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Room No.403  作者: 水月康介
2年次1学期
46/80

……忘れ物をしました


 期末テストの全日程が終了した。

 チャイムが鳴って、テスト用紙が回収され、シャーペンを机に転がし、背もたれに思い切り身体を預け、天井を見上げた。いつもよりも高く広く感じるのは、明らかに気のせいだけど、その開放感が心地いいと思う。


「終わったな」


 前の席の赤木が、身体を半分だけこちらに向けながら言う。顔は窓の外の青々とした空を向いていた。


「ああ、終わったね」

「オレたちは今、最高に自由だと思わないか」

「テストという重圧がなくなったからね」

「それだけじゃないぜ。すぐに夏休みになる。自由に使える時間が待ってるんだ。気持ちだって自由になる」

「テストという抑圧と、そこからの解放。さらに、直後に待っている長い休暇。こんな流れを用意されたら、誰だって自由を感じるよね」

「抑圧と解放――カタルシスってやつだな」

「僕はかえって、自由って何だろうと考えてしまうよ」

「どういうことだ?」

「光があるから影ができるように、制限があるからこそ人は自由を感じられる」

「夏休みの解放感なんて、まさにそれだな」

「だけど、あまりにも自由すぎて、それが当たり前になってしまうと、今度は自由ではなく堕落が始まってしまう」

「そうなるのは自分にだらしないやつだけだ」

「きちんと自分を律することのできる人間が、どれだけいるのかな」

「まあ、多くはないよな。夏休みに入って生活パターンが乱れないやつの方が少ない」

「試されてるんじゃないかって、思うんだ」

「試されてる?」

「好きにしていい時間をもらって好きなように過ごした結果、いつの間にか能力が下がり、生活の節度やバランスが乱れていた、というのはテストで赤点を取るよりもある意味厳しい失点なんじゃないかな」

「自由という試験か……」

「あるいは宿題だね。提出義務はないけれど、必ず結果が突き付けられる」


 とそこにすでに帰り支度を終えた直路が通りかかった。


「お前らいつから哲学者になったんだ?」

「魂が解放されるとき、人は誰もが哲学者になるんだよ」

「そして、夏の熱に浮かされた若人は詩人となる」

 

 赤木はまだノリノリだったが、僕はそろそろ切り上げたかったので話題を変えた。

「直路の夏はこれからだね」と甲子園の地区予選の話を振る。


「スカウトの話とか来てねえの? 菓子折りとかもらってねえの?」と赤木が言う。先ほどまで澄み渡る青空へ向けていたものとは違う、どろりと濁った瞳だった。詩人はどこへ行った。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 2・3言葉を交わすと、直路は部活があるからと先に教室を出て行った。

 僕や赤木ほか数名の帰宅部連中は、どこかへ遊びに行こうという話になる。行き先についてはいくつか案が出たが、最終的には複合スポーツ施設『アラウンド・ワン』で落ち着くといういつものパターンだった。


 テストの答え合わせを雑談のネタに歩いていると、車道を挟んで反対の歩道によく知る女子生徒の姿が見えた。繭墨だ。

 最初は、テストが終わってもすぐ帰るところは相変わらずなんだな、くらいにしか思っていなかったが、すぐにその行動に違和感を覚える。


 期末テストが終わると次は夏休み。

 そう考えている生徒が大多数だが、実はもう一つ、夏休み前にイベントがある。生徒総会だ。一般生徒にとってはさほど関心のない行事だが、当事者たる生徒会執行部は相当に忙しくなると聞いている。

 通常の資料作成に加えて、今回は繭墨新会長の公約もある。総会の場で学校に対する意見を募集する、というあれだ。これまでの生徒総会よりも、執行部の負担は増えているはず。

 それを考えると、テストから解放されたからといって、まっすぐ家に帰ろうとしている繭墨の行動はおかしい。本気で甲子園を目指している野球部のレギュラーが、試合直前に練習をサボるくらい異常だ。


 僕は忘れ物をしたと嘘をついて赤木たちに先に行ってもらった。彼らの姿が見えなくなったことを確認してから、繭墨に声をかけるべく道路を渡る。


 残り数メートルまで近づいた後ろ姿に、緊張が湧き起こってくる。

 繭墨と直接、面と向かって話をするのは久しぶりだ。僕の部屋で口論をした、あの雨の日以来だった。


 最後の印象の悪さが尾を引いていて、すぐに声をかけることができない。

 と、そこで繭墨の方から振り返った。足音が聞こえていたのだろうか。


「……なんでしょうか」


 僕を見るなり、表情が硬くなる。

 その視線は冷たい。

 とはいえ、繭墨の冷たい視線にはいくつかのバリエーションがある。最近になってわかってきたことだが。


 どうでもいい存在に向ける冷淡な視線。

 嫌悪する存在に向ける冷酷な視線。

 冷笑を装ったからかい(・・・・)の視線。


 そして、敵意を抱く相手に向ける冷厳な視線。

 今、彼女が僕に向けているのは、最後のそれ。最も鋭い視線だった。


「おせっかいかもとは思ったけど」

「そう思っているなら話しかけないでください」


 ほら容赦がない。

 だが僕は引き下がらない。もうさんざんっぱらやりあって、こちらの急所はすべて知られてしまっている。繭墨の舌鋒に対して、ある意味もう僕は無敵だ、という開き直り。


「生徒総会の準備、大丈夫なの」


 僕の問いかけに対して、繭墨は意表を突かれたような顔になる。メガネの奥の瞳が揺れて、上下の唇がわずかに離れた。が、すぐにきつく結ばれる。


「はい。問題はありません」


 繭墨はそれだけ言って、踵を返そうとする。

 話はもう終わり、という無関心からの行動に見えるが、これは違うと直感する。


「フラれたからって気が抜けてるの?」


 繭墨の動きが止まり、ゆっくりとこちらに向き直る。


「どういう意味ですか」

「説明が必要?」

「ええ、お願いします」


 ああ、やっぱり怖い。

 繭墨の表情が険しいからというだけではない。人の弱みを指摘することへの恐怖を感じていた。自分の言葉が人を傷つけてしまうかもしれないし、あるいはこの指摘はまったくの的外れで、知ったかぶりの勘違い野郎と嘲笑われるかもしれない。


「繭墨は今、生徒会長になった動機を失っている。生徒総会を盛り上げる理由もなくなってしまった。だから、本来ならすぐにでも始めなきゃいけない総会の準備を、ほどほどに抜いて(・・・)いる。これまでの踏襲だけでいいなら、もう2回経験してるし、そこまで練らなくても無難に切り抜けられると思ってるんだろ」


「そうですね。生徒総会なんて誰も関心を持っていないイベントです。あの場で生徒から意見を募集する、という取り組みを提案してはみたものの、それで何かが変わるわけでもありませんから」


 繭墨の言葉に対し、僕は鼻を鳴らす。


「それはまた……」

「なんですか」

「格好悪いなと思って」

「は?」


 冷たさだけが先行する繭墨の言動に、かすかな熱を感じた。

 怒気が発する感情の熱量。

 じゃあもっとまきをくべないと。


「選挙演説で生徒を煽っておいて、自分の都合が変わればそれを翻す。しかも原因は失恋って……、公私混同もいいところじゃないか」

「生徒会の運営に支障が出るほどではありません」

「でもそれは、繭墨にとっては手抜きだ」

「……知ったようなことを言わないでください」

「そのセリフは逃げ口上だよ」


 僕がそう断じると、繭墨はこちらを睨みつけてくる。

 が、ふと冷笑を浮かべて、


「今日はやけに絡んできますね。まさか、わたしのことが好きなんですか」


 とっさに返事ができなかった。

 だけどそれは、ひどく動揺して言葉が出なかったわけではない。

 図星を突かれて困惑したわけでもない。


 ただただ、驚いただけ。

 道を歩いていて突然石が落ちてきたら、びっくりして足を止めるだろう。それと同質の驚きだった。


 だから返事だってつまらないものだ。


「……いや、それはわからないけど」

「……なんですかその返事」


 眉を寄せながら、少し頬を赤くする繭墨。今さら自分の言ったことが恥ずかしくなったのだろうか。あるいは僕の反応が不満だったのかもしれない。


 ――わたしのことが好きなのか。

 

 女子に面と向かってそんなことを言われたら、きっと照れながらごまかすか、そんなことはないと首を振るか、二つに一つだ。僕ならそんな反応をするという自覚はあった。もっとうろたえると思っていたし、繭墨もそう見越していたのだろう。


 実際、繭墨にとってその質問は、このやり取りでの切り札か、あるいはその布石として打ったはず。それが空振りに終わってしまい、むしろ繭墨の方が困惑している。


「それはわからないけど……」


 口をついて出たのはもっとあいまいな言葉だった。

 ただ、本心であることは間違いない。


「繭墨はもっとタフなやつだと思ってた。いくらツラいことがあったからって、他人を理由にして、手を抜いて逃げようとしてる姿は見たくない」


 こんなことを言われるのは予想外だったのか、繭墨は呆気に取られたように口が半開きになっている。


 予想外だったのはこちらも同じこと。

 

 もっと格好良く、凛然としていてほしい、と。

 僕は繭墨に対して、そんな感情を抱いていたらしい。


 このまま立ち去るのは逃げるようで嫌だったけど、もう続ける言葉もない。

 どうしたものかと立ち尽くしていると、繭墨が口を開いた。


「……忘れ物をしました。学校に戻ります」

「あ、うん。僕は」

「どうぞ好きなだけ、解放感に身を任せてください」


 当てつけのようにそう言って、繭墨は僕の横を抜けていく。

 後ろ姿は颯爽と、長い黒髪をなびかせながら。


 表情が見えたのは一瞬だけで、はっきりとはわからなかったけど、少なくとも弱々しさはなくなっていた。


 それでこそ、と思う反面、こうも感じる。


 僕は繭墨に、ただ自分の理想を押し付けただけなのではないかと。

 こうあってほしいとイメージする繭墨乙姫像からズレてしまった彼女を、半ば言いがかりじみた言葉で、強引に引き戻そうとした。


 繭墨の完璧ではない部分を、百代が「ホッとした」と言って笑ったことを思い出す。それは許容や、やさしさに似たものだ。


 それに比べて僕はずいぶんと余裕がない。

 こういうのも、束縛する男というのだろうか。あるいは器の小さい男と。



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