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部屋に入ってからもそんな思いが頭を巡らせる。情けなさと苛立ちで涙が出てきた。自分が勝手に思い込んでいるんだから仕方ないけど、そう思うと余計に涙が溢れた。
この通じない電話がきっかけとなって決心がついた。もうしゅんちゃんへの思いに振り回されまいと。
その頃、俊一は実家が道路拡張と共に移転することとなり新たに建築する店のオープンに慌ただしい日々を送っていた。
俊一もひかえのことは忘れてはいなかった。暮れにひかえが山科の店を訪ねてきたことを知り2回ほどアパートに電話したがその度にひかえは留守でしかし会社までかけるということはしなかった。
京都に帰ってから良い話はいくつかあったが俊一はひとりっ子でこれからますます期待されていた 。
ふたりの出会いは俊一がたまたま代行でひかえの職場に行くことになりそんな時ひかえと出会い俊一から声をかけたことが交際のきっかけだった。その後、付き合っていた中で今ひとつひかえの気持ちが理解できないまま俊一の中では終わっていた。 しかし別れて以来ひかえと一緒にいたいと思うようになりふたりとも磁石を向ければすぐにでもくっつくようになっていた。だけどそんなことをひかえは知らないでいた。
朝が来た。ふと目を止めたあの日の写真、もう破いて捨てようか、でもそこまでしなくていいか。
ふたりで撮った思い出の写真を本の間に挟んだ。
「おはよ、水かえてあげる。あんたたちはいいね、そうやって泳いでいるだけで、もういいんだ、しゅんちゃんのことは」
一緒に入れておいたつぶ(タニシ)は吸盤のように水槽にくっついていた。小田島とは午後からの約束でそれまでに部屋の掃除を済ませ、そわそわしながら時間を待った。早く会いたい。
待合場所の喫茶店でココアを飲みながらコンパクトを開く。しばらくして小田島が入ってきた。
「お待たせしました」笑顔の小田島は素敵に見えた。
コートを椅子に掛け長身の背丈に紺のブレザーが似合っていた。すぐにでもハグしたい 。電話があった日からずっと待ちわびていた。腕時計を見て「出ようか」
車のエンジンはかけられたままで「はい、これ」
小田島は後部座席から手提げ袋を取り、中から包みを差し出す。
「えっ何ですか?」
「あけていいよ」
「私、小田島さんに会えるだけでいいんです」
「同じだよ、どうぞ」
遠慮がちに箱を開けるとイタリア製のライターだった。 申し訳ない気持ちで「これ高いんですよ」
「そんなにたいしたもんじゃないよ、使ってくれると嬉しい」
いつもお店ではマッチや100円ライターを使っている。そのライターも席を移る度に無くしてしまう。
「ひかえさんに会ってもらえて嬉しんだ」
「こういうことはもうしないでください、私はいつでも暇にしてますから 」笑いながらバックからチョコレートを渡すと小田島はとても喜んでくれた。
車はゆっくり動き出す。ライターをつける、揺れる炎が優しい。「彼とはどうなってるの?」
「離れているから…」前にしゅんちゃんのこと少しだけ話したことがある。でもわかれていることは小田島には言いたくなかった。
「羨ましい、彼が…」
「小田島さんだって奥さんいますから」
「やめよう、こういう話…」
自分から言わせておいて都合の悪い話に蓋をする、こういうことがズルズルに繋がるのだろう。
車もまばらになりスピードが増していく。横浜方面を走っている。
今もまたドアミラーに映る顔があの日のあの時と同じく…。
会社にいる時とは違う、そしてお店にいる時とも。
小田島といる時は自分ではない自分がミラーに映る。
遠くのほうに三浦岬が夕暮れに消えていく。
ホテルのレストランで食事をした後この階に部屋を取った。
ホテルの1室にはベッドが二つ、既にふたりの気持ちをかき立てていた。ふたりは抱き合いキスをする。
「今夜は一緒にいたい」
「私も」
ふたりはベッドの上に …小田島の唇が首へと移動する。服の上から乳房を揉まれ 取り憑かれたように夢中で小田島のシャツのボタンを外した。全身が熱くなり、むかえた小田島にキスをする。熱く絡まるふたりに身につけているものはない。
小田島の唇と手が乳房の周りを没頭する。
声が漏れ体中がほてる。
大きな胸に重なり夢中で彼の頬を探り愛おしくてたまらない。
彼のすべてを愛した。
小田島はしなやかな裸体の虜になり冷静さを失う。
小田島の激しい波動が全身に喜びへと広がり白いシーツを掴んた。
心地よい波に揺れる…。
翌朝シャワーから上がると小田島は起きていた。
「すみません起こしてしまって」
「会社まで送ってくよ」そう言ってバスルームに入った。髪を乾かしコンパクトをとる。
小田島はすぐに出てきて「時間大丈夫?」シャツに腕を通しながら、その様子を見て、またいますぐにでも小田島のぬくもりがほしいと駆け寄り抱きついた。
「おおっ」 よろめいた小田島にキスを求める。
「ひかえさんのこと大切に思っている、誰にも渡したくない、ずるい男だ」
抱きしめられた腕の中で小田島の言葉を黙って聞いていた。
車は都内に向かい五反田で停まった。
「また電話するから 」
「気をつけて帰ってください」
手を振ると車は朝のラッシュに 混じり消えていった 。
出勤時間にはまだ早く通りの店からコーヒー豆の香ばしい香りが、その香りに誘われ店に入る。奥の目立たない場所に座りもらったライターでタバコに火をつけた。小田島との逢瀬に全身が火照り余韻から覚めきれずにいる。それと同時に疲れも感じていた。
仕事中はぼーっとして小田島のことを考えていた。帰る頃になりバイトの事を考えるとようやく気持ちを切り替えた。
バイトに向かう電車の中で、もう家に着いただろうか、頭の中が小田島のことで いっぱいに なっていた。
寄に着き更衣室の鏡に向かい、このままでいいのだろうか、小田島といてとても幸せだった。 こんな関係がずっと続くのだろうか、小田島のことが好きでたまらない。
カウンターに座りタバコを吸う。
「娘さんはまだ海外ですか」
鈴江は前に娘のことを話してくれた。
「早くから親離れできた子で今スペインに いてたまに連絡来るけど 向こうの方がいいみたいで なかなか 帰りそうにないわ」
ひとり娘がそばにいなくて寂しい反面嬉しそうに話す鈴江は仕事以外で見る親の顔だった。
恵子は今日は出てきている。ふたりでカウンターを離れ「小田島さんに会えた ?」恵子は聞いてきた。そして私の着てる服に気付いたようでこの服は小田島と会う時に着ると言ってあの日、恵子と買ったものでそれをお店に来てくるということは恵子はある程度の予想をし終えていた。
「ひかえちゃんもしかして」
「えっ、何?」
「アパートにかえってない?」
「あたり」
「私自分のこと棚に上げて言いたくないんだけど、自分を見失わないようにね 」
恵子はあえて忠告したつもりだったがおせっかいになると思い「そうね、いろんな恋愛はしておいた方がいいかもね」と付け加えた。恋愛、恋愛か…小田島との関係を恋愛というのだろうか。恋愛と言えば聞こえはいいが小田島とは不倫である、このまま続ければ恵子と同じになりかねない、泥沼は嫌、今はまだたまに会うことでいい関係でいられる、でもこの先小田島がいないと生きていけない、いつもそばにいてほしいなんて、そうなの、もうとっくに気持ちが大きく揺れ動いている。小田島への大きな愛へと現実になっている。そして大きな嵐が来ればすぐに壊れてしまう。小田島との関係に波風は立たせたくない、それは愛しているから。自然に出会って自然に 終わる。膨らんだシャボン玉 が弾けるように、あっという間に終わってしまっても。傷つけあって別れるのが嫌、でもそんなこと考えるとしゅんちゃんと同じようにいつまでも心に傷を残したままの終わり方になってしまうのでは、お互いにけじめは必要かもしれない。愛していれば傷付かない別れなんてない。
お茶を飲み終えると冴子もあきよも次々と出勤してきた。
ママが桃の花をかかえてきた。ピンクの可愛い花をいっぱいつけた枝にハサミを入れて 花瓶に生け始めた。
桃のやさしい香りが漂う。床に落ちたピンクのつぼみを拾い上げ手のひらに移す。つぼみで終わるより咲いた花でいたほうが男と女、世の中のこと世界のことをもっともっと知りたい 。
ドアの開く音とともに客が入ってきた。
「うーん、いい香りがする」客が桃の花に目をやった。
「まあ、いらっしゃいませ、うーさんミツバチのように香りに誘われていらしたのね」
「鼻だけはいいんだよ」
「ハナむけのお言葉ありがとうございます」
冴子はいつもの笑顔で宇田川のコートを受け取った。
「私たちどうかしら、お似合いでしょ?」
あきよが霧島と腕を組み並んで見せた。客は石油関係の会社で3人の中では一番若く背の高い色黒の男性、私も霧島を初めて見た時から素敵な人だと思っていた。もう一人は成瀬と いい、この3人には何回か面識はあった。霧島は近くアラブへ出かける予定でスポーツマンタイプでキリッとした顔はモテそう。
株とか 油田 とか歌の先生も交えて話は続く。その後しばらくして「そろっと、いきましょうか」 成瀬の合図で先生はギターを弾いた。 それは演歌を替え歌にした曲で "成田発の夜行便を降りた時から──ホルムズ海峡砂景色"歌からは一面の砂漠と砂嵐が浮かんできた。客が数人入ってきた。私は霧島の横に座ることができ霧島の隣で嬉しくてたまらない。
「皆さん焼けた顔が素敵ですね」
「海外の仕事は外に出ることが多いから」
濃いめの水割りを霧島はゴクンとし噎せた。
「あのぉ、濃かったでしょうか」
「いや大丈夫」霧島は私を見て「可愛いね」「あっ、酔ってますね、アラブに行ったら日本にいつお帰りですか?」
「3年いや5年後くらいかな」
「そんなに?じゃ私の顔忘れないでくださいね 、はい、今度は薄めに作りました」ウイスキーを少なめにしてマドラーで2回かき混ぜコースターの上に置いた 。
このあとすぐに客が入り霧島のそばを離れることになった。
お店の中はぐっと賑やかになりこの場所から桃の花が時折良い香りを放っていた。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです。バレンタインにチョコたくさん 頂いたんですか?」
「この歳になると糖尿が気になって机の上にチョコっとね」
「私はあげる人いないから自分に買いました」
客は水割りを一口飲み「義理チョコって言い方面白いよな」
「私にも以前はチョコあげる人がいてLHでレンタルハートチョコ、カードにそう書いて渡したらずいぶん冷たい感じがするって私にしたらジョークのつもりで刺激を与えてやろうと思ったんですがそのあと振られました」「それは相手の取り方にもよるけど最初から何とも思ってなかったんじゃないの」「ふふふ、そうだと思います。今は帰りを待ってくれてる錦鯉だけでいいんです、大好きなんです。いいですよ、散歩に連れて行かなくていいですし、うちの場合寝転ぶとちょうどいい高さに水槽が置いてあるんでぼーっと見てるだけで癒されるんです。 生き物ってみんなそうですけど、ずっと見てて飽きないんですよ 」
そういえばうちの錦鯉、久しく会ってないような気がする。大丈夫かしら、ふと周りを見ると霧島たちの姿がない、いつのまにか帰ったようだ。
バイトの帰り恵子とおでん屋に入る。錦鯉が心配で早く帰りたかったがおでんの三文字に負けてしまった。からしを付け熱々のがんもを一口、滴るおつゆも美味しい 。
話題は今日来た霧島のこと そして小田島のこと。
「ひかえちゃんたら面食いなんだから、気が多すぎるわよ」
「恵子ちゃんだってそうじゃない」
「はい、いい男大好き」
「やっぱり心かな、いや、顔も心も良い方が、でもいいなと思うと彼女いるか奥さんいるし 」
両手で器を持ちおでんのおつゆをすすったあと大根にからしをつけ口に運んだ。鼻にツーンときて 目にハンカチを当てながら「やっぱりおでんにはからしよね。ねえ、恵子ちゃんこんなこと聞いてごめんなさい、男ふたりは同時に愛せないよね」
「体で愛せても相手の心までは愛せないかも、だから女ってそう軽はずみな事は出来ない、それを勘違いすると私と同じになる。妻子がいて最初から承知で付き合う時点で深みにハマる、女は心を許せる相手じゃないと 、女も男も優しくされると弱いのよね」
恵子がライターに気づき
「素敵なライターね」
手のひらに乗せ「小田島さんから」
「これ高いのよ、ひかえちゃんのこと大好きなのね」
恵子と別れた帰り、電車の中で考える。
体で愛せても心までは愛せない =ただの遊びってこと。
小田島も恵子が愛した男と同じだというのか、小田島とあってる時はわがままでいい加減な女では決してないはず、でもずっとこのままの関係でいられるはずがない。
夜空に生暖かい風が頬を撫でた。
「ただいま」明かりをつけると真っ先に水槽を見た。白い腹を上に向けてないか、この時期カビも生えやすく虫眼鏡で注意深く見るがカビは心配なさそうだ。念のため薬を入れた。
早く帰るつもりだったのに…ここに帰るとホッとする。あなた達がいるから…。
恵子とプールに来ている。プールには化粧して入ってはいけないことになってるが、なかには化粧をしている人もいる。水に落ちない化粧品もあるけどブルーのアイシャドウに目張りを入れて、いくら水に落ちない化粧品があるからって、恵子とふたりで「あの人いなくなったね」なんて言ってたら化粧がすっかり落ちてるんだもん、もう大笑い。会社や出かける時は必ず化粧をする。
恵子も化粧は上手く、でもプールの時はふたりともすっぴんでそれにスイミングキャップに髪全体を入れるとお互いになんだか見てはいけないものを見たような、そこまではいかないけどお互いの顔を見て笑ってしまう 。
何回か通っているうちに恵子はここのスポーツクラブに来ている 森屋と親しくなりふたりは交際を始めた。私も一緒に食事をしたりふたりともお似合いで恵子に先を越されてしまった。
数日後、桐島が上司と外国人を連れてお店に来た。海外に出かける前にお店に来てもらおうと電話をした。霧島は外国人と英語で話していてスムーズに会話しているのを見てすっかり見とれてしまっていた。冴子が身振り手振りで外国人に話している。それを上司が通訳している 。
数人の客が入ってきた 。
バイトはその後も仕事に無理なく続けることができ最初の頃は続けていけるかとても不安だったが客の好きな番組を見たりニュースも効くようになり、お店での洋服もお金をかけ派手なアクセサリーも身につけ、一端のホステス気どりでいた。
客と帰りに食事をしてハグして別れる。酒と煙草と香水の香りを漂わせホステスらしさを身にまとう。その反面、煌くネオンに躊躇しながら辞めるには後悔が残るだろう。そんな風に変わっていく自分に虚しさも感じていた。 そして何よりも会社を辞めないでいることで自分らしさを保っていられた。
海外旅行の資金も優にたまり美恵子と行くハワイの計画は進でいた 。
アパートの石段につくしが芽を出し花屋のウィンドウから春の花が微笑みかける。
京都では朝晩厳しい寒さのなか、霜の降りた鴨川が霞んで流れていた。新しくできた3階建てのビルには1階が薬店で2階には輸入雑貨や調味料お酒など和食、フレンチ、イタリアン、中華と料理の主役を引き立たせるフロアを設け、この店に来れば本格的な味付けができるというものだった。3階は自宅として、完成したら俊一はここを中心とした生活になる。そのためいつも遅くまで仕事に追われていた。
俊一にはいくつか縁談の話がある中、なかなかその気になれないでいた。それはひかえのことで一歩踏み切れずにいたのだった。
ハワイ旅行も間近に迫り毎日がウキウキで初めての飛行機の不安も入り乱れ、日々を過ごしていた。お店ではあきよが先にフィジーに行ってダイビングを楽しんできたと喜んでいた。ママが若い時にハワイで着たというムームーを借りて思いっきりエンジョイしてきたようで、そのムームーが今私の手元にありママが借してくれたのだ。ノースリーブのロングドレスは南国の海の色で白い大きな花が描かれている。 着てみると丈もぴったりで花の髪飾りが似合いそう。美恵子も初めてのハワイで休日は旅行の話で盛り上がる。
ショッピングも楽しみにしていて、水着は去年のバーゲンで買ったもので色が派手で大胆な形。青い海そして砂浜、眩しすぎる太陽、パンフレットの写真は気分を盛り上げた。ハワイに行くことは小田島には言ってない。小田島にはどんなお土産がいいだろうか。
成田を夕方出発した。
機内が蒸してきたように感じる。ホノルルへはもうすぐだ。飛行機は着陸態勢に入り滑走路に 車輪が付いた気配と共に何事もなく着いたことにホッとする。ハワイに着いたばかりなのに既に帰りを惜しむ気持ちになっていた。
もうすぐポリネシアンショーが始まろうとしている。
庭ではウクレレのメロディーが流れていて甘いフルーツの香りが漂っていた。大きなお皿にいろんな料理を乗せて席につき踊り子たちのトロピカルな装いと、南国ムードの歌と踊りで食事を楽しむ。 欲張ったお皿に小さな黄色のピーマンをひとつ残した。
ショーも終わり帰ろうとしていたらを踊っていた女性たちと会い一緒に写真を撮ってもらった。
松明の灯る中、ビーチに出て 素足で砂浜を歩いた。
もうとっくに日は暮れているのにプールも浜辺も賑やかで子供達がボールを蹴って遊んでいる。
「ハーイ」行くぞとばかりサンダルを履いて美恵子は子供達の輪の中に入り「カモン、カモン」飛んできたビーチボールを蹴った。
「ひかえちゃん !」
美恵子の手招きにパスされたボールを蹴る。 ひとおじしない子供達は可愛い。
「バイバイ、サンキュー」子供達と別れた。
ホテルが並ぶ海沿いを歩き、ときおり柔らかな風が髪をさらう南国の夜だった 。
ベランダに出て、柿の種をつまみにビールで乾杯した。ふたりともおつまみだけはふんだんに用意していた。その最中に電話のベルが鳴り美恵子が出て彼からのラブコールをうける。えっ、なに、こんなところにまで、聞いているとつい電話口から「美恵子ちゃん、こっちの男性と仲良くなって日本に帰らないかもしれませんよ」少し余計なことだったかな。
プールの周りで松明の炎が揺れていた。
美恵子はまだ彼と話している。私は一気に 缶ビールを 開けた 。
満喫できたハワイでの休日もあっという間に過ぎ、帰る日も直前まで泳いでいた。出発時間が近づくにつれ日本に帰らなくてはならないという思いで気が抜けたようになっていた 。
そういえばこんなことがあった。美恵子とふたりで海で泳いでいたらふたりの白人男性に声をかけられ、これまさしくナンパである。そばかすをつけた顔はルックスも良く、いい感じのふたりで「ハーイ」爽やかなブルーの瞳で声をかけられ久々に接近したって感じで、向こうがタバコを持ってたんで「これ 日本 の煙草どうぞ」
愛用のセブンスターを勧めたら彼らは自分たちの持ってたタバコと交換した。美恵子と一生懸命に通じようと並べた単語も、ある程度通じ、 もっと英語の勉強しとけばよかった。なんて、わたしたちは英語力のなさを痛感していた。
そしてもう一つ 、私たちが部屋でくつろいでいる時に美恵子の彼から2回目のラブコールのあと、フロントから電話があり美恵子が出たんだけど日本人の男性からの電話で 私たちはお茶に誘われたのである。美恵子は電話口で「人違いじゃないですか」と言ってるんだけど向こうは待ってるからということだった。私達は全く見当がつかず驚き、「きっと他の人と勘違いしてんじゃないの」
「友達になりたいのかしら」
彼がいるのに美恵子ったら満更でもない様子で一応身だしなみを整えて「やっぱり見てる人は見てんのよね 」なんてワクワクしながらレストランに向かった。しかしそれらしき男性は現れない。
「やっぱり人違いしてんだ」私はつぶやく。
「同じツアーに女性組もいたし」
「きっとどこかで私たちは見て違うとわかったか本命の彼女が現れないもんだから帰ったか、会って人違いでしたなんて言えないだろうし、失礼よね」
「私たち、 目印つけとけとけばよかったかしら」
「それなら向こうがつけとくべきよ、赤いバラとか赤いハイビスカスとか、ね」
「なんでひかえちゃんてば、そんなに赤赤っていうの?」
「目印は目立つようにバラと言ったら赤、ハイビスカスと言ったら赤でしょ」ふたりしてちょっとがっかりというようなことも、いろんな出来事も名残惜しく飛行機は成田に着いた。
小雨が降っていた 。
混雑したバスや電車の中で何かに少しでも触れようものなら焼けた肌が痛い。
アパートのドアを開けるとすぐに「ただいま、楽しかったよ、つかれたー」
ガラス越しに話しかける
「元気にしてた?もっと嬉しそうに迎えてよ」
優雅に餌をキャッチする。すぐに家主の倉田にチョコレートを届けに行った。
四畳半の部屋はただでさえ狭いというのに荷物を置いたら足の踏み場もないくらい 。
銭湯へ行くと焼けた肌をかばうようにして上がってきた。
夜になり、とても名誉ある人たちとの、これは晩餐会? 著名人や格式の高い人達との食事会に招かれ、なんでわたしこんな所にいるの?何かの授賞式?テーブルの前後左右にはえらく有名な人たちが着物やドレス、タキシードといった正装でテーブルに座っている。 正面には金屏風があり…そんな中でシャンパンを注がれスープから始まり次々に口にしたことのない料理が運ばれてくる。
見たこともない人たちを目の前にし、こんなことは初めてで、とても緊張している。ナイフとフォークを持つ手がぎこちなくガチャガチャ音を立ててしまい、美味しい料理を食べているはずなのに緊張してるせいかちっとも美味しく感じず、フォークで肉を口に入れようとしたら肉をテーブルに落としてしまい慌ててフォークにさし口に入れた。その肉を飲み込む時に喉がゴクンと音を立てて隣の人に聞こえやしないかと不安で肉のひと口さえ飲み込めずにいた。あまりにも緊張しているせいか気が付くと、となりのご婦人のワインをすっかり飲み干してしまっていた。あー、しまった、どうしよう、恥ずかしすぎる。「すみません」あながあったら入りたいくらいじゃ済まない。どうしたらいいの、周りの人は呆れた顔で見ているような。
"もういやっ、ヒコウキー"自分の叫び声で目が覚めた。
あー夢か、甘酸っぱいムースのような味が口の中にこもる。
全身に汗をかきすぐに着替えた。
いやーまいった、変な夢を見てしまった。
飛行機の中での緊張感とハワイの海を思い出していた。
バイトの帰り恵子とお茶を飲みに通りのカフェに寄った。ケーキを食べながら「いいなーハワイか」
「良かったよ、いい男いたしホリが深くって、あのブルーの瞳、最初は青い海と空に反射してんのかと思ったの、本当に青いのよ」
「そんなに接近したの?」
「ん、まあ、ナンパされたっていうほどじゃないんだけど、もうこの時はこの場を逃してはいけないと思い、知ってる単語を並べてタバコの交換して、年下なんだけどね」
「そこまで聞いた?それ大事よね」
「ブルーの瞳が聞いてきたのよ、もう少し若く言っとけばよかったってあとで後悔したけど 」
「へぇー」
「太陽の下で泳いでる姿、ふだん日本人だけのなか、目と目が合うと英語で話しかけられそうで、私それほどの会話もできないしニコッとしつつも目をそらしたりして、一緒に行った友達、大きな笑顔を振りまいて手を振ってた、でも彼氏いるんだよ」
「そうなの 、よかったね楽しいハワイで」
このあとも恵子はハワイでの話を延々と聞かされていた。
「彼とはどうなってるの?」
恵子がスポーツセンターで知り合った森屋とのことを聞いた。
「彼はこれからいろんな出会いがあるわ、私に子供ができないこと話したし彼も悩んでると思う。だから彼の気持ちを考えると会わない方がいいのかな、なんて」
「時間をかけて前向きに 森屋さんと付き合ってみるのもいいんじゃない 」
恵子のこれからは新しい出会いと月日が解決してくるだろう。 で、今の私はどうだろう、ハワイへ行って楽しい思いをしてきたのに自分の今の状態に気が重くなっていた。これから彼を見つけて付き合うようになるにはきっかけが必要だし、それが結婚につながるとは限らない、考えると疲れてくる。大きくため息をついた。
上野公園では桜が咲き始めたという。
数日後 、小田島から電話があった。仕事で東京に来るという ので銀座で待ち合わせをし、この前の寿司屋に入った。早速ハワイで買ったお酒とタバコを渡すと小田島はびっくりした様子で「彼と?」
「いいえ、友達と」久しぶりの再会に話したいことはたくさんあるが気分がすぐれない。寿司屋を出ると通りの宝石店の前で若い女性が ショーウィンドウを覗いてたかと思うと店の中へ入って行った。「ちょっと入ってみよう」 小田島は店の中に誘った。
店内を見て回り「気に入ったの ある ?買ってあげるよ」
「 じゃあ 全部お願いします」ふたりで笑う。
店員はショーケースから出して進める。
「つけてみませんか?」鏡を持ってきて「とてもよくお似合いですよ 」焼けた肌にネックレスが眩しい 。
会社を出てから体に悪寒を感じていた。小田島を寄に案内するともう何人か 客が入っていた。すぐにボトルを用意し水割りを作る。 小田島を客としてもてなす。ここは仕事場、ふたりでカチンとグラスを合わせ小田島の優しい瞳に吸い込まれそうになる。恵子がやってきた。「いらっしゃいませ、はじめまして恵子です 」恵子はお辞儀をした後 小田島の隣に座った。 普段小田島のことを聞いてくるのに今日の恵子はしとやかだった。客が入り恵子は席を離れた。
小田島との約束を交わし それからしばらくして小田島は寄を出た 。そっとネックレスを指で確かめ小田島のいたテーブルのかたずけをしながら彼の残したタバコの吸殻を見て小田島に会える日をどんなにか待っていただろうと。
しかし今日は体がだるくタバコもまずい。熱があるようだ。
バイトが終わり小田島との約束の場所へと向かうが足が重たく歩き方もおぼつかない。向こうの方で小田島が手を振っている。
「今日はどうもありがとうございました 」
冴えない様子に気づき 「何かあった?」「 少し体調が…せっかく会えたから 一緒にいたいと思って、でも今日は一緒にいれそうにありません。こんな時間まで待たせてしまってすみません 」
小田島はそっとおでこに手をやり 「 熱がある 、送ってくよ 」タクシーの中でぐったりとし小田島の肩にもたれた 。
「いつも食事の時はよく食べるのに今日はどうしたのかと思ってたんだ 」
「今は笑えません 」
「やっぱり重症だ 」
うつろに見える街の明かりと車のライト 、タクシーは止まった。「大丈夫 ?」
「すみません 送ってもらって」
「また連絡するから、お大事に」
「ありがとうございました 」
タクシーから降り本当は朝までそばにいて欲しかった。このままずっと今のままでいられるだろうか、小田島が私のこと嫌いにならない限りそして奥さんに気づかれない限り、小田島を愛している。彼の家庭は壊したくない。
離婚して欲しいなんてそんなこと… 小田島が別れを口にしない限りこのままでいい、このままで…。
目覚めると外は強い風が吹いていた。しかしその風は暖かく柔らかい。今小田島はどうしているだろうか、会社に休みの電話をすると途中でイチゴを買った。数個のいちごを洗ってひとつ口にしたけど 美味しくない。布団に入りしばらく目を閉じていた。外で誰かの話し声がしている。時計に目をやると昼を過ぎていて少し楽になったような。冷蔵庫に入れておいたイチゴに手を伸ばす、白い皿にイチゴがふたつポツンとしていて、なんだかせつなくなった。
ひとつ頬張ると、しだいに涙が溢れ泣きながら食べる。
「これ小田島さんが買ってくれたの」
涙を拭い聞いて欲しくて水槽に近づいた。
ネックレスを外しそっと箱にしまった 。
錦鯉は餌を欲しがり集まってきた。ダークグリーンの粒を落とす。
「 こんなかで何考えて泳いでるが?」
小田島のことが気になり今からでも会いたいと思い、切なくて泣いた 。
しばらくして恵子から電話があった。会社に電話したら休んでいると言われたようで、まだ恵子と話したりなくて外からかけ直した。
「具合良くなって良かったね 」
「もう大変だった、お店でずっと寒気がしてたんだけど帰って熱計ったら40度あって風邪薬飲んで、もうなんぎくて」
「なんぎいって、ひかえちゃんって時々そういう言葉使うから面白い、で、小田島さんは?」
「 アパートまで送ってもらって朝まで看病してもらったよ 」
「ほんとに?」
「気持ち的にはそうして欲しかったけどそういうわけにもいかないし、もう着いてる頃かな 」
「私ね、聞けばよかったかな、ひかえちゃんのことどう思ってるかって、私も妻子ある人好きになったからひかえちゃんの気持ちわかるから、男の本音って最初は軽い気持ちからで、 ズルズルと本気と遊びに惑わされ振り回されて 」
「つらいの、行くとこまで行って、はい、さよならで。それもいいかもしれない 、ごめんね、こんなこと言って、彼のこと今は大切だからでも家庭は壊したくない 」 恵子に気を使って話したつもりだった。
「女がみんな ひかえちゃんみたいな 考えなら男は嬉しいと思うよ。奥さんに知られることなく知られたとしても大事にしたくない、ひかえちゃんもそう思ってるしそんなひかえちゃんのこと粗末になんかできないんじゃない?男ってずるいよ 」
「…」
電話ボックスを出る。道端に空き缶を見つけ思いっきり蹴った。 モヤモヤした気持ちの中小田島の顔が消えない、そうなの、 彼は結婚しているの、いつも 一緒に入れないの、 不倫て悪いことなの? 秘密でしか愛してはいけない、秘密でしか…。
小田島は優しすぎて… 彼のこと大切に思っている。 それはいけないことなの?でもそれ以上に自分も大切であり傷つきたくない。 このまま受け入れていいのか、そう思ってる自分が歯が良かった。
小田島のことが知りたくて 普段どんなことをしているのか聞いたことがあった 。
「従業員と共に現場を見てバスの送迎し、これから旅の疲れを癒してくれる宿に私が案内しますって、 客と身近に接するのは従業員だから客の立場になって理解してくれてると思ってる。 大切な客は従業員で成り立ってるから 」
まっすぐに話す小田島だった。
「大変ですね、だからこうして発散してんだ 」
「何でそういう話になるかな 」
「大当たり?」
「怒るよ、確かにひかえさんの言ってることは当たってるかもしれない。そう感じさせてることに責任は感じている。でもいい加減な気持ちじゃない、ひかえさんのことは大切に思ってる。 ひかえさんが終わりにしたいと言うのなら辛いけど何も言えない、ひかえさんを縛るようなことは自分にはできない 」
私はこの時、小田島の口からはっきり聞けたことは良かったと思った。それと同時にショックも受けた。 でもこの話を聞く以前に彼の立場をわかっていた。
「ごめん、ひかえさんを傷つけてしまっていることにすまないと思ってる、 ひかえさんのことを愛している、私はずるい男だ…」
体調さえ悪くなかったら小田島と朝までいただろう。今のふたりの関係にずっとこのままの関係でいなくてはいけない自分に、このことについて彼を責め困らせたかったことも胸にある。
しかしそんな気持ちを打ち消す。小田島の仕事に対する考え方、男は仕事してなんぼ、何もかも捨てて私と一緒になり抜け殻のようになった小田島を見たくない。
自分の気持ちが今以上深入りする前に、 今なら傷つかずに別れられるだろう。自分を見つめ直し自分の生き方にもっと輝いていたい。
鳥の声で目覚める。気分を変えて花柄のワンピースにネックレスをつけた。
今日のりりこは黄色のマニキュアで髪にターバンを巻いる。それにしてもりりこ はたまにびっくりするような格好してくる。そんなりりこのファッションにはすっかり慣れた、いや慣らされたと言った方がいいのかもしれない 。
りりこはファッション雑誌から飛び出したモデルのようだった。
「今日はどっか行くの?」
「お肉食べに行くの」
「いいな、家族で?」
「ええ 、赤坂に美味しいステーキ屋さんがあるの」
りりこの両親は仕事をしていて休日もバラバラで揃っての食事は滅多にないという。りりこは仕事が終わるとさっさと会社を出て行った。
私はこれからバイトで下のレストランで食事を済ませると山手線に乗り込んだ。まだお店に入るまでには時間がある、このまま電車に乗っていようと考え時計を見ながら途中で降りないと遅刻しちゃうかな… 西日暮里まで来ると反対電車に乗り換え新橋で降りた。
夜になり潤を帯びたこの通りに今夜も粋なホステスたちが銀座の夜を彩る。そんな7丁目は社用族で溢れていた。
ふわぁっと風が吹き手で髪を撫でながら急いで寄に入る 。
「おはようございま─す 」
息も荒くあきよと鈴江に挨拶する。
更衣室に入り手で髪を押さえるとそのすぐ後から恵子が入ってきて 「日曜日 プールに行く?」
「ええ」
この日は久しぶりに 林田と佐藤が現れた 。
ウキウキとボトルを用意する。
「 いらっしゃいませ 、ああよかった、 いらっしゃらないからずっと沈んでました 」
林田はニコニコしながら
「コイちゃん 浮き上がっていいよ 」
「今のところ 稚魚ですけど、 これからもっといい色も出しますし模様だって任せてくださいの予定です 」
「なに、その予定って」
恵子がマドラーで水割りをかき混ぜた 。
「模様は成長をするに従って 、だから見極めが大事なの 」
あきよはコースター にグラスを乗せそれぞれの前に置いた 。
「 かんぱーい、いただきまーす 」
みんなでグラスを合わせた。
「ところで錦鯉って生まれた時は小さいんでしょ ?」
グラスを置いて あきよは言う 。
林田は指で示して「もちろん、これくらいになると姿、形を見て選別され数多くの中から見極められた稚魚だけが育てられ、 その後何回か選別して、良い鯉にめぐりあい、ここまで来る段階には苦労があるけどいい値で取引されたり賞をもらったりすることで育てた鯉師にとってはこれほど名誉なことはない 」
恵子もあきよも頷いて聞いている。
「林田さんの池にはどれくらい錦鯉がいるんですか?私も育ててみたいと思ってます 」
恵子が真顔で聞く 。
「50匹はいるかな 」
「大きな池があるんですね 」
「今まで錦鯉を見ると鯉がいるな、くらいにしか思ってなくて、けど錦鯉の話を聞くようになってこの鯉いくらするんだろうって、名前や種類 、模様っていうのかぜんぜん無関心でした」
林田は水割りを一口飲んで「昔は貴重なタンパク源として今では 観賞魚として育てられてる」 恵子は林田のグラスに氷を入れ「私も錦鯉のこと少しわかったような気がします」
「 あのね光り物も人気なのよ 、験担ぎに金よコイって招いてくれるのよね」
飛び出したようにあきよが言う「 もしかしてひかえちゃんの水槽 、光り物だらけじゃないの」
「そうなの光り物大好き 」
林田の来た日は錦織の話で盛り上がった。
バイトの帰り恵子とうどんを食べた。 恵子は森屋とたまに会ってるようでコンピューターの得意な恵子は知り合いが ニューヨークにいて ニューヨークに行く話があるという。
何だか自分だけが取り残されているような、大きなため息をつきながら頭の中では突然しゅんちゃんがアパートのドアを叩きやってきてくれたらな、そんな様子を描いていた 。
今夜も星が綺麗だ。しゅんちゃんは私のこと考えながら星を見ることがあるのだろうか、今はもうこんな風に考えるだけにしていた。
プールサイドの椅子に腰掛け「けいこちゃん今日、森屋さん来るの?」
恵子はタオルで顔を押さえ背中にかけ首を振りながら「今日は来ないよ」
「 仕事 ?」
「職場が移動になって忙しいみたい 」
「そうなんだ」
「なんだか最近体が引き締まったように感じ るんだけど」
「プールから上がると体が軽くなるよね」
あっという間に時間も過ぎシャワールームを出た。少し遅れてきた恵子はドライヤーのスイッチを入れ髪を乾かし始めた。 恵子は鏡を見て「 お昼何食べる?」 「そうね何食べようか」 目を細めアイシャドウをつける。
スポーツセンターを出ると、うららかな春の日差しに恵子の横顔は真上から差す太陽に光り輝いていた。
瞳を眩しそうにして恵子は言う。
「 気持ちいい天気ね」
「 そうね 」
レストランの自動ドアが開き奥に腰掛けかる 。
恵子は運ばれた水をごくんと飲みタバコをバックから出す。
「お腹すいたね、ハンバーグにしようかな」
「 私も今日はご飯にしよっと…ねえ、森屋さんとは結婚するの ?」
恵子はまた水を飲んだ。
「今、世の中が広く見えるようになって今までとは違うの、優しくなれるって言うか、でも臆病になって正面から彼の腕に飛び込めない、 私のこれからより彼のこれからの方が大切、彼もこれからどうなるかわからないし彼の心は縛りたくない。 年末には日本を離れることが決まったの 」
「そうなんだ、 頑張ってね。すっかり立ち直ってんだね 」
「 いつまでも引きずってはいられない、私もひかえちゃんのひかえめなとこ見習おうと思って、ううん、これからちょっと 恋愛は休みかな、なんて 」恵子は 最後 の語尾をお茶目に恥じらった 。
「 私、ひかえめなんかじゃないよ、大胆?いやストレートとも違うし結構悩むしうまくいくことなんてないし …」
「ひかえちゃんは恋愛に失敗したことないから私みたいに傷ついたことないから森屋さんと付き合っている中で彼が明日にでも離れてしまっても仕方ないことだと思ってる、何年後に戻るかわからないけどチャレンジしようと思って」
真剣な面持ちで話す恵子からは迷いなど感じなかった。
私だって悩み落ち込み、 終わってしまったしゅんちゃんのこと未だに思ってる。こんなことは話せない 。
「小田島さんのこと私には言う資格はないけど私でいいならいつでも聞いてあげるよ 」
私はゆっくり頷いた。
小田島のこと気になってる、しゅんちゃん 以上に会いたいと思う。クリームソーダの氷が溶けて小さくなっている 。ストローで吸い上げると店を出た 。
恵子が駅の階段を上がる後ろ姿を見てさっきの恵子との会話の中で失敗したのは恵子ではなく自分のような気がしてならなかった。
ガタンゴトンという電車の音が憂鬱に聞こえる。
このまま帰るのをためらった。かと言ってこれからお酒を飲みに行くにも早い時間である。 百貨店に入り色々見て回る 。
妬ましげにカップルの姿を目で追う 。
地下の食品売り場には春を感じさせる食材が並んでいた。さっきの売り場を避けるように、百貨店の食品売り場って意外とカップルが少なく食材を見て回るのも楽しい。
タケノコを目にしてもうこんな時期なんだと小さいのを選んでレジに持って行く。 米ぬかと赤唐辛子がついていてすぐに調理できるようになっていた。
たけのこの一番上の柔らかい部分はわかめを入れて若竹汁にしよう。
早く帰ってたけのこを茹でなくっちゃ、なんてさっきと打って変わってとても幸せな気分になっていた。
さっそく料理の本に目を通す。生まれて初めて調理するタケノコである。レシピ通りに茹でアク抜きをするため時間を置く。
タバコの煙の流れる方にふと目をやった。
窓から桜の花が…洗足池の桜、 あそこも咲いている頃かな。かつてしゅんちゃんとよく行った場所である。
桜の木の下で時に散る花びらを見てはどこにでもいる恋人同士だった。
これからそこに行ってみたいと思った。
歩いて行くとかなりの距離だがどうしても行きたいという思いにペダルを漕いでいた。 環七沿いを下りカーブする。
しゅんちゃんとの思い出の場所へ 、あの時のふたりを思い出の中に蘇らせたかった。
洗足池の桜は満開で ふたりでよくお茶を飲んだ 喫茶店 には何人かの 人がガラス越しに見える。ここら辺一帯がとても懐かしくふたりで座ったベンチのそばには露天が並んでいた。
自転車を押しながら池の周りを歩いた。
片手で髪を撫で水辺のボートを見ながら隣にしゅんちゃんがいるようなそんな幸せな気分に浸れた。
西陽も陰りゆっくりとひと回りした後この場所を離れた。
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「ただいまあ、今日は仕事忙しかったよ 」 慌ただしくバッグを置くと錦鯉は気配を察知してか一瞬ざわつきだした。
タバコを1本ふかしレシピを開く。冷蔵庫から茹でたたけのこを取りさっそく料理にとりかかった。 姫皮を千切りにし、 穂先の部分をスライスしてわかめを入れて味噌汁にした。 たけのこご飯も美味しくできた 。きっといい奥さんになれるわ 、なんて貰い得なのに …ね。錦鯉はどうぞお好きなようにとすましている感じ 。
桜の木はすっかり緑色に変わり手に届きそうな葉っぱがそよ風に戯れていた。そんな爽やかな日が続いている。会社の子は結婚が決まったとかでそれを聞いて焦る気はないが結婚についてりりこにいて聞いてみた。
りりこはサバサバとして「当分結婚しないかも 」
「なぜ ?」
「家庭に縛られたくないし自由でいたい 」
「りりこちゃんのエプロン姿とても似合うと思うよ、でもそれ以外は想像できないかも 」
「でしょ?」
ふたりで笑った。
「私もしないと思う、って言うよりできないの相手がいないから」 またふたりで笑った 。
バイトを始める前は水商売に染まりたくないという気持ちがあった。でもそれを貫けたかと問われたらうつむいてしまう。この世界に入ったらホステスとしてやるしかないのだ。まだしばらくこういう生活は続くだろう。この先結婚にこだわらず、ずっとひとりでいてもいいと思った。いいなと思う人がいたらその時はその時でそしてたまにしゅんちゃんのことを思い浮かべるだけで…もっと気楽に行こうと 、バイトへ向かう電車の中で一点を見つめている自分がいた…。
ある日の帰りいつものうどん屋に恵子と入る。
どんぶりに箸を入れ熱々の麺をすすってからの1分間は2人とも無口だった。
恵子は箸を置き 「私はこんな状況だからどうにかなるけどひかえちゃんのことが心配なの」
「えっ、何のこと ?」
ハッとして箸を止め、続けて「小田島さんのこと?」
頷く恵子をしっかり見て 「何がそんなに心配なの?」
「私はいっぱい傷ついたから心だけじゃないの…」
「私もけいこちゃんみたいに行くとこまで行って、マンション買うほどのお金もらって、私もそうしたとして何がいけないの? 正直言って 何もかも吹っ切れて今とても輝いてるけいこちゃんが羨ましい。 誤算もあったでしょうけど」
私はこの時、恵子の気持ちを十分理解しつつ、とんでない ことを言ってしまっていた。
「ひかえちゃん 私のことそんな風に思ってたのね、子供が産めなくなったのも人の旦那に手を出したせい?世間から見ればそうかもしれない」
「 ごめんなさい、恵子ちゃんの気持ちわかっているのに、 ひどいこと言ってしまって自分の今と恵子ちゃんを比べてしまって…」
「私はひかえちゃんがとても自由でいいなと思った。でもふたりの関係が自分の思い通りになればいいけど、 妻子ある人だからボロボロにならないように、私こそ余計なおせっかいで聞いたりしてごめんなさい。 今の私は男との別れより子供が産めなくなることの方が辛い …」
「私どうかしてたの… 嫌な思いさせてごめんなさい… 」
「心がどれだけ通じ合っても実らない愛なんて虚しすぎる 、そのうち片方が嫌になったらいくらひとりで頑張ってもだめ、つらくて惨めで強がり言ってた時もあった。最後まで彼のこと信じていたかったの、 優柔不断を優しさと勘違いしてそれに気づくのが遅かったのね…」
「 恵子ちゃん、 本当にごめんなさい」
「私の方こそひかえちゃん苦しめてしまって 」
レンゲからすくったおつゆは冷たくなり麺もふやけた。
恵子はゆっくりナプキンで口を拭いた。ふたりとも大好きなうどんだったのに 恵子には悪かったと思っている。
勢いもなくボーっとして歩く。
ついてくる月がうらめしげに道を映していた。
コンコン「ねえ、どうしたらいい ?あんたたちも沈んでくれてるの ?」
静かな夜に電車の通過する音が煩わしく聞こえる 。
海が見たくなった 。横浜のあの海が… 。
2本目のタバコに火をつけた 。
しゅんちゃんに会いたい、小田島に会いたい、会って自分の思いをぶつけたい。この気持ちは明日目覚めれば治まるだろうか、いやそんなもんじゃない、そう簡単なものじゃない。部屋中のものをめちゃくちゃにしてドアを壊し壁を壊し狂ったようにわめき散らす、 そんなむしゃくしゃした気持ち、この夜は布団の中で泣き続けた。