花曇り
桜の木の下に、繭墨が立っていた。
こちらに気づいたのか、ゆっくりと振り返る。
それにタイミングを合わせたかのように、少し強い風が吹く。
ざぁっ、と桜花が鳴り、薄紅の花弁が舞い上がった。
繭墨はなびく黒髪を片手で押さえ、はにかみながら――あるいは単に風のせいで目を細めただけかもしれないが――こちらを見た。
「おはようございます」
「……おはよう」
見とれてしまって返事が遅れた。
伯鳴高校の校門前には数十メートルほどの短い桜並木がある。
前日に繭墨から連絡があり、そこで朝の8時前に待ち合わせをすることになった。
本来ならちょうど部屋を出るくらいの時間だ。
久しぶりの登校のせいか準備の手際が悪くなっていて、思った以上に部屋を出るのが遅くなってしまった。僕は急いで学校へ向かったが、やはり繭墨の方が先に到着していた。
数メートルの距離を挟んで朝のあいさつを交わすと、繭墨はすぐに僕を視界から外し、空を見上げた。天気は曇り。花曇りだ。
それきり無言が長い繭墨に、こちらから問いかける。
「何か用があったんじゃないの? 雑用とか、伝達とか」
「今まさに済ませているところです」
繭墨は空を見上げたままで言う。
「説明をしてもらえると……」
「お花見ですよ」
「ああ……、俗っぽくない、純粋な花見ね」
「もし私が桜だったら、花の下であんなに騒がれたら咲く気が失せますよ」
なんのためらいもなく自らを花に例える、さすがの繭墨である。まあ、花見という名の酒宴を敬遠したくなる気持ちは、わからないでもないけれど。
「で、僕はなんで誘われたの」
「大勢は嫌ですが、4人までなら許容範囲だったのです」
「うん」
百代と直路と僕と、そして繭墨本人という計算だろう。
「しかし、1人は早朝練習で忙しく、もう1人は極めて朝に弱いため、こういうことになりました」
繭墨は手のひらを上にして、桜の花びらを受けようとしている。
「正直、繭墨ひとりだけの方が絵になると思うんだけど」
「絵になるというのは客観ですよね。わたしは別に、誰かに見られたいとは思っていません。むしろ、1人で学校の前にぼんやり立っている変な女、というレッテルを張られないようにするために阿山君を誘ったんですよ」
「壁役だったのか……」
「耳あり目あり、では困ります。ちょっと逆を向いていただけませんか」
「新学期早々、貴族みたいな傲慢さで押してくるね」
「平安貴族ならアリですね。風雅を愛でるわたしにピッタリです」
「驕る繭墨は久しからずだよ」
そう言って僕は回れ右をする。
無数に舞い降りる花びらで、視界一面がうっすらと白く霞んでいる。
花びらの一枚一枚が、異なる軌跡を描き、ひらひらと瞬きながら落ちていく。
時間が経つのも忘れて、その素晴らしい光景に見入ってしまう。
特に、人間がいないところがいい。
わらわらと歩く生徒たちが混じっていたら、この光景でさえ凡庸になり果ててしまう。
だけど、とふと思いついて、肩越しに後ろをのぞき見る。
花霞の中にたたずむ繭墨は、世界の中心に立っているかのようで、やはり、例外的に、とても絵になると思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
幻想世界は登校してくる生徒の増加によって終焉を迎えた。
僕と繭墨は、赤の他人くらいの距離を取って校舎に入った。
各学年の教室は、1年が3階、2年が4階、3年が5階となっており、僕たちは昨年度よりも一階ぶん長く階段を上らなければならなかった。
クラス分けのリストは、混雑を避けるために各教室に掲示されている。
2-1で名前が見当たらなければ隣の教室へと流れ、そこにもなければまた次の教室へ、という形で、生徒たちは自分の居場所を探して各教室の前にたむろしていた。
僕はすぐに2-1に名前を見つけることができた。
阿山という名字はこういうときにとても便利だ。
去年は出席番号1番だったが、今年は僕の前に一人いるようだった。
新クラス。
僕はまだ人のまばらな教室内を眺める。
繭墨も同じクラスになっていたが、彼女は「縁がありますね」とだけ言って自分の席に着くと、さっそく文庫本を取り出して読書に耽っていた。いくらまだ人が少ないとはいえ、壁を作りすぎじゃないかと思う。
無言の繭墨はただでさえ日本人形みたいな不気味さがあるのに、加えて文庫本シールドという強力な対コミュニケーション防壁を展開してしまっては、百代レベルの強引さがないと突破は難しいだろう。
そんな心配をしてしまう一方で、繭墨はあれでいいか、と思っている自分もいる。
というか、教室でおしゃべりに興じる繭墨の姿というものが想像できなかった。
徐々に席が埋まってきて、同じクラスになったことを喜ぶ男子、喜んだ上に抱き合ってキャイキャイ喚いている女子、とりあえず隣人に声をかけてぎこちない自己紹介をしている生徒たちで、教室内が騒がしくなってきた。そして、
「よう、おはようさん」
僕の一つ前の席に座った男子が声をかけてくる。
「ん、ああ、おはよう」
「阿山だっけ。阿山鏡一朗」
「そっちはええと……」
話しかけてきた少し軽い感じの男子の、名前が出てこない。
リストをよく見てなかった。
「赤木だよ、赤木航。悪いな、出席番号1番の座をもらっちまって」
「別にいいよ。中学のときは相河ってやつがいたから万年2位だったし」
「マジで? そんなやつ相手じゃオレも分が悪いな……」
「やり方しだいでなんとかなる、みたいな問題じゃないからね」
「戦いの場にいなかったんだからオレの不戦勝でいいよな」
「うん、赤木がチャンピオンだよ。誰も文句は言わないよ」
そんな、あいさつ代わりのやり取りを経て、赤木がずいと近づいてくる。
「なあ、このクラスって女子のレベル高いよな」
定番の話題が来た。
しかし僕はその手の話題に疎いのだ。女子の名前も元1組――自分のいたクラスの子くらいしか覚えていない。
雑談がてら聞いてみようか。
「例えば?」
「元1組の飯塚とか江崎、2組の倉橋、3組の西に、4組の七瀬、5組の原田と中条」
「ふぅん」
よくスラスラと名前が出てくるものだと感心しつつ、顔と名前が一致しないまま聞き流していく。
その流れが止まった。
「あと、繭墨もいいよな。そんな目立つタイプじゃないけど、顔のつくりで言ったらダントツに綺麗だし、振る舞いも大人びてて、なんつーの? 達観してるって感じがするよな」
「そうだね、能面みたいに整った顔立ちで、クラスメイトなんてガキばっかりだって風に振る舞ってて、達観というよりいろいろ諦観してるような感じがするよね」
「……え、何お前、繭墨のこと嫌いなのか?」
「人の個性にもいろんな見方があるってことだよ」
「にしたって暗黒面ばっかり見すぎだろ……」
赤木がやや引いたような顔になる。
しかし、繭墨の真のダークサイドは、もっとわかりづらいところにあるのだ。愛想のない外面の、その奥に。
「なあ、お前はどうなんだ? 誰か推してる女子とかいるんじゃねーの?」
面倒くさい話題の振られ方だった。赤木が羅列していた女子の中から適当に選んでお茶を濁そうか、と考えていると、後ろから声がかかった。
「元2組の百代曜子なんてどう?」
「おおぅ」と赤木。
「じゃあそれで」と僕。
「反応軽っ! おすすめメニュー即決とか、あたしそんなお手頃な女じゃないし」
百代はそんなことを言いながら、僕と赤木の正面に回り込む。
「おはよ、キョウ君。……それと、」
「赤木航だよ」と赤木。
「赤木君もおはよ」
百代は赤木に軽くあいさつをしてからこちらを向いた。満面の笑顔だった。
「同じクラスだね」
「そうだね」
「すっごいうれしい」
「見知った顔があると気楽でいいよ」
「あたしはテンション上がるけど?」
「百代は、今年は少し、落ち着くことを目標にしてみたらいいんじゃないかな」
僕がそんなアドバイスを送ると、百代はプイと顔をそむけた。
「そういうタイプはヒメで間に合ってるから。キョウ君こそ今年はテンション上げていかなきゃ。進藤君を見習ってさ。春休み中すごかったらしいよ」
百代の口から進藤直路の名前が出てきたことに、僕は心の中で反射的に身構える。
元、彼氏彼女。ぎこちない交際、クリスマスのケンカ別れ。
過ぎ去ったゴタゴタを思い出してしまう。
「オレがどうしたって?」
と教室の入り口から声がして、ガタイのいい身体がこちらに近づいてきた。
そう。
クラス表には進藤直路の名前もあったのだ。
百代と直路。この二人が視界に収まっている状況は、はっきり言って胃が痛くなる。それがこれからの日常になると思うと、不安でたまらない――などと思い悩んでいたら、
「あ、進藤君。おはよー」
「おう、また同じクラスになったな」
「よろしくねー」
そんな風に、二人は何事もなかったようにあいさつを交わしている。
いや、何事もなかった、わけではないだろう。
あれからもう4か月が経つ。
僕の知らないところで2人は折り合いをつけたのだ。
関係は変わったが、終わったわけではない。そういうことなのだろう。
だったら、僕も変に気を使う必要はない。
「直路、4連勝だって?」
と二人の会話に割り込んだ。
春休み中に何度か他校との練習試合を行い、直路がそこで素晴らしいピッチングをしたという話は聞いていたのだ。
「いや、5連勝だ」
「しかも1回はノーヒットノーランだよ?」
「雨で4回コールドだけどな」
「じゃああんまり参考にならないね」
「でも防御力0点台だよ? すごくない?」
すごくダメージを受けそうなパラメータだ。無防備すぎる。
「違え、防御率だ」
「えー、同じようなものでしょ」
そんな風に、思っていたよりもはるかに自然体で話ができたことが、旧友との再会のようにうれしかった。
やがて百代と直路が自分の席に向かうと、しばらく蚊帳の外だった赤木がポツリとつぶやいた。
「阿山お前、思ったよりリアルが充実してんな……」
「え、そう?」
「道理でイケてる女子談義に無関心なわけだぜ、すでに相手がいたんだからな」
「いやいや、それなりに興味深く聞いてたよ。バトル系のマンガでよくある、トーナメント時の脇役キャラ紹介みたいな気分で」
「やっぱり主役がいるんじゃねーか」
「人は誰もが自分という物語の主役なんだよ」
「感動的なセリフのはずなのに、びっくりするくらい響かねーな……」
◆◇◆◇◆◇◆◇
担任の先生のあいさつや始業式、ホームルームなどを経て、昼頃には放課となった。
その途中、百代からメッセージが送られてきていた。
『放課後お花見しませんか?』
珍しく丁寧語のそれに、僕は返事をしなかった。
教室で先生に見つかることなくスマホを扱う自信がなかったし、見つかってもどうせ何も言われないしと開き直る厚かましさもなかったし、どうせすぐ放課後だから直接言えばいいやと思った。要するに面倒くさかったのだ。
その約束は交わす前にお流れになった。
ホームルームの途中で天候が一気に悪化し、強めの雨が降り出したのだ。
その雨は1日中やむことはなかった。
窓側に視線を向ける。
窓辺の列は一番前に繭墨が座り、その1つ後ろが百代の席という並びだ。
百代はずっと窓の外を眺めていて、表情は見えなかった。
繭墨がふとこちらに気づいて、唇の前で人差し指を立てる。
口を開かない、の仕草。
それは、落胆する百代をそっとしておこうという、静観のサインだろうか。
それとも、今朝のことは黙っておくようにという、秘密のサイン?
深く考えようとしても、ノイズのような雨音にかき乱されて、うまくまとまらない。
雨のせいにして、僕は考えるのをやめた。




