偽りの空を見ている
「私は青い空が見たいのよ」
祖母は言う。「だから、この目の前でちかちかする物をどけてちょうだい」
「だから、もう、おばあちゃん、青い空なんて夢みたいなこと言わないで」
青い空なんてお伽噺か歴史の中にしか存在しない。空は灰色。少なくとも私が生きてきた二十年間、それは変わらない。
眩しい太陽があって白い雲がある。雲は青い空に流れ、太陽を隠し、雨を降らす。風が雲を動かし、葉の摺れる音をさせる。夜には月が満ち欠けて星が進路を指し示す。太陽が地平線に近い時、空は赤く染まり、命を祝福し、疲れを癒す。
世界は表現しようもない色に満ち溢れ、それぞれにしかない色の名前に溢れていた。
今の世界にある色にはカラー番号が振られていて、誰もその名前を呼ばない。
「そんなに青い空がいいならさ」
三つ年下の従兄弟、颯が空中に浮かぶ文字盤を指で器用にスライドさせて、「モードXにすればいいんだよ」と簡単に言い放つ。
文字盤の背景がブルーに変わる。視界は青く染まる。
「だからね、違うの」
祖母が認知症を発症してからもう四年だ。八十八歳。米寿という年になるのだが、時々、そんなことを言って、孫の私たちを困らせるのだ。
「空は、こんなにちかちかしているものじゃないのよ」
私たちには普通の空中文字盤、Air mobileは祖母にとっての普通ではない。祖母が四十を超えた辺りから巷にあふれ始め、母が二十歳を超えた頃には、全ての人々がIDとして持つようになったのだ。昔で言う補聴器のような形のものを耳にかければ、そのまま脳波にコネクトする。しかし、思ったことをそのまま目の前に出すということは不便極まりないということで、『選ぶ』機能が実装されたのだ。
その頃祖母は五十代。日本では小学校に上がるのと同時にそれが配られるようになった。入学式で使い方を覚え、それと共に過ごし始める。教師が画面の中なんて当たり前。授業時間にさえ出ていれば、教室にいなくても問題ない。当初、抵抗していた人達もそれが国家プロジェクトよりも大きい世界プロジェクトという馬鹿でかい波になっては勝てなかった。
それが、私たちの眼前にある空中文字盤である。祖母がちかちかすると鬱陶しがるもの。おそらく、祖母の目の前に見えている文字は私たちのものよりも大きめになっているはずだ。母ももうすぐそうしようかな、と言っていたのだから、きっと。
そんなことを考えていたら、『calling』の緑色の文字が点滅した。母からだった。『Connect Hayate』と要求する文字が浮かんでいるのだから、きっと颯のおばさんも一緒なのだろう。颯の母と私の母は姉妹で仲良しだから。
要求通り颯のAirにつなげた後、視線をその文字の上に移すと思った通り母と亜美子おばさんの顔が映った。
「あ、みかるちゃん。おばあちゃんの様子どう?」
先に出たのは亜美子おばさんだった。
「うん、やっぱり青い空が見たいって。颯くんがモードⅩにしてくれたけど、違うって言ってる」
「なぁ、青い空ってあれだよね。歴史の教科書の近代に出て来るあの空。モードⅩってそれの再現なんだけど」
割り込み通話の颯の言い分は、祖母には申し訳ないが正しい。
「ごめんね、颯くん」
母が颯に苦笑いで謝った。苦笑いには意味がある。
先日はお月様がみたいのと、ずっと空を見上げていた祖母に颯はやはりお月様を見せてあげたのだ。モードOと言われるもので、夜空の再現とされている。
これも教科書にしか載っていないもので、詳しく見たければ、図書館か博物館に蔵書として存在する写真集を見なければならない。しかし、その時、祖母はそれに納得したのだ。ちかちかしている文字はお星さまだと言って。だから、今回も颯で解決すればいいのだけれど、と連れて来られたのだが、そうはいかなかった。
「みかる、ちょっとおばあちゃんに代わってもらえる?」
「うん、おばあちゃん、お母さんが話したいって」
人差し指で祖母のIDを選択し、祖母につなげる。
画面の中に祖母も映る。これは私でも嫌な感じがしてしまうのだから、祖母にとっては混乱なのだろう。こんな時、祖母は画面の私ではなく、本物の私を見つめて、母と話をする。
「お母さん、あのね」
「咲佳ちゃん、青い空がないのよ。咲佳ちゃんだって見たいわよね」
一呼吸入れて、母が祖母に話しかけた。母は祖母が母を見ていないことをとっくの昔から知っている。だから、私をここへ寄越すのだ。
「そうね、私も見たいわ」
画面の母は遠い目を空へと向けた。母も私も祖母からそれを詳しくきいたことがあった。どこまでも続く、青い空。快晴と呼ばれる雲一つない空を。それは吸い込まれてしまいそうなくらいに青いのだという。モードⅩなんかと違い、手を尽き伸ばしても届くことのない空間がどこまでも。人間では作ることのできないアオが頭上永遠と広がっている。
祖母は幼い頃、そんな空の下で生きていた。何度も何度も聞かされた。あの日、最後の空が埋められたの、と。
「青い空、綺麗でしょうね」
「ねぇ、咲佳ちゃん、青い空はどこへ行ったの?」
母の言葉に祖母は私に向かって尋ねる。私は青い空なんて知らない。
祖母の知る空は大きく、私たちの知る空は小さい。
百年前には当たり前に存在していて、見えなくなるなんて考えもしなかったもの。今や有害物質が立ち込めて、人体に悪影響しか与えなくなったもの。灰色の鉄板の天井に覆われてしまったもの。今や人類は巨大な空気清浄機に守られて生きるしかない。
「青い空はもうないのよ」
母は落ち着いて祖母を宥める。
「みかるちゃんや颯くんにも見せてあげたいのよ」
しかし、祖母は私に向かって懇願していた。
私も見れるものなら見たかったな。祖母がそれほどまでに懇願する空を。そんな思いを胸に秘め、祖母の手を握り締めた。
例えば、いつか。この天井が取っ払われて生きていける世界がやってくるのなら。
視線を向けた窓の外には、灰色の屋根がある。私たちが見ている空は偽りの空。
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