縄
薄暗い洞窟の中で、一人の男が呻き声を上げている。空腹と喉の渇きが絶えず男を襲う。
一体いつからここにいるのか、何日ここにいるのか、男には全くわからない。気がつけばこの場所にいたとしか言いようがないのだ。痩せこけて虚ろな目ではあったが、男は十メートル先の水辺をはっきりと捉えていた。が、どうしようもできなかった。
うぅ、と呻き声を上げる。せめて水を飲めなくても、とりあえず今は眠りにつきたいと思った。しかしそれすらも叶わない。
男を阻害するのは、縄である。
なぜ自分が縄で縛られているのか、そんなことを男が考える意味はなかった。身動き一つ取れずに、眠ろうとしても心地が悪く、男の眠りを妨げていた。
全く状況が理解出来ない男にも一つわかっていることがあった。
洞窟の壁一面に穴が空いていることである。
何の変哲も無い、ただの穴。
男が呻き声を上げてもその穴から音が抜け、響くことはない。そして穴からは、時折冷たい風が入ってくる。
男には何となく穴の正体がわかっている気がしていた。どのくらい穴があるか数えてみたりしたが、キリがなくて途中でやめた。
不意に、水辺が光を放った。その中から出てきたのは、神々しいほどの美貌を持った女性であった。女性は水の中から出てきたというのに全く濡れていない。
両手いっぱいに水をすくって、女性は男の元へと行った。男の口に水が入る。体中に染み渡る感覚に、男は身震いをした。
そして、女性は天女のように微笑みながらどこから出したかのか、オニギリを一口大に割って、男の口に含ませた。ほんのりとした塩味、米の甘み、そして唾液が口に広がった。ゆっくりと、十分に咀嚼し、胃の中に流し込む。
人心地ついた男は、不思議なことがあるものだ、神様が憐れんで御使を寄越してくださったと感謝した。そして、縄も解いてくださいと言った。
しかし女性は微笑むだけで動こうとしない。
なぜか解いてくれないのだと、話すために開こうとした男の口が歪む。急に縄がキツくなり全身が締め付けられた。苦しさのため、身をよじってみたりした。やがてどうにも耐えられなくなった男はぐっと目をつぶった。少しマシに思え、そのまま我慢を続けていると、苦しさがなくなった。
そっと目を開けると、そこに女性はいない。代わりにあったものは、喉の渇きと空腹の苦しさである。
夢であった。
男は落胆したものの、睡眠を取れたことで思考が澄んでいることを感じていた。澄んだ頭に感じたものは、寝る前より起きてからの縄が緩んでいることであった。
これならと希望を持って、芋虫のように蠢いた。顔や身体が擦り傷だらけになっても気にせず、一心不乱に動いた。次第に縄は解け、乱れた呼吸のまま、何とか立ち上がる。
ゆっくりとした足取りで、男は水辺に近づく。顔中にやり遂げた笑みを浮かべている。もう少し、もう少しで水を飲めると、歩みを進めた。
後数メートルというところで、けたたましい声が洞窟内に響き渡った。笑い声のようにも、驚かしいているようにも聞こえる。
男は耳をふさぎながら、周りを見回した。凍りつく。洞窟内のおびただしい数の穴という穴から目が覗いていた。血走った狂気の目。
男はぶるぶると震えた。音が耳をつんざき、視線が全身を突き刺す。
耳を強くふさぎ、目を固くつぶって、膝をつき、亀のように丸くなった。その姿勢になって、縛られていたことを思い出した。ああ、そうだったのかと男は気づく。
怯えながら立ち上がり、媚びたような笑みを作りながら縄の元まで戻った。そして自分の身体を縛った。できるだけキツく。顔にもぐるぐる縄を巻いた。
しばらくして、不気味な声は消えた。男には見ることができなかったが、嫌な視線の感じも消えた。
洞窟内には、冷たい風が吹くのみである。