第四十八話
少し前もこんな風に暗い闇の中を、
前後の感覚がマヒするような空間の中を進んだ。
けれど、彼の中に現れた闇は以前よりもっと深い闇。
まるで光の届かない、真っ暗な海を闇雲に泳いでいる気分になる。
それはまだ彼の心が幼く、
何色にも染まりやすいせいでもあるからだろう。
未熟な龍の子は他者の影響を受けやすい。
その上で精神を支配され、魔力暴走を引き起こされるほどに侵食されてしまったのだ。
『ぁあ、お可哀想なウィル様。』
真っ暗な闇の中を、海砡はただひたすらに泳いだ。
どんなに小さいさな光も見逃さないように、細心の注意をはらいながら。
どれくらいの時間が経ったのだろうか、
海砡には見当もつかない。
けれど彼女の前にようやく小さな小さな光が見えた。
今にも消え入りそうな小さな光。
水の中に放り込まれて今にも消えそうな小さな火のよう。
『さぁ…ここからが問題ですわ。』
ウィルの精神であるこの小さな光、
例え見つけ出せたとしてもそこから精神を呼び起こさなくてはならない。
前回のように洗脳を解除するのとはわけが違う。
水に濡れた松明にまた火を灯せと言っているようなもの。
簡単なわけがない。
でも、やらなくては彼の身体は生きる事をやめてしまう。
「起きて下さい、ウィル様。」
眠っている赤子を起こすようにまずはゆっくりと声を掛ける。
だが当然のように反応は無い。
「黒騎様も、炎砡も、変態なロドリーも、
ウィル様が目覚めるのを待っておりますわ。」
「プラルに残った無能のランスだって、
貴方が死んでしまったら泣き喚くでしょう。」
ポツリとポツリと話す海砡、
どんなに反応が無くとも諦めない。
いや、諦めたくない。
「やっと主を見つけたあの子を、また独りにさせないであげてください。
これは、同じ思いをしたわたくしからのお願いですわ。」
ゆらりと揺らめく小さな光に海砡は話しかけ続けた。
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「つまり、君はフォードに視察に行きたいと。」
「はい。」
彼の話はこうだ。
つい先日、懇意にしている行商人と会った際にフォードで起こった事を聞いた。
地下水路で発見された化け物、愚策を強行した残虐なクイーン。
その噂の真相を突き止めたいとの事だ。
「まぁ、本音を言えば化け物の詳細を聞きに、
ついでに死骸でも見れたら…なんて思っただけなんですけどね?」
「それは私の前で言うのを常人なら避けると思うのだが?」
呆れた顔で肉の欠片を口に運ぶ。
咀嚼しながらこの男をじっと観察する。
へらへらと笑みを浮かべる男の思考は読める筈もない。
「まぁいい。許可しよう。
ルークには私から話をしておく。
だが、一つだけ私の頼み事を聞いてもらうのが条件だ。
それが飲めないのならば君の視察は無し。」
私は一口だけ水を飲み、彼の後ろ側の壁に貼られた国内地図を指さす。
「国の北東側にある小村を経由しなさい。
行きか、帰りか、それはどちらでも構わない。」
「それはずいぶん遠回りをさせますね。
フォードなら南東側より行けばすぐですが…北東側からとなると、
ファランディオを経由する道となりますが?」
「私の頼みはそこだ。
ファランディオを少し視察してきてほしい。
変わりが無ければ素通りでもかまわん。」
彼は少し思案したあと、「お受けいたします」と言い、
深々と頭を下げて退室した。
入れ替わりに入ってきたマルクが、
新しく入れてきた紅茶をカップに注いだ。
「お話しはお済でしょうか?」
「あぁ、だが一度ルークを私の元に呼んでほしい。」
「かしこまりました。
でしたら、本日の午後の予定を少し変更してお時間を取りましょう。」
その言葉に反応するように、彼の後ろ側に控えていた者が手帳を開く。
そして手帳に目を通した後、静かに部屋から出て行った。
マルクの私に言った言葉を聞いて彼の部下が動く。
上司のつぶやき一つ聞き逃さないように常に神経を鋭く尖らせているのだろう。
「私よりお前の方が玉座に向いているのでは?」
「ご冗談を。
私にそんな重役は務まりません。」
口の端に少しだけ笑みを浮かべながら、
静かに空いた食器を下げている。
手際が良く、音が最小限。
さり気ない仕草で紅茶を注ぎ、カップが空になる事が無い。
マルク以上の執事はこの世にいないだろうな。
そう思いながら私はちょうど良い熱さの紅茶に口をつけた。