第四十五話
ひやりと冷たい氷が紫翠の熱を奪う。
それに構わず手を当て、心の中で炎砡に語り掛ける。
『炎砡、開けなさい。』
その声に反応するかのように、氷の泉が少しずつ溶けだしていく。
泉の表面が完全に溶け、中からふわりと赤い石が眼の高さまで浮かぶ。
「ウィルは?」
ロドリーが泉の中に眼を凝らすと、ほんのり影が確認できるが浮かんでくる様子はない。
「二重封印…これは、海砡自身が鍵となっている。
でも、ここまでする必要があった原因を先に聞いた方が良さそうね。」
赤い石に火が灯り、それは次第に大きな炎となり中から赤茶の犬が姿を現した。
「炎砡…何があったのか話して。」
その声に応えるように、炎砡は目を開けた。
そして、語られる自分達が居ない間の出来事が明らかになった。
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紫翠、ロドリーの二人が小さく光る石に吸い込まれる様にして姿を消した。
本来、主人を失った精霊、聖獣は石の姿に戻る。
だが過去に一度ウィルの魔力を経由した経験のある二体は石の姿には戻らない。
「はて、知らせでは女とナイトが危険視されていたが…どうやら子供も厄介なようですね。」
石を持つ黒のフードを目深く被った男が口を開いて石を掲げる。
だが、石は大きくひび割れて手の中で崩れていく。
「ふむ…どうやら幻の石とは言っても所詮は魔石。
2人飛ばしたらもう限界ですか。まぁ、良いでしょう。」
男が片手を上げてウィルに向ける。
すると周辺の草木に隠れていたポーン兵が次々と姿を現す。
「残されたのは子供一人と精霊が三体、
同時に三体の精霊を呼び出せる魔術師は貴重ではありますが、
敵なのですから、殺しておかないといけませんよね。」
「貴様、二人をどこへやった?
返答次第では…その魂ごと燃やし尽してくれる。」
「返答なんて待つ必要ありませんわ。
今すぐ息の根を止めてしまえば良い。」
炎砡の身体は小さな赤茶の子犬。
されど身体に纏う炎は勢いを増す。
泉に浸かった金魚姿の海砡は、泉の水から小さな球体を浮かび上がらせる。
その二体の様子に、ウィルは顔を曇らせたまま何の言葉も発しない。
「ウィル様?」
不思議に感じたシルフィーが顔を覗き込む。
いつもは綺麗な深緑色の瞳に光は無く濁っている。
瞬時に事態を察したシルフィーは海砡に声をかけようとする。
だが次の瞬間には石の姿で地面に落ちてしまった。
それは海砡、炎砡も同様。
『あぁ、あぁぁぁ。』
石の姿から戻る事も出来ず、
シルフィーはただただウィルを見つめる事しか出来ない。
「おや?諦めたのですか?
賢明なご判断です。この状況を貴方一人で打開する事は到底無理ですからね。
ですがいくら命乞いをして頂いても私は貴方を生かしてあげる事が出来ないのですよ。
キングより直々に賜った命令ですのでね。」
ペラペラと話す男に全く反応を示さないウィル。
男も若干の違和感を感じ始めた頃、小さく口が開かれた。
「……やっ…の………。」
「はい?
声は大きくはっきりと発して頂かないと、聞こえないのですよ?」
「私の大事なあの子を、どこにやったの…?」
「あぁ、申し訳ありません。
それは私共も分からないんですよ。
とりあえず石の力で遠くに飛ばしただけですので。」
嫌な笑みを浮かべておどけた様に笑う男、
だが次第に笑顔が消え、焦りへと変わっていく。
パキパキっと音を立てながらウィルの両腕に緑色の鱗が生える。
鋭く尖る爪は人の物では無い事が明らか。
布の破ける音がしたと思えば、視界に入る細くて長い龍の尾。
ゆっくりと上げられた顔は龍の瞳を宿していた。
_これはまずい_
事態を把握したのは何も男だけではない。
周りにいたポーン兵も、石の姿をした海砡、炎砡、シルフィーも、
この状況が良くない事が直感的に伝わる。
だが、彼らと精霊たちの理解は若干異なる。
「あぁ、やっぱり人間は…この世界と共に滅ぶべき存在なのね。」
ウィルの姿が一瞬で消えたと思うと、
四方八方から聞こえる叫び声。
飛び交う血と肉片。
「こいつ、龍になれるなんて…聞いていない!」
男は惨殺されていく自身の部下達の姿をしり目に、
その場から逃げようとする。
「あらあら、お仲間を見捨てるなんて、
やっぱり人間は愚かで浅ましく、そして…欲深い。」
たった一歩。
それだけで男の前に一瞬で移動するウィル。
ヒヤリと冷たい鱗、鋭い爪が首に食い込む。
自身の背丈よりずっと低いはずの子供に、
男はなす術もなく首を締め付けられ続ける。
「人間は強さを求めて他者を蹂躙し、命を奪う。
なのに己の生にしがみつき、
今もどうにか生きようと足掻き続ける。
なんて醜穢な生き物なのかしら。」
まるで優雅に景色を眺める人のように、
涼しげな顔で男の首を握り潰した。
「様子がおかしいと思って来てみれば、
なんともおかしな者がいたものだ。
お前のその姿こそ、醜穢そのものではないか。」
ゆっくりと、空へと視線を上げれば、
そこには龍の翼を生やした男が飛んでいた。
「まだ儀を終えて間もないと見える。
発展途上の身体に、そんな無茶な龍人化など、
己の身体が惜しくは無いのか?」
「混じり物の命なんて、私からしてみればどうでも良いのです。」
子供から発せられる言葉に違和感を感じた龍の男は、
ぽつりと「洗脳か…。」と呟いた。
男はゆっくりと地へ足を降ろす。
血でぬかるんだ地面は、男の靴を赤黒く汚す。
涼し気な顔を歪める事無く、男は龍の翼で己の姿を覆い隠し、
次に広げた時には灰色の龍が顔を表した。
「この聖なる山に、
そなたのような野蛮な輩は必要ない。
悪いが、消えて頂こう。」
ウィルの身体の何倍もの大きさの龍。
それでも彼は臆する様子などみじんもない。
それから、二体の龍人は何時間にも及ぶ戦いを繰り広げた。
洗脳者はウィルの本来制御出来る魔力量を遥かに超えて使用しており、
耐えきれなかった身体は魔力暴走を起こし、理性を失っていた。
まるで荒れ狂う獣のような戦い方、野獣のような叫び声。
いつの間にか洗脳も解かれ、ただ暴走する魔力に身を任せて戦う。
理性のない人間は、力を無意識に制御する事も無い。
ようやく決着がついたとき、
戦いによって大地は抉れ、建物を壊し、
木々を燃やし、沢山の民を死に追いやった。
美しかったファランディオは見る影もない。
そして横たわる灰色の龍の姿。
されど、戦いに勝ったウィルの精神は戻る事はない。
「がぁぁぁぁああぁぁ!!!」
自身の力をぶつける相手を失い、
ウィルは雄たけびを上げてその場を離れようとする。
その時、沈黙を保っていた聖獣が動き出した。
泉の中から複数の水の触手。
それはウィルの身体を縛り上げ、泉の中へと引きずり込む。
『黒騎様の居ない今、唯一動けるのはわたくしだけ。
それでもこの泉の水を利用してウィル様を封じる事しか今のわたくしには出来ない。
ごめんなさいですわシルフィー。せめて、主と共に。』
ウィルの身体を泉の奥深くへ引きずると同時に、
シルフィーと炎砡を細い触手で拾い上げ、泉の中へと引き込んだ。
そして、まずは泉の表面を氷化させる。
そうすればもう誰もウィルにも、シルフィーにも、炎砡にも、接触する事は出来ない。
次に己の身体ごとウィルとシルフィーを氷で覆っていく。
そうして、美しかったファランディオは原型を失い、
生者など存在しない死の山へと姿を変えた。
そして戦いから約5日経った所で二人が戻ってきた。