくる。
降りてきたのは白髪の頭に縦長の紳士帽を被った初老の男性。目が合うと同時に彼が、自分にとってよくない存在であることを気配で感じ取った。
彼は真っ先にラトスの前へと立ち塞がり、ぶっきらぼうに言う。
「ラトス・オーメルン。本日より王都に移動し、死神の代行者としての教育を施す。すぐに準備をさせなさい」
…………
懐かしい夢を見ていた。自分のものかも曖昧な古い記憶。
まだ自分が何者であるかを知らなかった頃の記憶。
ベッドから上半身を起こすと、寝室にはすでに使用人が一名待機している。
緩んだ目元からして、彼女も起きたばかりだろうか。しかし目が合うとしゃきっと背筋を伸ばす。
「おはようございますラトス様。本日のお仕事はございません。明日は大仕事なので存分に羽を伸ばすよう、旦那様から伝言を預かっております」
ぼんやりとして重い頭を一度縦に振り、天井に向かって大きく伸びを一つ。
すんなりベッドから出て使用人から着替えの服を受け取る。
寝間着から着替える最中、ラトスは自らの胸を撫でる。
右側には禍々しい紋様。昨今では使われていない神代の文字があしらわれ『我死神なり』という意味らしい。
刻まれた当時は綺麗な正円だったものの、胸部の膨らみによって僅かに歪んでしまった。
『死神の現代行者ラトス・オーメルンは女性である』
その事実を知っているのは家内のみ、そのさらに一部となっている。
そもそも処刑を見に来る民たちはラトスの素顔すら知らない。
並みの男性くらい身長が伸びたことは幸いだった。おかげで体型さえ誤魔化せば大抵の人間は欺ける。
王都に住み始めてからラトスは男性として育てられてきた。というのも、死神の代行者は世代の長男が勤めるものであった。
運命か、はたまた凶兆の訪れか、当代はラトスしか生まれなかった。
オーメルン家は苦渋の決断で彼女を次期代行者とし、部外者には女性であることを隠し通すことに決めたらしい。
扉に待機している使用人を一瞥する。伸ばした長髪を二つ結びにしてまとめ、紺色と白であしらわれた制服は如何にも女性らしく着飾っている。
──わかっている。もうあの頃に戻ることはできない。それに戻りたいわけでもなくなっている。
今の生活に不満はない。むしろ金銭面、社会的地位は一般国民よりもずっと優位である。
女性らしさを捨てることなど造作もない。
思い出すだけで気分の悪い、死神の代行者としての訓練の日々がそうさせた。
腰に布を巻いてくびれをなくし、肩に詰め物を入れれば線の細い男性へと様変わり。
黒を基調としたシックな洋装に身を包み、鎖骨まで伸びた黒髪を後頭部でまとめ、立ち鏡に映る自分と向き合う。
今からラトスは死神でなく、休日を過ごす役場勤めの男となる。




