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異世界<短編もの>

お望み通り悪女になりましょう

作者: 彩瀬あいり


 婚家であるクロズリー邸に着いたのは、昼もまわったころだった。


 先触れもなく訪れたにもかかわらず、玄関口に使用人が勢揃いしていて驚いたけれど、わたしの出迎えではなく当主の見送りだったらしい。

 驚いたのは相手もおなじだったようで、軍服を身につけたキーロン・クロズリーはわたしを見て沈黙。家令らしき老齢の男性が「もしや……」と問うてきたので、わたしはあいさつをする。


「突然失礼いたします。こちらへ()すこととなったソフィアと申します。ご歓迎、痛み入りますわ」


 優雅に礼を執ると、使用人たちが一様にざわめいた。

 彼らを制するように発言したのは夫になる男。


「丁寧な挨拶など不要。おまえのことは重々承知しているんだ」

「まあ、さようで」

「俺は出かけねばならんが、いいか、余計なことはするな。おまえは何もせず、おとなしくしていろ。カリム、あとのことは頼んだ」

「承知しました旦那さま」


 傍らの家令に一声かけたのち、今度はギロリとわたしを睨みつける。

 その視線の鋭さに慄いたのか、若いメイドがちいさく悲鳴をあげた。あらこわい。


 本当に急いでいるのか早口で宣言したのち、外へ出て行く。その背を使用人たちが一礼して見送るなか、わたしはといえば棒立ちになって見つめるのみ。


 だってどうしろというのか。

 顔を合わせて数分の夫(予定)に開口一番「なにもするな」と言われ、睨まれ、放置されてできることなんてあるわけがない。


 重たい空気の中、まず動いたのはカリムと呼ばれた家令であった。テキパキと指示を出し、わたしはメイドによって部屋に案内される。


「こちらでお過ごしくださいませ」

「ここは客間ですか?」

「たしかに手狭ですが、ご容赦を」


 待って。言ってない言ってない、手狭なんて言ってない。

 王都のタウンハウスにおける自室は屋根裏部屋だったので、これでもじゅうぶんな広さです。たしかに、『女主人の部屋』にしては手狭ではあるけども。


 どう返したものか悩んでいると、メイドは一礼して去っていく。

 そのあとは放置である。誰も来ない。

 普通は客人にお茶の一杯でも出すものでは? わたしは貴族令嬢でありながら使用人扱いだったので、お茶出しが遅れようものなら叱責されましたけど?


 馬車に揺られて飲食もままならなかったので、さすがに喉が渇いてくる。自分でなんとかしようとキッチンを目指していたところ、女の子たちの声が聞こえて足を止めた。

 廊下の片隅、お仕着せ姿の女の子数名が集まって、こそこそ話をしている。

 ひとりは見覚えがあった。わたしを部屋へ案内してくれたあのメイドである。


「どんな奥さまかと思ってたけど、噂どおりだったわ」

「そんなに我儘姫なの?」

「このわたくしを客間なんかに押し込めるなんて、どういうおつもり? だってさ」

「でも、正式に婚姻するまではあの部屋で過ごしてもらうって決めたの、旦那さまよね?」

「もともとは子ども部屋だった場所を二十歳のご令嬢に宛てがうってだけで、どれだけ嫌われてるのかわかろうってものよね」


 寝台だけは大人用だけど、それ以外の調度品が子どもっぽい雰囲気を残したまま。

 部屋に通されたときは驚いたけど、当主の指示でしたか、そうですか。

 胸のあたりがモヤモヤするなか、メイドたちの声はなおも続く。


「オズボーン伯爵令嬢といえば、男を手玉に取ることで有名なんでしょう?」

「王都の有名店でも我儘放題で出禁になったって聞いたことあるわ」

「複数の男におなじ宝石を貢がせて、ひとつだけ残してあとは売り払ったってやつは?」

「知ってる。それがバレても『はした金にもならなかったわ』って言ったんでしょ。すごいよね」

「旦那さま、お可哀想。辺境伯のご子息なんてもっといいご令嬢を迎えられるのに、あーんな問題児を押しつけられてさあ」


 聞いていて頭が痛くなってきたころ、ウォッホンとわざとらしい咳払いが聞こえて、甲高い声は止まった。


「何をしているのですか。仕事はまだこれからでしょう。夕食の準備が始まりますよ」

「は、はい!」


 逃げるように去っていくメイドたち。

 落ち着いた声色ながら、有無を言わさない圧のこもった声の家令は、続けて言う。


「お部屋にお戻りくださいませ」

「……気づいてましたか」


 声をかけられたからには姿を見せないのは失礼なので、わたしはおずおずと家令の前に出る。


「使用人の躾も追いつかず、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません」

「いいえ。むしろすっきりしました」


 都会からやってきた奥さまがどんなふうに思われているのか、よくわかった。最初からはっきりしていたほうが助かるというもの。

 水差しを頼み、「部屋までお持ちします」というのを断って、この場に留まって待ち、受け取る。

 その後、自室に戻って考えた。あまりにも歓迎されていない自分について。


 悪評のあまり王都を追い出された伯爵令嬢が、東方辺境伯領の一角を任された男の妻として、国境の地へ追いやられた。

 贅沢三昧だった貴族令嬢は流通から程遠い田舎暮らしを余儀なくされ、さりとてどこへも出られない。おまけに夫はあの『女嫌い』で有名なキーロン・クロズリー。男狂いだった女は、相手にもされない現状にさぞ居心地が悪かろう。


 前評判としてはこんなもので、そうして訪れたのは供すらまともに付けずに、粗末な衣装でひとり放逐されたご令嬢。

 己の立場もわきまえず、偏屈で我儘で高慢な貴族令嬢のままでメイドに圧をかけてきた。何様のつもり? というのが今。


 偉そうにしたつもりはなかったんだけど、前提条件が悪すぎて、口数が少ないと『怒っている』と変換されるのでしょう。

 ちょっと視線を向けただけで『難癖をつけるために見ている』と思われている。とにかく『面倒くさいやつを押しつけられた』感がすごい。


 どうしようかと考えて、答えは出た。

 なにをしたって悪いほうに解釈されるのであれば、相手が考えているとおりのひとになってやればよいのでは?


「お望みどおり悪女になってあげましょう」


 そういうことです。



     ◇



 この邸の主であるキーロン・クロズリーは二十二歳。わたしより二歳年上。父親の辺境伯に国境警備を任され、広い辺境伯領の一角に邸を構えて暮らしている。

 短く刈り込んだ黒髪に深緑色の瞳。年齢よりも落ち着いた印象があり、がっしりとした体躯は見る者を威圧するが、顔立ちはとても整っているので貴族令嬢たちの人気はさほど悪くない。


 立場的にも引く手あまたといったところなのに、嫁き遅れになりつつあるわたしと結婚することを決められてしまった、貴族男子としてはかなりお気の毒な立場にある御方である。

 普段から魔物討伐部隊の長として、定期的に遠征に出ていることは聞いていたが、今回の出立はどうも予定外らしい。急を要するもので、戻ってくるのは最低でも一か月後だと家令が言っていた。


 しかし魔物討伐は大切な仕事。突発的な魔物発生事故により両親を亡くしたわたしは、新妻(予定)を置いて出かけて行った隊長を責める気なんてさらさらない。むしろ、がんばってきてくださいと声をかけたい気分である。


 キーロン氏が優秀な殿方であることは、これでわかっていただけたかと思う。

 対するわたしはといえば、伯爵令嬢とは名ばかりの存在と化して久しい。


 前述したとおり両親を亡くしたわたしは、母の兄を後見に王都で暮らすことになった。十歳のころだ。

 父は小さな領地を持つ男爵で、伯父は田舎貴族と見下していた。

 魔物によって荒れ地となった土地は国へ返還されてしまったので、財産らしいものもすべて失くした田舎の男爵令嬢を引き取ったところで、なんの旨味もなかったことでしょう。持て余していたわたしを、これ幸いと遠く離れた場所へ追いやってせいせいしているはず。

 まあ、悪評を押しつけられなくなったせいで従妹は内心イラついているかもしれないけど、文句は自分の両親に言ってもらいたい。言えるものであればの話だけど。


 従妹が好き放題にやらかした不始末を押しつけられて、社交界におけるソフィア・オズボーン伯爵令嬢は類を見ないほどの悪女になってしまっているようだが、どこにいようとヒソヒソされるのであれば、ここでもおなじはず。

 むしろ他家の子息子女からの侮蔑の眼差しが来ないだけ、こちらのほうがマシというものである。



     ◇



 夕食は質素なものだった。

 当主が不在なのだから凝ったものを作る必要は当然ない。いきなりやってきた客への準備だって当然できているわけがないので、食事を用意してやっただけありがたいと思えよ的なことかもしれない。

 乱切りにされた野菜が入ったスープをまず飲んでみる。


「あ、美味しい」


 人参、芋、蕪、玉葱。

 そのどれもがスプーンで簡単に崩れてしまうほど煮込まれており、肉は入っていないけれど、スープにはしっかりと旨味成分が出ているのがわかった。この地方特有の優しい味がして、郷愁感に駆られる。


 皿に載せられているパンは表面が乾いていた。夕食用に作ったわけではない残り物感が満載だ。

 だが、固いパンをスープにつけて食べることが子どものころから好きなので、まったく問題ない。伯爵家と違ってスープに具も入っている。ご馳走だ。


 魔物に襲われた土地で生き残ったわたしは、都会育ちのお嬢さまな伯母にとっておぞましき存在だったらしく、『魔物に憑かれたモノ』と扱われていた。立ち位置としては家畜よりも低いです。

 ほら、ニワトリは卵を産むし、牛や豚は肉になるけど、わたしはそうではないので。


 そんなわたしがふくふくと育っているといい顔をしないので、あまりお腹いっぱい食べられなかった。

 使用人が気の毒がって食事を分けてはくれたんだけど、あとでバレて解雇されることが多発したせいで、みんな遠巻きにするようになっちゃったかんじ。ごめんなさいね、本当に。


 ということで、胃が小さくなってしまったわたしは、拳大のパンひとつでもう満腹。

 はあ、ごちそうさまでした。

 食べきったあとで席を立って部屋を出た。

 食器は片づけない。テーブルに散ったパン屑だって放置します。まっしろいナプキンだって使用して、汚してやりましたよ。

 なにしろ悪女なので!




 部屋へ戻る前に邸内を歩きまわってみることにした。

 使用人が働いているところを見ながら通りすぎる。忙しそうにしていても手伝わない。だって悪女だから。

 ただ、観察するのが目的ではない。クロズリー邸における日常を把握し、いったいなにをなせば悪となるのかを見極めておく必要がある。それだけのこと。


 周回して理解したのは、内装は古く、まだ掃除が行き届いていないということ。

 この邸は長らく放置されていたが、クロズリー辺境伯が買い取った。拠点となる場所を領地内にいくつか配置しておくためだろう。こういった場所は、いざというときの避難場所にもなるから。

 使用人の数もまだ少ないようだし、年齢層もさまざま。


 ごはんが美味しかったので、こっそりキッチンを覗いてみたところ、料理を担っているのは年配の男性だった。うっかり目が合ってしまい、相手が驚きに目を見張ったのであわてて逃げた。あぶないあぶない。

 メイド長の女性は年嵩で玄人感が漂っていたけど、五人のメイドはまだ新人かな。わたしと同年代か、すこし下ぐらい。話を盗み聞きして知ったけれど、みんな近くの町出身で、数年前に雇われている。


 だけどひとりだけ毛色が違う子がいた。わたしを部屋へ連れていってくれた子。

 メイドの中では一番年上のアンヌ嬢。家は大規模商会、父親は男爵位を賜った。王都にタウンハウスもあり、情報に秀でている。

 なるほど。わたしの悪評(じつは従妹の所業なんだけど)をここで広めたのは、この子かな?

 華やかな都のセンセーショナルな話題に夢中になるのは、どこの女子もおなじである。声が大きなアンヌに追従しているだけで、おとなしい子がいるのも確認。

 立場が弱い子を見極めるのは大事です。悪女としては、上から目線で申しつけないとダメなので。

 明日からの悪女生活、がんばりましょう!



     ◇



 張り切ってはみたものの、わたしががんばらなくても勝手に悪女認定はされていく。楽といえば楽なんだけど、すこし肩透かしというものである。

 これはすべてアンヌのおかげだ。どうやら彼女がわたしの侍女役に抜擢されたらしい。


 抜擢されたというより志願したんじゃないのかなって思うけどね。成り上がりたい精神がものすごく見えているので、「あたしがこの悪名高い女を懲らしめてやって、評価されてウマウマ」みたいな気持ちがダダ漏れだった。従妹とおなじ匂いがする。

 こういうのには敏感なのよわたし。自慢できることでもないけど、たぶんこれが生存本能ってやつだわ。



 今日も今日とて、用意されていたド派手な服を断ってべつのドレスをまとっていたところ、「ソフィアさまがひどいの」と使用人部屋で泣いているのを窓越しに聞く。建物に背を向け庭に座り込んで聞いているので、どんな顔をしているのかまでは見えないけど、大袈裟に言っているのはよくわかった。


 どうしてこんな場所にいるのかっていう理由は、散歩をしていたからです。

 節制すぎる生活のおかげでガリガリになっちゃったので、体力づくりとお邸探索を兼ねて。子どものころのかくれんぼを思い出しながら、こっそりと忍んでおりました。これは悪女というより、子どものイタズラの延長的な悪女振る舞い。



 お持ちしたドレスを「この程度のものをわたくしに着せるつもりなの?」と言って床に投げつけて踏みつけた。

 装飾のレースを引きちぎって「直しておいて」と鼻で嗤った。

 寝台のシーツにわざと紅茶をかけた。

 宝飾品を見せびらかし「盗まないでね」と薄笑いを浮かべた。



 同情の声と「うわあ……」という声があがっているのを聞くに、現物がそこにあるのでしょうね。

 いや、わたしはやってないけど、物があるということは彼女が自分でやっているのかしら。

 えええ、なんて面倒くさい。汚れものを洗ったり、繕いものをしたりするのはメイドの仕事。自分で自分の仕事を増やしてどうするのかしら。あの子、マゾヒストなの?


 不思議に思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。メイドも専門分野に特化しているのが常だけど、この規模のお邸ではわざわざ分けずに全員で担うのが一般的。

 だけどアンヌは「あたしは奥さま付きだから」という理由で、雑事的な仕事は他の四人が担当しているのだ。

 つまり、奥さまがやらかした案件の犠牲を受けているのは、アンヌ以外のメイドたち。

 そりゃあ不満にもなるわよね。イライラして当然よ。

 ふふふ。悪女よ、悪女だわ。わたしががんばらなくても勝手に悪女になっていくわ。





 一週間ほど経ったころ、アンヌが言った。


「ソフィアさま、外商は呼ばなくてよろしいのですか?」

「なんのために?」

「買い物ですよ。クロズリーの名に恥じない装いをしてこその奥さまでしょう」

「必要ないわ」


 って言ったのに、その日の午後に外商が来た、らしい。

 わたしは部屋に居たので知らないけれど、応接室に通され、待たされ、あげくに「奥さまは気分が乗らないそうです」と言われて帰ったらしい。言ったのは勿論アンヌ。


 うわあすごい。高慢なお嬢さまっぽい言動。

 アンヌに負けてないかしらわたし。参考になるわあ。もっと悪女にならないと。


 あ、でも彼女のおかげでわたしは悪女になっているわけで、もどかしいところね。なにか褒美でも与えるべきかもしれないけど、なにしろ持ち物がなくて。

 伯父の家では居候なので、使用人と同程度の支給品で暮らしていて、でもいちおう伯爵家の人間なので給金はなくて。不憫がった侍女長がこっそりお小遣いをくれたのであった。感謝。



     ◇



 出かけ際に「何もするな」と言いつけられているので、女主人らしいことをしていないわたし。

 そのことで使用人に見下されたりするかと思っていたけど、このお邸自体、数年前に住み始めたばかりのため、他所から引き抜かれた年嵩の使用人を除いて、基本的にみんなのんびりしている。地元雇用なので田舎気質なひとが多いし、野心があるのはたぶんアンヌぐらい。


 どうしてなのかと不思議に思っていたけれど、二週間目にして彼女の目的が判明した。

 というか、自分で言ってくれた。




「貴女、伯爵令嬢じゃなくて、取り潰しになった元男爵令嬢なんですって?」

「間違ってなくはないわね」


 十歳の女児では家を継げず、父方の親戚も魔物被害に遭った土地を継ぐ意志はなく、ヨハイ男爵家は無くなった。さらに、魔物襲撃を醜聞とする層はいるので、ヨハイの地は長く閉ざされていた。クロズリー辺境伯が保全に努めてくれたおかげで、領民たちは今もなんとか暮らしている。


「それがなにか?」

「奥さま然としているけど、あたし知ってるんですからね。貴女が誰かと手紙を送りあっていること」

「はあ」


 主が不在のなか、外出するわけにもいかないわたしの手慰みは、読書と刺繍と手紙を書くこと。

 返事が来たら届けてくれるし、それなりに文が往復しているのは当主代行である家令も承知していることだ。メイドに非難される謂れはない。


「早く逢いたいとか、愛しているとか、これからはずっと一緒だ、とか。他の男からそんな愛の言葉を引き出して手玉に取っているなんて、本当にキーロンさまがお気の毒だわ」

「……どうして手紙の中身をご存じなの?」


 引き出しに鍵はかけていなかったけれど、普通、見ないわよね?


「一通、床に落ちていたのよ。不用心ね」

「えーっと、返していただける?」

「いいえ、これはきちんと証拠としてお出ししなければならないもの」

「証拠って……」

「不貞の証拠よ!」


 見せびらかすように白い封筒をわたしに見せると、そこからは不満を爆発させたように言葉を重ね始めた。


 いわく、自分はこのお邸に勤める以前からキーロンさまが好きだった。父親の叙爵式典で見かけたのが始まり。

 縁談を申し入れたくて調査したところ、女性関係の噂は一切ない。女嫌いと囁かれているが、どうやら昔の恋を忘れられないため他の女性に見向きしないともいう。身分差によって引き裂かれた哀しい恋らしい。

 幸い、自分は平民から男爵令嬢になった。新興貴族とはいえ実家のリード商会は拡大を続けており、このまま成長を続けていけば、子爵に上がることも不可能ではないと言われている。

 そうこうしているうちにキーロンが邸を構え、使用人を探していると聞いた。これは好機。

 なんのって、彼の妻になる絶好の機会。




 どうしてそうなった。

 わたしは言葉を呑み込んだ。


 貴族令嬢が行儀見習いを兼ねて高位貴族の邸宅で働くのは珍しくないことだけど、そこから一足飛びに当主夫人になる事例は滅多にない。

 というか普通はない。物語じゃあるまいし。



「キーロンさまはかねてよりあたしをひそかに想っていらしたのよ。彼が大切にしているハンカチに刺繍があったもの」

「なんの刺繍かしら?」

「名前よ。アン・リーってね。あたし、家ではアンって呼ばれているの。うちの家名をご存じ? リードよ。つまりこれはあたしの名前なの。彼があたしのために用立てたんだわ、せめて心だけでも一緒にいられるようにって」


 いろいろと言いたいことはあったけれど、ずいぶんと得意げに大きな胸を反らしているので、わたしはひとまず沈黙を選んだ。

 言葉を吟味する必要があるし、正式にはまだ結婚していない状態で妻面をしていいものか悩むところだし。でも悪女なんだから高圧的でもいいのかしら。

 それはそれとして一番言いたいことはこれ。


「下手糞な刺繍が入った古臭いハンカチを後生大事に持っているだなんて……」

「あたしと彼の愛の結晶をそんなふうに言わないでちょうだい! いいじゃない、あたしがもっと素敵なものをプレゼントして差し上げるわ。お父さまに言えばすぐよ」

「愛の結晶であることは否定しないが、それは断じておまえとの愛ではない」


 割って入ったのは男性の声。低く、怒りを押し殺したような声色に私とアンヌが振り返ると、そこには汚れた軍服姿のままのキーロン・クロズリーが立っていた。


「旦那さま! ソフィアさまがひどいのです!」


 涙を滲ませたアンヌが体を震わせた。


「いったい何がどうひどいというんだ。女主人に対する暴言のほうがよほど目に余るだろう」

「暴言はソフィアさまですわ。キーロンさまの持ち物に対して『下手糞な刺繍』だなんて」

「だって事実じゃないの」

「事実ではない。丁寧な手仕事だ」


 否定したのはアンヌではなくキーロン氏。だからわたしは彼に言う。


「冗談はやめてちょうだい。だってそれって、わたしがこの地を離れるときにあなたに贈った、あのハンカチなのでしょう? 十歳のころのひどい刺繍だわ」

「そんなにひどくはないと思うが?」


 そう言って胸ポケットから取り出したハンカチは、遠征から持ち帰ったばかりとは思えないほど丁寧に折り畳まれ、年月の経過を感じさせない清潔さを保ったもの。広げた布地の右隅に緑色の糸で文字が綴ってある。


「きゃああああ! ちょ、やめて、やめなさいよ。返してちょうだい」

「嫌だ。これは俺の物だ」

「制作者はわたしだもの、わたしにだって権利があるんだからああ」


 取り戻そうと手を伸ばすも、さっと頭上に掲げられてしまい、わたしが跳ねても届かない場所へ行ってしまった。

 女性の平均身長よりは低いかもしれない発育不良のわたしと体を鍛えた武人では、背の高さも含めて体格が違いすぎる。ずるい。卑怯だ。


 腹が立ったものだから、ついこう呼んでしまった。


「アンリ!」

「なんだ、ソフィ」

「意地悪しないで返してよ」

「嫌だって言ってるだろうが」

「旦那さま、お嬢さま。すこし落ち着いてください。アンヌが固まっておりますよ」


 家令が呆れたように言い、アンヌ嬢が我に返ったのか口を開く。


「なんなのよ、アンリって」

「キーロン・アンリ・クロズリー。貴女の主の名ですよ」


 疑問に答えたのは家令で、呼ばれた本人はムッとした顔をつくる。


「子どものころの愛称だ。いつまでも呼ぶな。忘れろ」

「あのころはとっても可愛かったわよね」

「ソフィ」


 艶々した黒い髪を肩口で切り揃えたお坊ちゃまは、女の子と見まがうばかりの可愛さだったことを、幼なじみのわたしは知っている。


 ヨハイ男爵領はクロズリー辺境伯領に隣接しており、地方領主の結束故か、権力的には大きく差があるにもかかわらず親交があり、年齢が近かったわたしと彼は共に過ごすことも多かった。

 自然あふれる土地で育ったわたしはわりと野生児だったので、黙って立っていると、どちらが女の子かわからない、なんて言われたりもしたものだった。


 アンヌが『あたしの名前』と豪語したあれは、もちろん彼女の名などではない。

 失敗が多々見られるため読みにくいけれど、彼の瞳の色を模した糸で『アンリ』と刺している、十歳のわたしにとっての精一杯の刺繍だ。

 伯父に引き取られることになり、王都へ向かうことが決まったわたしは、決して自分を忘れてくれるなという願いを込めて、あれを彼に贈ったのである。


 ただね、それを今も持っているのは想定外。

 だってもう、あらためて見ると本当にひどい。ぐっちゃぐちゃだ。恥ずかしいから返して欲しいのに、頑として首を縦に振らない。頑固なところ、変わってないわ。


 睨み合っていると、アンヌがまた反旗を翻した。

 この子もこの子で結構しぶとい。そのガッツ、わたしは嫌いじゃないんだけど、キーロンはあからさまに顔をしかめた。


「ですが、この方はやはり奥さまにはふさわしくないです。だって旦那さま以外の男性と頻繁に文を交わしていたのです。これが証拠!」


 そして彼女は例のアレを堂々と掲げたのである。

 素っ気ない白い封書はどこの町中にでも売っていそうなシンプルなもの。上質な紙を使用する貴族階層には似つかわしくないものなので、どこの馬の骨とも知れない男と不義密通! と息巻いているが、えーとどうしましょう。


 この邸に届いたものは家令を通じて分配されるので、当然のことながら家令のカリムは手紙の存在を知っているし、なんだったら差出人だってわかっている。さすがに内容までは検めていないとは思うけど。


 アンヌが騒ぎ立てるし、邸の主人が戻ってきているということで、使用人も幾人か集まってきてしまった。

 これはますますマズイのでは?

 余計な騒ぎになるまえに事を収めたかったのに、もう無理そう。


「……お嬢さま」

「ごめんなさい、カリム。あなたのせいではないのよ。わたしがうっかりしていて、手紙をひとつ引き出しから落としてしまったらしくって。それをアンヌが拾ってしまったの」

「お仕えする主の私物を着服するなど、もってのほかでございますよ」


 カリムの顔も怖くなった。

 この家令はとっても優秀。わたしが子どものころ暮らしていた邸で執事をしていた男で、当時は父の片腕、あるいは参謀として辣腕をふるっていた。

 男爵領がなくなったあと、功績を買って辺境伯さまが雇用してくださったのだ。他の使用人も同様で、辺境伯のお邸、あるいは別邸などで受け入れ体制を整えてくださったらしい。

 使用人仲間の登場で勢いがついたのか、アンヌは事もあろうか内容について言及しはじめた。


「男をたぶらかす悪女という噂はみんなご存じでしょう? このひとは嫁いできたというのに、別の殿方から愛の言葉を引き出しているのよ。早く逢いたい、これからはずっと一緒にいよう、ですって。間男を引き入れる計画まで立ててるのよ。とんだあばずれだわ、そう思うでしょう!?」


 場が静まった。

 地を這うような声色でキーロンが言う。


「……どういうことだ」

「そうですよね旦那さま、この女は」

「おまえのことだアンヌ・リード。何故おまえが手紙の内容を知っているのだ」

「だって不貞ですもの。きちんと正さないといけないわ」

「不貞だと? 愛する女にようやく逢えたと思えば入れ違いで遠征へ行く羽目になり、せめてもと送った文のどこが不貞か」

「――は、い? そ、それは、つま、り」


「ソフィアと文をやり取りしていたのは俺だが、それがなにか?」


 女嫌いで名の通っているクロズリー辺境伯子息のまさかの発言に、アンヌ以外のメイドたちがちいさく悲鳴をあげた。これは恐怖からのものではなく、麗しき恋愛小説を種にしてコイバナで盛り上がる類の悲鳴だ。


 わたしだって、まさかこんな怖い顔の、色恋なんて毛嫌いしていそうな武人が、読んだだけで赤面しそうになる愛の言葉を綴ってくるだなんて思ってもみなかったのよ。最初はただ、お礼の文を送っておこうと思っただけだったのに。



 この邸は、ヨハイ領主邸――かつてわたしが暮らしていた邸である。

 わたしにとっての生家を買い取って整え、数年前から準備したうえで、正式な手続きを経て縁談を申し込んでくれた。

 辺境伯子息とはいえ、キーロンは三男坊。継ぐ爵位もないため武人の道を歩んでいる男に旨味はなく、王国貴族らしい貴族の伯父は、自身の娘ではなくわたしを嫁がせることに異を唱えなかった。むしろ、やっと片付いたと嬉々として了承した。


 懐かしい家。見知った使用人。

 家令となったカリムだけではなく、料理人もメイド長も、みんな子どものころのわたしを知っている者たちだ。

 アンヌは手狭と笑ったけれど、案内された部屋は子ども時代に使っていたわたしの部屋。印象をそのままに淑女向けに整えてくれたのは、かつて母の侍女をしていたメイド長だろう。


 まともに顔を合わせないまま新生活となってしまい、戻ってくるまえに取り急ぎお礼を伝えたくて、カリムに相談して手紙を出した。遠征先の拠点は把握しているので、物資等のやり取りは問題なくおこなえるというし。


 二日後、倍の厚さになって戻ってきて、返事を出したらまた戻ってきて。

 そんなかんじで文通がスタートしてしまい、面と向かっては聞けないような言葉の数々を頂戴してしまったわたしは、恥ずかしすぎてまともに手紙を読み返せなかったんだけど、そのうちの一通をアンヌが拾って熟読した、と。

 まあ、そういうことである。


 頼みの綱であった『不貞の証拠』が、妻に宛てた恋文だったことが判明し、さすがのアンヌも反論できなくなったらしい。

 遠征を倍速で実施して戻ってきたら意味のわからない騒動に巻き込まれ、たいそうご立腹のご当主さまをこれ以上怒らせないために、カリムはただちにアンヌを回収。メイド長が使用人棟に連れていって、ご実家に連絡を取って引き取ってもらうことになった。


 ここまで数時間。デキるひとたちは仕事が早い。


 せっかく雇った人材を手放していいのかと思っていたけれど、なんでも、もともと仕事をさぼりがちで、ほかのメイドから不満の声があったらしい。

 お金持ちで贅沢品も持っていて、それを気前よく分けてくれるのでありがたい部分はあったけれど、施してやっている感が滲んでいるところは腹に据えかねていたという。

 わたし自身はあまり被害らしい被害を受けていないので、いなくなってスッキリしたわけではなく。あれよあれよと過ぎ去って、はてなんだったのかしら? という気持ちがいちばん近い。




 これからは安心してお過ごしください。不手際をお詫びします。


 頭を深々と下げる家令とメイド長に、キーロンはソファーに座ったまま苛立ちをあらわにしているが、わたしは立ち上がって彼らに近づいた。


「謝らないでちょうだい。あなたたちは悪くないじゃないの」

「しかし、お嬢さまをお守りできず」

「べつにわたし、傷ついてないけど」

「なんとおいたわしい……。オズボーン伯爵邸での生活は聞いております。こんなに痩せてしまわれて、あの、あのソフィアお嬢さまが」


 メイド長がさめざめと泣き出した。


「もう、年をとって涙もろくなってしまったの? パドマったら昔はもっと堂々として、わたしがダメなことをしたら叱ってくれたじゃないの」

「お嬢さま……」

「カリムもよ。みんなに感謝してるんだから。わたしが最初に食べた夕食、あのスープをつくってくれたのは、フォッシでしょう? わたしが固いパンを齧ることが好きなことも憶えててくれて、すっごく嬉しかったのよ」


 この地において、ヨハイの名前は醜聞なので、わたしが元ヨハイ男爵令嬢であることは、いちおう伏せておくことになっていて。見知った使用人たちとも、なるべくかかわらないようにしていた。

 どういう距離感でいくべきか、相談しようと思っていたのに、そんな暇もなくキーロンは出かけてしまったし。


「ありがとう。あなたたちが無事で、こうして生きていてくれて嬉しいわ。お父さまもお母さまも、きっとおなじように喜ぶと思うの」


 わたしが言うと、カリムとパドマはまた泣いた。

 そんなつもりじゃないんだけどなあ。

 立ち上がって近づいてきたキーロンが、オロオロするわたしの頭に手を置く。


「嬉しいのはおまえだけじゃない。俺たちもそうだということを自覚しろ」


 そんなふうに言われると、やっぱりモヤモヤしてしまう。優しさからは縁遠くなっていたので、好意の受け取り方を忘れてしまった気がする。


「言うのが遅くなったが」

「なに?」

「おかえり、ソフィ」


 キーロンが言って、わたしは目を瞬かせた。

 追従するように二人の使用人も続ける。


「おかえりなさいませ、ソフィアお嬢さま」


 まだ修繕しきれていない、古さを残したままの内装。テラスへ続く壁にあるイタズラ書きは、わたしとキーロンの背比べのあと。

 思い出につながるものがそこかしこにあって、わたしは、この御邸に来てからずっと感じていたものがなんなのか、ようやくわかった。


 そうか。ここはわたしの家だ。


 いってらっしゃい、おかえりなさい。


 そう声をかけてもらえる場所を、ふたたび手に入れたのだ。


「ええ、ただいま」



     ◇



 夫婦のために用意されたのは、かつて両親が使っていた部屋。

 妻が来るまでは使わないとして、キーロンは別の部屋を私室にしていたというから、なんというか生真面目だ。

 ようやくお披露目され、本来の意味で使用開始となった部屋に足を踏み入れる。ここもどこか懐かしくて、顔がほころぶ。

 料理長に用意してもらった果実酒とおつまみを前にし、キーロンがまず謝罪をした。



「本当にすまなかったソフィ」

「もういいのよべつに。ただ、そうね。せっかくいいお手本だったのに、そういう点では残念かも」

「なんの手本だというんだ」

「悪女よ悪女。ほら、わたしってば悪女の噂があるじゃない? 従妹がわたしの名前を出したせいなんだけど」

「妄言も甚だしい。すこし調べればわかることだろう」

「そうなんだけどね。王都の貴族は自分で動くことをしないから、鵜呑みにするだけで自分で調査なんてしないのよ」

「嘆かわしい。情報は精査して受け取らねばならんというのに」


 国境警備を預かる一族らしい考えを述べるキーロンに、わたしは笑う。


「つくづくね、都は性に合わないって思ったわ。アンリがヨハイの地に拠点を構えて、こうしてわたしを呼んでくれて、本当に嬉しいわ。ありがとう」

「できればもっと早く迎えに行きたかった。ソフィの噂を聞くたびヒヤヒヤしていたんだ」

「醜聞の噂なんて、遠巻きにされるだけじゃないの」

「次々に男を手玉に取っていると聞かされて、ソフィではないだろうとわかってはいても、いい気はしない。それに、そういった悪女を好む男もいるだろう」

「好きに遊べるから?」

「ソフィ!」

「だって、そういうことでしょう?」


 後腐れもない一夜だけの関係。

 都の夜会には、そういった男女のあれこれにあふれているとかいないとか。


「その方面では考えていなかったわね。悪女になるのも大変だわ」

「それだ。手紙に書いてあったが、悪女になりますっていうのは、なんなんだ」

「だって望まれているなら期待に応えてみようかしらって思ったんだもの」

「何もするなと言っただろう。ソフィは思い込みが激しいところがあるし、見当違いのことばかりしでかすから、黙っておとなしくしていろと」

「え、あれってそういう意味だったの?」


 まだ婚姻の届は出していないから、女主人やらなくていいぞ的な、お客さまとして過ごしていいぞという、そういう意味かと。


「……やはり早く帰ってきて正解だったな」

「心外だわ。噂どおりの悪女になろう計画が台無しよ」

「なりたかったのか」

「んー。というか、期待に応えたかったのよね。わたしはこんなだし、敬愛するご主人さまに嫁いでくる女が貧相じゃ、落胆しちゃわない? だったら、武人に相応しい貫禄を持った堂々とした女のほうがいいじゃない」


 物怖じしない風格のある女主人になりたかったのだ。態度だけでも。


「でもダメね。ちっとも嫌悪感を持たれなかったわ。従妹の醜聞は男性との噂が多かったし、だけどそういう方面での知識はわたしにはないし、知らないことはなかなか実行できないものね」

「そうかそうか、ならばソフィが望むとおり、悪女になる手伝いを俺がしてやろう」

「なあに?」

「男をたぶらかす悪女だ。ただし、たぶらかす相手は俺限定」

「――え?」


 ニヤリと笑ったキーロンはお酒を一気に飲み干すと、椅子から立ち上がってわたしの手を引く。

 向かう先にあるのは綺麗に整えられた寝台。

 あれ?


「え、ちょ、あれ? 待ってアンリ。あの、だってほら、まだ婚姻誓約書は出してないわけで、だから正式な夫婦では」

「帰り際に提出してきた。俺たちはもう国に認められた夫婦だ」

「ええっということは、つまり、そのう……」

「式はまだだが、今日は夫婦になってはじめての夜ということになるな。さて悪女ソフィア殿。俺をたぶらかして手玉に取ってもらおうじゃないか」

「お、おおお、おのぞみどおり、あくじょになってあげようじゃないのおお!」


 薄い胸を反らしてなんとかそう言うと、アンリは楽しそうに笑って、誓いのくちづけをくれた。



 はたして彼が望んだとおりの『悪女』具合だったのかどうかは、恥ずかしいから聞いていない。






最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。

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