友達として
文化祭の朝。
僕は2年1組の教室で目を覚ました。
床面近くの空気はひんやりとしていて、その冷たさは夏がもう終わっていることを実感させる。
教室内で眠っている男子は20名弱といったところ。女子の寝床は隣の2年2組である。男女17歳にして寝床を同じゅうせず、だ。
腹筋に力を入れて上半身を起こすと、同じタイミングで、少し離れた位置でも誰かが起き上がった。肩幅が広く、服の上からでも明らかに体格の良さがわかる。もちろん太っているという意味ではない。
「おはようミスター1位」と僕は声をかける。
「よう、15位タイ」という声が返ってくる。
ノロノロと起き上がる僕を尻目に、直路はシャキシャキとした動きで立ち上がると、身支度をして外へ出ていった。野球部の朝練へ行くらしい。学校への泊まり込みに参加したのも、クラスの出し物を手伝うのではなく、朝練へ出るのが楽でいいから、という理由だった。このところ持てはやされ気味のくせに、本人は全くストイックでうらやましいことだ。
これは断じて嫌味ではない。絶対的な自信のある〝何か〟を持っている人間がうらやましくてたまらない。〝何か〟のために必死になれる人間に憧れてしまう。
……益体のないことを考えてしまうのは、きっと腹が減っているからに違いない。昨晩の就寝時間だが、夜10時というのはかなり早い。間食もほとんど取らなかったので、いつもの朝よりも空腹感が強かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ジャージから制服に着替えて、近場のコンビニへ歩いていく途中の坂道で、登校してくる百代を見かけた。
百代は昨日、確か夜の9時くらいに下校していた。深夜徘徊をとがめられるギリギリの時間帯だが、風呂に入らないと寝られないと言い張り、教師たちの監視のスキを縫って帰ってしまったのだ。
「あっ、おはよ、キョウ君!」
百代は僕に気付くと、手を振って駆け寄ってきた。
「おはよう百代、元気いいね」
合流すると、百代はそのまま僕について同じ方向へ進む。つまり今来た道を逆行している。気づいたところで待ってりゃいいのに、なんて野暮なことは言わない。
「でしょ? いよいよ本番だもん、気合が入りまくっちゃって眠れなかったし」
「ああ、道理で……」
「道理でって?」
「百代って朝が弱いんじゃなかったっけ」
だから朝にシャキッとしているのなら、寝不足を超えて寝ていないという可能性がある。
「なんで知ってるの? あたしたちって朝チュンしたっけ?」
「どこでそんな言葉を……。確か繭墨がそう言ってた気がするし、あと、ウチの実家に来たとき、寝起きの髪がすごいことになってたのはまだ記憶に新しいから」
「うわー、それは忘れてぇ」
と言いながら百代は首を振る。
「セリフとかは忘れてない?」
「それは大丈夫」と百代は断言する。「キョウ君は買い出し?」
「朝食をね。早めに行かないと、たぶん朝食系の商品は根こそぎになるから」
「ふぅん……」
それからしばらくの間、百代は黙り込んだ。
タイミングを計るような沈黙が続く。
コンビニを出て再び合流したところで、百代はようやく口を開いた。
「今日は実行委員の仕事、詰まってるの?」
「午後はみっちりって感じかな」
「そっかぁ、劇は見に来れないね」
2年1組の演劇『近未来SF巨編・ムーンプリンセスKAGUYA-HIME』は午後の上演となっている。
しかしタイミング悪く、その時間帯、僕はちょうど屋外全般に対応する遊撃部隊に配置されていた。格好良さげな肩書だが、要は困ったことがあったら即、呼び出されて便利に使われる立場である。
「午前中は?」
百代は短く聞いてくる。
その次に来るであろう言葉を予想しつつも、僕は正直に答えた。
「多少、自由になる時間もあるけど」
「じゃあその時間だけでいいから、一緒に回らない? 回ろ? 回るべきよ」
言葉も距離もグイグイ来る百代に気圧されて即答できずにいたが、
「……友達として、ね?」
上目遣いにそのセリフを捻じ込まれると、応じざるを得ない。
こういう心理的劣勢は、振った弱み、とでも言うのだろうか。
あと数センチで胸が当たりそうだった。
「わかったよ」
「男に二言は?」
「僕はほら、割と二言する男だから」
「そーだよねぇ、あたし的にも撤回してほしい前言があるし」
二言するとは言ったものの、百代のあまりの押しの強さに二の句が継げない。こちらが戸惑っているうちに、百代はその場でくるりと身をひるがえし、僕を置いて歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
生徒たちの荷物や出し物の道具類で混沌としている教室の中で、形ばかりのHRが終了すると、生徒会からの放送があった。
会長補佐の近森の、ゆるふわな注意事項。
副会長の遠藤の、若干たどたどしい開催あいさつ。
そして、伯鳴高校文化祭の1日目が幕を開けた。
僕は先に教室を出て、廊下で百代を待っていた。
外で待ち合わせしている感を出したい、という理由からだ。
窓の外を眺める。
校庭には屋台が立ち並び、カラフルな看板や珍妙なコスプレをした生徒たちがそれを彩っている。雰囲気的には、まだそれほど盛り上がっていない。本番は2日目という意識が強いからだろう。
平日ということもあって、いきなり来場者が殺到ということもない。ただ、特設ステージの前列にはやや人だかりができ始めていた。誰かの伝手で、インディーズでそこそこ名の売れているバンドを引っ張ってきたのだとか。
そんなレベルの高いバンドを先頭に持ってきて、後続の素人バンドがやりづらくならないのだろうか、などと心配していると、横合いから声をかけられた。
「あ、あの、阿山先輩」
最初は僕が呼ばれているのだと気づかなくて、しばらくスルーしてしまった。
廊下のざわめきにかき消されそうなか細い声だったからだ。
声の主は生徒会の庶務の女子生徒だった。
「ん、ああ、どうしたの。何か問題でも起こった?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
庶務の子は視線をさまよわせ、両手の指を絡ませたりと落ち着きがない。
「あのっ、あ、あたしと――」
その言葉は教室から出てきた百代の威勢のいい声に遮られた。
「お待たせぇ、キョウ君! さあ行きましょ」
「――ひぅ」と庶務の子は縮こまってしまう。
「……ってあれ? キョウ君、こちらは?」
「生徒会で庶務をやってる子」簡単に紹介してから、庶務の子に向けて尋ねる。「何か言いかけてたけど、どうしたの?」
「いっ、いえ、なんでもないです。失礼しました、どうぞごゆっくり……」
庶務の子は逃げるように去って行ってしまった。
僕と百代は顔を見合わせる。
「あたし、もしかして悪いことしちゃった?」
「間が悪かったのは確かだろうけど……」
「でもキョウ君、午前はあたしと回るって言ったよね」
「あの子と約束とかはしてないから。ついさっき声かけられただけで」
「ふぅん」
と言う百代の表情は、不機嫌とは違う、面白がるようなものだ。
「あーゆー子がタイプだったりするの?」
「僕の周りにはいないタイプではあるけど……」
繭墨にしろ百代にしろ、あと千都世さんにしても、基本的に強引だったり押しが強かったりで、僕はそれに振り回されてばかりの記憶しかない。こちらに女の子を振り回すような甲斐性がないので、相手をリードする手間がなくていいとは思うが。
「あの子、キョウ君を誘いに来てたんだよね」
「……たぶん」
庶務の子は、作業は早いがあまり積極的なタイプではない。さっきも慣れない上級生の教室の前で、なけなしの勇気を振り絞り、頬を染めて言葉を紡いでいた。百代が出てきた途端、あっさりと退散してしまったのだけれど。
「あの子が選ばれし3人の中の一人なんだよね」
「なんの話」
「誰がキョウ君に投票したのかっていう話に決まってるじゃん」
「ああ……」
この場でそれを持ち出されるとは思わなかった。
「ちなみにあたしも1票入れてるから」
「そりゃどうも」
「つまんない返事」
「僕はつまらない男だよ」
「あ、わかった。あたしの1票なんてお見通しだったってことでしょ」
「そんな上から目線の買い手男みたいなことは言わないけど……、僕に票が入るならそれは百代からだろうとは思ってたよ」
素直にそう話すと、百代はえへへと頬をゆるませる。
が、すぐにニヤリと口元を上げて、
「それがなんと3票も入ってたんだから、やっぱり驚いたでしょ」
「まあね」
昨晩はそのおかげでクラスメイトから中途半端な注目を浴びてしまった。投票者の心当たりについて根掘り葉掘り聞かれ、そして、誰に投票したのかの打ち明け合戦。さらには愛の告白の予告合戦と、祭りの前夜のテンションが明後日の方向へワッショイワッショイ突き進む、バカバカしい夜だった。
「あと一人って誰なんだろうねぇ、あたし気になるなぁ……」
正直言って、繭墨だったらうれしい。
だけど、あいつの性格上、最も可能性が高いのは白票だ。
次点で直路へ1票。
そして、はるか15馬身くらい離れて、僕に1票を投じる可能性も、ゼロではないと思う。好意を持たれているなどという話ではなく、ほかに繭墨と接点のある男子が思い浮かばなかっただけだ。
それと同じように、百代と庶務の子が投票者として明らかになっている今、繭墨以外に僕と接点のある女子というのもピンとこない。敢えて挙げるならクラス委員長の倉橋夏姫と、生徒会関係で遠藤と近森くらいか。しかしその3人との接点はこじつけ程度のものだ。
「……超考え込んでる」
百代のふくれっ面が視界に割り込んでくる。
「百代だって気になるって言ったじゃないか」
「あたしのは純粋な興味だもん。でもキョウ君は、自分に投票した子を特定してゲットしたいっていう不純な感情が見え隠れしてるから」
「そんなことはないよ」
「そんなことはわかってるけど」
「あれ、ご理解いただけてるの?」
「じゃなきゃ冗談でこんな話できないし」
冗談だったのか……。本気で追及されているのかと思った。
「さてっと、そろそろ行こ? いきなり面白イベントをみせてくれたけど、それだけじゃあたしを満足させることはできないんだからね」
百代は歩き始める。僕はそのあとについていく。
「2年3組のお化け屋敷はかなり力が入っててオススメだよ」
「うわーキョウ君わざとい!」
わざとい、というのは意図的である様子を表す形容詞か何かだろうか。
「……ああ、あざとい?」
「そうそれ。女の子を怖がらせておいて慰めるとか、軽薄の極み、ぺらっぺらのシナリオだよね。そんな手には乗らないから」
お化け屋敷に誘っただけでひどい言われようだった。
その強がりはもしかして前フリなのだろうか。
「じゃあ百代の一押しは?」
「あたしは、たかだか文化祭のイベントにクオリティなんて期待してないんだけど。でも敢えて言うなら野球部の〝体感せよ! 超高校級ピッチングマシーン〟かなぁ」
野球部の――あまりにも個人に頼った――出し物である。
1人5球まで、1日20人限定で、甲子園出場投手・進藤直路と対戦ができるというイベントだ。初日分の整理券は受け付け開始から10分ともたずに捌けてしまったらしい。
「そりゃクオリティ高いよ、甲子園レベルだからね」
「残念ながら整理券取れなかったんだよねぇ」
僕と百代はそんな話をしながら、特に当てもなく、文化祭初日の人混みの中へと繰り出すのだった。




