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恋愛の進行形って初めは互いに好意を寄せ合う者同士、お互いを知りたくていろんな話をして会話も弾む。その後関係を持ってしまうと以前はあんなにおしゃべりしてたのにそれほどでもなく、ふたりで黙って電車に乗っても通じ合うみたいな。
本気で小田島を愛した。でも本気で好きになってはいけな人、小田島は結婚していてほんの浮気のつもりで抱かれたとしても…彼を責めたりはしない。
小田島にしてみればたまたま東京に来る用があって誘ったに過ぎないにしても小田島は私の心をすっかり引き寄せてしまっていた 。
向こうの方に観覧車が見える。ふたりは子供のようにはしゃぎそして恋人のように …日が暮れると一段と寒さが増してくる。
車は東京へと向かう 。
楽しかった1日、ふたりのこれからのことは聞かない。
ちょうどその頃アパートでは矢野俊一から電話がかかっていた。アパートは家主の並びにあり家主の倉田は三世代同居のおじいさん、ここのご夫婦はとても面倒見が良く、ふたりにはとてもお世話になっている。ただ耳が遠いせいもあり声が大きく、かけてくる友達からは怒っているように聞こえるらしく"ひかえちゃんちゃんと家賃払ってるの"なんて言われてしまう。
「 丘沢さん、いませんよ」"ガチャン"この日もいつものように倉田は受話器を切った。
部屋には電話がなく呼び出しでかつてしゅんちゃんも電話をかけてくるのを嫌がっていた。奥さんが受けてくれる時はいいのだけれどでも全然悪気のないおじさんなのだ 。この日は帰りが遅かったこともありしゅんちゃんからの電話のことは聞くことはなかった。
アパートの近くで車は止まった。
「とても楽しかったです、ありがとうございました」
「こちらこそまた会って欲しいんだけど」 頷くと「また 連絡します」
「はい、気をつけてお帰りください」
見つめ合いキスをした。
車から降りると小田島は手を振った。
「ただいま」電気をつけ、ガラス越しに水槽を叩いても錦鯉は反応しない。しばらくの間、錦鯉を観察した。
とくに変わった様子もなく泳ぎ方も変ではない。
ストッキングを脱ぎこたつにスイッチをいれ足を温めた。
仰向けに寝転び大きく背伸びをする。
ブレスレットを外し手にとって思いにふける。
小田島といた時からずっとつけてたこのブレスレット、小田島のこと考えると胸が熱くなりこれからどうなるのだろう、このままでいいのか、しゅんちゃんのことは忘れられず、小田島のことも…これが恵子の言っていたふたりの男を好きになる、愛するに繋がるのだろうか…。
小田島の気持ちを左右するつもりはない。これが小田島との始まりだとしたら これから先ずっと小田島の気持ちも私の心を左右することのない状態で付き合っていけたらと望んだ。
もうこんな時間、明日も休み、銭湯に行ってゆっくりとお湯に浸かりたい。体が温まり小田島への思いが全身を熱くする。
何気なく見上げる星たちは一斉に、まるで私のことを歓迎してくれるかのように輝いて見えた。
コンコン「ねえ、小田島さんと一緒だったの、ねえ、どう思う?」
じっとしている錦鯉は何もかも見抜いているような 。
休みの日は午前中まで寝ている。今朝は一度起きて錦鯉の様子を見てまた 眠りについた。
昼過ぎに起きて顔を洗う。蛇口から出る水が冷たい。
洗濯機を回しながら掃除機をかけ小さな部屋だから掃除はすぐに終え、水槽の水を半分変えてカルキ抜きをした。
休日の午後はいつも音楽を聴いている。聞いたことのあるクラシックは穏やかに聞こえる 。
昼も夜も仕事をしていると休日はほっとする。
三段ボックスに手を伸ばし、箱を取った。中を開け、これは結構するもので、ブレスレットに触れてみる…小田島との熱い夜が蘇る。
会社にブレスレットをつけて行った。
都会の女の子ってなんておしゃれなんだろう。これが普通なのか、 りりこもおしゃれは敏感で、しょせんりりこにはかなわないが一緒にいるりりこの影響は大であり刺激を受けている。
恵子は今日も休みだった。お店に入って1時間以上は経つけど客は入らない。ママはいつもの時間に出勤したがこの近くのカレンという行きつけの喫茶店へお茶を飲みに行った 。ママは早くに歌の先生とカレンに入っていく姿をよく見かける。 そこからママが帰ってきた。カウンターでタバコを吸うホステスを見て「ねえ冴子電話しておくれ」ハスキーな声で右手で着物の裾をひらりと返してカウンターに腰掛けた。
「来る前に何件か、かけたんですよ」
冴子は客に電話をかけ始めた。
店のドアが開くのがわかり、一斉に客を迎えた。
「 いらっしゃいませ、わー嬉しい、お待ちしてました」
冴子とあきよが笑顔で迎える。奥の方でタバコを吸ってた順もやってきて水割りを 準備する。ひとりの客はビールなのでそれ知ってるあきよは素早く鈴江から出してもらっていた。
週に3日のバイトだが馴染みの客も増え、初めて見る客も多い。そんな中、カウンターに座ろうとしているふたりの客も見慣れない客のひと組だった。この店に初めてきた客のようで冴子とあきよが対応している。見慣れない客でもお店の客を通じていらしたかもしれないので聞いておかなくてはならない。
冴子もあきよも名刺を見れば接待でいらしたかどうかわかり、困惑している様子に見える。誰からの紹介でもなく飛び入りの客だった。ママが客を断っているのが伺え、そのあとすぐにふたりの客は出て行った。このお店は初めての客はお断りしている。
客がタバコを吸おうとし箱から煙草を取り出している。それを見て火をつけようとしたら今来たばかりのあきよに先を越され、あきよは客にそっと火を近づけて「嬉しいわ、今日はいらしてくれないのかと思ったわ」
「学会があってその後赤坂行って…」
「やだわ、依田さん赤坂で浮気してたんでしょうダメよ」
初めて見る客で外科の院長だった。
「初めまして、ひかえです 」
依田は白髪まじりでおしゃれな丸いメガネをしていてもらった名刺から見るからにお医者様という感じが漂っていた。
「先生はとても名医なのよ」
「悪い所があったらいつでもいらっしゃい」
「是非、頭の方をお願いします」
にこやかに笑う目元は優しげだった。
半分になったグラスにビールを注ぐとピーナッツを美味しそうに食べていた。
最初につく客はとても緊張してこの客はどんな人柄だろうか、それからだんだんと慣れてくるのだがママと同席の時に度々錦鯉の話ばかりしていられず「おひか錦鯉の話ばかりもう飽きたわよ」なんて言われるがそんなママを尊敬している。
依田ともう一人の客はしばらくママと話をしたあと店を出て行った。後から来た客 も病院関係で依田とは学会で一緒だったようだ。 客は子供の頃の田舎での話を楽しく話していて、それから話題が男女の話に変わり爆笑せずにはいられない、大きく盛り上げた話しにろ、 おかしくてあきようも隣で爆笑している。あきよはママから笑い方について注意される。口に手を当てて笑っているもののママから見ると品の良い笑い方には見えないらしい。
私は帰りの電車の中で客の話を思い出していた。赤らめた顔を下げ眠っているふりをするがここで変に笑ったりすると周りの人からおかしいんじゃないかと思われそうで必死に笑いをこらえようとするが、笑いの振動が肩を揺らしそれが隣の人に伝わらないように 堪えながら自分の手をきつくひねった。泣くことよりも笑いをこらえることの方が大変なんだと実感した。
何日か過ぎたある日、バイトも休みで会社からまっすぐアパートに帰ると玄関に小包が置いてあった 。母からなら前日に連絡があるはずだし送り状を見ると小田島利和と行と書いてある。定形外の小包でそれほど大きなものではなく、いったいどうしたと言うんだろうか、半分 困惑しながら包みを開けた。
箱の中にはブランドものの財布が入っていた。これを私に…どうしよう、小田島はあの日、嫌なら断ってくれって もかまわないと言っていた 。でも本当に嫌いと言っていいの?そしたらもう終わりなの?もう逢えなくていいの?あなたは妻子ある人…。
小田島の気持ちはどうなんだろう、しゅんちゃんの気持ちをあの時聞くことができなかったことにとても後悔している。恐くて…結果、今もこういう状態になっている。小田島の場合聞いてみたとしてもどうにもならない、小田島は本気で好きになっても叶わない人だから。かつての自分だったらあやふやに付き合ったら相手に悪いから気がなければ誘われても断ってきた。でももう小田島への思いを振り切ることはできなくなっていた 。
バックの中から彼の名刺を取り電話をかけに外に出た。この時期決まってチャルメラの音が聞こえている。
高らかな響きはむなしくも聞こえる。
アパートから坂を下ったところに公園がありそこが一番近い電話ボックスでドアを開けた瞬間タバコ臭い。誰かがタバコを吸いながらかけていたようで自分の吸うのは気にならないがこの狭いボックスの中では気分を害する。外の空気と入れ替えるため何回かドアを開け閉めした。それでもサンダル履きの片足をドアに挟んで隙間を作り長い番号をプッシュした。名刺に専務と書いてあるのでその通りに訪ねてみると電話に出たのは男の人でどなたですかと聞かれることもなく「はい少しお待ちください」受話器からはガヤガヤ 騒がしく聞こえている。 その後メロディに変わり「はいお待たせしました小田島です」小田島は息を切らしながら電話に出た。
「ひかえです、お忙しいところすみません、この間はありがとうございました、それであの小包が届いたんですが」
「こちらこそありがとう、つまらないものですが受け取ってください」「あのお、こんなことしていただかなくてもいんです」
「是非ひかえさんにと思って、受け取ってください 」
「 素敵なものを、ありがとうございます」
さっき電話の奥で賑やかな感じがしたので聞いてみた。
「丁度東京からお客様がついたところで」
「そうですか忙しいところすみませんでした、お体に気をつけてください」
「ひかえさんもお元気でまた連絡します」
なんだか嬉しい気分になっていた。
電話ボックスを出るとドアを押さえていた足が冷たくなっていた。チャルメラの音はもうしない。コートのポケットに手を突っ込み一気に坂道を駆け上った。
仕事が終わった1日は錦鯉を見ては 物思いにふけていた。そんな時しゅんちゃんの事を思い出しては心が安らいだ。いつかしゅんちゃんに会える日が来るだろうと、でも今はしゅんちゃんとの思いに浸る時間も少なくなっていた。
バイトは今までとは違い積極的に自分から客に電話をかけ店に来てもらっていた。特に心境の変化はないと言ったら嘘になるけど吹っ切れただけである。バイトが終わり客と一緒に店を出る、以前に関西から来た客でとても親しみがあり、近くのホテルまで送るためだった。客と腕を組み信号待ちでキスしても平気になる。ふたりは誰から見ても酔っぱらった客とホステスである。ホテルのフロントまで送ると客を宥めてさよならをする。私って結構スキがあるように見えるのかな?客と別れ地下鉄の駅まで急ぐ。
ホステスという仕事が以前みたいにそれほど苦にならなくなった。
今日は久しぶりに会社の人達と飲みに行く。
営業の人達との飲み会は大好きで りりこと一緒にいつも参加している。営業の人はほとんど結婚していて中にはいいなと思う人もいるけど恋愛の対象にはならない。りりこと着替えを終えて「今日はどこに行くんだろうね」ふたりとも場所は聞いていない。
「おなかすいちゃった」
口紅をつけながらりりこは言う。奥でみんなの声がしている。二人でお待たせしましたというなり腰に手を回しふざける。
「やだもう、直んないんだから」
りりこはかわす。西五反田から駅へ向かい行き先は何でもありの居酒屋で歩きながら職場の人と腕を組むのも嫌ではない。みんな明るく和気あいあいとして飲んだり食べたりで営業の人達の話題は豊富である。
みんなだいぶ出来上がったみたいでこの後のコースは決まっている。"さあこれから六本木へ"途中で地下鉄に乗り換え六本木までの間居酒屋にいた時からの延長で車内でもお構いなしに 話は続いている。小田島たちと踊ったディスコの明かりが向こうの方に見える。この店は60年代の音楽を主として中に入るとノリのいい演奏が聞こえていた。店内が混み合っている中、入口近くに案内され全員は座れない。「ひかえちゃんなに飲む?」りりこはまだアルコールが入る余裕は十分あるようでふたりでカクテルを頼んだ。
まわりで楽しく踊ってる人たち、ハーフの女性ボーカルの張りのある歌のうまさは定評で飲み物が運ばれてくるとみんなで乾杯した。
カクテルは美味しくて結構飲んだ気がする。ボーカルの手拍子が始まり曲が変わる。ツイストを踊るりりこは 上手い。 私も真似るがとてもこのひねり方じゃさまになってない気がする。みんなノリノリで盛り上がっている。ガラリと静かな曲に変わり近くにいた杉山と目があい一緒に踊った。体をくっつけて踊り、この後ホテルに行こうなんて言われても本気にしない。こういうのはいつものパターンで「もう杉山さんていつもこうなんだから」職場の人とは恋愛関係には発展しない、ならない、なれない 、りりこもそう思っている。
杉山の胸のポケットからベルが鳴っている。
「ほら奥さんからですよ、ちゃんと電源切っとかないと」
杉山は苦笑いしながらこの場を離れた 。
りりことは五反田まで同じ電車でたまにりりこは帰りが遅くなると居眠りしながら終電まで乗ってることがあると言うから別れ際に一声かけて電車を降りた。
静まり返った部屋の中、楽しかった時間から一転して急に小田島に会いたくなった。声が聞きたい、今すぐにでも会いたい。むやみに電話などできないし、とても愛おしい 。
会いたい時はどうしたらいいんだろう 、聞いとけばよかった…。
私は何言われようと構わないけど小田島には家庭があり小田島の家庭は壊したくない 。たとえ彼の気まぐれだとしても、いやそんなことはない、愛されていると信じたい。
こんなに会いたいのに声が聞きたいのに… 。
東京は白銀に覆われていた。
雪は前回より多めで梅が咲くのもまだ先のよう。
ビルの窓から落ちる雪は大粒のぼたん雪で昼過ぎからは降ったり止んだりの状態で会社を出るときも降り続いていた。誰かが転んでいる。 皆足元を気にしながらそんな都会人の中をすり抜けた。
駅に着くとすぼめた傘を2、3回バタバタして雪を払いのけ改札口に入る。車内の床が雪で濡れ汚らしくなっていた。
新橋駅で信号を待ちながら早くあそこのうどんが食べたくて、いつも行くうどん屋の方を見ていると、右のまぶたに冷ややかな塊を感じ、はっとしたが雫となって頬に流れた。
アーケードの隙間から落ちた雪の結晶が瞳を濡らした。すぐにハンカチで目を抑えた。
信号が青に変わり、歩きながらほどけたマフラーを整える。
この雪はいつまで続くのだろう。
都会に落ちる雪は空気の掃除屋さん、口に含んでみようなんて思わないがでも嬉しくて誰の足跡もついてない所を選んで歩きたかった。
「おはようございます」エレベーターに乗る前にコートの雪をはらってきたつもりだがまだついていて入り口に戻りはらってきた。その様子を見て「やみそうにないわね」鈴江は外れたエプロンの肩紐をなお している。
「珍しいですよね、こんなに降るのも」
「こんな日はタクシーひろうにも素通りされるし待ってる人もイライラして乗ってからもなかなか進まないし」
「タクシーも大変ですね」
鈴江の入れてくれた熱いお茶を両手に持ちフーと吹いた 。
今日、恵子は来るだろうか。
「おはようございます」恵子はマフラーをたたみながら入ってきた。恵子が来て嬉しかった。
顔色も悪そうには見えず鈴江が心配そうに「具合はどう?」
「迷惑かけてすみませんでした」息も切れ切れに 長々と休んだことを詫びた。恵子の詳しい病状は知らないけどもっと別の事情で休んでいるのではと思っていた。電話をかけても留守でずっと心配していたことを告げる。
しばらくしてママが出勤すると 恵子は 深々と 頭を下げた 。
そのあとママはカレンに 向かった。
私は恵子に誘われカウンターから奥に移り腰を下ろすとすぐに恵子は顔を近づけてきて「中絶したの」小声で話す。
「えっ、何それ」
「 2回目なの」恵子は悪気もなく2本の指で示した。
またびっくりして恵子の彼とは前に会ったことはあるが 中絶 させるような人には見えなかった 。恵子の今まで付き合っていた人を思い浮かべて「 会社員?それともあの奥さんのいる人?」恵子はどちらとも違うと首を振る。まだ 別の男性がいるなんてただ驚くばかりで「誰?」思わず口にしたもののお店の中だから詳しく聞くこともできず、それにしても他に付き合ってる男性がいるなんて、恵子も恵子、女として妊娠するということがどういうことか、なんでこんなことに私は恵子を軽蔑する 。
だけど恵子と銀座の歩行者天国を歩いていた時、可愛い子をベビーカーに乗せたカップルを見て恵子は「可愛いね、こうして子供連れて歩きたい」ってしみじみ言ってたのを覚えている 。その時恵子は幸せな家庭を思い描いていたのでは 、どんな男性であれ妊娠したことに普通では済まされない、そりゃ相手の男性ばかり責められないにしても… でも実際に自分も他人ごとではないことに気づく。
恵子が休んでいるのはもしかして男性が原因ではと思っていたけどその男性は前の店に来ていた客で妻子ある実業家。以前に40代の男性は魅力があるって店でも話題にしていた。30代は結婚していて子供が生まれれば生活が重視でよそ見なんてしてらんない、40代は子供も 成長し気持ち的にゆとりが持てて雰囲気的に 男のセクシーさが漂ってくるって、芸能人で言えば…って 。
恵子は今、底のない深みにはまっていた。
結婚できなければひとりで育てる覚悟でないと、でも男と女の関係って簡単に済ませられることとそうでないことがある。
「 体は大丈夫?」頷く恵子は落ち着いていた。
「いらっしゃいませ」客の入る気配に急いで灰皿を片付けた。佐々木が会社の人を連れて3人で来た。ゴルフの話のなか先日会社のコンペでホールインワンを出し賞金100万円を貰ったそうで、その賞金でテレビやラジオを買って人にやらなければならなくてそれで頭が痛いって。
「あなたはゴルフしますか?」
客に聞かれ「軽井沢に行った時初めてパターゴルフしたんです。それが楽しかったので今打ちっ放しにはまっています」続けて「あきよちゃんはゴルフ上手いんだよ」
「この間行ったの冴子さんと誘われて、私はもっぱらキャディしてました、でも飛びましたよ私のボールずっと遠くの方へ飛んできました」 みんなは笑った。
軽井沢…もうすっかり夏も終わりを告げた9月、走行中の窓からあちこちに見えるテニスコートは 賑わいもなくひっそりとし、助手席に座った私はしゅんちゃんとのドライブを楽しんでいた。
窓から見えるグリーンに目を留め隣にはお洒落なレストランがあり、ちょうど昼時で私たちは車から降りた。初めてパターを手にしてしゅんちゃんから握り方や振り方を教えてもらう。
あっ、またしゅんちゃんのこと、…はぁー、静かに息を吐いた。
その後友達の美恵子と打ちっ放しに行くようになり変な癖がつかないようにと先生をつけてもらうことにしたがなかなかコツが掴めず教えてもらう先生に腕や腰をさわられると私も美恵子も抵抗はあるもののゴルフは全身でボールを打つスポーツでスイングはとても大切だから少しくらいは仕方ないって彼にそう言われたと美恵子は話してくれた。
美恵子とはもう少したらハワイに行くことになっている。
今日は雪のため客が帰ると 早めに お店を閉めることになった。
外に出ると 雪は止んでいた。明日は晴れるかな。電車は思ったよりスムーズで道路には雪が。
一段と静かなこの辺りは夜はほとんど車は通らない。街灯に照らされたこの道は私だけに用意されたどこまでも続く白銀の絨毯。
"ひかえさん、さあどうぞー"
両手を広げくるりと回ってステップを踏む。まるでミュージカルのダンスのように …。
「ただいま 」小さな声で錦鯉に声をかける。
銭湯から帰り鼻歌まじりに髪を乾かしカフェオレを作った。熱々のカフェオレをすする。恵子のこと衝撃だった。
ラジオから心地よいメロディーが流れる。あらもうこんな時間、私は仕事中、伝票片手に時計を見た。
「丘沢さん、電話です」
谷に言われすぐに受話器を取った。
「はい丘沢です」
「俊一です」
えっ、うそー、なんで?声のイントネーションもあの時のままで紛れもなくしゅんちゃんである。ときめく想いが胸一杯にこみ上げてきて急に脈拍が早くなったようで、そしてまるで夢でも見ているような。"俊ちゃん"そう言いたいのに声が出ない。声が出ないから夢中でもがいた。あー苦しい。
「会社終わったらご飯食べよう」
もう嬉しくて"いいよ"と言おうとするが 言葉が出せない。あー、助けてー、声が…夢を見ていた。
あぁ、ゆめか、お店でしゅんちゃんのこと思い出したから夢に出てきたのだろうか、それなら毎晩でも出てきていいのに。夢でもよかった、しゅんちゃんの声が聞けたことは目覚めた今でも気分がいい。夢の中での言葉を思い出してはハッピーな気分に浸っていられた。しゅんちゃんは私の夢を見ることがあるのだろうか… 。
カーテンを開けると雪が枝にまとわっていた。早めに家を出ると りりこはもう来ていてみんな会社に着いたとたん雪の話が飛び交った 。暮れからふる雪は都会ではここ数年珍しい 。仕事中、外の様子を見るため窓の下を見下ろすと車のタイヤから黒色のシャーベットが飛び散ってバシャバシャになっていた。
都会に雪が消えた頃、しばらくぶりに小田島から電話があった。イベントの仕事で急に 東京に 行くことになり、こんなことでもないと会うことができないという。久しぶりにを小田島に会えることで嬉しい気持ちになっていた。
小田島と知り合ってから今までと違う自分に気づいている。なんと言うのか心のゆとり、優しさ、そういう気持ちをもっと早くにしゅんちゃんに向けていたら…。
大人の男性として小田島といる時はありのままの自分を出せずにいる。出してしまう自分が怖い。甘えやわがまま、それが別れに繋がることがあるから本気で愛し合っても不倫は不倫、お互いの生活を大切にして付き合う 、結婚できなきゃそれしかないだろう。いま小田島を失いたくなかった。
最近になってまた恵子はお店を休んでいる。会社の帰り恵子に電話してみることにした。恵子の実家は千葉にあり、もしかして帰っているのではとかけてみると彼女の母親が出て恵子は今東京にいるという。呼び出し音が続く。
「はい」
「もしもし恵子ちゃん、ひかえです」
「ひかえちゃん」
「お店休んでるからどうしたかと思って、大丈夫?」
「ごめんね、お店忙しいでしょ」
「実家に今電話したとこなの」
「ごめんね少し疲れたみたい」
「大丈夫?すずえさんに聞いたら体調が良くないって言うから無理しなくていいからね」
「ありがとう 」
いろいろ話すなか、今度渋谷にケーキ食べに行くことになり場所も時間も全て恵子にまかせた。電話の最後の方になって恵子は明るくなっていた。
普段の買い物は会社の帰りに駅のデパートで間に合う。渋谷は若者も多く今流行りのファッションなど街を歩いているだけで楽しいし恋人たちも目にとまる。
横浜の港周辺…ひとつのベンチに腰掛けるふたり。
しゅんちゃんとは仕事が終わるとドライブに 、夜空に広がる星と波打ち際に寄せるうねりを静かに見ていた。私達はこれからどうなるんだろう 。しゅんちゃんと結婚したら色々大変だろうな、なんて考えてた時期でそしてあの頃の身勝手な私に嫌気がさしたのかもしれない。しゅんちゃんにふさわしくないと思えば思うほどいい加減な女になっていく。私だってつらかったのよ。
しゅんちゃんは私が自由でいられることが羨ましいって漏らしたことがある。ワンマンなとこもある彼なのにそんなことを言うなんて今思うと将来のことで悩んでいたのでは。しゅんちゃんのこと、こんなに好きなのに素直になれず励ましてもやれなかったことに悔やんででいる。
休日、恵子との約束で渋谷へ出かける。恵子は既に待っていて私を見つけると嬉しそうに手を振った 。
「体調どう?早くお店に出てきてよ」
「来週から出ようと思って、ごめんね心配かけて」
元気そうに話す恵子の顔を見てほっとする。
公園通りから細い道に入るとちょっと古めかしい手作りケーキの店である。恵子はここのチーズケーキが美味しいという。
運ばれた水をゴクンと飲み、たわいもない話の後につい聞いてしまった。
「言いたくなかったら話さなくていいから、中絶のことなんだけど」恵子は躊躇なく「もう妊娠は無理だって」
「そんな、まだこれから大丈夫よ」
恵子は首を振りながら「私、もう、子供産めないの、最初の中絶の時とても後悔した。2回目はどうしても子供が欲しくて、赤ちゃん育ちそうにないって、これからも無理なの」
落ち着いて話す恵子だがしばらく何も言えなかった。
「彼は?」
「もう彼への想いはあの時の半分も、いや、もう全然ない、弁護士が来て全てお金が解決してくれた。苦しくて彼の家まで行ったの 、郵便受けに彼と奥さんの名前が書いてあるのを見て彼の名前の横に私の名前は入れないって、一瞬だけど郵便受けに 嫉妬した。そのあとスーッと気持ちが引いて、その場で笑みが浮かび、かえってきた。マンション買うことにした の母にいろいろ心配かけたし…」
「そうだったんだ」
「最後に奥さん大切にしてねって 」
「ごめんなさい、聞いたりして」
恵子は首を振りながら紅茶を飲んだ。
「ケーキ食べよ」
落ち着いたように話す恵子だったが、やつれた顔にはかり知れぬ苦しみがあったことが伺えた。しゅんちゃんのこと恵子には言わないことにした。前に話したら"ダメよそんなボッチャン"て、別れたのに未練がましく思われたから。恵子だけではない今はもう誰にだって言えやしない終わってしまった彼のこと、まだ引きずってるなんて。「ねぇ何かやらない思いっきりすっきりすること」恵子は吹っ切れたように言う 。
「そうねスイミングはどお?」
「スイミング、いいね、やろうか、ひとりじゃ行く気になれないからね」
3月には美恵子とハワイに行く予定で多少は泳げる練習をしておいた方がいいかもしれない。
「最近できたスポーツセンター 設備も整ってるし大きいプールもあるよ、これからそこ行ってみない?」
「そうね」
「その前に服みたいの、実は小田島さん来週来るの、それで洋服見たいなと思って」
「ブレスレットもらった人?結婚してるんでしょ?」
「恵子ちゃんの思ってるような人じゃないよ、それに奥さんと別れてまで一緒になりたいなんてそんな関係じゃないの」
恵子みたいに 代償を得る? それは彼を愛していたからこそ女として踏みにじられたことの大きな苦しみとして、あなたと一緒にしないでよ、結果それで良かったのか、同じ女としてそこまで恵子に問い詰めるつもりはなかった。
「小田島さんてどんな人?」
「お兄さんみたいな人」
「男って自分が家庭持ってても若くて可愛いひかえちゃんなら声かけたいと思うし上手に近づいてくるわよ、その後 ずるずると 私みたいに愚かな女もいるってこと」
恵子は投げやりにため息をついた。
恵子にはうわべだけでもそういう言い方をして欲しかった。強がりなんて言って欲しくなかった 。
渋谷は多くの若者が行き交い、賑やかな街に出ると人を見てるだけで楽しくなる。私と恵子はすっかり明るい女に戻っていた。
ウィンドウから顔を出すマネキンも早々に春らしい装いでこちらを見ている。
「いいわ、ここ入ってみよう」
恵子はマネキンの着ている服が気に入ったようでそしてさっきゲーム店の前でキャラクターの着ぐるみがパンフレットを配ってるのを見て喜んでいた。
バレンタインデーも間近で小田島に渡そうとチョコも買った。
昼過ぎにスポーツセンターに 向かう。
「ここだわ」
受付でパンフレットをもらい館内を見て回る。
「ほら」恵子はプールの方を指差す。
ここから下のプールが一望でき、体育館では卓球やバドミントン、ランニングをしている人がいる。
「 あんなふうに 自分のペースで走ってるだけでいいわ、何も考えずに走るだけで、疲れたら歩けばいいもんね、結構いい男もいるし」恵子は周りを見てうなづき「確かに」
見てないようで見てるとこは二人とも同じである。
次回プールの約束をして恵子と別れた。
小田島に会う前にしておきたいことがあった。
なんとかしゅんちゃんに電話して気持ちを伝えたいと 、小田島と会う時はしゅんちゃんのことを考えたくない、二度とかけるのはやめよう、ストーカーじみたことはしないと心に決めていたはずなのに…静かな場所でかけたいからいつもの場所で…電話ボックスの前に来た。ひと呼吸してゆっくりドアを開ける。
ドキドキしながらボタンを押す、どうか出てくれますように、すると"おかけになった電話番号は…"間違った番号を押したのではと、もう一度番号に念を押した。
やはりさっきと同じである。
いったい彼の家はどうしたんだろう、 もしかして、いつかかってくるかわからないわたしからの電話に困りかねて番号を変えたのでは。
雪玉をつららめがけて投げる。
ドドドドー、 的を外れたつららが一斉に目の前で軒先に刺さる。あれほど凛々しかったつららが無残に落ちて、 その様子が恐ろしく呆然と立ち尽くす。
もうしゅんちゃんに連絡するすべを失った 。
"おかけになった電話番号は …"こだまする