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Room No.403  作者: 水月康介
2年次2学期
71/80

何か、思い違いを?

 タクシーの車中で僕たちはずっと無言だった。


 アパートに到着、下車する。

 振り返ると、繭墨も確かに下りていた。


 エントランスに入り、階段を上がっていく。

 繭墨は僕の3段ほど後ろを等間隔についてくる。


 ――阿山君のアパートへ行ってください。


 あれは聞き間違いではなかったらしい。

 いったいどういうつもりなのか。


 体調が悪いのはわかるが、しかし、家に帰るまで持たないというほどではないはずだ。

 具合がよくなるまで小休止するつもりだろうか。

 それなら泊り込むよりはよほど現実的だけど、しかし僕も随分と軽く見られたものだ。これでも一応、男子の端くれなのが、そのあたりを繭墨は考えていないような気がする。


 そりゃあ、夏休みにいきなり部屋に上がり込んできたのには驚いた。

 だけど、そのときですら僕は繭墨に指一本触れられなかったわけで、それが悲しい信用と実績になってしまっているわけで、だから休憩所として便利に使われても仕方がないわけで、しかしそんな扱いにもちょっとオイシイと思っている自分がいるわけで。


 繭墨にガツンとやりたいのかやられたいのか、方向性すら定まらない一人相撲。


 一人相撲というのは自分だけで空回りしている状況を指す言葉だが、もともとこれは神社などで奉納する神事のことだ。通常は二人で行う相撲を、一人だけで土俵に上がって、2人で取り組んでいるかのように振る舞う。パントマイムのようなものだ。見えない相手は豊穣の神様とされている。その神様と一進一退の攻防を演じ、最終的に花を持たせることで、翌年の豊作を祈るのである。


 つまり、僕の一人相撲の仮想敵である繭墨もまた、神様ということになる。


 確かに繭墨は神がかったところのある子だが、神様のように遠くに行ってほしいわけじゃない。逆だ。もっと近づきたいと思っている。


 だったらこの状況は望むところじゃないか。たんと介抱してやろう。

 スポーツドリンクは足りるだろうか。消化の良い食べ物も買ってこよう。そうだ、おかゆを作らないと。――あと着替えは? 着替えはどうするつもりなんだ?


 振り返ると繭墨の姿はなかった。

 体調不良のあまり、階数を間違えたのだろうか。


 3階へ下りると、繭墨はフロアの一番端の部屋の前に立っていた。

 おぼつかない手つきで鍵を取り出し、カギ穴に差し込んでいる。


 ああ、そこは違う、僕の部屋はその一つ上の階だと声をかける――その前に、カチャリ、と鍵の開く音がした。空耳ではない。繭墨はノブを回して扉を開いた。


 ……あれぇ?


 僕は手近な部屋の番号を確認する。302号室。

 やはりここは3階だ。


 状況がよくわからないまま、僕は繭墨に近づいていく。


「ここは母の名義で借りている部屋です」


 と繭墨は言った。


「……それって同棲疑惑のときの?」

「はい」


 夏休みの一件だ。

 僕と繭墨が同じアパートに入っていくところを誰かが見ていたらしい。それがネットの学校専用掲示板に投稿され、ちょっとした騒ぎになった。


 繭墨は力業でそれを封殺した。

 アパートの別室を家族名義で借りているという虚偽の事実をでっちあげ、学校側の追及を振り切ったのだ。


「書類を偽造するだけでは心苦しいからと、大家さんへの口止め料の意味合いも込めて、実際に部屋を借りていたのです」

「あ、そういうこと……」


 長距離を歩いたわけでもないのに膝が笑いそうになる。

 なんかもう、頭の中であれこれ考えていたのが恥ずかしすぎて。


 脱力感に苛まれる僕に、繭墨は首をかしげながら言った。


「何か、思い違いを?」



◆◇◆◇◆◇◆◇



 つまり、繭墨は最初からこの、同じアパートの別の部屋が目的地だったのだ。

 それを僕は勘違いして、〝今日は帰りたくないの……〟的な意味でとらえてしまった。だって仕方ないじゃないか、健全な男子高校生なんだから。


 そして僕の勘違いも繭墨の狙いだったのだろう。


 今日の繭墨は僕に対して劣勢だったと思う。体調不良で具合の悪い姿を晒したことは、彼女にとって大きな失点だったはずだ(くしゃみとか超かわいかった)。


 だからその失点を取り返そうとした。思わせぶりな言葉で動揺し、無防備な状態となった僕を、落とし穴まで誘導した。


 延長10回裏、逆転満塁サヨナラホームラン。マウンド上で崩れ落ちるピッチャー阿山、ダイヤモンドを悠然と一周するバッター繭墨、しかしその口元は満足げに笑っている――そんなイメージである。


「この部屋、繭墨のお母さんは使ってないの?」

「間取りを見ただけで、こんな狭い部屋は無理ねと言っていました」

「あそう……」


 そんな話をしながら304号室に入った。


 ここを実際に使い始めたのは十日ほど前からだという。

 繭墨の家は片道1時間近くかかる。そのため、多忙な文化祭準備期間中はここを仮住まいとしているらしい。同じアパートなのに今日初めて知った。

 菓子折りを持って来いとは言わないが、連絡がなかったことはやはり寂しかった。


 しかし、どおりで物が少ない。

 家具はベッドとテーブルのみ。テレビすらなかった。衣類は壁際の床に直置きしているが、それは見せる収納などという洒落たものではないはずだ。


 シンプルを通り越して、異様なほどに生活感がない。

 ファッション系の雑誌でよくある、お宅訪問間取り紹介、みたいなコーナーでは、生活感の排除をコンセプトとした部屋が必ず出てくるものだ。しかし、そんな作為的な無生活感など片腹痛いとばかり、この部屋には本当に生活感がない。綾波○イの部屋よりはマシだったが。


 ふと目を向けたテーブルの上にはノートパソコンが置かれ、周囲には紙の資料が散らばっている。おそらく文化祭の準備資料。帰ってからも作業続きの毎日なのだろう。


 なにが「ギリギリになって遅くまで居残ることがないよう、少しずつ業務を進めていくのが今生徒会のスタイルです」だ。

 その負担を一人でかぶった結果がこのザマじゃないか。


 だけど今はそれを責めているときではない。


「……ええと、何か食べられる? スポーツドリンクとか、なければ買ってこようか。あとバナナとかヨーグルトとか、消化のよさそうなものを――」

「結構です。寝ていればよくなりますから」

「そう言わないでさ、何かないの?」


 自分史上最高の甲斐甲斐しさを発揮する僕を、繭墨はスルーした。

 無言でベッドに腰掛けて、上目遣いにこちらを見据えてくる。

 その間十秒ほど。


「ではコーヒーを淹れてください。おいしいコーヒーを」

「具合の悪い人が何言ってるの」

「カフェインには解熱作用がありますから」

「興奮作用もあるんだけど……」

「書面どおりの効能に興味はありません。コーヒーを飲まないと落ち着かないんです」


 自分で言いだしたくせに、と思うけれど、その気持ちはよくわかる。

 僕や繭墨は、眠気覚ましなど求めていない。

 コーヒーという至高の液体を、ただ好み嗜んでいるだけなのだ。


 しかし、僕が手の震えを抑えながら入れたコーヒーの評価はイマイチだった。


「……味がよくわかりません」

「そりゃね、具合が悪いんだから舌も鈍るよ」

「コーヒーを飲んだという事実がわたしの精神を安定させるんです」


 繭墨はそう言ってコーヒーを飲み干した。

 いつもよりペースが速い。僕の気のせいでなければ、それは、あなたのやることはもうありません、さっさと帰ってください、という無言のメッセージなのだろう。


 僕もこれ以上粘るのは難しいと感じていた。

 しかし、それを引き止めたのは、他でもない繭墨の方だった。


「……何か、聞きたそうな顔をしていますね」


 その指摘に、僕はすぐに応じない。

 カップを傾けて、自分で淹れたコーヒーの味を確認しつつ、言葉を選んで尋ねた。


「最近、生徒会室から遠ざけられてる気がするんだけど」

「クラスの演劇の進行状況を確認してほしかったからです」


 繭墨の返事は予想の範囲内。


「それはもう済んだよ」


「以前にも話したと思いますが」

 と繭墨はこちらを見据えて言う。

「同棲疑惑で校長室に呼び出されて、まだひと月と経っていません。この悪い噂をかき消すには、真っ向から否定するのではなく、別のもっと大きな噂を目くらましにした方が効果的です。これには同意してくれましたよね?」


「うん。おかげで今回の文化祭は、宿泊許可やキャンプファイヤーの再開、野外ステージ増設――去年よりもグレードアップしている」


「すべては噂を薄めるため。阿山君が生徒会室に入り浸るというのは、それに逆行する行為です。だから、お察しのとおり、生徒会から遠ざけています」


 繭墨は率直にそう言った。誤魔化すつもりはないらしい。


「それで大丈夫なの? 今日だって厄介ごとがあったじゃないか」

「遠藤さんが無事に対策を考えてくれましたから」


 僕がその場にいなかったかのような口ぶり。

 なるほど。そういう方向で行くつもりか。


「生徒会の雰囲気がギスギスしてるって相談をされたんだけど」

「皆さん適度な緊張感を保ちながら、集中して業務に当たってくれています」


「物は言いようだね」


「心配しなくても、あと数日もすれば、文化祭実行委員会にも手伝ってもらうようになります。その際には存分に、阿山君の力をふるってください」


「実行委員の中の、その他大勢の一人として?」

「意外ですね。それが阿山君のスタンスだと思っていましたが」

「そりゃ基本的にはね。でも――」


 僕が実行委員になったのは、文化祭を盛り上げたいからじゃない。繭墨の手助けをしたかったからだ。繭墨の負担を減らしたいと思って、名乗りを上げただけだ。


 だから、その他大勢の人にとっての僕は、名もない役員その1で構わない。

 でも繭墨にも同じように思われるのは嫌だった。繭墨の視界の、なるべく目立つところに居場所がほしい。そんなささやかな願望がある。


 ――なんていう恥ずかしい内心を、TPOをわきまえずに晒してしまいそうになって、僕は口を閉じた。


 それに、繭墨の体調のこともある。

 赤らんだ頬を見て、ここへ来た理由を思い出す。そういえばこいつは体調を崩していたのだ。舌鋒の鋭さが戻りつつあったのですっかり忘れていた。


 売り言葉に買い言葉。ちょっと言い合うとすぐこれだ。

 反省しなければならない。


「……もう帰るよ。体調に気を付けて」


 僕が引き下がったことが意外だったのか、繭墨は目を丸くする。


「はい。今日は早めに寝ることにします。ありがとうございました」

「ホントに?」

「何をやっても効率が上がりませんから」

「効率とか関係なく夜はちゃんと寝るように」


 そこで小言を切り上げて、僕は繭墨の部屋を後にした。




 その後、深夜にどうしてもコンビニ限定の飲料が飲みたくなり、やむなく近くのコンビニへ買い物に出かけた。そして、帰り道にふと夜空を見上げると、偶然にもアパートの繭墨の部屋のあたりが目に入った。


 部屋の明かりは消えていた。


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