犬派? 猫派? それとも狗《イヌ》派?
午後を少し回った頃になって、繭墨と百代がアパートにやってきた。
二人は倉橋から猫を預かり、その足でそのままここへ来たのだ。
「おじゃましまーす」
「失礼します」
二人が室内に入ってくる。
百代が下げたバッグの中に、例の猫が入っていた。
百代がバッグを下ろし、ファスナーを開ける。
「ほーらパトリシア、今日からここがキミのお家だよぉ」
パトリシア!
なんていうネーミングセンスだ。
中の猫はさぞご立派な品種なのだろう。シャムか、ペルシャか、ヒマラヤンか……。
こちらとしては毛足の短い品種だと、抜け毛の掃除が楽でいいんだけど。
ところが、バッグから歩み出てきたのは、予想に反して平凡な三毛猫だった。
「ほらパトリシア、キョウ君にあいさつしなきゃ」
百代がパトリシアの前足を持って直立させる。
そして、上目遣いにこちらを見ながら、
「コンニチハ、ボク、パトリシア、しばらくお世話になるにゃん」
僕は押し黙った。戸口の繭墨もだ。
「え、ちょっとやめてよぉ、そんな冷たい目で見下ろさないで……」
百代は顔を赤くして姿勢を正す。ちょっと我に返ったくらいで赤面するなら、最初からやめときゃいいのに……。
そして照れ隠しのように、てきぱきとした動作で猫グッズを用意していく。
といっても猫砂や飲み水用の小皿、ちょっとした遊具など、数えるほどだ。
本格的なものとなると、キャットタワーという、人の身長ほどもあるジャングルジムのような遊具もあるらしいが、さすがにそんな大掛かりなものは預かっていない。
「今日はいつも以上に片付いていますね」
繭墨が室内を見回しながら言う。
小物は猫の遊び道具になりやすいという話なので、念入りに片付けている。
「ありがとうキョウ君、手間かけちゃったよね」
「いや、普段の掃除の延長だよ。この部屋は観葉植物とかも置いてないから、そんなに面倒じゃなかったし」
と僕は窓の方を見ながら言う。
観葉植物の中には猫にとって有毒な種類があるらしいが、そもそも僕の部屋にはそんなシャレたものを置いていないので関係なかった。
僕はしばらく猫たちの様子を眺めていた。
百代は崩した正座で床にぺたんと座り、パトリシアの相手をしている。おもちゃの猫じゃらしを振ってみたり、前足を持ち上げて全身を伸ばしてみせたり、膝にのせて背中の毛を撫でたりと、好き勝手なものだ。
パトリシアの方はされるがままだ。しかし、借りてきた猫よろしく特に縮こまっている様子はない。百代のおもちゃ扱いにも慣れた様子で、まあ好きにさせてやるか、といった上からの余裕すら感じられた。
繭墨はというと、ベッドに背を預けて座り、本棚から勝手に文庫本を抜き出して読み始めていた。猫に興味がないわけではなく、ときおり、パトリシアの方に目をやっては口元を緩めていたので、それが繭墨なりの猫の愛で方らしかった。
そんな2人と1匹の様子を、眺めること5分。
「……もしかして二人とも、居座るつもり?」
僕の質問に、百代は何度も首を振った。
「えっ、そ、そんなんじゃなくて、ほら、キョウ君は場所を提供してくれたんだから、せめてパトリシアの世話くらいはあたしがやらなきゃと思って」
「つまり責任感?」
「そ、そうだよぉ……、だ、だから……、任せて?」
力強くうなずく百代。
しかし、その視線はずっとパトリシアに向いていて、まるで説得力がない。
繭墨に至っては、
「猫カフェというものに興味があります」
という一言だけで、言い訳すらなかった。潔けりゃいいってものじゃない。
とはいえ、出て行けと言えるほど僕は強硬な人間じゃないし、猫の世話という大義名分ができたことで、実家への帰省を心置きなくパスできたのも事実。しばらくは大目に見ることにしよう。
僕はあきらめてため息をつく。
「……なんちゃって猫カフェってことで、何か飲み物いる?」
「わたしはコーヒーを、ブラックで」
「あたしはね、えっと、ミルクティ……」
「はい承りました」
僕は執事っぽく一礼して、飲み物の準備を始めるのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
やがて、百代は猫の相手に疲れたのか、スマホをいじりつつパトリシアのことを横目で追うくらいの対応になっていた。
パトリシアの方も、構ってもらわなくても全く問題ないようで、部屋の中を気ままにうろついている。たまに繭墨の膝に乗ったり、百代のすねに猫パンチをしたり、フローリングをぺしぺし叩いたりしていた。
僕の所には寄り付かなかった。
世間はゴールデンウイーク真っ只中だというのに、このノンビリ空間はなんなのだろう。せわしない現代社会から隔絶しているかのようだ。
猫カフェというものに僕は行ったことがないが、こんな緩やかかつ穏やかな時間に浸れる場所だというなら、ニーズがあるのも納得だ。
しかし、巷の猫カフェよりも、この場所は明らかにワンランク上の贅沢空間であると断言できる。なぜなら、パトリシアのほかにも2匹の子猫ちゃんがいるからである。
……って、この発想は本当にヤバいなと自覚する。表には出せない妄言だ。
2杯目のコーヒーを淹れていると、ふと百代が口を開いた。
「ね、キョウ君って犬派? それとも猫派?」
来おったな……。
僕は心の中で身構える。
この質問には、言葉通りの2択以上に大きな意味がある。
なぜなら、猫と犬、2つの単語を借りて、別方向からの問いかけを行っているからだ。
猫というのは我がままの象徴であり、逆に犬は忠実の象徴だ。
これはそのまま、対照的な人間の性質を示している。
気ままな人間を指して猫っぽい、特定の人物に付き従う人間のことを犬っぽい、と表するのはよくある比喩だ。
犬派と猫派。
その二択は単純な動物の好み以上に、人間性の選択でもあるのだ。
「ねえねえ、どっち? ちなみにあたしは猫派かなぁ」
「わたしは犬派かしら」
さああなたは? と二人の視線が答えを要求する。
「僕はまあ、どっちもどっち、という感じかな……」
この返事は二人の不興を買ってしまったらしく、繭墨と百代はまったく同時にジトッとした目を向けてくる。優柔不断……、事なかれ主義……、ヘタレ……、日和見主義……、などと否定的なささやきも聞こえる。
「いやでも実際そうなんだからさ……」
「ああ、わかったわ。阿山君は〝犬になりたい派〟かもしれないわよ」
繭墨が妙なことを言い出し、百代は首を傾げる。
「どーゆーこと?」
「ほら、怖ぁいご主人様がいるじゃない」
「……あー、そっかぁ、そうだよねぇ」と百代。
「ちょっとなに納得してんの?」
「だって、ねえ?」
「ええ」
二人は顔を見合わせ、ねー? と声をハモらせる。
犬派? 猫派? それとも狗派?
――僕はそんな勝負には乗らない。
掃除に逃げるべくハンドモップを手に取った。
それとほぼ同じタイミングで、繭墨の膝の上に寝そべっていたパトリシアが顔を上げた。
だから最初はハンドモップに反応したのかと思った。
そうではなかった。
パトリシアは即座に身体を起こして、出入り口の方へ風のように駆けていく。
いったい何事かと思うのと同時、
「キャーット!?」
戸口から珍妙な悲鳴が聞こえた。
「なに今の声」「パトリシア?」
女子二人は困惑の表情だが、僕には誰の声かすぐわかった。
玄関に向かうと、戸口に追い込まれ、縮こまっておびえる女性と、その足元に胴体をこすりつけるパトリシアの姿があった。
「……何やってんの千都世さん」
「あ、きょ、鏡一朗! お前ちょっと見てないで助けろよぉ!」
千都世さんは半泣きの顔で訴える。
そういえば千都世さん、猫がすさまじく苦手だったっけ。なんか小さいころに腕をひっかかれて血がドバドバ出て、それがトラウマなのだと話していた。
僕はパトリシアを抱き上げて部屋へ戻る。
千都世さんは数分ほどかけて身なりを整え、精神を落ち着かせてから、平静を装って中に入ってきた。
「よう、二人とも、久しぶりだな」
千都世さんは先ほどの醜態をなかったことにするつもりらしい。
堂々とした姉貴風を吹かせながら、繭墨と百代に声をかける。
しかし、
「お姉さんって、猫が苦手なんですね」
と百代のド直球。
「に、苦手ってことはねーよ、すごい勢いで来やがるからちょっとばかり驚いただけだ」
「確かに猛烈なダッシュでした。相当、好かれているようで、うらやましいです」
繭墨はパトリシアの両脇に手を通してぶらぶらとさせている。
一応、千都世さんを気遣ってか身動きが取れないようにしているが、繭墨の動き次第でパトリシアはすぐさま弾丸となって千都世さんを襲うであろう、そういう状態。繭墨が千都世さんの生殺与奪を握っていると言っても過言ではない。
実際、繭墨は楽しそうに口元を上げている。
悪だくみをしているようにしか見えない表情だ。
千都世さんが一歩、後ずさった。
繭墨がパトリシアの後ろ足だけをフローリングに下した。
パトリシアはジャッジャッ、と後ろ足で床をかく。すぐにでも駆け出したい様子だ。
千都世さんは僕の肩を押さえて背後に隠れた。盾扱いである。
「な、なんのつもりだ? オトヒメちゃん」
「いつきです、特に他意はありません。パトリシアと戯れているだけですよ」
――なんなのこの対立。
千都世さんが猫を怖がるのは以前からのことだけど、それを知った繭墨の反応は、……なんだろう、敵の弱みをチクチク突いて楽しんでいるようにしか見えない。
この二人、やっぱりホワイトデーのときに何かあったんじゃないか?
そのあたりは気になるところだが、今はそれよりも千都世さんへの質問が先だ。
「どうしたの千都世さん、急にやってきて。何かの用事?」
「そりゃアンタ、ゴールデンウイークだからに決まってるだろ。ここを拠点にして、あちこち遊びに行くんだよ。何泊かさせてもらうから」
「え、でも……」
「今さら恥ずかしがるなって」
「いや、そうじゃなくて、連休中は猫を預かってるから……」
「あ?」
千都世さんの指が僕の肩に食い込んだ。関節が悲鳴を上げるような痛み。
「猫ってお前……、この2人のこと、子猫ちゃんとかって可愛がるつもりか?」
千都世さんの表情は見えないが慄くような声。
「発言がオッサンだよ……、そうじゃなくて、繭墨が持ってるその猫だよ。本物の猫」
千都世さんの指から力が抜け、僕の肩を開放する。
「あー……、そうか、それじゃあ仕方ないな、アポなしで来たアタシが悪いんだし。しゃーない、ホテルでも取るか……」
千都世さんには珍しく、空元気であることがはっきりとわかる、空虚な声。
久しぶりに会った姉にこんな悲しげな声を出させてしまったことに、強い罪悪感を感じる。引き止めないと、という気持ちが言葉に変わる――
――それよりも先に、繭墨が口を開いていた。
「大丈夫ですよ、千都世さん。この猫はわたしの家で預かりますから」




