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Room No.403  作者: 水月康介
2年次夏季休暇
57/80

自称住み込み家政婦

 部屋に戻ると、僕はすぐ洗面台に向かい、大量に水を流しながら顔を洗った。

 汗を洗い流し、動揺を洗い流し、頭を冷やして気持ちを落ち着ける。


 顔を拭くとほら、気化熱で涼しくなって、気分もすっきりだ。

 中に入ると、冷房で冷やされた空気と、淡々とした繭墨の視線に迎えられる。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 この部屋で出迎えのあいさつがあることにまだ慣れない。苦笑いを浮かべつつ返事をする。

 僕は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出した。普段なら直に口をつけてラッパ飲みするところだけど、今は繭墨がいる手前、お行儀よくコップに移し替えてから飲んだ。


 冷蔵庫を閉めて向き直っても、繭墨の視線はまだこちらを向いたままだった。


「どこへ行っていたのかは、聞かない方がよさそうですね」

「あー……、うん、そうだね。そうしてくれると、助かる」

「コーヒーを淹れましょうか」


 唐突な申し出に戸惑いつつもうなずくと、繭墨は文庫本を置いて立ち上がる。

 台所を早くも勝手知ったる感じで、テキパキと準備を始めた。湯を沸かしつつ、粉とカップとドリッパーを並べていく。ドリップペーパーをセットし、粉を入れ、あとは沸騰したお湯を注ぐだけ。

 僕はその様子を少し離れたところからぼんやりと眺めていた。


「どうしましたか」

「いや、なんかすでに自分の家のように手馴れてるなと」

「もう6回は淹れていますから」

「あ、そうか。不法侵入って昨日の夜から?」

「不法侵入ではなく、緊急避難と言ってください」

「行動力が狂ってるよね」

「ほかに行く場所がなかっただけです」

「そう……」


 そんなしおらしいことを言われると、追及する気が失せてしまう。我ながらチョロいと思われても仕方がないことだが。


「今月分の水道光熱費はすべてわたしが払います。あとで領収書を見せてください」

「え、いいよそんな」

「それくらいは負担させてください。お願いします」


 繭墨はそこで言葉を切ると、こちらを見て目を細める。


「それとも、俗にいうアレですか。身体で払えという下衆ゲスな要求を?」

「しないよ」


 その冗談は、今の僕の心理状態では冗談にならなくなる恐れがある。僕は平常心を装って聞き流しつつ、それでも動揺を隠しきれなくて、デスクチェアに腰かけた。


「反応が鈍いですね……」


 繭墨が不審がっている。勘ぐられる前に、僕は話を変えた。


「早くお湯を入れなくていいの?」

「沸騰した直後のお湯は熱すぎます。コーヒーの苦味やエグみが余計に抽出されてしまうので、少し冷ますようにしているのです」

「細かいね」

「神は細部に宿るといいますから」


 繭墨はヤカンを傾けてコーヒー粉に少しだけお湯を垂らす。粉を湿らせて中の空気を抜くための、蒸らしという工程だ。20秒ほど置いてから、本格的にお湯を注いでいく。ヤカンをわずかに傾けて、糸のように細い流れをキープする。

 その繊細な作業に没頭する、繭墨の横顔に目を奪われる。


 駄目だ。これはいけない。

 僕は首を振って視線を外し、沈黙が良くないのだと思ってテレビをつける。毒にも薬にもならないワイドショーが流れていて、だけどその内容のどうでもよさにホッとしてしまう。


 やがて、コーヒーを淹れ終わった繭墨が、カップを持ってきてデスクに置いた。


「お待たせしました」

「ありがとう」


 ご丁寧にコーヒーフレッシュも添えられている。

 帰ったらコーヒーを淹れてくれる人がいる、という状況に謎の感動を覚えつつ、僕はカップを傾ける。


「自分で淹れるのよりおいしい気がする、ちょっと悔しいけど」

「味覚なんて気分次第でいくらでも変化するものでしょう」

「そりゃそうだけどさ」

「女子高生が淹れたコーヒーなんてそれだけでプレミアものですから、美味しいと感じるのも当然では?」

「そりゃオッサンの発想だよ」


 繭墨は改造ソファに腰かけ、文庫本をめくりつつ自分用のブラックコーヒーをすするというスタイルに戻る。自分の部屋のごときリラックス具合だ。

 緊張しきりの僕は神経が細いのだろうか。


 手持無沙汰から逃れるために、僕も読みかけの文庫本に手を伸ばす。

 それを開いたところで、繭墨が話しかけてきた。


「ところで、晩ご飯はどうしますか?」

「え? ああ……」


 正直なところ、今日は料理をする気力がなかった。身体に力が入らない。長距離走のあとのような、寝不足の日の夕方のような脱力感が身体を支配している。


「ちょっとだるいし、近所のファミレスでも」

「それならわたしが作りましょう」

「いいの?」

「言ったじゃないですか、今のわたしは住み込み家政婦です。冷蔵庫を確認しますね」


 冷蔵庫の中身はすっきりしていた。生ものの類は実家へ戻る前にほとんど調理して処分していたのだ。こんなに早く帰ってくる予定ではなかったので、調味料と飲料くらいしか残っていない。


「これでは何も作れませんね。阿山君のバイト先へ買い出しに行ってきます」


 繭墨は自称住み込み家政婦にふさわしい、事務的な口調で言った。

 大好きなカレのために手料理を振る舞っちゃうゾ! 的な気負いは一切なかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇



「料理のリクエストは?」

「おまかせで」


 料理を作る側にとって最悪のリクエストをしてしまったことに、少し遅れて気づいたが、それを訂正するだけの気力もなかった。


 約1時間後、食卓に並んだのは冷しゃぶだった。カラフルに盛り付けられたサラダの中央に肉が山盛りになっている。主菜に加えて、オクラと長芋の和え物、焼きナスの煮びたし――と夏野菜をふんだんに使ったメニューである。


「少し偏ってしまいましたね」

「どこが? 肉も野菜もあって――、ああ、魚介がないか」

「いえ、冷たい料理ばかりという意味です」

「まあそこはいいよ、夏だし」

「それならよかったです」

「にしても……」


 僕は改めて、料理の並んだテーブルを眺める。


「思ってた以上に、なんか普通に料理できるんだね」

「普通というのはどういう評価ですか? 褒められているのけなされているのか、よくわかりませんね」


 台所で調理にいそしむ繭墨を、僕はネットサーフィンを装い横目でちらちらと盗み見ていたが、その手際は目を見張るものだった。


 レンジで野菜を温めている間に、包丁が小気味良い音を立てる。鍋の中で肉を茹でつつ、コンロのグリルではナスにきれいな焦げ目がついていく。平行作業のレベルが高いのだ。放置する作業とつきっきりの作業の判断が明確で、動きに切れ目がない。


 それ以上に印象的だったのは、調理中、長い髪を後ろで束ねていたことだ。ポニーテールめいた髪型の繭墨は、普段よりもはるかに活発そうに見えた。深窓の令嬢が一転、運動系の部活に所属するスポーツ少女になったかのようだった。どちらもアリだと思った。

 

「正直、実は料理が苦手でものすごく手こずるか、あるいは何か一つだけすさまじい得意料理があるけど、それ以外はからっきしで惣菜で済ませてしまうとか、そういうのを想像してたよ」

「ギャップ萌えを体現できず申し訳ありません」

「すでに十分ギャップは感じてるんだけどね……、さっきの手際を見てしまうと、ハイレベル主婦という感想しか浮かんでこないよ」

「そう言ってもらえると、得意料理で固めた甲斐がありました」

「ばらしたらダメじゃん」

「というより、苦手ではない料理、でしょうか。今日の献立はすべて味付けが簡単なものばかりですから。冬場に多い煮物系や、炒め物系の料理は味付けが繊細で、わたしはああいったものがどうも苦手なのです」

「へえ」


 確かに、冷しゃぶや和え物は、食べる直前にポン酢やらドレッシングをかければ済む料理だ。そういえば煮びたしを作るときだけ、調味料を入れる手つきがぎこちなかった。


「でも、繭墨が苦手だっていう料理も食べてみたいな」

「……馬鹿なことを言ってないで、早く食べてください。料理があたたまってしまいます」


 繭墨に急かされ、僕はテーブルに着いた。

 長方形のテーブルに斜向かいになって座る。


「じゃあ、いただきます」

「はいどうぞ、召し上がってください」


 それは、実家での食事とも、一人きりでの食事とも違う。

 奇妙な緊張感と、穏やかさが同居する、いわく言い難い食卓。僕たちの言葉数は少なかったけれど、決して嫌な雰囲気ではなかった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 空になった食器を洗い、食後のコーヒーを飲んでいると、繭墨が遠慮がちに口を開いた。


「部屋に押しかけておきながら、こんな質問をするのもどうかという自覚はあるのですが」

「どうしたの奥ゆかしい」

「ヨーコのことは、どうするつもりですか?」


 僕はフリーズした。

 今日まさに、百代の告白を断ってきたばかりなのだから。コーヒーを吹かなかっただけでも大したものだと思う。

 繭墨は何も知らないだろう。それ以前に百代が告白したことも知らないはずだ。


「……どうって、どういう意味」


 僕は動揺を落ち着かせるべく時間稼ぎの質問をする。


「ヨーコの好意は、気づかないなんてありえないレベルですよね。あなたはそれにどう応じるつもりなのですか?」

「……まあ、2学期になったらちゃんと答えを出さないと、とは思ってるよ」


 百代の告白を断ったことは黙っておいた。

 それを明かせば、繭墨はこの部屋から逃げ出してしまうような気がしたからだ。


 百代にも告げたように、僕は百代と仲がいい。友達として、仲がいい。

 嫌いでない相手からの告白を断ったのは、ほかに好きな人がいるからではないか、という連想につながる。そして、その相手はもう一人の近しい女子である繭墨わたしではないかと、思い至っても不思議ではない。


 繭墨が家出の仮宿として僕の部屋を選んだのは、僕が繭墨に異性としての好意を持っていないと、彼女がそう思い込んでいるからだ。その前提が崩れてしまえば、繭墨はきっと距離を取ってしまう。


 いくら気まずく、ぎこちなさが先行する相部屋でも、初日で終わらせたくはない。


「二学期ですか。それは――」


 おいおいもうやめてくれよ、と言いたくなる追及の途中で、繭墨のスマホが鳴った。


「誰から?」


 繭墨はスマホの画面を確認する。


「母です」

「ああ、やっぱり心配してるんじゃないの?」

「いえ、違います。母は家に居ませんから。わたしの家出を知っているのは父の方ですが、そちらからの連絡はありません」


 繭墨はあまり大っぴらに言いたくない類の家庭事情を淡々と語る。


「じゃあたまたま?」

「いえ、それも違います。先日こちらから母に電話をしているので。出てくれなかったのは仕事が忙しかったからでしょう」


 繭墨はようやく通話ボタンを押した。


「もしもし……、あ、母さん、父さんのことで話があるの、そうよ。あの人、家に女を連れ込んでいたわ。気づいたのは今日が初めて。昨日はわたしも他所に泊まったからわからない。……うん。そうね、……そうなんだ、無理、なんだ。……え? 明日? うん、大丈夫だけど……、うん、わかった、それじゃあ、その時間で。うん。おやすみなさい」


 その電話で、繭墨の家出の理由がある程度わかってしまった。

 この場で電話を取って話の内容を聞かせたのは、事情説明の代わりだろう。


「……そういうことです」


 と繭墨は僕に向き直る。いつもと変わらない淡々とした口調と表情。

 いや……、いつもより少し、怜悧であるよう心掛けているような印象を受けた。メガネの奥の瞳が鋭い。


「明日は昼前から出かけますね」

「あ、僕もちょっとバイト先に顔を出してくるよ」


 予定より早めに伯鳴市こっちに戻ってきたので、シフトに入れるかどうか確認をしておきたかった。

 もし忙しそうならそのままバイトに入るかもしれない。


「勤労少年再びですね。夏休みの宿題はいいのですか?」

「そんなものはもう終わらせてるよ」


「そうですか。わたしの方は、明日が一つの山場ですね」


 母親と会う予定が入ったらしい繭墨は、挑むような顔つきでそう言うのだった。



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