直路の言葉
体育館を後にした僕は、校内をうろついていた。
まだ好きなのなら簡単に諦めるな、という話なのだとは思う。
諦めるか否かということなら、まだ引き下がるつもりはない。
千都世さんのおかげで、そういう意味での決心はついた。
しかし、フラれた翌日にまた当たりに行くとなると話は別だ。
さすがに少し日を置いた方がいいんじゃないか。
もともとわずかだった自信が粉々になっている現状、繭墨の目の前に立っても、まともに話せるかどうか怪しいところだ。
僕はぼっちでうろついているのではなく、職務としての巡回中なのだというアピールのために、実行委員の腕章をつけたままだ。しかし催し物のことなどほとんど頭に入ってこない。
これからどうするのかを、ずっと考えていた。
それはほとんど、その場をぐるぐる回るだけの答えの出ない考えごとだった。
自分の尻尾を追いかける犬のように。
そしていつの間にか、中庭ではなく運動部のグラウンドの方へ出てきていた。
もっとも人を集めているのは、巨大な横断幕の下の、野球部の出し物。
〝体感せよ! 超高校級ピッチングマシーン〟である。
エースの肩を酷使する、あまり利口とは言えないイベントだった。
グラウンドへ降りてみたものの、イベント自体はすでに終了していた。
部員たちが後始末を行っている。
道具を片付けたり、グラウンドにトンボをかけたり。
その脇の1塁側ファールグラウンドに十名弱の女子が群がっていた。
中心ではエースの直路がサインに応じている。
女子たちは全員が私服で、間違いなく伯鳴の生徒ではなかった。ひと夏、甲子園に出ただけのピッチャーに対して積極的なことだ。そんなサインにどれだけの価値があるのやら。
将来性を見込んでのことなのだろうか。やがてプロになるかもしれない人物のサインを、ちょっとした手間で入手できると考えれば、投資としては悪くないのかもしれない。あるいは野球にはあまり興味がなくて、進藤直路という有名人あるいは将来有望な男性とお近づきになりたいだけという可能性もある。
やがて野球女子たちへの対処がひと段落すると、僕は疲れ切っている直路に近づいて声をかけた。
「ナイスピッチング」
「うるせえ。……100球投げるよりも、ほんの4・5分のサイン攻めの方が疲れたぞ、マジで」
「嫌でも慣れないといけないよ。プロのスポーツ選手はただ憧れられるだけの存在じゃない。ファンとの距離を近くしてサービス精神旺盛なところを見せないと、この娯楽多様化社会において生き残っていけないからね」
「まだプロじゃねえから。で、どうした? 実行委員の見回りか? ウチは大したトラブルもなく終わったと思うが、詳細はキャプテンに聞いてくれ」
直路はほかの部員たちがいる方に視線を向けるが、僕はそちらを一瞥しただけで、また直路に向き直る。
「肩は大丈夫?」
「ん、ああ。コントロール重視だったし、全力投球は一切なし。ちょっと力を入れて投げたのも、各バッター1球ずつサービスしただけだからな。投球練習くらいしか消耗してねえよ」
「もう1打席やれるくらいの余力は?」
その問いに直路は、4番がバントした、みたいな軽い驚きの顔になる。
そして獰猛な笑みを浮かべて、
「いいぜ、やろうか」
と応じるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
直路は未だに、プレイヤーとしての僕にそこまでの関心を持っていてくれたのだろうか。それとも、単なる好奇心か。
いや、どれも違う。たぶんこれはフラストレーションだろう。中途半端に力を抜いたピッチングは、確かに体力の消耗は少なかったかもしれない。しかし、精神的な満足感からは程遠いものだったはず。直路はその憤りを解消するうってつけの相手として、飛んで火に入る僕の提案を受け入れたのだ。
その想像の正誤はともかく、昔からのコネのおかげで、僕は希望者殺到の人気イベントを、特例で体験することが叶ったわけだ。
野球部のキャプテンは困惑気味だったが、当の直路はすでにマウンドに立っており、ノリのいい部員たちも守備に散らばっている。ギャラリーがほとんどいないことを確認して、仕方なく球審についてくれた。悪いね、と内心で謝罪。
1球目。
直路は大きく腕を上げるワインドアップの構え。
最も球威が出るが、ランナーの盗塁に対して無警戒になる、直路のピッチングスタイルを象徴するようなフォーム。
大きな身体を弓のようにしならせて繰り出される速球に、僕はバットを短く持つことで対処しようとした。長剣よりも短剣の方が小回りが利く道理だ。ボールに当てやすい。
結果は空振り。
完全に振り遅れていたし、バットとボールの距離も遠い、見当違いのスイング。
投げたと思ったらもうボールがミットに収まる音が聞こえていた。
直路は無言でキャッチャーからの返球を受け取る。
その表情に変化はない。
こちらは内心で舌を巻いていた。
もちろん、甲子園出場投手の球を侮るなんてことはない。
それでも直路の球は、僕が体感したことのあるどんなストレートよりも威力があった。昔バッティングセンターで試した150㎞/hのマシンなんて比較にならないくらいに。
2球目も同様のストレート。
僕のスイングはまたしても見当違いな位置を通り過ぎる。ただ、タイミングは初球よりも合っていたはずだ。ストレートの軌道の目測と実際とのズレを、頭の中で修正する。
3球目もストレート。
バットを持つ手に、わずかにボールがかすった感触が伝わる。
振り返るとキャッチャーはボールを地面に落としていた。
ファウルチップ。
この勝負は『1打席』と確認済みだ。イベントの5球勝負とは違う。
こちらが粘る限り、いくらでも続けられる。
僕はその手ごたえを得た。
部員たちの視線が、好奇から興味に変質する感覚があった。
4球目と5球目もストレート。
ただし、はっきりボールとわかるくらいストライクゾーンを外れていた。
2ボール2ストライクの並行カウント。
そして6球目。
これまで同様のストレートと見て、スイングの軌道とタイミングを合わせる。
頭の中では一致していた。
しかし、バットは空を切る。
ボールが消えたように見えた。
手応えのない空振りに僕は身体のバランスを崩して倒れ込む。
倒れ込みながら後ろを見た。
キャッチャーは、ボールを捕球できなかったものの、身体に当てて止めていた。後ろには逸らしていない。
そのまま反射的な行動だろう、拾ったボールを1塁に送球。
1塁手が捕球した時点でアウトが確定した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
グラウンドに横たわった状態で空を見上げる。
東の茜色と、西の藍色の、奇跡的なグラデーション。
「狡いと思うか?」
マウンドから下りてきた直路が言う。
「最後の、スライダー?」
「ああ」
「……やられた。変な先入観を持ってた僕の負けだよ」
直路は昔と変わらず、ストレート一本槍という思い込み。
素人の僕ごときに、直路が変化球を使うとは思わなかった。
しかも、決め球として、最も効果的なポイントでだ。
狡いとは思わないが、大人げないとは思う。
それくらいの実力差が、僕たちの間にはある。
それでも――
直路が手を差し出してきたので、僕はそれはつかんだ。
力強い鍛錬の成果に、引っ張り起こされる。
「真剣勝負だったんだろ、これ」
「うん」
だから実力差なんて関係ない。
そういうものをひっくるめての勝負だったし、真剣というのは持っている手をすべて使うことだ。馬鹿正直に真正面から突っかかっていくことじゃない。
つまり、僕が見誤っただけ。
直路は僕よりもよほど真剣に、勝負に応じてくれていたのだ。
「ありがとう」
「おう。……ところで、なんでオレら、こんなことしてたんだ?」
勝負の熱が冷めて我に返ったかのように、直路はそんなことを聞いてくる。
僕は即答できなかった。
最初は突発的な感情だったと思う。
繭墨に振られて自信を失っていた僕は、直路に勝利することで、失った自信を取り戻そうとした。たぶん、自己分析するとそういうことなのだろう。
「実はちょっと、繭墨に告白しようと思ってて」
「……おう」
「だから、その景気づけだよ」
僕はそう答えた。
すでに一度、振られたことは伏せておく。
「っても、1球もマトモに打ててないんじゃ、ちょっと不景気じゃねえか?」
直路は痛いところを突いてくる。
「まあ……」
「んじゃ、もうちょい続けてやってもいいぜ」
「え」
「昨日から接待投球ばっかりだったせいか、不完全燃焼なんだよな。キャンプファイヤーまでまだ時間あるだろ? お前の景気づけに付き合ってやるよ」
そのあと、数十球。
ヒット性の当たりが出るまで勝負は続いた。
景気づけなのかストレス発散なのかわかりゃしない。
だけど、1球1球すべてが雄弁な、直路の言葉だった。
1年次2学期以来の『野球』タグに恥じない野球回でした。
本編では省略したどうでもいいデータについて。
阿山鏡一朗 右投げ右打ち
進藤直路 右投げ右打ち
スライダーについて
右打席から見て左側、外側へ逸れていくような軌道を描く変化球。
変化球の中では比較的、球速が速く、ストレートと見分けがつきにくい。
初見だとバッターの目にはほとんど消えたように見える。
直路の持ち球について
スライダー以外にも、チェンジアップ(タイミングを外す変化球)、カーブ(外側へ大きく曲がるゆっくり目の変化球)を実用レベルで会得している。ストレートに関しても、コントロール度外視でもっと球威のある球を投げることは可能。
鏡一朗のバッティングについて
バッティングセンターのマシン相手なら150km/hでもワンコインで目が慣れて、ある程度はまともに打ち返せる程度の能力。ただし単調なパターンに限る。




