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アップアップ、プクプク … 四畳半の一角に小さな水槽が置いてある。紅白、三色、黄金模様の錦鯉がひしめきあって泳いでいた。
「 今日も元気?」
髪を掻きながら水槽に顔を近付ける。
私の名前は丘沢ひかえ、都内の薬問屋に勤める。
世の中、男女の関係についてはさまざまなドラマがある。
そして私も一つの恋が終わった。
彼は今故郷の京都にいて心の中では今も彼のことをひきづっている、別れてからいっそう彼への思いが募っているといったほうがいいのかもしれない。
職場では机の上にペンとノートを置き何でもこなせるコンピュ
ータで受注や 発注伝票を作っている。会社が終われば誰に誘われるでもなく錦鯉の待つアパートへと向かう。
故郷は新潟で大田区中馬込にある四畳半のアパート に住んでいる。私流に考えると2通りのパターンがある。
住む所をリッチにし女の子だから多少はおしゃれしても贅沢はしない。もう1つは住む所を押さえて贅沢をする。
贅沢と言ってもほどほどのという意 味だけど。
こんなもんですよ、 地方から上京して都会で暮らす というのは仕送りしてもらうなんてとんでもない。
今時のOLは海外旅行も行くし、いつか海外に行きたいと以前から考えていた。お金を貯めるにはバイトするしかないよね。
前から夜の銀座に興味があり、どうしても銀座でバイトがしたいと、会社帰りに銀座に向かうことにした。
都会にあこがれ、銀座にあこがれ銀座は夜でも安心してひとりで歩けると思ったから。
そんな街の中アルバイト募集の貼り紙がしてある店を目当てにするがネオン街へと進むとここら辺では何軒かある木屋うどん、その入り口に"ウエイトレス募集"の貼り紙がしてある。 ごくんと唾を飲み 、足を踏み出した。キョロキョロしながら店の中に入る。店長の男性が現れ、奥に案内されると働く条件が決まり、即、その日から朝の4時まで働くことになった。
深夜12時頃にピークを迎え次から次へと入る客でとても忙しく、他にも数人働いている人がいたが何しろ 日頃スポーツなどせず、 けっこうきつかった。その結果1日でそこを辞めることに。
客の中には綺麗なホステスもいて遅くまでの仕事で大変だろな 。田舎者の私にとって興味深く、しだいに自分もホステスとして働いてみたいと思うようになっていた。でもホステス となると 美人でなければ、おしゃベリも上手くないといけないってテレビで見て知っている。頭の回転もよくないし銀座となるとそれなりの客が来る。そんな客を相手にする自信などなく使ってもらえるわけがないと葛藤しながら、やはりお金が欲しい。
肌を露出するような仕事は高収入でも無理だし、しかしホステスなら誰でも手っ取り早くお金が稼げると聞いたことがある。私にできるだろうか、そんな不安をぐずぐず考えていた…。
コンコン水槽をノックし餌の合図をする。
「おはよ、あー疲れたよ」
翌日 、会社で疲れを感じてる間もなく、仕事が終わると急いで身支度を整えバイト探しに焦りつつもあのうどん屋へと向かい、申し訳なくバイト代をもらうとその足でまた夜の銀座をさまよった。7丁目から8丁目といろんな店の看板を目にする。
行き交うホステス達に興味をもちながらすれちがう。着ている服やバックなどブランド物に見える。
この時期あっという間に陽も暮れ空気も冷たい。コートをはおって歩く姿は颯爽として まさに ホステスという感じだ。
週刊誌で読んだことがある、彼女達は会話も上手く客を楽しませる。そういうホステスは自分の客もたくさん持ってるという。
着物を着ている女性もいる、ママかしら。女性と男性が歩きながら会話している、恋人同志かな、うーん、見えなくもないがホステスと客のような、 そんな 想像をふくらませる。
だいぶ歩くとどこを歩いているのかわからなくなっていた。
道に迷っていると、ふと立ち止まりこの店はたしか……一度、会社の人に連れてきてもらったことがある。看板のバニーガールが印象に残っていた。店には顔もプロポーションも抜群なバニーガールがいる。バニーガールは飲み物を聞いて客に作ってさしあげる。
若い綺麗な女の子が甘い香りの香水を漂わせ黒のレオタードに編みタイツを履き、そばで水割りを作ってくれる姿は女の私でも目のやり場に困りつつ美人でプロポーションの良さが羨ましかった。
ちょうどバニーガールの横に座っていた同僚が下心を出してか綺麗な足ですね、みたいな、ここはおさわりは禁止の店である。微笑みながらもてなす姿が目にうかんだ。
うーん、レオタードというのは少し抵抗がある。そんな店の前を通り過ぎた。
いろんな店がビルの中に入っているが採算がとれるのだろうか。
看板の上から下に並ぶ店の名前を見上げながらよけいなことを考える。かなり歩いた。
最初は街の様子を伺うだけのつもりがどの店に当たってみようか、なんてすでに働らく先を探そうとしている。今日このまま帰ったらまた明日出てくることに滅入ってしまう。今のところどの店にもアルバイト募集の貼り紙なんてしていない。どうしようか、悩みながらまた同じ道に来た。度胸がないと"飛び入り"とでもいうのか店に足を踏み入れることはできそうにない。ビルの前で半分どうしよう、入ってみようか、やっぱりこのまま帰ろうかなんておどおどしていた。すると目の前を綺麗な女性がすっと通った。すぐにホステスだとわかりその人につられてビルの中のエレベーターの前までついて来てしまった。
今日は 一応 スーツも着てきたし化粧もホステスらしい雰囲気を出していると思っている。まだ一度も客の相手などしたこともないド素人なのに、このビルの何階かで働いているような顔つきで降りてくるエレベーターを待っている自分に、あの数分前のおどおどしさはどこへ消えたのか。
エレベーターが3台あり待っている間、女性からのホステスという邑楽が全身に放って いた。隣にいる私のことなんて全然見てないのに鋭い視線で見られているような、だから私も背筋を伸ばし"私もホステスよ"みたいな視線で返したつもりで、さっきまではビルの前に来ると、入ろうかどうしようか迷っては立ち止まり おまけに人々の歩くのに身をまかせ同じ道を何度と歩き、なかなかビルに入り損ねていた気が知れない。今こうしてる自分が信じられないくらいの気持ちの入りようになんとかしてビルの中に入らなければ何も始まらないという思いがそうさせていた。
エレベーターはまだ降りてこない。
見たなりだけはホステスで女性の横に立っている。
ふたつのエレベーターが同時に開いた。
女性は右のエレベーターに先に乗り込み遅れて左のエレベーターに乗るとすぐにドアが閉まった。エレベーターの中にはいろんな店が案内されてあり何階で降りたらいいか困っていたらちょうど5階でエレベーターが止まり男性が入ってきた。すぐにここで降りた。この時すでに自分もこの階のホステスだというふうに男性に見せて降りたつもりだったが…しかしここまではうまくいったように思えた。でもいざ入るとなるとさっき看板を見てはビルに入ることができずにいた自分に戻っていた。
もうここまできたからには…ふと目にとまった優美の文字、なげやりな気持ちでドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
3人いたホステスに迎えられすぐに 尋ねた。
「仕事を捜してるんですが」
この一言で中に通され、ホステスはカウンターに戻った。
カウンターの奥から男性が現れ、白のワイシャツに黒の蝶ネクタイをつけていた。
「はじめまして、丘沢ひかえです」
男性に挨拶し名刺を貰うと、すぐに面接が始まり仕事の経験と時給など数分で終わった。
仕事の希望は7時から11時に終わる4時間で月水金の週3日。
なぜ週3日にしたかというと気持ち的に仕事に慣れない 不安とアパートにお風呂がないことで、毎日銭湯が遅くなるのもいやだしこんな自分の生活のことをこれから銀座で働こうというのに口にしたくなかった。時給はだいたいの相場でもらえれば良かった。
これからどんな店に面接に行っても仕事の経験を聞かれると思う。その時は"初めてです"と答えておいたほうが 無難かもしれない。事実初めてだし、美人でもなく頭の回転も良くない、 大事な 話術も持ち合わせてないし、そう言っておいたほうがなんとかなるのではと思ったから。
男性はチーフと呼ばれていて早い時間にオードブルやお酒の準備をしている。
静かに 大きな息をして、スーツの袖をめくり時計を見た。ママはまだ来そうになくホステス達は客の来ない時間をもて余すかのようにタバコを吸っている。
「もう少しでママ来るから」面接が終わりチーフがそう言ってから時間が経っていた。カウンターから氷を割る音がしている。
ドアが開き迎えるホステスの声とともに数人の客が入ってきた。店の中が急に慌ただしくなる。
店の照明が明るくなった気がする。店内がざわつき緊張がほぐれると回りを見回す余裕ができた。店の中の全てのものが高級に見える。しばらくするとママらしき人が入ってきた。
客に挨拶し終えるとチーフから耳打ちされこちらにやってきた。薄桃色の着物を着た姿に、 緊張してすぐに挨拶した。
えりもとから名刺をだし「うちは毎日出て欲しいの」ママにそう言われ、でも毎日は無理だった。
店を出ると気持ちとは裏腹にあたりはキラキラ賑わしい。
今日はもういい、疲れた。何しろうどん屋で働いてから始発に乗りほんの少し橫になりお茶を口にして会社に向かいここに来た。
もうこれで帰ろうと思った。
途中、ビルから日本髪の芸者さんが数人出て客を見送ってる姿に日本髪が珍しくて重い足を止めた。ビルの 看板にはうるわしと書いてある。
カーテンが開いたままの窓から陽がさし、窓を開けるとさわやかな風が吹いていた。
いつも通り朝ごはんを食べるんだったら少しでも長く寝ていたい。しかし自分は食べなくても 錦鯉には食べさせなくては、バイトが見つからず主人の焦りと落ち込みも知らず今朝はやけにバチャバチャがっついている。そんな錦鯉を見てるだけでいつも安らぎを与えてもらっている。
およぐ姿はひんも良く、主人の私だってしっかり化粧してあなた達には負けてられないからね。ほんの数分の化粧を終え出勤前のひとときを過ごす。錦鯉を見つめながらのこのひとときが私には必要なの、一日中 ぼーっとして 見ていたい、何も考えずに。
でもそうはいかない現実があった。今日もまたバイト探さなくてはと思うと憂鬱である。
新橋で電車を降り銀座方面へ歩く。
たった一日お世話になった木屋うどんの前を通る。客はそれほどいないが店員がレジの前で書き物をしている。
店員とは顔見知りになっているからうろうろしてるところを見られたくなく足を急がせた。
ため息ひとつ、暗い気持ちになっていた。
今夜も黒塗りの車が あちこち に 橫ずけされている。
通りには 蝶ネクタイに黒のスーツを着たひときわこの世界に詳しい人だと思われる男性が忙しそうに誰かと連絡しあっている。こうゆう人達は街を歩いている女性に声をかけスカウトすることもあるという。
こちらの男性は女性と話している。どうみたって声をかけてくれるはずがないだろう、しかし男性がひとりになったのをみはからってもしかして…ためしにやってみた。
バックからハンカチをだし、わざと男性の前で落としたのだ。おまけに ウインクもしたけど…タイミングが悪く失敗した。
結局ハンカチも拾ってもらえず通り過ぎた。
角を曲がると別の男性が立っていたのでおもいきって聞いてみた。
「すみません、仕事探してるんですが」
お金を貯めたい一心で、そして自分を変えるために。
すると彼はそこから数分のところにあるお店に案内してくれた。こちらにどうぞと手招きされ、すでに心の準備はできていた。
目にするホステスはあまり良い印象ではなく面接が進む。
「今日からやってみませんか」との問いに、すぐに返事ができなくて店を出た。せっかくのチャンスだったのに、水商売というものはどこも同じなんだからと言い聞かせたものの雰囲気的にひいてしまった。後悔した。あぁ、今日も収穫なさそうだ。
ひとまずハンバーガーを食べに店に入った。
大きなため息をつきながら両ひじをついてストローからズルズルとコーラを吸い上げる 。このあとまた重い足で夜の銀座に向かわなければならない。ホステスできるだろうか、自分にむいてないとわかっていも今日はまだ帰れない。
大通りからソニービルを曲がり7丁目をはいる。前から来る人とすれ違いに右のビルにかけ込んだ。人とすれ違うことをきっかけにこのビルに入っただけのこと。
そうでもしないとまた入り損ねてしまう。
エレベーターに乗り迷いながら3階のボタンを押した。
エレベーターが止まり降りてすぐに正面が入り口になっていてドアには"寄"アルファベットでYoriと書いてあった。もう店の名前を選んでる余裕などなく気持ちを引き締めおもいきってドアを開けた。
「いらっしゃいませ」ホステスの声とともに注目され思わず「アルバイトを…」と、言いかけた時、すぐにカウンターにいた女性に案内された。ホステスは 数人 いてカウンターの奥には男の人がいる。
店内は落ちついた雰囲気でカウンターとテーブルは大理石のような、壁には絵がふたつ、墨で書いた風景画とヨーロッパの町並みの油絵だった。
たくさんの白い花が大きな花瓶に生けてある。
チーフがやってきて面接が始まったのは出されたグラスの氷がすっかり溶けたころで客も何人か入っていた。
面接はスムーズに進みチーフがカウンターに戻った時、ママのような人の姿があった。
出勤したばかりなのか着物の肩からストールをひきたたんでいる。
数分後、襟元を整えながらこちらにやってきた。
あーどうしよう、緊張してきた。
もらった名刺は和紙でできていて高級感がある。
ママの印象は清楚な色白の美人で着物が似合い、声はそれとは似つかずハスキーで しかし知的にあふれママとしての貫禄を充分持ち合わせているという感じだった。すぐにでも働いてくれと言われたら嬉しいのにと期待していた。
「こちらからあなたを採用するしないはいいません、あなたがここで働らく気持ちがあるなら 連絡 ください」
一瞬 ヒヤッとして「 よろしくお願いします」そう言って店を出た。 外は冷たく、澄みきった空気に灯りがキラキラしていた。
私の気持ち次第で雇ってくれるというのだろうか、あの場ですぐにでもオーケーしてくれて良かったのに。やる気はあるのに不安になっていた。でもこれでやっと一段落ついたことになるのだろうか、そう思うといろんなことを考える、服装はブラウスとスカートでいいとママは言ってたけどホステスといったら高級ブランドというイメージがある。
ロングドレスを着てたホステスもいた。やっぱりママの言うとおりブラウスとスカートでいいことにしよう。そのほうが助かる。でもたまたま同じ服装の時に同じお客様ということもある。それはしかたないか、それより接客はどうしよう、これが一番の問題だった。
時計を見るともうこんな時間だ。
錦鯉がお腹をすかせて待っている、パンプスの音を響かせながらあの店で働らきたいと勇んだ。あこがれの銀座でどれだけホステスに成りきれるだろうか、男性からの誘惑もけしてないとは言えないだろう、もし好みの男性が現れたら…でも水商売には染まりたくない。私は私として自分を見失いたくない。そんなおもいでパーラー前の信号で大きく息をした。
これからやろうとするホステスへの不安とやっとバイトが見つかったという 安堵感 が入り乱れなんだかどっと疲れたように 感じた。
信号が青に変わり通りのウィンドウから中の賑わいが伝わる。
あくまでもアルバイトとして、そしていつまでも別れた彼を思い続けてる自分を変えたい。
馬込駅で降りる人たちは改札口を出るとあっという間にちらばりまるでひとりで電車に乗ってたみたい。
これから遅い時間にこの道を歩くと思うと不安もある。
アパートに着くと真っ先に錦鯉に餌をあげた。
コンコン、水槽をノックする。
「ただいまぁ、ほら食べな、やっとバイト見つかった、まんま遅くなるけどかんべん」
帰りのひとときもそこそこに急いで銭湯ヘ走った。
翌朝、半分開けてる目で FMを聞きタバコに火をつけ目覚めのひとときを過ごす。
「おはよ」餌に群がる。
押し入れからお気に入りのてさげを出してジーパンとスニーカーを入れた。ジーパンはバイトの帰りに着替えるもので、吐く息も白く変わるこの頃はもしものことが起きたとしても暗く寒い夜は誰もかかわりたくない。そのためにはスカートよりズボン、踵の高い靴よりスニーカー、これにかぎる。
いつもの時間に会社に着き珍しくまだロッカーに誰もいない。
着替えていると電話が鳴り出した。なんだかしつこく鳴っている。まだ仕事の始まる時間じゃないのに、こうゆう時に電話にでるのってどうなの、いいかげん止まってくれればいいのにと思っていると今出勤してきたばかりの女の子が小走りに受話器をとった。
慌ただしい電話のベルで一日が始まろうとしていた。
時計の針が5時を回っている。
今日からバイト、緊張して目張りがうまくかけない。ホステスできるだろうか、今更そんなこと考えてどうする、バックからタバコをとり、仕事仲間である森田りりこが奥でタバコを吸ってるのを見て向かいに座りタバコに火をつけた。
りりこは以前から自由が丘の居酒屋でバイトをしている。
私は前かがみになり、りりこに顔を近付けた。
「今日からバイトなの」
小声でりりこに言った。
「えっほんとに?」
「しーっ」
近くにみんないて大きな声で話せないから思わず人指し指を口につけた。
まだ寄には電話してないのにすっかり頭の中では雇ってもらえる気でいた。タバコ1本吸い終わるころ、この場所に残っていたのはりりことふたりだけだった。さっそくりりこは聞いてきた。
「ねぇ、場所ごと?」
「銀座でホステスやろうと思って」
「えー、銀座でホステス、ひかえちゃんが?」りりこは驚いた様子で「大丈夫?」
「うーん、お金欲しいから」
「そうよね、会社のお給料だけじゃやっていけないよね、遊ぶお金欲しいし」
「今これといって暇だし」
「ごめん帰るね」
腕時計を見たりりこはこれからバイトである。
交差点でりりこと別れると電話ボックスに駆け寄った。会社を出るときコートのポケットに名刺を入れておいた。
名刺を片手にボタンを押しすぐにつながると女性の声に、ママの声とは違うみたいで、今日から働かせてもらうことを伝えた。
電話を切るとほっとした。
昨日面接したばかりなのに今日からなんて、気持ち的に延ばす余裕はなかった。
ほんとに働かせてもらえるのである、やるしかないと。
りりこもバイト頑張ってるし、そんなりりこは家は三代続いた江戸っ子で都会が似合う。 仕事中なにげなくりりこを見ると枝毛を切ってたり、落ちた枝毛は発注用のノートに散らばっていた 。ときには居眠りしたり、私は発注の電話が多いと焦るけど彼女のそんな様子など見たことがない。ファッションセンスも良く頭から爪の先まで都会の女の子って感じだ。田舎ものの私は彼女から学ぶことは多いがけして真似などできない、良き仕事仲間である。
電車の中は混雑してきた。新橋で降りるとホステスらしい人が、服装でわかる。 今朝、会社へ向かう格好で電車をおりた。どちらかというと地味なほうで急に派手な格好すると社内では一目で"おかしい"なんて思われないとも限らない。
職場ではりりこ以外ホステスすることを知られたくない。りりこは余計なおしゃべりはしない。
気取って歩いたらいつもより踵の高いパンプスでつまづいて転びそうになった。
7時には時間がありなにか食べていこうと駅のガードをぬけ少し先にあるうどん屋へ向かった。この店もあのバイトしたことのチェーン店で席はカウンターだけの客はサラリーマンが主で女性にとってはちょっと入りにくい、店は目だたず、のぼりだけは目にとまる。
きつねを頼んだ。汁は上品で香りも良く、お揚げも麺もおいしい。店内は飾り気もなく客も無言で食べて帰るだけ。
そういえばうどんのすすりかたで玉の輿になった女性がいるという。それならせめて麺は上品にすすろうと心がけたいものだが…。あこがれの銀座、今日からホステスとしていろんな出来事に出くわすかも知れぬ不安だらけが通りの灯りとともに散らばった。
エレベーターに乗り迷いもなく3階のボタンを押す。ドアを開けるとホステスは誰もいなかった。女性がカウンターの中で忙しくしている。
「電話した丘沢ひかえです、今日からよろしくお願いします」
女性は手を止めた。
「こちらこそよろしく、鈴江です」
にっこりと微笑んで肩からおりた長い髪を指ではらいのけた。
そしてカウンターから出て更衣室のドアを開け案内した。
「お客様のコートや持ちものはここに預かってね」
大きな姿見がつけてありホステスが着るであろうスーツがかけてあった。腕に持った自分のコートをそこにかけ、 不安を吹き消すかのように一呼吸して姿見に顔を近付け口紅をぬった。
更衣室を出ると化粧室へ向かい、ドアを開けた瞬間"うぁー、すごい"とても手洗い場とは思えないキラキラ光るダイヤの粒が今にでもバラバラと落ちてきそうな、もちろんガラス玉だけどこんなきれいなトイレは見たことがなかった。
天井につるさげた豪華なシャンデリアにみとれてしまっていた。
カウンターでは鈴江がお茶を入れてくれていた。
「タバコ吸っていいですか?」
「どうぞ」
タバコに手をかけたとき、大きな鞄をさげ女性が入ってきた。
すぐに椅子からおり挨拶 する。
あきよは感じのいい笑顔で更衣室に入っていった。
カウンターにきたあきよは 白のシャネルスーツが色白の顔 に似合っていた。ビーズで作ったステキなポーチからタバコとマッチをだしパッと火をつけ、フッと炎を消した。
そんなしぐさに色気を感じる。
私も持ってきたマッチでタバコに火をつけるとあきよが客がタバコを吸うときのマッチの使い方を教えてくれた。
「ひかえちゃんでいいかしら」
「はい」
「こうゆう仕事は初めて?」
「はい、初めてです」
そのあとすぐにドアの開く音であきよと共に出迎える。
ママである。 緊張する。
「昨日は忙しいところありがとうございました、今日からよろしくお願いします」
ママはグレーの着物でショールをたたんだあと静かにあきよのとなりに座った。袖からタバコをだし襟元からライターをだしてタバコに火をつけ「あきよ、いろいろ教えてあげて」
ボトルが並んだ棚の前であきよは客や会社関係など教えてくれた。ボトルの位置を覚えるのは難しくすぐには覚えられそうにない。
「お客様がいらしたら鈴江さんがカウンターにアイスとミネラルウォーター、そしてグラスをだすの、そしたらコースターを用意してテーブルに運び、飲み物はなににするか聞いてね、お客様の顔とボトルについてる名前が一致しないといけないから普段からボトルの位置を覚えておいたほうがいいわね、あとはそのつど覚えていけばいいから、わからないことは聞いてね」
「はい 、よろしくお願いします」
「おはようございます」
ホステスの冴子である。
冴子はあきよより年上でママのように貫禄があった。
全身をチェックするような視線に緊張するも冴子はカウンターに座りタバコを吸い始めた 。カウンターの奥に並ぶ ボトルを見て多くの客から店に来てもらう、私にそれができるだろうか、不安になっていた。
「あきよちゃん、きのうは何時だった?」
冴子が言う。
冴子とあきよは仕事が終わって客と飲みに行き帰った時間を聞いたのだった。
「昼間は何してるの」
隣に座るあきよに聞かれた。
「仕事してます」
「どんな仕事?」
「事務してます」
「有名なとこ?」
「いいえ、たぶん知らないと思います」
「干支は何?」
「ねずみです」
「 年はここで一番ね」 冴子のその言葉に「あきよさんは何ですか?」
「酉なの」
「おあきはピーチクパーチクさえずってばかりで、まあ鶯の声ほどいいならべつだけど口から生まれた鳥みたいなもんだから」
これはあきよに対しての誉めことばなのかママはあっさり言った。
「今日はまだねえ、美容院から電話したんだけど」
客がまだ入らないことに冴子がつぶやく。
そのすぐ後にドアの開く音がして女の人が静かに入ってきた。
彼女もこの店のホステスで順という。
順は毛皮の ロングコートを着て 背が高く、きりっとした大きな目が華やかで、きれいにセットされた髪に手をやり更衣室に入った。紺のラメ入りのスーツを着てクールな女性というイメージだ。
これは後から聞いたことだけど順は 体調が良くないらしく、というか前のお店にいたとき、タクシーに乗っていて後ろの車に追突されてむち打ちにあい、それが今もこたえてるらしい。
順は元宝塚の出身で男役をしていた。どおりで背も高いし目鼻立ちもはっきりした美人で細身ではあるが男役の力強さみたいなものを感じ、かつての華やかな宝塚時代が想像できる。
お店の中では自分から宝塚時代のことを口にして自慢するということはなかった。これも後で聞いた話しで面接してくれた男の人だけど辞めて他の店に移ったらしい。
ママと冴子は政治と経済、テレビニュースにでてくるような話しをしている。客はまだ入る気配がなくこれで経営が成り立つのかと思っていると男の人が入ってきた。彼を見て皆は「おはようございます」と挨拶した。
男性はギターをひく人で30分おきに並木通りにある他のお店 と交代で ギターを弾いている。
客からリクエストがあれば歌い、客のキイにわせてギターをひき、お店では先生と呼ばれている。先生の歳はわからないがママと同じくらいか、ギターも歌もうまく声に張りがある。
"客足はどうですか"みたいな手振りでママと話しはじめた。
冴子とあきよは客に電話をかけている。
初日からこんなで大丈夫だろうか、不安になってきた。でもこのまま誰も来てくれないほうが気持ち的には楽である。なんて思っていたら入口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
鈴江の声に店内が活気づいた。あきよがすぐにボトルを取り出し冴子は嬉しそうに客のコートをあずかった。順は笑顔で客におしぼりをわたし ながら「今日はどこでもお好きなところへ」と、手を伸ばし客を案内している。
わたしはさっきあきよから教えてもらった通りに鈴江が出したアイスとグラス、ミネラルウォーターをトレーにのせテーブルに運んだ。そのときあきよがこちらを見て両手の親指と人差し指で丸い輪を描き小さな声で"コースター"と、合図している。あわててカウンターに取りに行きトレーにおいた。あきよは水割りを作っている。あきよに言われたことをもう忘れていた。
「若い子はまんなかに入って」
落ち込む間もなく冴子に言われ、ふたりの客の間に入る。
「失礼します」
「ん?」
客と目を合わせる。
「今日から入った新人なんです、ひかえちゃん」
「はじめまして、ひかえです、どうぞよろしくお願いします」
ホステスとして客にはじめて発した言葉だった。笑顔でそう言ったもののガチガチに緊張している。
客は大手電機メーカーの佐々木と田上で佐々木は黒ぶちのメガネをかけやせ形で感じがよさそうに見えた。もうひとりの田上は若く落ち着いた男性で将来会社のポストは約束されたエリートという印象だった。田上はまじめそうでホステスとワイワイ話しをするというタイプではなくでも店にはよく来るのか冴子とコンピューターの話しをしている。
わたしは空いたグラスにお酒を作った。
「いらっしゃい」
少しばかり遅れたママはハスキーな声でそして静かに佐々木の横に座った。
「あっちのほうは大変なんでしょ」
佐々木は眉間にシワをよせながら話しだした。
ママは佐々木の会社のことを聞いているようで、コンピューターのある事件で会社の中がかなり混乱しているらしい。
あきよがカウンターから赤い飲み物を持ってきてママの前に静かにおいた。
「ママが座ったらママに飲み物をだすの、鈴江さんが見てカウンターに出してくれるけど忙しいときは鈴江さんも気づかないからそのときは作ってもらってね」
ママの飲み物は決まっていて赤いカンパリソーダかコーラのどちらかでママはお酒は飲まない。
今の自分はただ座っているだけで客の相手などできそうにない。
ママは佐々木と田上と乾杯した。
「あなたは昼間は何してるんですか」
佐々木に聞かれハッとする。
「昼は働いています」
「なんでこの仕事を?」
「海外旅行旅行がしたくて、昼間の仕事だけじゃ無理なので」
"あーしまった、もう少しマシなこと言っとけばよかった"
「海外旅行がしたくてバイトしてる子、多いのよ、みんな買い物して成田からたくさん荷物持ってくるもんね」
冴子がフォローしてくれた。
「国内も知らなくて若い子はよく行くわよ」
ママもフォローしてくれたのだろうか。
ママがタバコを吸うとき頬の位置にタバコを持ちツンと顎を横に向けて話すしぐさは印象的である。
フロアのまんなかでいつのまにか先生はスポットライトをあびギターを弾いている。静かな音色のポピュラーな曲、それは佐々木のお気に入りのようだ。
「ねぇ、サーさん歌って」
冴子がマイクのコードを引っ張ってきた。
「よーし、いくか」
佐々木は照れながら演奏に合わせ、さすがにここで歌い慣れているのかギターに合わせすーと入っていった。
佐々木は歌う前にママの若い頃の話しをしていた。ママは学生時代に赤坂のこうゆうお店でアルバイトをしていてミニスカートがよく似合いとてもチャーミングでモテたという。佐々木はその頃からの客でその後銀座で自らの資金でこの店を始めたという。
そんな若い頃のママの話しをするファンはこの店には多い。
歌はまだ続いている。私は佐々木の横で手拍子をした。客が歌ってる時は手拍子はしないようにあきよから言われたことを思いだす、ママが好きじゃないらしい。店にはタンバリンもマラカスも置いてあるがしばらくはみんなの動きを見て行動したほうがいいようだ。
佐々木はさっきギターに合わせ歌っていたのに酔ってるせいか調子はずれした歌いかたになっている。でも先生の演奏はばっちりでそこがカラオケと違って歌いやすいと曲が終わると佐々木は言った。
「先生に何か飲み物やってくれないか」
歌い終わってから佐々木は満足げに水割りを口に入れた。
ママは最近、中国に行きそのときの出来事や海外旅行の心得など国内はもちろん海外のいろんな所へ行ってるようでその国の話題も豊富である。
「いらっしゃいませ」
鈴江の声がした。
それは順の客で順は席を立つとひときわ大きな声で嬉しそうにおしぼりを渡す姿が目にとまった。
「お待ちしてましたの」
店の中では一番ことば遣いが丁寧で客から鞄を預かると更衣室へ置きにいった。
あきよは静かに去り順がテーブルに置いたウイスキーで水割りを作っている。ここから離れているがあきよが「お久しぶりですね」笑顔で話しているのがわかった。
今は人の動く様子だけがやけに気になっている。あきよが順の客へと席を移動してからママと冴子がいるなか一段と緊張しながら空いたグラスに水割りを作ることしかできなかった。
佐々木の歌も終わりこのふたりの客にどのように話したらいいか全くわからない、目の前でタバコを吸ってるママの顔が冷ややかに見えた。なんでも教えてくれるあきよがそばにいなくなったら落ち着かず、隣にいる田上も静かで自分から話しをしてくれない。そんなの当たり前で話題を作るのは私の役目なの、わかっているんだけど時間が気になり腕時計が見たいが露骨に見る訳にもいかず、この先 どうしていいかわからなく焦っているときだった。
「佐々木さんのお嬢さん、大会で忙しいでしょう」
冴子が佐々木を見るとうなづきながら水割りを一口飲んだ。
そこでようやく「お嬢さん、何の大会ですか?」
「サーフィンやってて海外の大会行ってね、これがけっこう上手いんだよ」
「もう、プロね」
冴子が言う。
佐々木は嬉しそうにうなづいいて続けて聞いてきた。
「あなたはスポーツは?」
「見るのは好きなんですが、これといって得意なのはないんです、水に浮くことくらいです」
田上が驚いたように「泳げるの?」
「ほんの少しだけです」
無難に答えたつもりだけど 苦手なトークにやっぱりこの仕事向いてないかも。
早くここから逃げたい。そんなくせしてよくホステス選んだもんね、ホステス以外にもいろいろあるはず、自分を戒める。これから先が不安になり、でも貰えるお金は魅力である。ずっとこんな状態で働くのか、あー、ママの冷ややかな顔が…沈んだ気持ちでいると佐々木が聞いてきた。
「あなたは帰ると誰か待ってるの?」
「はい、待ってます、錦鯉が」
「えっ錦鯉?」
「見てるだけでとても落ち着くんです」
「へー、ひかえちゃん錦鯉飼ってんの」冴子は驚く。
「はい、錦鯉大好きなんです」
そう言ったあとにあきよから耳元で順のところに行くように言われ、その前に佐々木と田上の名前をメモろうとカウンターに行きナフキンに走り書きしスカートのポケットに突っ込んだ。
「いらっしゃいませ、ひかえです、どうぞよろしくお願いします」笑顔で挨拶する。
「こちらひかえちゃん、ニューフェイスよ」
順の客は彼女が以前勤めていたお店からの客である。
「ひかえちゃん、グラス持ってらっしゃい」
順の大きな瞳は優しく見えた。
さっきあきよが"いただきます"と言って水割りを作っていたのを思いだす。出版社に勤める客で佐々木とはタイプが違う。すでにわたしの中で笑顔がなくなっていた。
さすがに順は自分の客だからふつうに対応している。
ふたりの客は順が宝塚の男役として一世風靡した時代を知っている。順を慕って店に来る客で3人で話しをしていてとてもわたしが加わるという雰囲気でわなく、こうゆう場合どうしていいかわからない。ふたりの客はわたしの顔など見ようともせず、灰皿を変えたり水割りを作ったりで会話の中に入れないでいる自分に困り兼ねていた。
順がタバコに火をつけたときタバコを持つ 細く白い 指は女性らしくかつて男役をしていたとは思えないほど綺麗な指だった。そんな目の前のどうでもいいことが頭をめぐらせ早く時間が過ぎてくれないかとやり場のない気持ちでママ達のいるほうをみた。
ママは笑顔で話している。
これじゃいけないと思いながらあっちこっちとつい目がいってしまう。カウンターに山のように飾ってあるストック、東京に来てからいろんな花を目にするがこの白のストック、ずっとヒヤシンスだと思っていた。
たぶん田舎にいたらこの花の名前すら知らないでいただろう。そしてこうして水割りを作っていることも想像できなかっただろう。
ふとカウンターに目を向けると鈴江がこちらを見ているのがわかった。
「順さんのとこへ」
カウンターに 生ハムとメロンが銀のさらに乗せてあった。
トレイにのせ静かに客の前に置いた。
鈴江が客を迎える声がした。
最初の印象とは違い次々に入る客で店の中が狭く感じる。
あきよから佐々木のテーブルに着くように言われすぐに移った。
「おっ、来たね」
この時初めて田上の笑顔が見れて嬉しかった。
ママと冴子はここにはいない。
緊張が和らぎ、グラスを持っておいでという佐々木の言葉にふたりはすっかり出来上がっているようで、しかもグラスの中には濃い色のお酒が入っていた。ついでにそのグラスに氷を2個入れ3人であらためて乾杯した。
「錦鯉の話し聞かせて欲しいな」
「佐々木さんどうですか、飼ってみては。錦鯉には金魚や熱帯魚にない優雅な淑やかさを感じるんです"静"というか、それに艶かしい女体にも似てますし、この上ない力強さも持ってます。あのぉ、なんか変ですか、錦鯉大好きなんです」
たぶん、おかしかったのだろう。
「ひかえさん錦鯉に詳しんですね」
今度は 押さえぎみなトーンで話す。
「ぜんぜん詳しくないんです、好きなだけです」
苦笑いをして錦鯉の話となると力が入ってしまい、おまけに田上の隣で良い感じの人だなって、 意識してしまって、しかしそれを表面にだすことはできなかった。
有線から蛍の光が流れだす。帰る時は速やかに帰るよう言われていた。
「時間なのでこれで失礼します」
ふたりの席を去った。
更衣室に入ると蛍の光が大きく聞こえていた。
パンプスを脱ぎメモったナフキンをバックに入れジーンズをはき、まだカウンターの中で忙しそうにしている鈴江に挨拶すると足早に店を出た。
エレベーターの中では上の階から下りてきた客とホステスと一緒になり一息つく間もなくエレベーターは動き出した。
ドアが開き先におりると後方から
「ありがとうございました、またお待ちしていまーす」
客を見送っているホステスのきらびやかな声が聞こえていた。
にぎやかな余韻をあとに頬に触れた冷たい夜風にやっと大きく息をして張りつめた気持ちをほぐした。
今日は初めての仕事で緊張し、お店に慣れようと 焦りもしたが次から次へと客が入るとどうしていいかわからず要領を得ないまま終わってしまった。順の客には対応できなかったし、ホステスは向いてないのではと葛藤は続いている。友達どうしで話すのとわけが違い馴れ馴れしいのは失礼だし若い客なら話しも弾むのだろうが若い人はこうゆうお店にはこないだろうし…あー、疲れました。アルコールが少し入っただけで顔にでてしまう。それで自分のは薄めに作っているのだが、帰り際に鏡を見たらファンデーションをあつめに塗っていたにもかかわらず紅くなっている。こんな時間でも電車の中は明るく酔ってないのに紅い顔したまぎれもない酔っぱらい女にしか見えない、恥ずかしいから下を向いた。
馬込の坂を急いで歩く。アパートに着くと24時を回ろうとしていた。小走りに銭湯に向かい湯につかるとお店でのことが思い出されまた一つ息をついた。
静まりかえった部屋の中、これからが一番落ち着いた時間である。コンコンコン、静かにノックした。
「疲れたよ」
錦鯉を見ながらしばらくぼーっとする。
布団を敷くサァーッという音、手を伸ばしカセットをつける。テープが回るのを見ながら聞きなれたメロディ"しおかぜにほほそめたきみの…"だんだん遠くなっていく。
朝いつものように目が覚めたがこの時期なかなか行動できない。手を伸ばしラジオをつける、FM はモーニングタイムに欠かせない。
あっ、いけない、忘れるとこだった。
コンコン「おはよ、きのうは大変だった」
餌をあげると錦鯉はざわつきはじめた。
会社に着くとりりこはまだ来ていない。通路であわただしく人々が行き交うなかいつもの電話のベルに対応する。
「おはようございます」
ひときわ大きな声で入ってきたのはりりこだった。
「うわぁ、いいねその髪」
「きのうバイト行く前にかけたの」
「ステキ」誰かが言う。
ソバージュって大人っぽく見える。
「ストレートもよかったけどこうゆうのも似合うね」
「ひかえちゃん、その髪似合ってるよ」
「ありがとう」長い髪は似合わないからいつも肩から切ってもらう。りりこは髪型から服装までモデルはボロ着てもさまになるというけどりりこはまさにそうである。
見た目はちゃらちゃらした感じだがきちんとした考えを持っていてそんな面では彼女を尊敬している。
机に向かうりりこの歩き方でバイトのことを聞きたがっているのがわかる。
「ねえ、どうだったバイト」
「うーん」
ため息まじりに返した。
「そんなのやめちゃいなよ」
「わかってるんだ、自分には向いてないって、でもやっぱり…」
机の前にはメガネをかけたベテランの女性、谷がレンズの上から
こちらを覗いている。ふたりでプライベートな話しをする時はボリュームを下げて話したりメモを見せ合うこともある。こんなかんだで午前中はあっという間に過ぎる。
会社は五反田の商業施設が入る大きなビルの中にあり、地下にはさまざまな飲食店がある。今日は何を食べようか、エレベーターの中で考える。仕事中も考えたけどやっぱりあそこのミートソースにしよう。あそこのはとても美味しくなんかひと味ちがうんだよね。隠し味になんか入れてると思うんだけど食べる時はホークで中をじっくり見て味を探っている。建物には他に宝石、洋服、雑貨など女性の目を楽しませてくれる店が入っている。
熱々のミートソースを手に宝石店のウィンドウを横目に進むとちょうどエレベーターからりりこがお昼を買いにおりてきた。ふだん職場は営業の人達がほとんどいないので仕事は雰囲気的に楽だった。静かな中で仕事もはかどる。りりこが帰ってきた。
「今日はなに?」
「ハンバーグ弁当にした」
昼休みが終わり、りりこがお弁当とともに3時のおやつを買ってきた。豆大福で意外にも彼女は和菓子を買ってくることが多い。なかの餡もほどよく大きな豆がほのかに塩味で美味しい。
今日はバイトがないから帰ったら洗濯して早めに銭湯に行こう。
時間がくるとすぐに職場を離れた。このあと素敵な彼とデートなんていいだろうな…ふと、こないだのことのように思い出していた。
別れた彼の名前は矢野俊一、しゅんちゃんと呼んでいた。彼の実家は京都にあり薬局と本屋を営んでいる。まだしゅんちゃんのことが忘れられず、電話したいけどかける勇気がないのである。別れてからいっそうしゅんちゃんへの思いがいっぱいになっていた。失ってみないと失ったものの大切さがわからないってことかな、いつかは会いたい、連絡したい、しゅんちゃんの存在が今になって大切だったと思えるようになっていた。
料理っていざ作るとなると下準備が大変だったりする。夕食はいつも途中で買って簡単にすます。予定通り銭湯へ行き 洗濯機を回す。澄みきった空に星が輝いていた。
「ねえ、銀座でバイトはじめたんだ、ホステスってけっこう大変」ため息まじりに錦鯉に目をむける。
テレビではサスペンスドラマが始まろうとしている。 何気なく食器棚に目をやる。 ボトルが素敵なブランデー、たまにはこうゆうお酒も飲みたいと思う。グラスを口に傾けジワッとくる熱い液体、ジリジリと喉を潤す。ぼーっと過ぎてゆく時間の中、このままずーとこの空間に慕っていたい。からだがほてりいつの間にかまどろみ心地よい眠りに誘われた。
「おはよ」
かろやかなポップスとともに少々鼻づまりで声をかける。
「今日はバイト、もうやるしかないんだ」
あー、夕べのうちに決めとけばよかった。やっぱりブラウスとスカートでいいか…ズボンは手提げに入れた。
今日もいい天気になりそうだ。こんな日はルンルンで、会社に向かう足取りは暗い夜道と違い、つい気取ったふうに歩いてしまう。歩きながらけっこういい男とすれ違う、彼氏のいない今はすこしでも良い印象を与えたいでわないか、でもこうして歩いていてもいい女はそれなりに見られるから羨ましい。
仕事をいつも通りこなし一日が終わろとしていた。5時になると女の子たちはそわそわしてうれしそう。
"いいよね、彼氏のいる人は"あなた達一度は失恋してみなさい、誰でも湿ってしまうから。りりこはもちろん彼氏がいる。夏は海、冬はスキーに行ってるようで、それなら一緒に連れてってもらえばと思うが彼女とは性格も あらゆるものまで 違い、遊びまで一緒ということではなく職場では机も隣で会社を出たらプライベートまでは…もちろん仲が悪いということではない。
まだ時間もあり会社を出る前にソファーに座りタバコに火をつけた。着替え終えたりりこと目が合う。
「バイト?」
声を出さずに口を動かした。りりこはうなずく。今日のりりこはかけたばかりのソバージュに今流行りのスーツが似合っていた。赤いコートの上からさりげなく無造作にかける黒のショールは大人っぽく見えた。マニキュアはピンクでキラキラしている。りりこは化粧、服装、アクセサリーとまめでおしゃれだ。わたしもいつまでも湿ってないでこれからはりりこを見習ってちょっとおしゃれしてみようかな。ソファーにかけたりりこは一本吸いはじめた。その時わたし達は同時にため息をついた。それがおかしくてふたりで笑った。わたしのついたため息は仕事が終わりほっとしてでもこれからバイトで不安だという意味でりりこのはどんな意味のため息なのだろうか。
ふたりで会社を出ると歩道橋の前で別れた。バイトが始まる7時までにはまだ時間がある。山手線に乗りドアの手すりにつかまった。ちょうどここら辺かな、大きな道路を挟んだビルとビルの間から東京タワーが見える。初めて東京に来たときなにげなく窓の外を眺めてたらこの場面に遭遇した。すうっと一瞬に通り過ぎるタワー、ここが東京だと実感できた。田舎者のわたしはワクワクしてとてもいい物を見つけたような。子ども頃、テレビでしか見たことのない東京タワーは遠くだけど目の前にあった。だけど今日は見えない、キョロキョロしていると反対側のドアにいた。
途中いつものうどん屋へ向かう、ここから見るかぎり客はいない。「いらっしゃいませ」店内は暖かくコートを隣のいすにかけながらいつものきつねをたのんだ。七味をたっぷりかけ、おしるをきれいに飲むと丼の底に唐辛子が沈んでいた。あとから客が入りカウンターだけの席はすぐにうまった。
外は冷たい風が頬を撫で通りはクリスマスの飾りで銀座の夜をいっそう華やかにさせていた。しゅんちゃんのいないクリスマス…クリスマスという言葉がうらめしい。しゅんちゃんは今なにしてるだろう。これから向かうバイトのことも重なり落ち込んでいた。信号待ちで立ち止まっていると回りにいるホステスたちの自信に満ちた姿に、この人たちに接客の不安などないの だろうか。
お店に入ると鈴江が掃除機をかけていた。
「 おはようございます」
更衣室に入り紅筆で口紅を濃いめの赤に塗り替えた。
このスカートどうかしら、姿見を見ながら気になる。左右に向きを変え鏡を見てチェックする、まあいいか…髪を整えタバコとライターを持って更衣室を出た。
さっき忙しそうにしていた鈴江に再び挨拶して カウンターに座る 。
「鈴江さんきれいな髪ですね」
「 細くて 柔らかいから季節によって広がったりで大変なの」
「 私は長いの似合わないから羨ましいです」
あきよが 明るい声で 入ってきた。彼女はブルーの生地に黒の水玉 模様 のワンピースで襟元のラメのレースがアクセントになっている。
「わあ、あきよちゃん素敵だわ」
鈴江はタバコの手を休めた。
「あきよさん、とても素敵です」
「ありがとう」あきよはくるりと一回りしてポーズをとってみせた。
「クリスマスっぽいかしら」
そう言って更衣室に入っていった。あきよは念入りに化粧しているらしく鈴江の お茶を呼ぶ 声に、出てきたあきよは目張りを 入れて一段と綺麗だった。
ドアが開く気配にあきよとふたりで客を迎え入れた。
「お待ちしてました」あきよはこの上ない笑顔で客の鞄とコートを預かった。そしてすぐにボトルを用意してテーブルに置いた。
「かんぱーい」
客とは長い付き合いでとても贔屓してもらっているようだ。笑顔の素敵な紳士である。
「こちら田村さん、よろしくね」
「はじめましてひかえです、よろしくお願いします」
「田村さん素敵でしょ、ひかえちゃんわたしの田村を奪わないでね」笑顔で話すあきよはサバサバしている 。
「このネクタイ素敵な色ね、誰かからのプレゼントかしら」
あきよは田村のネクタイに注目していてわたしも田村が来たときから彼のネクタイの色に目がいっていた。
「ほんとに素敵な色ですね、わたしもさっきから目にとまってたんです」
若草色で紺のスーツにマッチしている。
田村はニコニコしながら胸のポケットから名刺を出した。名刺には繊維関係の会社の名前が書いてあった。
お客様から名刺をいただいたら電話して店に来てもらう、名刺をいただくことはいいことだからって初日に冴子が教えてくれた。客は普通に挨拶がわりに名刺をくれたつもりでも田村はあきよの客である。あきよに断らず田村に電話かけるのも、なるべく煩わしいことは避けたい。
「これ新製品なんだよ」
「こうゆう色、田村さんだからお似合いです、爽やかさの中に落ち着いた感じがいいですね」
少し薄かったようで 田村の水割りにあきよはウイスキーを足した。
ママも冴子もすでに来ている。
そのあと三組の客が一度に入りわたし達は散らばった。いつの間にか田村はカウンターで鈴江と話しながら飲んでいる。
あきよは客とデュエットしている。
客と会話ができず、灰皿を変えたりミネラルウォーターを運んだり、そんなことばかりしていた。
今日で2日目、ため息の数だけが時間とともに過ぎてゆく。客は皆固い表情に見え、そんな客にどう接していいか難しさを感じていた。
ある日の金曜日、8人のグループが店の中を賑わせていた。客は東北の旅館組合でホテルや旅館の専務、いずれは社長となる若くて賑やかで楽しい人達だった。
赤坂のホテルでパーティーがありそのあと銀座に出てきた。あきよと一緒にこのあと六本木のディスコに行く話で盛り上がっていた。あきよに誘われたが帰りが遅くなるから迷っていた。
「彼氏が待ってるのかな」
客は親しみのある イントネーションだった。
「錦鯉が待ってるんで帰らなくては…」
誰かが吹き出す。
「だいじょうぶだぁ、死なねっけ」
これくらいの方言は理解できる。冗談まじりで楽しくてすっかり客に気を使う事を忘れていた。帰りは送るからと言われ楽しいこと大好きだからいいかな、くらいに思い行くことにした。
しかしこれが心を惑わすことになることをまだ知る由もなかった。
あきよは閉店まで働いているためこの日は最後までいることになりあきよがある程度の時間を決め資生堂パーラーの前で待ち合わせをすることにした。
客が帰ったあと店の中の有線が普通に聞こえていた。と同時に片付けを済ませ次の客を迎える準備をした。
先生はカウンターでお茶を飲んでいる。順は今日は来ていない。いつも順は背筋を伸ばしきちんとした姿勢ですわっている。それを見習って冴子のいる席へと移った。
あー、見るからに難しそうな客である。
「いらっしゃいませ、ひかえです、どうぞよろしくお願いします」「こちら、ひかえちゃんニューフェイスよ」
冴子に紹介されかしこまってしまう。
こうゆう客にママとふたりでつく時は最悪、ママと一緒で緊張するし、客のタバコに火をつけ空いたグラスにお酒をつくり、会話に入れず聞いてるだけ、これじゃママに叱られるのも無理はない。わたしのそんなこんなをママはしっかり見ている。
冴子は下町生まれで粋な性格をしている。いつも"ひ"と"し"を間違って話している。今は落ち着いたが以前は引っ越しを繰り返し、自分のこと引っ越し貧乏だって笑いながら話す。
「ひかえちゃんどこに住んでんの」
「馬込です」
「馬込ってたしか…駒込なら知ってるけど」
「大田区なんです、近くに畑もあるんです」
客のひとりが タバコを灰皿に置いた後だった。
「ひとりで住んでるのかね、髭のはえた人が待ってるとか」
髭のはえた人の意味がわからなくてとっさだった。
「背びれと 尾びれ のはえた人が待ってます」って、客は笑いながら首をかしげ錦鯉だと説明すると納得し、昔は食用として用いられ今は観賞魚として、錦鯉は力強さと妖艶さのふたつを持ち合わせていると錦鯉の魅力を延々と話し続けていた。
冴子が客に両手で何やらイミシンな手振りで「今度またやりましょう」
客は嬉しそうに「そうだね」
「それはなんですか」
「あら、ひかえちゃんなにかエッチなこと考えてたでしょ」
「はい」
冴子の手振りはエロく見えた。
「違うのよこれは、ねえ」
冴子は客に相槌を求める。
「えっ、違うんですか…そうですよね」
「麻雀よ」
冴子の手振りは麻雀のパイを動かしてるようすだった。
「麻雀はやったことないんです、 脳にもいいって楽しそうですよね、ドンジャラなら知ってます」
「ん、なに」
冴子はタバコに火をつけた。
「ドラえもんとかいろんなキャラクターそろえて大勢でも遊べるんです」
「知ってる知ってる、絵をあわせてパイをそろえるんだよね」
あきよが言う。
「へー、そんなのあるの」冴子はタバコの手を休めた。
「この人は強いんだよ」
客は冴子に負けたようだ。
時計は11時を過ぎていた。
最後の客をみんなで見送ったあと静まりかえった店内に掃除機をかけボトルの場所を確認した。
ママが回りを見る。
「帰っていいよ」
すぐさまあきよと化粧を直しお店を出た。
「みんな待ってるかしら」
あきよは歩きながら時計を見る。
パーラーの前でキョロキョロしていると客の姿を見つけたあきよは手を振る。すでにタクシーは待機中であきよとは別のタクシーに乗った。タクシーの中で自己紹介が始まり、みんなから"ひかえちゃん"と呼ばれ悪い気はせず、すっかり 和んでいた。一度も行ったことのない東北の話しを聞きながら方言まじりで親しみが持てる。いつの間にか後ろのタクシーがこないのに気づく。アマンドの前でタクシーをおりたが後ろから来ているはずのあきよの乗ったタクシーがまだこない。さっそく野上が連絡をとると信号待ちにさしかかってるようだ。みんなタクシーの来るほうを見てる。
澄んだ夜空に風はなく寒々としてでも身体は温かかった。
赤と緑のクリスマスカラーが街を彩る。明日は会社も休みだし六本木の夜はまだまだ暮れそうにない。
そんななか客たちの顔をあらためて見ることができ、中でも小田島という客は素敵な男性でタクシーの中では隣に座っていた。あきよ達を待ちながら客は常に賑やかでその明るさはお店にいた時から
ずっと続いている。
「こないなあ」同じ色のタクシーが多いなかあきよの乗った黄色のタクシーを目で追う。少しして1台のタクシーが近付いてきた、その後ろからもう1台。あきよ達が降りてきた。
皆ほっとして、行き先はあきよのおまかせで10人の団体は六本木の通りを占領するかのように歩きだした。
久しぶりの六本木はワクワクし楽しい気分になっていた。
今日は花の金曜日、店に入ると混んでいてテーブルに案内されたが皆座ることができず、飲み物を注文すると早くも踊りだした。
楽しくて、でも、なんか気のせいか視線を感じる。
それは小田島からである。わたしは微笑みながら視線をそらす。
彼らは踊りが上手い、あきよも楽しそうに踊っている。飲み物を飲んではまた踊る。OLやサラリーマンもノリノリでノリの良いリズムから静かな曲に変わる。
チークダンスが始まろうとしている。
そばにいた小田島と目があい吸い込まれるように彼のリードでダンスを踊った。小田島の腕に包まれ、ときめきを感じ彼の胸に頬が触れそうになった。心臓がドキドキしている、このドキドキの鼓動が小田島に伝わりはしないかと、そう思うと恥ずかしくて。
すっかり小田島の魔法にかかってしまったような、このままこれでいいのだろうか、そんな時 である。
「店で会った時から可愛い人だと思ってたんだ」
接近しすぎた耳元でそんなことを言う小田島の言葉に驚ろいた。
「どうもありがとうございます」
でも、落ち着き払ったように…そういえば、どうもさっきから小田島からの視線が気になっていた。
「ずっと見てました 、可愛い人だなって」
寄で若いホステスはわたしとあきよでそんなふうに言われるのはうれしいけど、このひと本気で言ってるのかしら、でも悪い気はしない。ジーンと盛り上がる音楽はいっそう深いときめきを与えた。
このまま小田島に引き込まれてしまいそうな、そうな甘い誘惑の予感だった。
でもだめ冷静さを失っては、この人はお店にきた、そう、客のひとりなのだ。チークダンスが終わりみんなから冷やかされ恥ずかしい。それからだいぶ踊った。店を出た時間は覚えていない。
あきよはすぐにタクシーを拾ってかえった。
小田島は家まで送るという、回りの人も送ってもらいなと、まるで彼は結婚していて安心な男だと言わんばかりに。それはやはり軽率だったかもしれない。
わたしとしてはある程度小田島の人柄をつかんだように思えた。タクシーを待つ間この人は送り狼にならないだろうか、無事にアパートにつけるだろうか、なんて全く不安に思わなかったわけではない。久しぶりに踊って楽しくて意気投合して安心感があった。
ふたりでタクシーに乗る。
運転手に行き先を告げディスコでの話しをした以外、それからはほとんど話さず、しだいに眠くなるが起きていなくてはいけないと必死に目を開けてるのがやっとだった。
ここで眠ってホテルにでも連れ込まれたらなんて、 軽率だった。もうどうにもたまらずうとうとして気も薄らぐという時ひざにおいた手にいたずらな温もりを感じた。小田島の手の感触が…この人はなにを考えてんだろう。一瞬不快に思いでも気づかすに寝ているふりをした。そしてそのあとすぐに唇を奪われ、いったいこの人はなんなんだろう、わたしが眠っているとでも思っているのか、慌てたように意識を戻し、この狭い空間の中で"やめてください"と大きな声で小田島を払いのけてしまえばいいのだろうか…ひそかに小田島に好意を抱いていたのである。この場はこのまま目を閉じていよう。
車内は時おりすれ違う車のライトに照らされるだけで、この人はどうゆう人だろう、このような行為は決して誰でも許されるものではない、小田島に密かな思いがあった。
運転手に道を確認され我にかえったように目を開ける。
「この先の十字路を…」
タクシーはゆっくり止まった。
「今度お店に電話します」
「はい、お待ちしています。送っていただきありがとうございました」別れ際に言葉をかわしタクシーは走り去った。
眠ったふりをしていたタクシーの中での出来事に小田島への熱い思いを感じていた。タクシーの中ではうとうとしてたのにアパートについたら目が冴えてきたような。
熱いお茶が飲みたくてお湯を沸かす、ラジオをつけタバコを吸ってる間でもさっきのことが思い出され身体中にほてりを感じる。
バックからもらった名刺を出す、小田島旅館、専務小田島利和…薄めに入れたお茶を飲みうつろに化粧をおとす。
そろそろ夜も開けようとしているがこのまま朝がくるのを待っていたい…。
目覚めたのは昼過ぎでぐっすり眠った感がある。ストッキングをぬぎタバコを吸う、こたつに入れた足が暖かい。
コンコン
「元気?きのうはひさびさに男に接近したって感じ、思い出すとジーンとくるんだけど、ぜんぜん悪い気はしてない、そんなにわたし可愛いかな」
鏡を手にし、ああ目が充血している。甘いのが飲みたくてココアを入れた。
小田島利和か…素敵な人だったな、でもしゅんちゃんのこと…。
銀座でバイトを始めたのは海外旅行のこともあるけどしゅんちゃんと別れたこともきっかけとなっている。会社にいても昨夜みたいに楽しくやってもちょっとした隙間からしゅんちゃんのこと考えてしまう。別れてから半年が過ぎようとしていた。
自分の気持ちを少しでも整理したいためこの暮れに京都に行ってみたいと考えていた。職場ではいつも通りの時間が過ぎお昼はりりこと下で買ったハンバーグ弁当を食べた。バイトは自分の出る日は休まず出勤してちょっと身体がだるい日は会社を休んでバイトに行った。バイトに行ったほうが会社で一日働くよりかなりの額が貰える。それなら会社を辞めてホステスの道にと、それはできない。
ホステスとしての自信がない。
ここのところひょっとしたときに小田島のことを思い出してはしゅんちゃんの顔が現れた。
朝からテレビで今日はクリスマスイブの言葉が飛びかっている。クリスマス…いいな、彼とふたりでホテルのディナーなんか予約したりして、ふたりだけのクリスマス、そして生クリームたっぷりのケーキ、バイトするようになってから間食しなくなった。
コンコン「おはよ」
泳ぐ姿を見ただけで元気かどうかわかる。
さて今日はこれ着よう、前日にかけておいた洋服、クリスマス だからちょっとお洒落しよう。ブラウスもスカートもこの日のために買った。スカートは黒でふんわりと3段のフリルになっていてベルトを金色にしてリボンを結ぶ、ブラウスもふんわりしたものを選んだ。スーツだとまじめすぎるし靴とバックも揃えてこれみんな変装用鞄に入れ電車に乗った。
「おはよ」
会社に着いたらりりこも別のエレベーターから降りたらしくロッカーの前で一緒になった。
「わぁー凄い」やっぱりりりこだ。ミニの赤のワンピースで白いファが首を覆っている。
鈴をつけたトナカイが今にでも飛び出して来そうな、こうゆうのはりりこだから違和感がない。
「ワンピースかわいい」
「ありがとう」
「今日はデート?」
「友達とディスコ行くの」
「いいな」
「今日バイト?」
髪をブラシしながらうなずく。
「がんばってるね」
「とりあえず」
ロッカーに変装用鞄を入れドアを閉めた。
「ねぇ今日クリスマスイブでケーキ食べたいね」
「いいね3時に買ってこよ」
りりこが3時のおやつにケーキ食べたいと言い、早くに来ていた上司がこの会話を聞き付けお金を出してくれた。
今日はそれほど忙しくなくそんな時りりこは枝だ毛を切っている。前にいるベテランの谷はペンは持っているものの下を向いているから仕事しているように見えるけどいつものそろばんの音がしない。わたしは今月貰うバイト代でいくら旅行積立しようか計算していた。
ヨーロッパ もいいけど寒いだろうな、やっぱり南国の海がいいな。3時にりりことケーキを買いに下に降りた。ふたりでどこの店にしようか迷っている、いつも通る洋菓子店で立ちどまり、りりこもすぐに目を止めシュー生地にあふれんばかりのフルーツクリーム、女子好みのスイーツだ。
それからは余裕で仕事が進み、りりこは化粧をすませると急いで会社を出て行った。
今日は有楽町で降りてみよう。
改札口は行き交う人々でいつもより賑やかに見えた。ケーキ店から出てきた男性、きっと愛しい人が待っているのだろう。
お昼はカップラーメンだったからお腹すいた、この近くにおでんと茶めしがセットになったおいしい店がある。
しばらくそこで時間を過ごす。
中央通りに入る。
クリスマスツリーが華やかに。いいなあ、銀座って大好き。すれ違う人は皆幸せそう。今のわたしは幸せとは言えない、幸せなのはたった今おいしいおでんを頂いた胃袋と満足感を与えてくれた脳だけでわたしにとっての幸せは好きな人と充実した人々を送っていること。今はそれしか考えられない。
寄に入ると鈴江はカウンターの中でせわしげにしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
鈴江はこっちをちらっと見てまた作業を始めた。
コートをハンガーにかけ、今日もなんとか過ぎますように、 塗ったばかりの口紅をティッシュで抑え更衣室をでた。
「ひかえちゃんとても素敵よ」
鈴江に言われてとても嬉しい 。
月曜日になるとママが重たそうに花を抱えてくる。店の花瓶も大きいだけにママが持ってくる花の量は半端ではない。持ってくると1本1本に挟を入れて生けている。
今週はシクラメンの鉢植えでひときわ映えていた。
「おはようございまーす」
あきよはりりこと同じ赤色のスーツでしとやかで色っぽい。
「ステキです」
「あきよちゃん その色 似合うわよ 」
鈴江はお茶をカウンターにおいた。
入れてもらったばかりの熱いお茶を両手でふーっとしてひとくち飲んだ。あきよが椅子に腰掛けると鈴江はパセリの雫を紙ナプキンで押さえながら「今日帰りに下の店に名前言ってケーキもらってね」
職場でケーキ食べたけどラッキー、下の店のケーキは有名でいつもこのビルに入るとき横目でちらっと中を見てはいつかここのケーキ食べたいと思っていた。今日はオールメンバーで客も入っている。すでにあきよが来るよう誘ったのか田村が来て、となりに座った。
「今日ケーキ買って行かれるんですか?」
「いやぁ」
「ひかえちゃん、うちの田村がケーキの箱持ってる姿、想像させないでよ」
「あー、すみません、そうですよね」
「ケーキ持って広尾に向かう、あんがいそうだったりして」
あきよはキャッキャッと笑う。
「サプライズで家族の皆さん喜ぶと思います、いま会話のない親子が多いというからわたしならとても嬉しいですけど」
田村の家庭に少し興味があった。
「ほらクリスマスっぽいでしょ」
いつの間にかあきよはトナカイのブローチを胸につけていた。これ見てとばかりに 人差し 指で示すあきよの可愛いらしい一面を見た。
客が入り冴子の席へ移る。始めての客である。
「ニューフェイスよ、こちらひかえちゃん」
「はじめましてひかえです。どうぞよろしくお願いします」
緊張して背筋を伸ばした。客は林田と佐藤といい雰囲気も良くすぐに馴染めた。
「ひかえちゃん新潟なの」
「じゃ新潟美人だね」
佐藤はにこやかに言う。
「そんなことないです」
冗談でも今まで美人なんて言われたことがないから嬉しくて、お酒が入り赤らめた顔でいつの間にか錦鯉の話しになっていた。
「はーさんは錦鯉好きなのよ」
冴子はタバコをふかして言う。
林田は腕組みしながら「錦鯉は何匹飼ってるの」
手で示し「こんな小さな水槽に6ぴきいます」
「わたしもひかえちゃんから聞いてずいぶん錦鯉に詳しくなったのよ、ええと紅白は赤と白でさらさと言って大正と昭和、明治もあったっけ、あと3色は赤白黒でさんけと言って金銀プラチナダイヤにそれから…」客は「おーすごい」冴子は錦鯉の模様をを言っている。
みんなで冴子に拍手してわたしは林田にブランデーを作った。林田は冬は雪深い地方で錦鯉の養殖が盛んなことを知っていた。
続けて冴子が「色と模様のいいのは高いんだって」
「値段はぴんからきりまで1匹数百万、それ以上するのだってある」
林田が話すのに相槌を打つ。
「1匹から錦鯉を育てることもできるしそれに入れ物が小さいと大きくならないから飼いやすいと思います。バイオで錦鯉を育てるの」冴子が真顔で「何それ」「バイオテクノロジーを利用して親とそっくりの遺伝子を持つクローン魚をつくる研究もあるみたいです」得意になって続ける。
「色や形の優れた遺伝子を組み合わせ優秀な錦鯉をつくりだすことも可能になるみたいで、わたしは昔ながらの手法で育てることに錦鯉の伝統を感じるんですが」
「泳ぐ宝石錦鯉、鯉に恋して錦鯉って」林田は皆を笑わせた。
すっかり緊張が解き放っていたころ「ひかえちゃん」鈴江の呼ぶ声がして向かうと電話がかかっていた。
誰だろう、ここで働きはじめて客から名刺を頂いたものの今まで客の誰ひとりと自分から電話をかけたことはなく特に親しくしている客もいない。りりこにはバイトしていることは話しても店の名前までは話していない、おもむろに受話器を取る。
「お待たせしました、ひかえです」
「小田島です」
店の中の騒音と電話が遠いのか聞きとれず、でも小田島というひびきはある、でもまさかと思い聞き直した。
やはり小田島だった。すぐにこの前の礼を言うと来年早々に東京に
来る用があるから会ってくれないかと言うことだった。また店に連絡するということで電話を切った。簡単にオーケーしてしまったが店の中での電話のためそう言わざるを得なかった。もし店での電話でなかったら断っていただろうか、困惑と嬉しさの、中もどると「きたきた泳ぐ宝石」客におだてられ「電話だれかな」
「錦鯉たちに待ってるねって言われました」
そう言ってはみたものの小田島からの電話に動揺していた。
「いいわよね若いって、わたしもあの時はーさんの子、産んでたらひかえちゃんくらいの子いたっておかしくないもの」
冴子の年齢はわからないがとてもわたしくらいの娘がいるようには見えない。冴子もかつては燃えるような恋をしたのだろうか。
先ほど先生はホワイトクリスマスを歌って出て行った。今まで演歌しか聞いたことがなかったからギターの音色と英語で歌う声に 聞き入ってしまった。今日もほんの少しのアルコールしか飲んでないのに酔ってしまったようだ。
時間が気になり気ずかれないように腕時計を見るとちょうど蛍の光が鳴り出した。
ジーパンに着替え更衣室を静かにでる。
「ケーキもらってってね」と、言う鈴江の声に「ありがとうございます」 一目散にエレベーターを下りケーキ屋に入った。
ハンサムな店員が奥から赤いリボンのついた箱の包みを持ってきて袋に入れてくれた。
まだまだ賑やかな通りを抜け駅へと急いだ。この感じからしてどんなケーキだろう、大切に持って電車に乗った。車内の暖かさにほっとしながらかけてきた小田島のことを思い出す。もちろん嫌な気などなく今までも気が向かなければ断ってきた。
ことわる理由などない。彼氏がいるわけでもなく毎日変化のない生活を送っている。小田島ならしゅんちゃんのことを忘れさせてくれるだろう、小田島なら…そんな軽い気持ちとはうらはらにこれから 先、客とホステスとの関係でいられるだろうか、あの日の小田島の行動に惹きこまれそうになっていた。だめだめ、あくまでも客とホステスの関係でなければ、のめり込まない、踏み出さない、そう決めてバイトをはじめたはず、しかし小田島のこと考えると熱い思いがよぎるのだった。
薄暗い階段をのぼり家路に急ぐ人達、コートの襟を立ててそれぞれが静かに散らばって行く、みぞれ混じりで手が冷たい。ポケットから手袋を出した。
今夜は星が見えない。しゅんちゃんも夜空を見ることがあるのだろうか、いまどうしているのか、彼女と一緒にいるんだろうか。
そんなことを考えながらケーキの箱を開けた。
白いロールケーキにクリームで作ったピンクのバラがアクセントになっていた。ティーポットに紅茶を入れお湯を注ぐ、これで横に彼氏でもいればちゃんと切ってお皿にのせて食べるのだろうが手間をはぶいてフォークで食べる。生地はすぅっと馴染んで口当たりが良い。いいだろうなぁ、好きな人とふたりで夜の街を見ながら、寒いからって彼のダブダブの上着に包まれたりして、しゅんちゃんと…
もしそんなふうにしていられるのならケーキなんてなくていい、プレゼントだっていらない、ただふたり寄り添っていられたら。
小田島のこと…そう…小田島に会う前にしゅんちゃんに会いたいと思った。
翌朝、やけに寒いと思ったら窓から木の枝に白い物を見た。雪だ、やっぱり降ったんだ、寄で客が雪が降る話しをしていた。
テレビをつけると2センチ降ったということでこれっぽっちの雪で都会は混乱する。こたつの上にはゴミやカップが散らかったままになっている。それを横目に外の雪に眠気も覚めた。
コンコン「おはよ雪降ったよ、しゃっこくねえか」錦鯉は静かにしている。かたずけもそっちのけでタバコを吹かす。




