繭墨の言葉
2年1組の教室の前に立つと、僕は深呼吸を一つしてから、戸を開けた。
教室内はわずかに赤橙色。
そして、窓の外には月が見える。
差し込む月明りが、窓辺の人影を浮かび上がらせる。
人影は頬杖をついて、窓の外を見下ろしている。
遠いオクラホマミキサーの音色に歩調を合わせて、僕は人影に近づいていく。
「やっぱりここにいたね」
「どうして気づいたのですか?」
人影はこちらを向かずに尋ねてくる。
フォークダンスに誘われるのが嫌だからという理由で、生徒会長の職務を替え玉の部下に丸投げ。あまつさえ自分はそれを高みの見物と決め込んで悪びれもしない――
「繭墨はそういうやつだよ」
答えると、少し不機嫌になったような気配。
一瞬こちらを振り返ったとき、暗がりの中でメガネだけが鈍く光った。
「理解者ぶらないでください。……それで、わたしになんの用ですか?」
「フォークダンスのお誘いに」
「ドラマとかで、公衆の面前で告白をするシーンがありますよね。わたし、ああいうのが大嫌いなんです。それまでの展開がどれだけ好ましくても、一発で消し飛んで評価が反転してしまうくらいに」
繭墨は外を向いたまま言う。
「同感。あれって愛の告白じゃなくて、単なる脅迫だよね。相手のことを想ってるのかもしれないけど、相手の気持ちを考えていない」
「その配慮は、昨日の阿山君の中には存在してなかったのですか?」
昨日の僕の〝ほとんど告白〟をすげなく断っておきながら、繭墨の質問は相変わらず容赦がない。
「そう。だからつまり、日々成長してるってこと」
「物は言いようですね」
「というわけで踊ろう。ここなら誰も見ていないから、目立つこともないよ」
「スペースがありません」
即答する繭墨。それに、と続ける。
「昨日は踊るのが嫌なわけではないと答えましたが、あれは嘘です。踊りは苦手ですし、嫌いです」
「あそう……」
僕と踊るのが、ではなく、単純に踊ることが嫌いだというニュアンスだったのが救いだ。
僕は一旦、誘うことを諦めて繭墨の前の席に座った。
窓辺に並んで外を見下ろす。
この誘いを断られても全く構わない。
一緒にフォークダンスを、なんて口実に過ぎないのだから。
「じゃあせめて、ダンスの代わりに手を繋いでもいい?」
繭墨が頬杖を外して、まじまじとこちらを見た。
「……冗談、を言っているわけでは、なさそうですね」
「ないよ」
声音こそ平静を装っているが、僕はもうすでに羞恥心の極致だった。
教室の薄暗さは顔色の変化を隠してくれる。
そのおかげで、らしくない積極性を発揮できているのだ。
繭墨は珍しく、困惑している様子だった。
やがて、すぅっ、と。
白い腕が、薄暗い教室の背景に浮かび上がるように、差し出される。
意外な素直さに少し驚く。
僕は数秒ほど、その腕の白さと細さに見とれた。
「早くしてください、腕が疲れます」
どれだけ筋力がないんだ。
苦笑しつつ、僕は差し出された手をとった。
暖かくも冷たくもない、人肌の温度だった。
繭墨はこちらを見ていない。
再び頬杖をついて、窓の外に視線を向けている。
僕は、その横顔を見つめながら口を開く。
「僕だって、フォークダンスが好きなわけじゃない。文化祭自体、大して乗り気でもないし。そんなものを嬉しがる連中を、正直言って理解できずにいたよ」
視線をちらりと眼下に向ける。
軽やかにステップを踏んでいるペアも、たどたどしくリズムが外れているペアも、誰も彼も、楽しそうに笑っている。もっとも、それらをうらやましそうに眺めている、おひとり様も数多いけれど。
「でも、繭墨と一緒だとそういう騒ぎも悪くないというか、誘ったらどんな反応をするんだろうって、考えだすと止まらなくなって。柄にもないことをしてるって思うけど、それはつまり――」
繭墨がわずかに身じろぎする。
手を離そうとしている前兆を感じて、僕は握る手に力を込めた。
決して強く握ったわけじゃない。
もう少し待ってほしい、という言外のメッセージ。
幸い、繭墨の手はとどまってくれた。
「僕は繭墨が好きだよ」
「――わたしは」
繭墨は窓の外を見下ろしながら言う。まだこちらを向いてはくれない。
「わたしは、自分に自信がありません」
生徒会長・繭墨乙姫。
頭脳明晰、容姿端麗、ミスコン1位の、誰もが認める高嶺の花。
その堂々とした振る舞いは自信に満ちている。
そんな彼女が、自分に自信がないという。
それは多くの生徒には理解しがたい言葉だろう。
だけど僕にはよくわかる。
自信というのは結果がもたらすものだ。
恋愛という戦場において、繭墨は勝利したことがない。
直路に告白をするも実らなかった。
それならばと時間を置いて密かに想ってみれば、直路には新たな彼女ができていた。
2連敗だ。
そんな事情を知っている僕は、繭墨の言いたいことがよく理解できた。
だけど続く言葉には疑問符がつく。
「自信がないから、策を弄したりもします」
「え、そう?」
直路に対してはド直球もいいところだったじゃないか。
まったくの無策の恋路。猪突猛進の正面突破。そして玉砕した。
「文化祭の最終日のキャンプファイヤーに、フォークダンス。そういった陳腐なイベントが、あるいはきっかけになるかもしれないと考えました。だけど、急にそんなものを追加したら露骨ではないかとも思ったんです。なのでほかにも、目を引くような提案をしました」
「ほかにって……、野外ステージの増設と、学校への泊まり込みの許可のこと?
「はい」
「え、でもあれって、僕らの同棲疑惑のときに、別の大きな話題を持ち出して、他の人の目を逸らそうっていう……、そのための企てだったんじゃないの」
夏休みの終盤のこと。
僕と繭墨の仲がネットの掲示板――いわゆる学校の裏サイトで噂されたことがあった。その噂をかき消すために、文化祭のイベントを増やして、生徒の耳目をそちらへ誘導しようとした。
繭墨は目的をそう語ったし、僕もそのつもりで協力した。
だけど繭墨の口ぶりは、まるで、このキャンプファイヤーが本命で、あとは隠れ蓑、目くらましに過ぎないと言っているように聞こえる。
だとしたら、それは、なんのために?
前年度よりも明らかに負担の増えた生徒会を回すために、繭墨は連日、ずいぶんと無理をしていた。
1度、熱を出して病欠するくらいに。
この手の行事を忌み嫌う繭墨が、たった1つのイベントのためにそこまで気を遣い、手を回す理由が思いつかなかった。
そこまでしてキャンプファイヤーをやりたかったとは思えない。
しかもフォークダンスには一切興味がなかったみたいだし。
繭墨はただ、グラウンドを眺めているだけだ。
燃え盛る炎とその周りで輪になって踊っている生徒たちを、高みから見下ろしている。
繭墨の言葉の真意がわからないこと。
それは僕にとってもはや、暗闇に取り残される恐怖に近い。
戸惑いが沈黙を生み――それを切り裂く鋭利な問いかけが向けられた。
「阿山君は、わたしのどんなところが好きなんですか?」
「……そういうこと、聞いちゃう?」
「はい、気になります」
「言いたくないって言ったら?」
「この手を離すだけです」
「わかったよ、言うよ」
僕は白状した。
「……何を考えているのかわからない、得体の知れないところと。
危なっかしいを超越した、危うさを感じるところと。
一緒にいると常に緊張を強いられるところ」
いつか百代に打ち明けたのと同じ言葉だが、変化したところもある。
焦がれる感情は、今の方がずっと強くなっているということだ。
「本気で言っているみたいですね……」
繭墨は怪訝そうに目を細めた。
「まあ、いいです。お膳立てに乗ってくれたのだから結果オーライとしておきましょう」
その言葉の意味を、僕はすぐには理解できない。
でも何か大切なことのような気がした。
だから踏み込んで考える。
お膳立てというのは、このキャンプファイヤーと、そして、フォークダンスによって生じた校内の空白だろう。つまり現状そのもの。
乗ってくれたというのは、誰が?
言うまでもなく、この場にやってきた僕のことだ。
――繭墨は、僕を待ってくれていたのか?
至った結論を、素直には受け入れられない。
そんな都合のいい想像なんて、と心の中の冷めた僕が言う。
そもそも、繭墨がイベントを増やした目的は、噂の火消しだったはずだ。
そのために、校長や担任に反発してまで、要求を押し通したのだから。
しかし――
少々強引で、大げさとも思えたそれが、本意を隠すためのフェイクだったとしたら。
噂から全校生徒の目を逸らさせるためにと、文化祭のイベントを増やしておきながら。
その実、本来の目的はキャンプファイヤーだけで。
それすら、この状況のためのお膳立てに過ぎなかったとしたら。
つまり、この文化祭自体が、繭墨からのメッセージということになる。
偏屈極まる女の子から、僕だけに向けられた、余りにも回りくどい固有言語。
繭墨の言葉。
でもちょっと待て、という反論。
都合のいい想像でぬか喜びしたくない、消極的な僕が抵抗する。
それならどうして昨日の誘いを、あんな風に淡泊に断ったのか。
その疑問――あるいは最後の砦――に応じるように、繭墨が口を開く。
「わたしは、自分に自信がありません」
つないでいた手を、繭墨の方から握りなおしてくる。
「だから、一度くらい好意を告げられても、それを素直に鵜呑みにできないんです」
窓の外を向いたまま、視線を交わしてはくれない。
だけど、その感触だけで、気持ちがつながった気がした。
ささやかなレスポンスだけど、それは繭墨が僕に向けた、最大級の感情表現だった。
――まあ、あくまでも肯定的な意味合いでのものだ。
攻撃的なやつなら、もっとキツイのを山ほど食らっている。
僕は席を立った。
つないだ手を離す。
僕の手を追うように繭墨の手が伸びて、寂しそうに宙を泳いだ。
ほんの一瞬のことだ。
繭墨はすぐにその手を引っ込める。
そんなささやかな仕草を可愛いと思う。
「やっぱり踊ろう」
「机が邪魔です」
僕の3度目の提案に、教室を見回しながら繭墨が即答する。
「どかせばいい。いつもそうしてきたじゃないか」
「私が途方もない我がまま娘であるかのような物言いですね」
「え、違うの?」
「我がままというのは無責任なものです。わたしは自分の意を通すとき、その行動にちゃんと責任を持っていましたから」
知らない人が聞いたら引いてしまいそうな、自負心あふれる発言である。
僕はそれを穏当に翻訳して応じた。
「つまり後で片づければ問題ないわけだ」
さっさと周囲の机をどかし始める。繭墨もやがて、しぶしぶといった様子で立ち上がって協力してくれた。仕事量は僕の4分の1くらいだ。
それがひと段落すると、繭墨は残しておいた窓際の椅子にまた腰を下ろす。
僕はそれをとがめない。
必要な手順だ。
近づいて、手を差し出す。
「それじゃあ、お手をどうぞ、生徒会長」
「エスコートの経験は?」
「残念ながら」
「ダンスの経験は?」
「小学校の運動会で少々」
「仕方ないですね。わたしがリードしても?」
「まあ、精一杯ついていくけど……」
繭墨は僕の手を取って、こちらを見上げてくる。
月明りの下、彼女はかすかに笑った。
「ええ、信じていますよ」
というわけでこれにて完結です。
非常に地味な内容で、タイトルもぱっと見なんのこっちゃという感じ、ランキングにもほとんど乗らないような話でしたが、当初考えていたところ(作中時間で1年間)まで書ききれたので、作者的には自己満足に浸っているところです。
『イエスタデイをうたって』(冬目景さんの漫画作品です)のまどろっこしい感じや、
『back number』(日本のロックバンドです)の女々しい歌詞が好きなもので、この物語もどことなく、そんな雰囲気があるような無いような……。
読んでくださった方、ブックマークされている方、評価を下さった方、感想を送っていただいた方、お付き合いいただきありがとうございます。
奇跡も魔法もない、劇的でも悲劇的でもない、悪役令嬢も婚約破棄もない(というか作者自身がよくわかっていない)、まったくもって日常の範疇の物語ですが、皆様が費やした時間の分、楽しめていただけたのなら幸いです。




