恋愛と戦争ではあらゆる手段が正当化されます
球技大会の翌日。
放課後になって帰り支度を始めたところで、スマートフォンが短く振動した。
ロックを解除してメッセージアプリを起動すると、メッセージが1件。
>繭墨:今日、部屋へ行ってもいいですか?
たっぷり10回ほど読み返したが、シンプル過ぎて文面以外の意味は読み取れなかった。
まず考えたのは、球技大会の打ち上げという可能性だ。
百代と直路が提案し、それに繭墨が巻き込まれた、というのはありそうな話だった。
直路のやつめ、独り暮らしのことは黙っていろと頼んでいたのに。
真偽を確かめるか、スルーして帰るか。
迷いつつ教室を出ると、ちょうど当人たちが廊下を歩いていた。
百代と直路の二人だけで繭墨はいない。僕はすぐに近づいて声をかけた。
「繭墨さんは?」
「ん? ヒメなら生徒会だよ。昨日の雑務がまだちょっと残ってるんだって」
そう答えたあと、百代はニヤリと口元を上げる。
「どしたの? 阿山君、顔合わせるなりヒメのこと聞いちゃったりして」
このこの、とばかりに肘でわき腹をつついてくる。若干ウザい。
「いや別に……、二人は部活?」
「ああ」
「あたしはその冷やかし」
「そう。お幸せに……」
僕は片手を上げて立ち去った。
百代と直路は何も知らないようだ。となると、やはり繭墨の単独行動なのだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
彼女の目的がわからないまま、僕は困惑の帰途についた。
来客があるというなら、相応の準備がいる。
まず帰り道の途中でケーキ屋に立ち寄って、モンブランとチーズケーキを購入した。両方とも僕の好物なので、繭墨のメッセージが万一イタズラだった場合でも対応可能だ。
スーパーマーケットで普段は飲まないティーバッグの紅茶を購入する。繭墨はコーヒーよりも紅茶派だろうという、僕の勝手なイメージである。ただ、さすがにカップとソーサーを揃えるまではできなかった。
部屋に戻るとさっそく掃除である。
まずはハンドモップで高いところのホコリを落としていく。続いて部屋の隅にもモップをかける。中心に向けてチリを集めるように。そして、掃除機で見えるチリも見えないチリも、集めたチリとまとめて一気に吸引。仕上げに、雑巾がけのようにウェットシートで床をふき取った。
力を入れて拭いたので少し汗をかいてしまった。窓を大きく開けて空気を入れ替えると、吹き込んでくる風が心地いい。さて、今夜の夕食はなんにしようか……と室内に目を向けると、テーブルの上でスマホが鳴動していた。
「もしもし」
『もしもし、繭墨です。メッセージは見てくれましたか?』
「うん、見たけど……、あ」
目は通したものの唐突なメッセージに右往左往して、肝心の返信をしていなかった。
『これが既読スルーという現象なのですね。貴重な体験をありがとうございます』
この辛口ガールめ。
「返す言葉もございません」
『ではご返答を』
「いいよ」
『わかりました。3分以内に行きます』
通話が切れて2分でインターホンが鳴った。
玄関口まで歩いていき、鍵を開け、ドアを押し開ける。
隣人とすれ違うにも難儀する狭苦しい共用通路に、繭墨乙姫は場違いなまでの凛とした立ち姿で佇んでいた。待たせてしまったせいか、こちらを見据える視線は鋭い。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
一歩下がって繭墨を迎え入れ、短い廊下の先に見えるテーブルをうながした。
彼女を先に部屋へ入れると、黒髪が揺れてシャンプーか何かが控えめに香る。
女子が。僕の部屋に。マジかよ。
僕は動揺を悟られぬよう距離を取って台所に回った。
「こコーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「おかまいなく」
「僕はコーヒーを飲むからついでに淹れようか」
「ではお願いします」
「味の好みは?」
「モカ系の酸味は好まないので、それしかないのなら水で構いません」
「わかった」
カップを持つ手が震え、お湯をこぼしたりもしたが、淹れたてのコーヒーの香りが立ち昇ると、ようやく少しだけ落ち着くことができた。
コーヒーカップを持っていき、繭墨の斜向かいに座る。
「お待たせ」
「ではいただきます」
繭墨はコーヒーに砂糖もミルクも入れなかった。
僕はわずかな敗北感を感じつつミルクを投入する。
「お礼が遅れましたが、昨日はありがとうございました」
繭墨がカップを置いてから口を開く。
球技大会での一件を言っているのだろう。繭墨は実行委員の仕事が忙しかったせいか、あれから話をする機会がなかった。
「あれは主に直路の手柄だよ」
「でも、企てたのは阿山君ですよね」
「バッテリーってのは一心同体だから……」
僕はそれっぽい言葉でごまかそうとするが、繭墨からは逃げられなかった。
「あなたが頭脳担当で、進藤君が労働担当という分担のようでしたが」
「うん、まあ、ピッチング練習を提案したのは僕だけど、あれは直路あっての策だから」
「ですよね」
繭墨の目が大きく開かれる。ですよね?
「昨日の進藤君、格好よかったですよね。とても素敵な、躍動感あふれるピッチングでした」
「頭脳労働の価値は……」
「わたし、小賢しい策を弄するのは好きじゃないんです」
「どっちかって言うと繭墨さんもそっち系のタイプだと思うんだけど……」
「だからですよ。自分にないものに憧れるんです。小ざかしいもの、煩わしいものを一掃する力強さに」
「へえ……」
繭墨の変わりっぷりに困惑する。彼女の言葉には直路への肯定、敬意があふれていた。なんだったら恋していると言ってもいいくらいに。
もちろんそれは冗談だ。直路は百代と付き合っている。そして繭墨と百代は友達なのだ。
友達の彼氏が好きだと宣言されても、こっちは反応に困る。
「進藤君がわたしを助けてくれたのは、これで二度目なんです」
「へえ」
「1学期のクラス委員決めのときでした。わたしはこのように押しが弱そうな外見なので、姦しい女子グループから委員を押し付けられそうになったんです。
何も決まらない状況が長引き、この問題をとにかく早く片付けたい、という雰囲気がクラスに蔓延していきました。誰でもいいからさっさと手を挙げてくれという無言の圧力に押されて、やがて〝推薦〟という愚策が通ります。その矛先がわたしに向けられて……。
進藤君が声を上げたのはそのときでした」
――嫌がってる子に無理やり押し付けるのってどうなんだ?
その言葉によって推薦の空気は押し流された。生徒だけでの自力決定はできなくなり、教師が介入して強引に各委員を割り振っていったのだという。
「それ以来、わたし、進藤君のことが好きなんです」
「へえ」言っちゃったよ。
友達の彼氏への好意という、後ろめたい感情を明かした割には、繭墨の口調は淡々としていたし、表情も落ち着いていた。
どうしよう。
友達の彼氏を好きだということの倫理的問題点を、僕は指摘した方がいいのだろうか。
この場から逃げ出したかったが、ここはすでに僕の部屋だ。これ以上は逃げられない。崖っぷちだった。まさか繭墨は最初からそのつもりでここを相談場所に選んだのだろうか。マイルームというくつろぎ空間が、いつの間にやら袋小路の狩り場である。
黙っていると、繭墨はさらに、危険な方向へと言葉を続ける。
「阿山君は、ヨーコのことが気になっていますよね」
「気になっている、の定義は?」
「好きになりそうですよね」
インテリっぽい逃げ口上はへし折られた。
「そんなことは、ないよ」
「すでに付き合っている相手がいるから、しかもその相手が友達だから、倫理的・道徳的にまずいのではないか。そんな風に気後れしているんですね」
「その追及をそのまま返すよ。そもそも、証拠がない」
「素直になってもいいんですよ。阿山君とヨーコがくっついてくれるのは、わたしとしても願ったり叶ったりですから」
「それ、本気で言ってるの?」
「はい」
「繭墨さんは、友達の不幸を望んでいるんだね」
自らの悪性を自覚させるべく、そう切り返してみたものの、繭墨の澄まし顔は揺らがない。
「その考えは飛躍しすぎではないですか? 私は決して二人の不幸を望んでなどいません。それに、外野がちょっと騒いだ程度で離れてしまうというのなら、そんな脆弱な男女交際を続けることこそが不幸なのではないでしょうか」
一瞬、言葉に詰まる。
絞り出したのは反論ではなく、議論の放棄めいた逃げ口上だった。
「……僕を巻き込もうとするのは勝手だけど、こっちに付き合う気はないからね」
「わたしは決してこちらの都合だけで言っているわけではないんですよ?」
「あーはいはい」
「先日、野球の試合を観戦したときに、わたしが言ったことを覚えていますか?」
「さあ、いろいろ話していたからどれのことやら」
「阿山君とヨーコが語らっている様子は、進藤君とのそれよりも、よほど親しげに見えました」
繭墨は言葉を切って、口元を上げる。
「俗っぽい言い方をすれば、お似合いでしたよ」
「そんなの、繭墨さんの主観だろ」
「わたしごときの所見でも、うれしいものなんですね」
「うれしそう……に、見える?」
「はい」
これも繭墨の揺さぶりだ。
動揺するな、と言い聞かせるがダメだった。頬が引きつるのを自覚する。
「これからも、ヨーコと仲良くしてあげてくださいね」
慈愛すら感じる台詞だが、その真意を知ってしまっては、首を縦に振ることなどできない。
「なんていうか……、形振り構わないんだね」
「はい。恋愛と戦争ではあらゆる手段が正当化されますから」
「そりゃあ勝者の言い分だよ」
僕は繭墨をまっすぐに見据えた。
メガネの奥で黒く渦巻く、吸い込まれそうな瞳を。
「僕が君を敗者にする。わたしが間違っていましたと言わせてやる」
「情熱的な言葉。楽しみですね」
僕の反論を舌で転がすように、繭墨は艶として笑う。
そしてゆっくりと立ち上がった。
「コーヒー、ご馳走様でした。ペーパードリップですか?」
「ああ、うん」
「もう少し蒸らし時間を工夫した方が、味の深みが増しますよ。よかったら試してみてください」
「ああ……、うん」
もう何かを言い返す気力は残っていない。
僕は黙って繭墨を見送るのだった。
お高いケーキを出す間もなく繭墨が帰ってしまったので、僕は1人でそれを片付けていた。
脳に糖分を補給しながら考える。彼女の言動は僕の想像を超えていた。
繭墨乙姫は進藤直路のことが好きだという。
それを僕に向けて宣言するためだけに、この部屋へ来たのだろうか。
確かに学校でするにはリスクが大きい内容ではあるけれど。
いや、違う。もうひとつあった。
僕と百代がお似合いだと。
そう言って僕を扇動しようとしている。
それは繭墨の目的のために、友達を売るような話だ。断じて受け入れることはできない――と格好をつけてはみるけれど。
でも、お似合いか……。
かわいい子とお似合いだといわれたら、どうしても調子に乗ってしまう。
調子に乗った僕が百代に接近している隙に、繭墨は直路を篭絡しようと考えているのだろうか。だけど、そんなものは計画なんて呼ぶのもおこがましい、幼稚な妄想に過ぎない。
それでも不安を覚えてしまうのは、直路と百代の関係が、磐石とは思えないこと。そして、繭墨という女の子の得体の知れなさのせいだろう。
面倒くさいことにならなければいいけれど。
僕はため息をつくと、皿の片隅に残していた、モンブランの甘栗を口の中に放り込んだ。




