序・あめふりしきるなか
雨の降りしきる街の中。
私は、逃げていた。
(…いつまで逃げればいいんだろう)
絶え間なく落ちてくる雫に、体温も思考力も次第に奪われていく。
何よりも、追いかけてくる人間から逃げ続けなければならないという異常な状況が、私の頭を麻痺させつつあった。
ずっとこうしてはいられないと、ふと目に入ったビルの陰、軒下を見つけ、駆け込む。
「……もう、限界……」
昏い影に逃げ込み雨に打たれなくなった瞬間、今度は酷い寒さが襲ってきた。
口からひとりでに、絶望の言葉が零れる。
自尊心や今までの人生すべてが、今や雨に溶けて流れていってしまったような気がしていた。
ほら、容赦のない足音が近づいてくる。
あの足音が目の前まで辿り着いたら、私がなんとか作り上げてきたそれなりに平凡な生活も、まともな人生も、全て終わりを告げてしまうのだとわかっていた。
(でももう、どうしようもないんだ……)
目を瞑り、強く強く姉を恨んだ。
あの人が莫大な借金を残して消えなければ、私だって貧乏ながらまともな生活を送れたのに。
あの人がいなければ。あの人が……。
ああ、借金取りの足音が近づいてくる。
妙に軽いその足音は、雨音の中確かに近づいてきて、そして私の目の前で立ち止まる。
「……見つけた」
その声は、聞き慣れた借金取りの声でも、何年も前にどこかに消えた姉の声でもなかった。
全くの予想外の事態に、そうっと薄目を開ける。
「君を捜していたんだ、香月愛理」
少し優しげな、男性にしては高めの声。
細身でスーツを着ていて、見るからに胡散臭い茶髪の男の人がそこに立っていた。
整った顔立ち、跳ね気味の髪、真っ黒なスーツに赤いネクタイ、色素の薄い目、そして不敵な笑み。
この人が自分の名前を知っていることに驚いて、上から下まで見つめ直しても、全く見覚えはない。
「…誰?」
「自己紹介したいところなんだが、君には今時間がない。そうだろう?」
男は余裕の笑みを崩さずそんなことを言う。
どうやら、私の置かれた状況を知っているらしい。
(まさか借金取りの仲間?)
一瞬身構えたが、もし本当にそうなら私とこんな会話をする間もなく、今頃は何かしらの手段で昏倒させられているだろう。
実際そういう状況になりかけて、命からがら逃げだして今に至るのだから。
(だからって、簡単に信用するわけにはいかないけど…)
「…おや、警戒した野良猫みたいな顔はやめてほしいな。俺は君を助けに来たんだ」
「どうして…?」
「それについても時間がない。君の今選べる選択肢はふたつ」
ビルの外、私との間合いを維持したまま、男は喋り続ける。
霧雨とはとても言えないような強い雨の中、自分が濡れていくこともまるで気にしない様子で。
なんとなく、なんとなくだけど、修羅場に慣れているのだという感じがした。
「ひとつめ、俺について行ってとりあえず安全を確保する。そのあとのことはそこで話す。ふたつめ、俺についていかずにここで借金取りをやり過ごす」
「……」
それって選択肢と言えるのだろうか。全く選ぶ余地がない。
しかもこの男について行ってもその後無事であるという保証は、どこにもない。それこそ借金取りに捕まるより酷い目に遭うかもしれない。
(けど……)
借金取りたちの声が、さっきから遠くで聞こえている。忌まわしい足音も。
そっちを選べば私の人生は、確実に。
(『こういうの、いちかばちかって言うんでしょ』……)
ふと思い浮かんで、頭と胸が刺すように痛んだ。
ああ、こんな時に姉の口癖を思い出すなんて。
きっとこんなどうしようもない私は、運命から逃れられない。
けれど、それならせめて。
(せめて……自分の手で選ぶ)
「……つれていって」
まっすぐ見据えた先で、男は笑んだ。
「…君は、間違えない娘だ」
「…え…?」
微妙に嚙み合わない台詞を返して、手を差し出してくる。
ためらいながらも、差し出されたその手を取った。
「よし、行こう」
と、男はそのまま私の方へ進んできて、更に奥へ進んでいく。
くるりと回る形で手を引っ張られ、ビルの奥、開いたままの透明で分厚いガラス扉をくぐった。
「え…⁉」
「ここは俺のビルなんだ」
どんな造りなのか、ガラス扉の奥にはもう一つ扉があった。その横にでかでかと、名前の入った看板が掲げられていて。
『こちら、あまがさ探偵社』
男が私の手を離す。
ドアを開けて、丁寧にその中へと導くように手を広げ、男は笑った。
「ようこそ、あまがさ探偵社へ。君を心から歓迎しよう」