あの日から、ずっと迷い続けている
――繭墨乙姫視点――
トイレに逃げた阿山君を置いて、わたしたちは先に喫茶店を出ました。
ちなみに、支払いはすべて千都世さんが済ませてくれました。
年長者の余裕、あるいは見栄、はたまた弟の女友達への牽制でしょうか。
ともあれ、ありがたく施しを受けることにします。
「ごちそうさまでした」
わたしが頭を下げると、千都世さんは「気にするなって」と手を振ります。
「あ、あの、置いてっちゃってよかったんですか?」
曜子はうろたえた様子で、喫茶店と千都世さんを交互に見ながらそう尋ねています。
「大丈夫、先に行ってるってメールしといたから」
「先にって……、阿山君の部屋、ですよね」
曜子が恐る恐る確認すると、千都世さんは「ああ、そうだよ」とあっさり頷きました。
そして奇妙な提案をしてきます。
「な、アンタたちも一緒に来ない?」
わたしと曜子は顔を見合わせます。
阿山君を尾行して、姉弟の再会に水を差したわたしたちは、どう考えても邪魔者です。
そんな輩にお茶をふるまうところまでは、弟の近況を確認するための経費と取れなくもありません。
ですが、それに加えて部屋への同行を提案してくるなんて、この人はいったい何を考えているのでしょうか。
わたしたちの戸惑いを察したのか、千都世さんはさらに言葉を重ねます。
「アタシ実は方向音痴でさ、前に来てから半年以上経ってるし、自力じゃちょっと辿り着けそうにないんだ。な? おねーさんを助けると思って、頼むよ」
「そういうことだったら……、わかりました。こっちです」
と、曜子はあっさり頷いてしまいました。
そして、案内役として千都世さんの隣に立ち、指をさして案内を始めます。
阿山君と千都世さんが二人きりになった後のことが気になるけれど、さすがにこれ以上、家族の間に割って入るのは気が引ける――という遠慮が、曜子にはあったのでしょう。
それが千都世さんの公認になった、同行する理由ができたことで、足取りは軽やかに、表情は晴れやかになっています。
方向音痴というのは、きっと嘘だと思います。仮に本当だとしても、スマートフォンの地図アプリを使えば済むことですから。
わたしたちを同行させる理由は、いったいなんなのでしょうか。
もっと阿山君の話を聞きたいから?
それとも……、聞かせたいから?
千都世さんと曜子が並んで歩くのを、わたしは後ろから眺めつつ、ついていきます。
2人はまるで姉妹のよう。
料理上手、家庭的、落ち着いて、きれいで、やさしい。
それが阿山君から断片的に聞いていた、千都世さんについての情報です。
それらから思い描いていた人物とは、かなりイメージが違っていました。
〝お姉さん〟というよりも〝姐御〟という呼び方がしっくり来ます。
すらりとした長身ですが、出るところは出ている体形。
粗野というほどではありませんが、決して淑やかではない言葉遣い。
立ち姿や振る舞い、表情などが堂々としており、存在感のある女性だと思います。
事実、ときおりすれ違う男性の中には、千都世さんに視線が吸い寄せられている方々がそれなりの数、見受けられます。
スキンシップがやや過剰に見えるのは、身内に対してだけでしょうか。
先ほどの喫茶店での、阿山君とのやり取りは、少々行き過ぎているように感じました。
あれはおそらく、わたしたちに見せつける意図があったのでしょう。
それも、姉弟仲の良さなどというほほえましいものではありません。
弟はアタシのものだという――いわば所有権の誇示。
……やはり考えすぎでしょうか。
わたしが抱いていた印象のズレはさておき。
曜子と千都世さんは、道すがら、早くも親しげに言葉を交わすようになっていました。
曜子はもともと人見知りしない性格ですし、千都世さんは話し上手なうえに聞き上手であると感じます。
聞き上手というのは、例えば、楽しかった思い出を語っているときは、千都世さんも同様にとても楽しげな表情で相槌を打ってくれます。
逆に、少々不愉快だという思いを打ち明けるときは、眉を寄せてうなずき、それは嫌なやつだね、というささやかな同意の言葉を返したりします。
この人は、こちらの話をきちんと聞いてくれている。
そう感じさせる表情の豊かさが、話し手から言葉を引き出すのです。
二人の距離感はすっかり近くなっていました。
曜子はすでに、ホワイトデーに自分も阿山君からプレゼントをもらっていること、しかしそれが千都世さんへのプレゼントよりもランクが落ちるであろうことなど、初対面の相手に打ち明けるにははばかられる内容を口にしてしまっています。それも自分から。
単発の質問であればまず返答を濁すような事柄でも、会話の流れや雰囲気しだいで、いくらでも気安くなり、口が軽くなってしまう。
ほとんど催眠商法の手口です。
わたしは心の中で、千都世さんへの警戒を高めました。
◆◇◆◇◆◇◆◇
やがて、商店街を抜けて阿山君のアパートが目視できるくらいの距離になると、一瞬、二人の会話が途切れました。
そして、曜子の問いかけ。
これまでぼんやりとしか聞いていなかった話が、そこだけははっきりと聞こえました。
印象的な内容だったからでしょうか。
それとも単に曜子の声が大きくなったのでしょうか。
「あ、あの……、千都世さんは、阿山君のこと、キョウちゃんって呼ばないんですか?」
千都世さんの反応が遅れます。
それまで会話はキャッチボールの言葉どおり、軽快なやりとりを続けていた千都世さんですが、わずかに考えるような間を取りました。
そして立ち止まります。
「ん? ……ああ、もしかして、アタシが送ったケーキ、見た?」
口が滑った、という顔をする曜子。これも千都世さんの〝聞き上手〟の力でしょう。
少し迷ってから「はい」とうつむき気味で認めました。
「へぇ、あの日に、鏡一朗の部屋にねぇ……」
千都世さんは口元を上げます。阿山君の髪の毛をかき混ぜるときに見せた、獰猛とさえ感じる表情。
「あれは母さんが面白がってやったんだよ、あのザッハトルテ自体はアタシ作だけど」
と千都世さんが答えます。
「どういうこと?」
あたしは曜子に近づいて事情を尋ねました。
「あ、この前のケーキの画像見たでしょ? でもあれ、ホントはチョコのメッセージ板があって、鏡ちゃんへはあとって書いてあったの、でも阿山君がすごい速さで食べちゃったから、写真に撮れなかったのよ」
「ああ、そういうこと。推理小説のトリックみたいね」
「どゆこと?」と首をかしげる曜子。
「たとえば、AがBを殺害したけど、Bの死体が見つからない。なぜなら実はBの死体が入った箱を、Cがそれと気づかずに運んでしまっていたから。そんな死体移動のトリックがあるのよ。〝無自覚な協力者〟とわたしは呼んでいるけれど」
千都世さんがこちらを振り返ります。
「へえ、面白いことを言うね、オトヒメちゃんは」
「……乙姫です」
「ごめんごめん、まあ、あれは母さんが愉快犯だっただけってことさ」
「確信犯ではなく?」
「それはどっちの意味で使ってるんだ?」
「さあ……、わたし、あまり国語は得意ではないので」
視線がぶつかること数秒。
わたしたちのやり取りに首をかしげていた曜子が、口を開きました。
「じゃ、じゃあ……、千都世さんは、阿山君に対してそういう感情はないんですね」
確認するような、言質を取ろうとするような口調。
「だっておかしいですもんね、姉弟でそんなの、いくら血がつながってないからって……」
「何が言いたいの?」
紐のように絡まった曜子の口ぶり――
対して、それを断ち切るような千都世さんの問いかけ。
曜子は肩を震わせ、地面を見て、口を真一文字に結んで、千都世さんをまっすぐに見据えました。
「あ、あたしは、阿山君が――キョウ君が好きです」
千都世さんの、外側にややハネのある長い髪が、ぞわり、と逆立ったような錯覚。
「お姉さんに、それだけ、言っておきたかったんです。それじゃ、失礼します、さよなら!」
曜子は深々と頭を下げると、脱兎のごとく逆方向へ駆けていきます。
「……言うだけ言って、なかなか愉快なコだね」
と千都世さんは苦笑を浮かべます。
先ほどの錯覚、臨戦態勢に入ったかのような緊張感はすでに失われていました。
「はい、皮肉ではなく、うらやましいと思うこともあります」
わたしは曜子の後ろ姿を見つめつつ、そう応じます。
「で、ヨーコちゃんはああいってたけど、オトヒメちゃんはどうなんだ?」
曜子の戦いは終わりましたが、わたしはまだこの場に立っていて、必然、問いかけをぶつけられます。
「乙姫です。……わたしはもっと、頼りがいのある男性がタイプなので」
「そうなのか、じゃあ年上?」
「特にこうという意識はありません」
「千都世さんは年下が?」
「んー、別にアタシもそういう括りで制限するつもりはなかったんだけどな」
そうつぶやいて、千都世さんは再び歩き始めます。
やはりというかなんというか、その足取りは阿山君のアパートまでまったく迷うことはありませんでした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
2人きりになった道中、千都世さんはポツリポツリと、断片的に思い出話を語りました。
「いきなり赤の他人が弟になって、そりゃアタシも困惑したよ。しかも中1。こっちは花の女子高生だったし、中1の男子を無害なお子様と割り切れるほど大人じゃなかったから、最初はギスギスしてたね」
「着替えやら風呂やらっていうデリケートな問題だけじゃない。むしろ壁じゃ隔ててくれない普通のやり取りの方に気を使ったよ。食事中の会話とか、狭い廊下でふとすれ違うときとか……、たまに両親が外に出るときもあったし」
「アタシは母さんが働いてた分、家事は自分の仕事なんだって気合入れて……、だから再婚してからも阿山家の家のことは半分くらい任されて」
「煩わしいとか面倒だとかは感じなかったな。むしろそれで、戸惑ってた連れ子同士の距離が縮まっていくのが嬉しかったし」
「まあでも、最初に気を張ってたぶん、緩んだらやっぱりボロが出たりもしたな。思春期の一番アタマだから。この気持ちをどう扱えばいいんだ――っていう動揺の、隠し方すら身についていない時分だからな」
興味はあるけれど、その立ち入れなさが不愉快な思い出話。
それらを聞いている内に、やがて阿山君の部屋の、扉の前に到着しました。
403号室。
「あの、さっき曜子が言ったこと、気にしないでくださいね」
「さっきの、告白のこと?」
「それに絡んで――姉弟でそんな関係になるのはおかしい、と言っていたことです」
「ああ」
千都世さんは苦笑します。
それを、否定され続けてきた精神的な疲労、あるいは飽きによるものだと見たわたしは、さらに言葉を連ねます。
「これは感情的な話ではなくて……、再婚者の連れ子同士の、交際や結婚というものに、法律上、問題はなかったはずです」
家族での婚姻は禁じられていますが、養子など血縁関係にない場合はその限りではない、と区別されています。民法にも記されていることです。
「世間の目という邪魔はあるでしょうけど、そこは愛があればいい、でしょうし」
「ああ、知ってる。調べたからな」
「そうですか」
「アンタもちゃんとお勉強してるんだな、オトヒメちゃん」
「……偶然です」
返事がわずかに遅れてしまったと自覚しつつ続けます。
「わたしは本をよく読むので、雑学的な知識を目にする機会が多くあります。その中でたまたま知っただけのことです」
「ふうん、ま、構わないけどな。でも、お友達をうらやましがるだけでいいのか?」
脳裏によぎったのは、つい先ほどの、曜子の去り際――その視線です。
あの子は千都世さんに啖呵を切ったあと、ほんの一瞬ですが、確かに、わたしを見据えていました。
千都世さんの挑発の言葉と、曜子の決意の視線。
それがわたしの手を動かしていました。
ポケットからキーホルダーを取り出すと、その中の一つを、阿山君の部屋のカギ穴に差し込みました。
元旦に曜子から渡されて、それきりになっていた、阿山君の部屋の合鍵です。
鍵を回し、指先に感じるわずかな抵抗、そして錠が外れる音。
鍵を抜き取り、ポケットに仕舞います。
「それでは、わたしは帰ります。あとはどうぞ、姉弟水入らずで」
千都世さんの呆気にとられた表情に少しだけ溜飲を下げつつ、わたしは鷹揚にお辞儀をし、その場から悠然と――意識してゆっくりとした足取りで――立ち去りました。
無断で拝借した合鍵を、その部屋の持ち主の、家族の前で使ってしまうなんて。
下手をすれば犯罪行為とみなされるレベルの過ちです。とんでもない気の迷いです。
しかし、それを言うなら、受け取った合鍵を持ち続けていたことこそが気の迷い。
わたしはあの日から、ずっと迷い続けているようです。
歩く速度はゆっくりなのに、胸に手を当てると、心臓の鼓動がはっきりと、手のひらに伝わってきます。
それはしばらく、落ち着くことはありませんでした。




